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博士論文要旨

論文題目:大正初期の理想主義から昭和初期の社会改造論へ:橘孝三郎の農本的社会改造論と昭和ファシズム
著者:ススィ・オング (SUSY, Ong)
博士号取得年月日:2000年6月14日

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 橘孝三郎(1893一1974)は茨城県水戸市の紺屋業兼中堅地主の家に生れた。1906年に水戸中学校に進学し1912年まで在学した。在学中「人生」問題や「人々の社会関係」問題について疑問を抱きはじめ、当時の論壇で文芸評論に健筆を振っていた高山樗牛や綱島梁川、大西祝、坪内逍遥の著作や、当時の代表的な総合雑誌『太陽』『中央公論』及び文芸雑誌『早稲田文学』(第二次『早稲田文学』,島村抱月主宰,自然主義の牙城と言われる)を乱読し、社会的規範に囚われることなく自らの意志で生きる自然主義的個人観の影響を受けた。更に、ニイチェの著書とツルゲニェーフの小説に接し、前者からは衆人の上に立つエリート主義的個人観の影響を受け、後者からは社会進歩におけるインテリの役割について影響を受け、と同時に漠然とした「社会制度組織」への関心を抱くようになった。

 1912年9月、橘は第一高等学校(一高)に入学した。在学中、トルストイの道徳論(利己主義の否定)やドストエフスキーの宗教的善悪観(社会悪の根源を個人の中に潜んでいる悪魔に求める)に接した。また、当時日本の論壇を風靡したドイツの哲学者オイケンとフランスの哲学者ベルグソンの新理想主義、更には日本の大学で紹介され学者の間でブームとなったアメリカのプラグマテイズム(ウィリアム・ジェームス)に接した。オイケンとベルグソンとジェームスは(それぞれの説に微妙な相違ありとはいえ)直観による現実認識という反実証主義を唱え、個人に対する環境(=社会と自然科学)の束縛を否定した。個人を思索から解放する点で同時代の哲学の主流となり、橘もこれを取り入れた。更に、日霧戦(勝)後、特に大正初期には、従来の富国強兵型国家主義や物質文明至上主義から「世界の中の日本」や「精神文明の建設」、「文明の国家」日本への時代精神の転換期に当り、精神文明の建設のために、「同類意識」というキーワードを用いて個人間の協力関係に基づいた社会を説くアメリカ社会学者ギディングス(Franklin Giddings)の社会学や、個人の精神性によって他者との衝突(対立)が回避可能であり且つそれによって調和の取れた社会が実現可能であると主張するアメリカの倫理学者ファイト(Warner Fite)の倫理学が日本に紹介され、橘もこれらの説に影響を受けた(橘の在学期の前半、校長を務めたのは交換教授としてアメリカに赴任してから帰朝したばかりの新渡戸稲造であり、新渡戸によってアメリカ社会学が一高に普及したとも考えられる)。こうした同時代の論壇を賑わした諸外国の学説に加え、日本の社会では1913年の第一次護憲運動期に当たり政体と国体との関係をめぐる論争が起り、政党政治は国体に反しない、と同時に政党政治がよく機能するか否かは国民一人一人の自覚(精神性)一つにかかっているとの主張がなされた。制度の如何に拘らず、国家あるいは社会のあり方は個人の精神性にかかっていることがこの主張の核心をなしたのである。

 橘はこうした同時代の思潮の影響を受けて思想的形成を成し遂げ、入学一年後から、学校の文芸部雑誌『校友会雑誌』に寄稿しはじめ、自らの個人観と社会観と、更に理想的な社会の実現のため個人が如何に振舞うべきかについての自論を展開した。最初の論稿は1913年末に執筆して翌1914年の一月号に掲載され、その後同年末まで計五編の論稿を寄せた。その内容は上述のような同時代の思潮、すなわち物質よりも精神面を重んじる個人観及び社会観と、調和の取れた社会の実現と社会進歩に対するオプブィミズムを如実に反映したのであった。 (以上、第一章)

 1914年12月、橘は目の病のため退学して郷里に戻り、農業に従事しはじめた。都会での生活を捨てて農業を従事する同時代の知識人の流行り言葉でいう帰農生活であった。橘の帰農生活は、果樹園、花弁の温室栽培、農作業後の芸術活動(音楽と美術活動)と読書など、長兄の財力に物を言わせての、橘家の兄弟とその配偶者たちによる共同生活であった。それは採算を度外視したため赤字経営に陥り、人間同志の関係にも亀裂が走り、また、橘自身も過労のため病に倒れ、帰農生括は事実上破綻した。

 自分が善意を以て一所懸命に努力したのに物事がうまくいかなかったのか。橘はまず、倉田百三宛ての公開手紙で、ドストエフスキーの宗教的善悪観を用いて自分の体験を解釈してみた。すなわち、個人の苦痛の根源を社会悪に求めると同時に、社会悪もまた人間の中に潜んでいる悪にその根源がある、従って、社会悪を取り除くにはまず人間の中の悪を取り除くべきであるとした。そして、そうした認識の上に立って、現行の社会悪の定義について、武者小路実篤宛ての公開手紙の中で社会学的解釈を試みた。すなわち、人々が営利精神に「毒され」て資本主義に走った結果、少数の大資本家と大土地所有者が無為徒食の生活を送ることになり、大多数の労働者と農業労働者が貧困に端ぐようになり、社会全体が病的な状態に陥るようになった。これはドイツの社会学者オツベンハイマー(Franz Oppenheimer)がDie SIedlungsgenossenschaftという著作の中で展開した議論に依拠した説である。

 オッベンハイマーはドイツの失業問題と国民道徳の類廃問題の根源を大土地所有に求め、土地の兼併により自作農が耕地を失い、職を求めるために都市に流出し、都市の失業問題と更に道徳的額廃問題を深刻化させたと論じた。失業問題を生産手段の所有に求め、社会を階級的支配従属関係として捉えるマルクス説に異議を唱えたのである。そして、そうした認識の上に立つて、土地を失つた農民による集団移住と開墾事業を提案した。移住先では全員が外来者であり階級問題も所有関係問題も存在せず、開墾により食糧の自給が可能となり、それにより道徳問題も自ずと解決されると指摘したのである。Siedlungsgenossenschaftは移住協同組合との意味だが、橘はこれを愛郷組合と訳した。新しい土地への入植ではなく、矛盾と対立に満ちた現行の社会においても、愛郷精神に基づいた個人と個人との結合によって理想的な社会が実現可能である。愛郷精神とは、オッベンハイマーがその著書で指摘したように、イギリスのオーエン流協同組合精神である。具体的に言うと、経済活動の主体たる個人が利益追求ではなく、組合たる共同体の利益のために奉仕するのであり、一方、組合の活動によって利益追求のため流通過程の生じる無駄と需給の無統制に起因する不経済が省け、個々の組合員がそれによって受益者となる、との経済的構想である。

 この時期、すなわち1920年代後半の日本は、失業問題と食糧不足問題と慢性的不況が社会問題としてクローズアップされた時期であった。橘はオッペンハイマーの大著System der Soziologieに依拠して、上述のような同時代の三大問題の解決方法を模索した。この時期の思索の成果が原稿にまとめられ、後、五・一五事件で橘が獄中にいた頃に『土の日本』という題を付され出版された。古代ローマ国家が農奴を農業労働に従事させたため農民が失業してしまい、一方、奴隷は土地に対する愛着がないため農業生産性が低下し、失業と食糧不足との社会問題を引起し、それがローマ帝国崩壊の主要な原因をなした、従って、農民を農地から追出すすなわち「土」を亡ぼすことは結局「国」を亡ぼす結果となるのであり、「国」の存続を保証できるのは真の意味の農民、すなわち「土」につく農民である、とオッベンハイマーが主張した。橘はこうしたオッペンハイマーの説に依拠して、同時代日本の失業問題と食糧問題の本質及び解決における農民の役割の重要性を見出した。そこから、農民が愛郷精神に基づいて食糧増産に励むようになりさえすれば、失業問題も食糧不足問題も経済(不況)問題も自ずから解決する、との結論に至ったのである。

 同時代日本が直面した三大問題は農民の努力にかかっているとの認識に立って、橘は同時代の日本農民に目を向け、農民が喫煙と飲酒と遊興といった「俗悪な趣味」に耽っており、国家経済に全く関心がないことを指摘し、これを「健全な芸術」活動によって克服すべきだと主張した。

 また、1928年が徳川光圀の生誕三百周年に当り、普選を前に無産政党が結成され政治運動が盛んに展開され、政府当局が治安維持法を以て共産党シンパに対する大検挙をした年であった。資本主義が富の偏在、従つて「社会的不正義」をもたらしたことが争いの余地のない事実となり、これに代って「社会的正義」の論理が必要とされた時期であった。共産主義の「社会的正義」の論理に対抗するため、茨城県では光圀に功績を称揚するキャンペーンを展開した。『いはらき』新聞には光圀を称える徳冨蘇蜂の論説が連載された。橘は蘇峰の論説に接して、「社会的正義」を目指す社会改造における光圀の水戸学について論説を『いはらき』に寄せた。橘は1920年代の資本主義を光圀時代の徳川封建制度と同一視し、「社会的正義」のために戦った光圀の精神に倣って、自らの利益や身の危険を顧みず資本主義の不正義を一掃し「社会的正義」を回復させることを読者に訴えた。

 橘は、農場経営と執筆活動によって県農会に知られるようになり、1927年に県の農会農政調査会委員会に招かれた。農村振興という共通した当面の課題に対し、農会は米穀法改正、農家負担軽減、自作農創設補助、農産物関税改正を提案したのに対し、橘はむしろ愛郷精神に基づいた農民の努力を強調した。橘は同時代の日本農業をめぐる事情よりも、デンマークの農業やロシアの農政学者チャヤノフの説く小農論に依拠して、農民の自覚と自助努力こそ農業振興の絶対条件であると主張したのである。(以上、第二章)

 1929年11月、橘を会首とする愛郷会が設立された。その年の6月、茨城県那珂郡五台村の小学校教員後藤圀彦が、窮乏に喘いでいる農村青年を集め、橘に講演を依頼した。講演で橘は資本主義が農村の窮乏をもたらしたと主張しこれを強く非難した。橘は農民が資本主義的営利精神を排除し自助努力と利他精神を以て窮乏を克服すべきだと主張したのに対し、後藤や他の農村青年は橘が農民の窮乏の原因を資本主義に求め現状を批判したと受け止め、橘を農民救済の理論家と見なした。そして、彼等は農村救済の組織を作ろうとし、橘に組織のりーダー役を要請した。それが愛郷会の設立の契機と経緯であった。

 会の名称から分るように、そのモデルはオッベンハイマーの移住組合であった。実際には、愛郷会の発会宣言文にも、資本主義精神への批判と農民の愛郷精神に基づいた食糧増産運動による救国運動が目標として掲げられた。その具体的な活動として、農村青年の啓蒙を目的とする講演活動と教育活動と、協同組合運動であった。前者に関しては、橘は1930年を通じて『いはらき』新聞に、失業問題と食糧問題と国民経済合理化という三間題と農業との関係を取り上げた論説を寄せた。後者にかんしては、1931年を通じて、橘は近隣農村で精力的に講演活動を展開した。そして、1932年、茨城県選出の民政党代議士風見章の支援を受けて、愛郷塾が設立された。

 後藤をはじめ農村青年たちは、橘が現状批判を通じて何等かの形で農民の窮乏に対する救済を行うことを期待したが、橘が愛郷精神と国民意識と自助努力ばかりを強調したため、これに対し愛想を尽かし脱会者が出た。一方、橘も農村青年たちが協同組合運動を通じて自分のための利益を期待したことに失望し、愛郷精神でなく営利精神で行動した農村青年に非難を浴びせた。そして、一地方における農民啓蒙運動よりも、国家レベルで農民の覚醒を促すの方が効果的だと考え、橘は「中央進出」「政治運動」を主張した。それは農民の利益を代弁するのではな<、いわば農民に国民的義務の強調を意味することが明らかである。

 こうした橘の農本的社会改造説を、同時代の非マルクス主義的農民運動である農民自治会と比較してみると、その位置づけが明らかとなる。下中弥三郎がアメリカの農民運動ノン・パルティザン・リーグに注目し、これを「非政党同盟」と訳し、更に「農民自治会」と名づけた。農民自治会が農民の経済的権利を主張するだけでなく都会文明への批判とこれを前提とする農業文明の確立と農村社会改造を掲げる点でノン・パルテイザン・リーグと主旨が異なる。しかし、農民自治会は農民の経済的権利をも主張する点で、橘の愛郷運動とは主旨が完全に異なっていることが明白である。(以上、第三章)

 橘の農本的社会改造論の集大成は、1930年末に執筆され翌1931年に出版された『農村学』である。

 『農村学』は五編から構成されている。第一編の「緒論」では農村学の定義が明白にされた。橘はまず、農民が無自覚で反社会的な存在であるというマルクス主義的社会運動における農民観を、デンマークの農民の例を以て反論した。そして、同時代のイギリスとデンマークの状況を対比させて、前者が農村を破壊し機械工業を興したため失業と食糧対外依存といった深刻な国家的問題に直面するようになり、一方、後者は農民の自覚と自助努力による農業振興政策を取り、農産物と家畜肉加工品と乳製品の輸出で国家経済を健全たらしめた。前者に対する後者の優位性が証明されているのである。そして、オッベンハイマーが主張した「土を亡ぼす者は国家を亡ぼす」の論理が同時代の大英帝国の行詰りにも当てはまるのであり、同時代の日本はまさにそれとは反対の政策、すなわち「土」を保護する政策を取るべきである。更に、シュペングラーが『西洋の没落』で資本主義都市物質文明の没落の必然性を主張したが、それはまた、都市の論理に基づいた社会主義運動の無効性を意味するのであり、資本主義社会の改造はむしろ農村を土台にすべきであり、その運動のための論理はすなわち本書で取り上げる「農村学」であると橘が主張した。

 第二編の「生産二次性原理」で、橘は生物と物質との認識方法の相違性を説いたベルグソンの概念に依拠しながら、農業生産と工業生産との異質性を指摘し、工業には機械による大量生産が生産性向上をもたらすが、農業にはむしろ動植物に対する人間の愛護心こそが生産性向上をもたらすのであると主張した。また、工業の盛衰は、農業のあり方、すなわち、労働者に対し安価な食糧と原料を提供できるか否かにかかっている。これは19世紀末のドイツの工業化過程で証明された農工間の関係である。更に、そうした農工業の関係から、農業と工業、及び農村と都市との有機的結合によって、「完全全体社会」が実現可能であると橘が主張した。

 第三編の「日本と農村」では、橘は当時の日本国家社会にとっての三大問題、すなわち食糧自給問題と失業問題と貿易入超問題を取上げ、これらの問題の解決における農村の役割について論じた。その議論の典拠は、ウェッブの『産業民主制論』と『資本主義文明の没落』(前者は1927年、後者は1924年にそれぞれ日本語に訳され出版された)と、ドイツ社会民主党内閣の無任所相で修正社会主義の立場から農業政策を立案したエドゥアルド・ダヴィドの『社会主義と農業』であった。それらの議論の前提は、大戦後のイギリスとドイツにおける戦後復興(再建)における農業の位置づけ、更に具体的にいうと食糧増産とそれによって支えられる国内製造業の復興の問題であり、そうした同時代の課題を前提とした農業政策の立案である。橘はそうした英独の学説及び政策説に依拠し、上述のような日本の三大問題を解決するために、農業、更に具体的にいうと農村と農民が如何なる役割を果すべきかを論じた。それは端的に言うと、国家に対する自らの役割に対する農民の自覚と自助努力を通じての問題解決の提案であった。

 第四編の「資本主義と農村」では、資本主義経済の下では農家の経営が苦しいという同時代日本の農村問題について、その原因を資本主義の「被農性」に求めた。その論拠は、オッペンハイマーの資本主義社会の「病態化」説であり、シュペングラーの「周期的、季節的変化」として歴史的段階としての資本主義段階説であった。更に、オッペンハイマーとシュペングラーの両者の説から、「被農性」を特徴とする歴史的一段階の資本主義の本質について、ドイツの社会学者ゾンバルトの「資本主義精神」説に依拠して定義した。すなわち、資本主義は生産手段及び生産関係の変化によってもたらされたのではな<、商人精神たる営利精神に突き動かされた経済活動によって作り出されたのであり、端的にいうと資本主義は営利を至上目標とした資本主義精神によって作り出されたのであり。それは、合理主義と個人主義と物欲と理性による物質支配を特徴とし、徳性と勤労精神を否定したものである。近世ヨーロッパはまさにこうした特徴を備えた資本主義の文明に支配された時代であった。これはゾンバルト独自の見解ではなく、同時代の他の社会学者、すなわちホブソンとウェーバーも同様な資本主義観を持っていると橘は主張した。

 以上のように三名のドイツ社会学者の資本主義説を紹介し、資本主義の定義を確定した上で、橘はもう一人のドイツ社会学者テンニエスのゲマインシャフトとゲゼルシャフトの対概念を提示し、更にテンニエスのゲマインシャフト=農村文化と農村共同体説(及びゲゼルシャフト=都市文明と営利精神による人間結合)に依拠して、ゲマインシャフトの強化と、それによるゲマインシャフトとゲゼルシャフトとの調和的な結合と国家社会全体の調和と健全化を主張した。

 こうした資本主義の定義及び理想的な国民社会の実現の方向性を提示した上で、橘は日本における資本主義と農村との問題を取り上げた。まず、竹越与三郎の説(『日本経済史』)に依拠して、日本の資本主義は封建勢力たる官僚組織と資本主義的精神を持つ「資本家的市民」によって発展させたのであり、生産関係や生産手段の変革ではなく中央政府による貨幣統一と流通網(鉄道敷設)の形成と産業育成の諸政策によって実現したのである。一方、産業が発達したのに農村が荒廃したのは、明治近代国家の成立により農民が封建的身分関係から解放されたにも拘らず、精神的には以前として封建時代のそれをとどめており、更に、困ったことに農民が資本主義精神に「毒」され、その本来の姿である「勤労生活者」の生き方を捨てたためである。農村問題として具体的に表れた諸項目を見ていくと、まず、小作料は小作農の経営にとって重圧となっているが、その小作料は農事改良や他の農村振興のために使われることなく地主によって都会に持っていかれ消費され、農村の荒廃と窮乏と引き換えに都市が農村からの金で栄えていくのである。次に、農家負債の問題に関しても、農家は農業経営の改善や向上のためではなく、非生産的な活動、すなわち冠婚葬祭や「政治道楽」や子供を都会に進学させるために借金し、利払いと借金返済に苦しむのである。更に、工業に対する農業の劣勢の問題に関し、その原因として、農業が工業と異なり機械化による量産が不可能であること、また、農民は肥料購入を通じて商業資本に支配されていること、との二点を挙げた。最後に、租税負担に関し、統計から見られるように農村が都市よりも多額の租税負担を強いられ、農業よりも商工業が税制的に有利な立場に立っているのであり、税制を通じて都市が農村を搾取しているのだと主張した。

 第五編の「緒語」では、それまで論じてきた資本主義の本質とそれが農村に及ぼした悪影響といった認識の上に立って、農民が、資本主義精神を勤労精神で克服し、勤労と協力団結によって、資本主義社会に代って「厚生主義社会」の建設を目指すべきであると主張した。(以上、第四章)

 1931年、民政党政府の協調外交政策に反発した陸海軍の将校及び彼等とかつて中国戦場(特に満州)での共同作戦(特に諜報活動)を経験した元大陸浪人(井上日召、本間憲一郎)が政府(政党政治家及びこれと結びつきのある財閥)に対するテロ事件を計画した。このグループの総元締の死亡)海軍中尉藤井斉、1932年2月に上海事変で戦死)など様々な紅余曲折を経て、井上配下の青年が井上準之助と団琢磨を暗殺して、その場で逮捕され、井上も遂に隠れ家を包囲されたため警察に任意出頭した。これを受けて、海軍青年将校が個人の暗殺ではなく、国民全体の注目を引くために警視庁襲撃と首相暗殺といったより大規模なテロを計画し、橘に別働隊を組織しこれに呼応するよう要請した。橘は変電所を襲撃し帝都を暗黒に陥れ人心を撹乱することを提案し、計画を立てて愛郷塾生に実行させた。尚、橘自身は、決行の三日前(5月12日)に満州に向けて出発したのである。

 五・一五事件前の1932年1月、橘は決行に参加予定の海軍青年将校を前に講演した。その時の原稿が後に『日本愛国革新本義』との題を付され出版された。

 『日本愛国革新本義』は四編から構成されている。第一編では、第一次世界大戦後の世界の大勢(事実上は英吉利とソビエト・ロシア)を取り上げ、自由貿易に対する見直しと食糧自給を目指しての農業政策の転換を行ったイギリスと、ネップへの農業政策の転換を行ったソビエト・ロシアを例に、日本の「富国強兵」も英露に倣って農業重視への政策転換によってはじめて可能であると主張した。第二編では、日本の行詰りの原因を農村問題すなわち食糧生産問題に求め、更に食糧生産問題の本質について以下のように述べた。食糧生産問題は耕地面積不足でも生産関係でもなく、資本主義が農村に及ぼした経済的圧迫(=小作料あるいは地代、肥料代負担、負債に対する利子負担及び公租公課)と精神的害毒(農民に対する営利精神の浸透)と、封建時代のマイナスの遺産としての農民の「奴隷根性」に、その原因を求めるべきである。前者のために農民が営利的活動に走り、国家的観点から見た農業生産に不利をもたらし、後者のために農民が国家に対する自分の義務には無自覚である。日本の行詰りは、農民が「奴隷根性」と資本主義精神を両方とも捨てて(農民の精神の転換)、国民としての自覚を持ち「勤労生活」を営むことによってのみ克服可能であると橘は主張した。第三編では、資本主義的営利精神に代っての勤労精神、言い換えると「愛国同胞精神」、これに基づいた国民の行動=「日本の国体」による日本救済の方法が提案された。そうした精神的転換と併行して、社会政策の面で国民の完全雇用と重要産業に対する国家の統制管理と家産法制定と内地植民のために国有士地を解放することを提案し、そうした政策の実施によって「今まで眠つてゐた国民的力を各方面に亙つて解放す」ることが可能だと指摘した。最後に、第四編では「新日本建設大綱」として、政治的には「愛国同胞主義による王道的国民協同自治組織の政治組織」の確立、経済的には営利目的の経営の禁止と大産業の社会化による厚生経済の建設、「共済組織」として社会的相互扶助組織の実現、教育に関しては「愛国同胞主義精神を涵養す」るための教育機関の設立、国防に関しては「兵農主義による大軍隊の組織」を主張した。

 橘は五・一五事件勃発の当日に満州に到着したが、その二日後から、逮捕を免れるための逃亡生活を始めた。逃亡生活中、「国民共同体王道国家農本建設論」の原稿を執筆し、これを書き上げてから自首した。

 「国民共同体王道国家農本建設論」は五章から構成されている。第一章では、まず農本という用語の意味について、文明と経済との二側面から説明した。文明的側面とは、資本主義唯物文明に代って農村の健全化及び都市と農村との調和を可能にする新しい文明として農本文明のことである。経済的側面とは、農業における増産によって製造業の生産性向上が可能となり、それによって国家経済全体が発展するということを指していうのである。農本とは決して農業を最重要視し商工業を否定するという意味の「重農学」(重農主義)のことではないと強調した。第二章では農本建設の必要性と必然性を、第一次世界大戦後のイギリスにおける農業政策の転換や労農ロシアの農業政策の失敗とムッソリーニの「農業再建策」の提示によって説明した。第三章では「農村荒廃の根本原因」として『農村学』で主張した資本主義の(精神的及び経済的)破農性の議論が再録された。第四章は「日本国民解放及日本更生の大道」と題し、創造進化的歴史観と、西洋唯物文明精神の超克と東洋精神への復活、及び国民共同体制王道国家への国家改造根本精神といった三項目が提示された。最後に、第五章は「国民共同体制王道国家への日本国家改造案大綱」と題し、改造後のヴィジョンが提示されている。まず、経済組織は、唯物主義精神を標接する資本主義と社会主義とを両方とも否定し「人道的精神」、すなわち人を物の上に置く経済組織であり、それのモデルは家族体である。家族体の精神に基づいた経済活動はすなわち協同組合運動である。また、全ての産業でなく大産業のみを国営化し、土地に対し累進的課税法で大土地所有を無くし、金融の面では財閥による独占的支配を排除する。そして、政治組織は、官僚と政党と財閥の三位一体的資本主義的独裁政治を廃止し、また、ファシズムや無産者独裁共産主義をも否定し、日本の国体に基づいた愛国同胞主義を掲げての政治組織である。また、教育は理知偏重と科学万能主義と個人主義精神に基づいた教育を廃止し、勤労精神を育む教育にすべきだと主張した。最後に、国民生活の不安を取り除くために医療や冠婚葬祭における相互扶助制度、すなわち共済組織の確立の必要性を主張した。

 ところで、五・一五事件それ自体に目を転じると、当事者たちの思惑が後世の歴史家によって曲解されたことと、その一年後の公判によって事件の歴史的評価が定められたことが指摘できる。事件の首謀者は海軍青年将校であり、これに陸軍士官候補生が加わり、更に橘の愛郷塾の塾生たちが別働隊として加わった。橘は、農本的=唯心論的社会改造観に立っていたため、国民批判(モダニズムと赤化現象)という点で青年将校たちと現状認識を共有していたのであり、彼が事件に関与した最大な原因を、そうした現状認識に求めるべきである。また、事件の一年後の公判においては、陸軍と海軍側被告の公判がほぼ同時に開始され、被告らに対する原型嘆願運動が軍人団体や右翼団体の先導の下で展開された。行為の合法性よりも事件への動機は「愛国」的である点を強調し、これを政党政府の非「愛国」的行為と対比させて非難の標的とした。減刑嘆願運動の非軍人参加者(嘆願書署名者)は、経済恐慌の原因を政府の政策に求め、政党政府への不満の心情を抱き、軍人たちの政党政府批判に共鳴し運動に参加したのである。また、論告求刑後、弁護人だけでなく現役軍人までが法廷弁護役を買って出、法廷での政党政府の「罪状」を並べ、減刑の正当性を主張した。そうした「罪状」の一つとして農村疲弊を挙げ、事件における橘の参加は、軍人側被告らは農村疲弊を引起こした張本人として政党政府に異議申し立てた証拠であると主張した。そして、軍人側被告の法廷弁論が終了した後、民間人被告の公判が開始された。軍人側被告の公判の際とは一変して、今度は減刑嘆願運動には見るべきものもなく、嘆願署名数も軍人側被告に対するそれとは桁が違うものであった。

 判決では、陸軍士官候補生は一律に禁錮四年間となり、事件の首謀者たる陸軍青年将校は最高禁錮十五年となったのに対し、橘は無期懲役の判決を言い渡された。(以上、第五章)

 この論文では、まず、橘の農本思想の内容とその同時代性を明らかにし、そうした思想は同時代には理解されていなかったこと、五・一五事件の公判によって橘に対する歴史的評価は歪められて定着したこと、その思想が同時代のコンテクストの中で位置づけられていないため、戦後歴史学研究の中で、橘の農本主義をはじめ戦前農本主義に対する評価をめぐる対立が生じたのである、との三点を指摘した。(以上、むすび)

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