博士論文一覧

博士論文要旨

論文題目:「満洲国」の労工に関する史的研究:華北からの入満労工を中心に
著者:王 紅艶 (WANG, Hong Yan)
博士号取得年月日:2000年6月28日

→審査要旨へ

 本稿は華北労工の入満に対し、19世紀から「満洲国」の崩壊までの歴史の流れからその由来を分析し、また、労務政策の角度から「満洲国」時期において華北労工の入満に関する政策の変遷を検討し、さらにその政策実施の過程における労工の対応を通じて「満洲国」の労務政策及び労務管理の実態を明らかにするものである。

 この研究を通じて、日本が戦争中に中国の人的資源を自国の軍事、経済の需要に基づいて大規模に移動させ、労働者を酷使、殺害したことを明らかにしたい。侵略戦争を美化する風潮のなかで、こうした侵略行為を裏付ける作業が必要なのである。

 一方、現在、日本では外国人労働者問題が重大な社会問題として注目されている。日本政府は公式には外国人労働者を受け入れない方針を採っているが、一方で日系人労働者の日本入国・就労を認めている。80年代からの企業側、とくに零細企業をはじめとする中小企業の労働力不足が深刻となり、外国籍の日系二世・三世を「特別扱い」することによって対応している。こうした状況は日系人に限定していることを除けば、かつての「満洲国」の入満労工制限政策とよく似ている。「満洲国」の労務政策及び入満労工の実態への分析を行おうとする本研究は、現在の日本における外国人労働者問題にも通ずるものを持つと考える。

 労工問題に関して、今まで中日双方共に研究はあまり進んでいない状態である。日本では1970年代、松村高夫、窪田宏、鍛冶邦雄などのものが挙げられ、1990年代は川野幸男のものがあるが、何れも「満洲国」の労務政策と労工の実態を総合的、実証的に研究するものとはいえず、特に特殊工人に関しては川野幸男が数行を割いたのみで、それ以外の研究者はまったく触れていない。

 中国でも労工問題の研究は、1990年代からはじまったといえよう。李聯誼、何天義、傅波、蘇崇民のものが挙げられる。しかし、何天義、傅波のものは聞取り調査の証言であり、研究書ではない。李聯誼のものは特殊工人に限られている。蘇崇民のものは、中国東北工人の形成、発展及び闘争状況を全面的に論ずるものであるが、「満洲国」の労務政策及び華北からの入満労工に関する分析は今一つ物足りない感がある。

 以上の問題点を踏まえて、私は未公開の史資料を利用するとともに、生き証人である当時の特殊工人に対し聞取り調査を行い、そのうえで華北労工を中心に「満洲国」の労務政策の立案・実施過程及びその政策の下で具体化された労工の実態を実証的、総合的な分析を加えたい。

 第一章は満洲労工の由来を歴史的流れから分析するものである。華北労工の入満は長い歴史があり、清朝初期からすでに多くの人々が満洲に入り、農業を行った。東清鉄道の敷設の開始後、さらに入満のブームとなった。19世紀における華北からの入満者は後の華北労工の入満に道を開いた。即ち、多くの入満者が満洲に定住し、一定の生活基盤を築いたため、家郷の家族、親戚、友人、隣人などの縁故者が華北の貧しい生活を捨て、先の入満者を訪ね、満洲に向かったのである。

 20世紀に入ってから、列強各国の侵略、軍閥の混戦、匪賊の横行など多数の人的災害に加え、水害、旱魃などの自然的災害が相俟って、人口の80%以上を占める農民の生活は極度の貧困、苦痛の状態に陥った。満洲に地理的に近い山東省、河北省を中心とする華北地区は、人口密度が高く、1920年代における直皖、直奉、北伐などの多くの戦争のため、また従来水害、旱魃、蝗の被害など自然災害が多いため、多数の農民が出稼ぎ、移民を選択せざるを得なかった。一方、満洲では東清鉄道の建設及び日露戦争後「満鉄」による鉄道建設に多数の労働力を必要とし、また、鉄道交通の整備に伴い工場、鉱山、農業、運輸、土建業などが発展し、労働力の需要が急増した。同時に華北労工の入満に対応して、満洲の各鉄道は大幅に運賃を値下げし、労工の入満をさらに加速させた。

 山東省、河北省を中心とする華北労工は海路及び陸路を経由して大連、営口、安東、山海関に到着し、そこから満洲の各地に移動した。1923年から1931年までの間に年間平均64万人が華北から入満し、一方、離満者数は平均約35万人であった。

 「満洲国」成立後、入満制限政策の実施によって入満者数は減少したが、1937年から「満洲産業開発五ヶ年計画」の実施に伴う募集政策の実施によって入満者数は急増し、1940年は130万人以上に昇った。しかし、華北労工の家郷送金の制限、及び華北側における「産業開発五ヵ年計画」の実施に伴う労働力需要の急増、さらに蒙彊、華中の労働力需要によって、入満者数は92万人に激減した。また、物価の高騰、実質賃金の減少により労工の移動率が高くなったため、撫順炭鉱をはじめ、労働移動防止策として指紋押捺が実施された。しかし、炭鉱を中心とする労働力不足は依然激しかった。

 1941年、華北労働力の一元的統制機関としての「華北労工協会」が成立し、労工の募集、供出統制を開始したが、同年太平洋戦争の開始、1942年第二次五ヶ年計画の実施によって労働力不足はさらに顕著となり、「国」内労工の徴用政策、捕虜の使用政策が登場し、「満洲国」の労務動員計画における華北労工の需要数は減少した。労工の供出は日本軍の占領地域の大きさ、及びその地域にある傀儡政権の支配力によって左右された。即ち、1942年から華北労工の対満供出数は計画数を超過したが、1944年には逆に半分しか達成できず、1945年の日本敗戦までは10%余りの供出に終った。こうして、1932年から1945年7月までの入満者数は880万人余りに達し、年間平均約63万人となった。また、離満者数は530万人余り(1943年8月まで)であり、年間平均44万人強であった。

 一方、日本人、朝鮮人移民が「満洲国」成立後、日本政府の満洲移民政策によって実施された。移民用地を確保することは、農業を中心とする華北労工の入満を制限する原因の一つとなった。また、「満洲国」内の労工徴用政策の実施後、行政供出、地盤育成、勤労奉仕などによって「国」民の多数が徴用され、全民皆労体制が形成されたが、強制供出された労工は、劣悪な労働条件、死傷者の続出によって逃亡が激しかった。

 上述のように、第一章では華北労工の入満がどのような要因でどのように行われ、入満者数がどのように変化したかを検討した。

 第二章は、「満洲国」時期における労務政策がなぜ、どのように転換したのかを明らかにするものである。「九・一八事変」後、関東軍は「国家」建設のために、政治、経済、外交、文化などの政策立案及びそのための調査機関を設置することに動き出した。1932年、「満洲国」成立直前に満鉄経済調査会を調査機関、特務部を指導機関として、1933年、「労働統制委員会」を立案機関として設置した。その後、同委員会では華北労工の入満に対し、企業側からの労働力不足、賃金の低廉などの意見にもかかわらず、関東軍及び「満洲国」の日本人官吏が、「労銀逃避」、治安維持、日本国内の失業問題解決の観点から制限することを決定した。これによって、台湾の「南国公司」を参照して外国労働者取扱人である「大東公司」が1934年に設置された。それ以後、大東公司が発行した査証を持たなければ、入満はできなくなった。1935年、関東庁及び「満洲国」はそれぞれ「外国労働者取締規則」を公布した。満洲側の取締に対し、中国国民政府は華北労工の入満を禁止し、入満者を処罰する一方、大東公司の査証業務を妨害したが、中国側の入満禁止策による入満者数の減少、日本側の実力による圧迫が現れた効果で、結果的に入満制限はほぼ計画通りとなった。

 1937年、盧溝橋事変の勃発により国防産業の増産が要求され、五ヶ年計画立案当時、問題視されなかった労働力不足に拍車をかけた。そこで華北労工の入満に対し制限から積極的募集に政策を転換せざるを得なくなった。こうした状況において、「満洲国」政府は、1938年に労働統制の実行機関として満洲労工協会、立案機関として労務委員会をそれぞれ設立し、法的保障として「国民総動員法」、「労働統制法」を公布した。

 こうして、満洲側による入満労工の募集は満洲労工協会の統制下で統制団体による統制募集となったが、各業者は把頭の募集に頼ることが殆どであったため、統制政策の実施は全入満者の三分の一しか掌握できなかった。これは、炭鉱など重要国防産業における労働力不足の重要な一因であり、華北労工に対する労働統制は失敗したといえよう。

 この労働統制を成功させるために、華北側の協力が必要となった。1937に成立した「新民会」は、いくつかの公的募集機関を設立したが、華北民衆の官僚に対する恐怖、反感、不信任などによって何れも失敗に終わった。一方、1939年から華北側の五ヵ年計画が本格的に実施されたため、境内と境外の労工需要が競合状態となった。これを解決するために、関東軍と北支那方面軍との間に華北労工の満支配分に関する協定が締結され、華北労工の対外供出は華北、満洲、蒙彊の三者協議で決定することになった。また、労工募集を円滑化するために、満洲側は、華北側の主な労工供出地の各村長を満洲に招き、協力を呼びかけたが、村長は労工の立場に立って多額の前貸金の必要、送金への協力、誠実な募集宣伝などを要求した。華北側との協議で労工の対満配分を相対的に確保したとはいえ、必要な労働力は保障できなかった。1941年入満者数が減少する一方、国兵法による国兵徴収への恐怖で離満者数が激増した。これは満洲の各産業、特に軍需産業に大きな打撃を与えた。

 そこで、「満洲国」内の労働統制が強化され、華北労工への依存から労働力の自給自足へと、労務新体制が実施された。政府の行政命令による緊急供出、勤労奉仕が全「国」的に行われ、労働力を確保するために、民衆の生活秩序は完全に破壊された。労工供出において、1932年に成立した「協和会」が「国」民隣保組織を通じて「国」民動員を行った。華北各地の「労工訓練所」に収容される中国人捕虜を労工として使用することが、1941年、関東軍と北支那方面軍との間に締結された「入満労働者ニ関スル申合セ」によって決定された。しかし、捕虜の使用は1937年からすでに始まった。こうした中で捕虜の売買が発生し、利益を最も獲得した北支那方面軍は、捕虜だけでなく、「労工狩り作戦」による一般人をも満洲の各企業に売り出した。華北労工及び捕虜の対外供出において、上述の新民会は都市部の職業分会及び農村の合作社を通じて労務動員を積極的に行った。

 上述のように、第二章では「満洲国」の労務政策の変遷の背景及び過程を明らかにした。

 第三章は、撫順炭鉱における一般労工及び特殊工人の管理組織、労働実態、華北労工協会及びその下に置かれた労工訓練所の実態を検討した。

 撫順炭鉱は労工の管理組織として従来の把頭制度を採用した。しかし、炭鉱側は労工との間に直接の関係がないため、把頭による賃金のピンハネが生じ、また機械化の推進、熟練工人の養成に同制度は不利となった。これらの欠点をなくすために「直轄制」が実行されたが、労働力不足が益々深刻となった中で、労工募集に最も力を持つ把頭が再び利用されることになった。しかし、把頭に対する炭鉱側の警戒心は強く、従来のように請負費を支払うだけで作業を進めることは不可能となった。「満洲国」末期の撫順炭鉱では、把頭制の利用は労工の移動防止、作業効率の向上を図るためのものとなったが、後述のように労働条件の悪化、食料品の不足、労工の抵抗などの原因で生産高は減少する一方であった。

 一方、特殊工人の組織は隊長制と規定され、元将校である隊長は把頭のように高額の賃金を与えられ、特殊工人の生活上の管理を担当させられたが、把頭のように人身の自由がなく、捕虜の立場と変わらなかった。また隊長制に組織された特殊工人は、一般労工と同じように把頭制度下に置かれた。隊長の設置は、特殊工人の行動をコントロールするための方策であった。しかし、特殊工人の抵抗は、後述のように抑えることができなかった。

 華北労工協会の設立に当って、臨時政府の中国人官吏は同協会に対する日本人の指導権を拒み続けたため、中日双方の交渉は2年間以上かかった。1940年3月、汪兆銘の国民政府の成立と同時に、「華北政務委員会」が設置された。1941年に発表された「日満支経済建設要綱」は、各国各地域が全労働力を貢献しようと呼びかけた。こうした国内国際情勢の影響で華北側は妥協し、同年7月に漸く協会は設立に至った。同協会設立後、新民会の協力で日本軍占領地域において労工の訓練供出、身分証明書の発行などを行う一方、労工訓練所の管理、捕虜の対外供出をも兼ねた。日本敗戦まで一般労工と特殊工人を併せて300万人前後が同協会の手続を経て華北、満洲、蒙彊、華中、日本に送り込まれた。

 「満洲国」の成立から崩壊まで撫順炭鉱における華北労工の労働条件、待遇、及びそれに対する労工の対応は時期によって異なった。戦争の進展、五ヶ年計画の実施に伴い労働時間の延長、労働環境の悪化、死傷者数の増加、実質賃金の減少、生活水準の低下などが見られ、それに対し、労工の逃亡が顕著となり、より高い移動率が見られることになった。

 一方、特殊工人は上述の労工訓練所から満洲に送られ、軍事部門と非軍事部門に使用された。軍事部門の使用は北満の軍事施設の構築、物資の運搬に、非軍事部門の使用は南満、特に奉天[遼寧]省の炭鉱に集中した。日本敗戦まで満洲に連行された特殊工人の数は数十万人にのぼることが推測される。

 撫順炭鉱では特殊工人の使用は1938年から始まったが、1942年7月以後「冀[河北省]中大掃蕩」による共産党系の捕虜の多数入満、太平洋戦争などの影響により、特殊工人の管理はより厳しくなった。労働統制法の改正に即応して1941年10月に満洲労工協会に代って「労務興国会」が設立された。同会が作成した「輔導工人取扱要領(案)」及び「保護工人取扱要領(案)」が、はじめて特殊工人を「輔導工人」と「保護工人」に分け、前者は捕虜投降兵で、後者は「軍の特別工作による難民」と規定された。こうした特殊工人の労働条件、待遇などは一般労工より更に悪く、特に集団的に収容された特殊工人のそれは、最低限の生活、命さえ保障されないので、死亡率が10%近くに達した。こうした状況に対し、特殊工人のうち、共産党の地下組織が設置され、特殊工人を指導して、一般労工にも呼びかけ、炭鉱側に対する抵抗闘争を行った。抵抗手段としては、暴動逃亡、抗日の落書、労働道具の破壊、サボタージュなどが様々あるが、その中、特に暴動逃亡が最も多く60%以上にのぼり、炭鉱側に大きな打撃を与えた。また、上述の抵抗闘争は日本敗戦直後、日本人の破壊を防止するため炭鉱を守る運動へと発展していったのである。

 こうして、第三章は華北からの一般労工及び特殊工人の実態を撫順炭鉱という労働現場を通じて明らかにした。

 上述のように、本論文は「満洲国」の労務政策の立案及びその実施過程における一般労工、特殊工人の実態に対する分析を通じて、以下のようなことを明らかにした。

 一つ目は、「満洲国」の労務政策の立案は関東軍に左右され、特に華北労工の対外供出、捕虜の使用に関しては関東軍及び北支那方面軍が決定的な権力を持ったことである。

 二つ目は、華北労工協会の設置に関する華北政務委員会の強い抵抗から、従来無視されている同委員会の抵抗を見直さなければならないということである。

 三つ目は、労務管理の角度から見れば、各企業は高い移動率、労工の抵抗など様々な問題を抱え、把頭制度の利用から廃止を経て再び利用へという変遷を通じて、戦時体制における日本の「満洲」支配の問題点を明らかにできたことである。撫順炭鉱は把頭制度の欠点を改正するために、直轄制を実行したが、同制度下においては労工の権利が主張され、例えば、就職、退職の自由、良い待遇を獲得する権利などが挙げられるが、戦時経済体制に置かれた「満洲国」では、こうした権利に対する保障はなく、実現する条件も揃っていなかった。労務管理の失敗が明らかであった。

 全体から見れば、日本人監督、把頭は労工を人間として扱おうとせず、従って労工は協力ではなく、かえって抵抗と破壊の立場に立ち、労使関係は緊張対立の状態に置かれた。特に戦争末期、こうした状態は更に悪化し、作業効率を高めるために労工の待遇を改善するべきことが、漸く労務管理者に認識されたようだが、実現は困難であった。そして、労工の数が増加したとは言え、作業効率はかえって低下し、生産高は減少する一方であった。

 日本の敗戦という外部条件がなくても、「満洲国」の労務政策、労務管理の失敗を防止することはできなかったろう。日本人が実権を掌握した「満洲国」では、中国人側の意向を無視した労務政策が行われたため、中国人からの協力を受けることはほとんど不可能であり、また平等な理念を持たない日本人の言動は、中国人から見れば、差別的で、圧迫的であった。途中からの労務政策の転換による大量の入満労工は、結局のところ労務政策の失敗、戦争経済の崩壊を加速する勢力となった。

 実質上日本の植民地である「満洲国」と植民地の台湾、朝鮮との間で、日本の植民地政策は如何なる共通性及び相違点を持つか、また日本の戦時体制下における「満洲国」の労務政策の立案、実施と日本側のそれとの関係、労工供出側の華北の労務動員体制などについて分析はまだ不充分であり、今後の課題として追究していきたい。

このページの一番上へ