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博士論文要旨

論文題目:現状維持からの脱却:予期的後悔が現状維持傾向の低減に及ぼす影響
著者:木村(道家) 瑠見子 (KIMURA,(DOHKE) Rumiko)
博士号取得年月日:2018年3月14日

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 新しいものを取り入れず、今ある現状を保ち続ける現状維持傾向は、イノベーションを起こし発展する社会においては停滞をもたらす。本論文は、停滞をもたらす現状維持傾向から抜け出す方法について、社会心理学の観点から実証的に検討したものである。
 現状維持の選択肢と現状変更の選択肢があったとき、様々な側面において良い点と悪い点があり、それぞれの良い点、悪い点を考慮し、全てを足し合わせることで、私たちはその選択肢に対する総合的な評価をする。このとき、現状変更の選択肢が現状維持の選択肢よりも少しでも優れていれば、現状変更するのが合理的な人間の意思決定である。
 しかし、心理学や行動経済学の先行研究によると、人は、経済学が仮定する合理的な意思決定とは異なる選択をする(Kahneman, Solvic, & Tversky, 1982; Simon, 1983)。現状維持か現状変更かの選択に直面したとき、人は、現状変更をしたことで現状を失うことを後悔するだろうと想像し、その損失と後悔を回避しようとして(損失回避、後悔回避)、現状維持を選ぶ傾向がある。これは現状維持バイアスと呼ばれ、頑健な現象として示されている(Samuelson & Zeckhauser, 1988)。現状維持バイアスは、経済学の合理的な意思決定の立場からは、理論の枠組みからもれ落ちるにもかかわらず、よく観察される行動傾向と説明されてきた。いわば、「人間特有のおかしな行動」とも言える。その人間特有のおかしな行動意思決定を記述する理論として、プロスペクト理論(Kahneman & Tversky, 1979)や後悔理論(Bell, 1982; Loomes & Sugden, 1982)がある。本論文では、後悔理論、社会心理学における後悔研究をもとに、現状維持バイアスについて議論し、停滞をもたらす現状維持傾向から抜け出す方法について検討した。
 通常、後悔とは、ある選択をしてそれが失敗であったとわかり、別のものを選んでいたらもっとよかったのに、と反実思考したときに生じる感情のことを言う。これに対し、意思決定研究では、意思決定の前に意思決定者が行うメンタル・シミュレーションで、将来の選択結果を想像しているときに感じられる後悔を、予期的後悔と呼ぶ。これまでの後悔研究では、現状変更をして失敗した場合の後悔は、現状維持をして失敗した場合の後悔よりも強いとされてきた(e.g., Gilovich & Medvec, 1995; Kahenmen & Tversky, 1982)。一方、Inman and Zeelenberg (2002) は、それまでの研究が示したこととは逆に、現状維持をして失敗した場合の後悔の方が、現状変更をした場合の後悔よりも強いことを示した。彼らの研究は、現状維持・現状変更の選択をして失敗した場合の後悔の程度を推測させたと言う点で、現状維持・現状変更の選択が、予期的後悔に及ぼす影響を検討している。しかし、予期的後悔が、現状維持・現状変更の選択傾向に及ぼす影響を検討したわけではない。意思決定研究の後悔理論に基づけば、私たちは、現状維持・現状変更の選択で失敗した場合の後悔を想像、推測し、後悔を回避するような意思決定を行うと考えられるため、意思決定前に、どのような後悔を想像するかによって、最終的な判断の方向が現状維持なのか、現状変更なのかが変わってくるのではないか。
 そこで本論文では、Inman and Zeelengerg (2002) の知見をもとに、たとえ現状維持バイアスが頑健な現象だとしても、現状維持を選択したことによる後悔を強く予期させる条件を設定すれば、その後悔を回避するために、現状変更へ選択を移行させることができると考えた。これまでの研究では、人々に現状維持傾向があることを指摘するものの、停滞をもたらす現状維持傾向からどうしたら抜け出せるのかについて実証的な検討はあまり行われていない。また、意思決定前に想像、予期された後悔が判断に影響を及ぼすことを示した研究はあるものの、どのような後悔を強く予期するかによって、意思決定の方向性が変わってくるという視点での研究はまだ十分にない。本論文の目的は、停滞をもたらす現状維持傾向から抜け出す方策として、現状維持を選択した場合の後悔を強く予期させることが有効であることを実証することである。
 予期的後悔が選択に影響することを示した研究では、後で選択の結果を知ることになると教示し、予期的後悔を導出していた。しかし、この予期的後悔の導出方法では、現状維持バイアスからの脱却について検討することが難しい。なぜなら、従来の予期的後悔の導出方法では、意思決定者は、現状変更をして失敗するかもしれないと想像してしまい、その場合に感じるだろう後悔を予期しやすくなり、現状維持をして失敗した場合の後悔を予期することが難しいからである。意思決定前のメンタル・シミュレーションで、現状変更の失敗ばかりを予期する方法では、意思決定者はたいてい、現状維持バイアスを起こし、そこからの脱却にはつながらないだろう。
 本論文では、先行研究における予期的後悔の導出方法に関する問題を解決するために、「条件設定による反実思考」で後悔をシミュレーションさせる新しい方法を用いた。本論文で用いた、「条件設定による反実思考」について説明する。反実思考は、「もし、Xだったら、Yだろう」という形をとる。状況Xには、事実とは異なる状況が入り、「~を選んでいたら」となる。そして、帰結のYには、ポジティブ結果かネガティブ結果が入り、「うまくいくだろう」「失敗するだろう」となる。これに対し、本論文で用いた条件設定による反実思考は、Xの部分に、ある選択肢とそれがもたらす失敗までを入れ、Yの部分には、後悔をあてはめる。X部分で「もし、~を選んで失敗したら」というようにして条件設定をする。そして、Y部分を「後悔するだろう」とし、後悔の推測を帰結とする。
 本論文は、意思決定前のメンタル・シミュレーションで、現状変更選択肢に対しては、ネガティブな情報への注意を減らし、ポジティブ情報に注目させ、現状維持選択肢に対しては、ポジティブ情報への注意を減らし、ネガティブな情報に注意を傾かせる。その上で「もし、現状維持をしたら後悔するだろう」と現状維持をして失敗した場合の後悔を予期させた場合、現状維持の失敗による後悔を予期させない場合よりも、現状維持傾向は低減するだろうと仮説を立てた。

実証研究
 本論文は、6つの実証研究をまとめた。研究1は、Inman & Zeelenberg (2002) の概念的追試を行い、現状維持を選択して失敗した場合の予期的後悔と、現状変更を選択して失敗した場合の予期的後悔の強さを調べることを目的とした。研究2から研究6は、実験方法を変えつつ、現状維持バイアスの低減策について検討した。
 研究1では、シナリオ中の人物の先行経験の結果(ポジティブ・ネガティブ)と意思決定(現状変更・現状維持)を操作し、参加者にシナリオ中の人物の後悔を推測させた。いずれの条件も、意思決定の結果は、失敗として提示した。実験の結果、先行経験がポジティブな場合は、現状維持の選択から予期される後悔は弱いが、先行経験がネガティブな場合は、現状維持の選択から予期される後悔は強いことがわかった。この結果から、現状維持の選択のネガティブな側面に焦点を当てると、現状維持の後悔が予期される可能性が示唆され、研究1は、本論文の仮説を検討するための基礎となる研究と位置付けられた。
 研究2、研究3では、ヘアスタイルの選択状況を用いた実験室実験を実施し、仮説を検討した。研究2の現状維持後悔の予期条件では、「条件設定による反実思考」により、今と同じ髪型であった場合の後悔を考えるよう実験教示をした。これに対し、現状維持後悔の予期なし条件では、自発的に後悔を予期することを防ぐため、しりとり課題を行った。従属変数は、現状維持する可能性の評定により測定した。予期的後悔の操作チェックとして、気分評定の中に後悔の項目を含めた。実験の結果、男性参加者において、現状に不満を感じていると、現状維持後悔予期条件は、現状維持後悔予期なし条件よりも、現状維持可能性が低いという仮説を支持する結果を得た。女性参加者ではそのような結果は得られなかった。続く研究3では、女性参加者を対象に、実験手続きに変更を加え、再度検討した。
 研究3の現状維持後悔の予期条件では、現状変更選択肢については良い点を、現状維持の選択肢については悪い点を考えるよう教示した。現状維持後悔の予期なし条件では、研究2と同様、しりとり課題に取り組んだ。従属変数、操作チェックともに研究2と同じ方法を用いた。実験の結果、仮説を支持する結果は得られなかった。
 研究2、研究3では、現状維持後悔を予期させる実験教示をしたが、これが要求特性として働いた可能性は否めない。研究4、研究5、研究6では、実験方法をシナリオ実験に変更して本論文の仮説を検討した。シナリオ実験では、シナリオ中に現状維持選択肢と現状変更選択肢のポジティブ情報、ネガティブ情報を提示し、それらの情報から実験参加者が自発的に後悔の予期をするようにし、研究2、研究3の実験室実験での後悔予期における要求特性の働きを排除することを試みた。
 研究4の現状維持後悔予期条件では、シナリオ中に、現状維持選択肢のネガティブ情報と現状変更選択肢のポジティブ情報を提示し、現状変更後悔予期条件では、現状変更選択肢のネガティブ情報と現状維持選択肢のポジティブ情報を提示した。従属変数は、シナリオを読んだ後、現状維持選択肢を選ぶ可能性の評定により測定した。実験の結果、現状維持後悔予期条件は、現状変更後悔予期条件よりも現状維持可能性が低く、仮説を支持する結果を得た。しかし、研究4の方法では、現状維持傾向の変化をみる基準点がないため、現状維持後悔または現状変更後悔を予期することで現状維持可能性が高まったのか、低まったのかが明らかではない。また、研究4の結果は、現状維持選択肢のネガティブ情報を処理することで失敗が予期されたにすぎず、現状維持の後悔が予期されなかった可能性も考えられた。
 そこで、研究5では、現状維持後悔を予期する前後で、現状維持可能性が低まるのかどうかを確認できる実験手続きにした。さらに、研究5では、研究2、研究3で用いた「条件設定による反実思考」の手続きを改良した。研究5では、現状維持後悔予期条件も、現状変更後悔予期条件も、まずネガティブ情報が提示されていない現状維持選択肢と現状変更選択肢の基本情報に基づき、現状維持可能性の判断をした。次に、「条件設定による反実思考」により、後悔の予期を操作した。「もし、現状維持(現状変更)選択肢に関するあるネガティブ情報を得た場合、あなたはどうするでしょうか」と問いかけ、現状維持(現状変更)の後悔を予期させた。その後、従属変数である現状維持可能性の判断をさせた。実験の結果、現状維持後悔予期条件は、現状変更後悔予期条件よりも、現状変更する可能性が高まるという仮説を支持する結果を得た。しかし、現状維持後悔を予期させる前の時点で、現状維持選択肢が選好されず、現状維持バイアスが見られなかった。
 研究6では、シナリオで提示する現状維持選択肢と現状変更選択肢の情報に変更を加えた。シナリオの中で、現状維持選択肢については、それへの愛着が読み取れる内容とし、現状変更選択肢については、不確実性への不安要素が読み取れる情報へと変更した。主たる結果として、研究6でも、研究4、研究5と同様の結果が得られ、現状維持後悔を予期すると、現状変更後悔を予期した場合よりも、現状維持を選択する可能性が低くなった。これは、現状維持後悔の予期が現状維持バイアスを低減させる効果があるという仮説を支持する結果であった。しかし、研究5に残されていた問題点については、選択肢の基本情報だけで判断したとき、現状維持選択肢の方が現状変更選択肢よりも好まれるパターンはみられたものの、統計的に有意な結果ではなかった。

総合考察
 本論文の第一の目的は、停滞をもたらす現状維持傾向から抜け出すのに、現状維持をした場合の後悔を強く予期することが有効であることを実証することである。本論文は、現状維持バイアスがたとえ頑健な現象だとしても、現状維持を選択した場合の後悔を強く予期できれば、その後悔を回避するために、現状変更の選択を促すことができると考えた。本論文の仮説は、理論的に考えれば当然の予測であり、新奇な仮説ではないが、これまでの研究ではこのことが実証されてこなかった。
 そして第二の目的は、予期的後悔の操作方法における問題を解消することにある。予期的後悔を操作する際、先行研究では、あとで意思決定の結果を知ることになると伝える方法を用いてきたが、この方法では、選択の失敗の予期を操作しているが、現状維持の後悔の予期を操作できていないという問題があった。これに対し、本研究で用いた「条件設定による反実思考」では、「もし、~を選んで失敗したら、後悔するだろう」というように、条件設定の部分に選択肢とそれがもたらす結果までを含め、帰結部分には後悔の推測を含めた。
 本論文の第一の意義は、停滞をもたらす現状維持傾向から抜け出す方法として、現状維持をした場合の後悔を強く予期することが有効であることを示唆する結果を得たことにある。その際、意思決定前のメンタル・シミュレーションの方法を、「条件設定による反実思考法」として後悔という感情的な帰結までをシミュレーションさせる新しい方法を用いた点も、本論文の第二の意義に位置づけられる。
 本論文では、6つの実証研究を通じ、概して本論文の仮説は支持されたと言えるが、いつくかの問題点が残されている。第一に、現状維持バイアスの低減策として現状維持の後悔予期が有効であることを明らかにするには実証的な証拠がまだ十分にない点である。第二に、予期的後悔の働きによって現状維持バイアスが低減するという本論文の仮説を示すにあたり、実験の題材としてどんな意思決定状況を用いるのが妥当なのか不明確な点が挙げられる。第三に、予期的後悔の操作方法として「条件設定による反実思考」を新たに用いたが、この独立変数の操作方法が恣意的ではなかったかという問題がある。第四に、本論文で用いた、「条件設定による反実思考」によって、現状維持の後悔の予期こそが現状変更を促したと言えるのかどうかという問題である。これは、実験条件に対する統制条件として何と比較しているのかという問題でもある。
 本論文にはいくつかの問題点が残されてはいるが、さらなる実証データの蓄積が望まれる新しい研究テーマに取り組み、一部ではあるが問いに対する解を得たという点は、本論文の貢献として考えられる。今後の検討により問題点の解消が望まれる。

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