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博士論文要旨

論文題目:日本スポーツ界と政治の関係に関する史的研究―1930年代および1960年代のアジアにおける国際スポーツ大会を対象として―
著者:冨田 幸祐 (TOMITA, Kosuke)
博士号取得年月日:2018年3月20日

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1.問題関心と課題の設定
本論文は、日本スポーツ界と政治の関係について、1930年代および1960年代に開催されたアジアにおける国際スポーツ大会での政治問題の顕在化とそれに対する日本スポーツ界の対応に照準を定めて考察を行うものである。
日本スポーツ界の中心的な存在である大日本体育協会/日本体育協会(以下日体協)は、1912年のストックホルム・オリンピックへの選手派遣のためにその前年に設立された団体であり、その歴史はオリンピックと不可分である。にもかかわらず、本論文がアジアにおける国際スポーツ大会を対象とするのは、筆者の問題関心が日本スポーツ界と政治の関係にあると同時に日本近現代のスポーツ史をアジアとの関係から捉え直すことにあるためである。
具体的には、①1930年の第9回極東選手権競技大会(以下極東大会)、②1934年の第10回極東大会、③1962年の第4回アジア競技大会(以下アジア大会)、④1963年のGANEFO(新興国競技大会)の4つを取り上げるが、これらのうち後ろ3つは、自らが政治的な圧力に屈せず自主性を貫いた「伝統」として、日本スポーツ界の内部で認識されてきたものでもあり、日本スポーツ界と政治の関係を掘り下げる上で看過できない重要な事例である。
これまで日本スポーツ界と政治の関係については、モスクワ・オリンピックボイコット問題に象徴される日本スポーツ界の財政基盤の脆弱性とそれに起因する政府への依存・従属体質等が指摘される一方で、相対的ではあるが日本スポーツ界が一定程度自主性を保持してきたことが明らにされてきている。しかし、それらの検討は、制度の変遷や政財界との人的関係、スポーツ思想の検討など概して静態的な把握にとどまっている。また、本論文が対象とした4つの事例については、アジアにおける国際スポーツ大会に関する近年の研究においても、本論文のような問題関心からの検討が皆無か不充分なものにとどまっている。
以上のような問題関心と先行研究の状況を踏まえた上で、本論文では以下の2つを課題として設定した。第1に、アジアにおける国際スポーツ大会で顕在化することになった政治問題は、当該国にとっていかなるものであり、そしてどのようにして国際スポーツ大会の場に顕在化することになったのかを明らかにすること。第2に、アジアにおける国際スポーツ大会に政治問題が顕在化することで、どのような反響を日本社会にもたらし、日本スポーツ界にいかなる影響をもたらしたのか、そして日本スポーツ界はいかに対応したのかを明らかにすること、その際、日本スポーツ界の自主性に照準を定め、政治問題の影響にさらされる中でのスポーツ界の対応を追跡することにより、その動態的な分析を試みる。

2.各章の概要
第1章では、1930年に日本で開催された第9回極東大会における英領インド代表旗問題を取り上げた。これは、極東大会に初めて参加した英領インドが、イギリス支配下のインドを表す英領インド旗ではなく、独立を目指すガンディー旗の使用を求めたことから生じた問題である。この大会を主催した日体協は、大会開催前にイギリス大使館、インド選手団監督との間で、英領インド旗を使用することで合意する。しかし、選手の宿舎であった日本青年館屋上には、英領インド旗ではなくガンディー旗が掲揚されたことから、イギリス大使館が抗議を行ない、その結果ガンディー旗は降納され英領インド旗が掲揚される。それに対して、今度は在日インド人たちによる抗議が行われ、そこに日本国民党という愛国主義団体も加わった。彼らとの直接交渉をふまえて、日体協はガンディー旗の青年館屋上への掲揚については許可したものの、大会の開会式や会場に関しては、英領インド旗使用という事前の決定を覆さなかった。
こうして迎えた開会式で、インド選手団は、英領インド旗の他にガンディー旗に模した楯を持って登場した。楯という形でもってガンディー旗を使用したのである。こうしたインド選手団の行動に対し、大会終了後、イギリスオリンピック委員会からIOCに対して抗議が届き、IOCはインドオリンピック委員会と日体協に説明を求めた。両者は、インド選手団の代表旗は公式の場面においては英領インド旗が使用されていたと報告し、こうした説明に対しイギリスオリンピック委員会も反論をすることなく代表旗問題は収束した。
インド選手団の代表旗問題はインドの独立運動を背景に発生した問題であった。イギリス支配を象徴する英領インド旗ではなく、独立を目指すインドを象徴するガンディー旗の使用をインド選手団や在日インド人は求めた。日本青年館屋上へのガンディー旗の掲揚、開会式でのガンディー旗に模した楯の使用、これらは公式な場で英領インド旗の使用を余儀なくされたインド選手団が、何としてもガンディー旗を使用するために捻出したものであった。こうして日体協は、極東大会を通してスポーツの場が独立運動と結びつく瞬間を目撃することになったわけだが、そこにはイギリス大使館やイギリスオリンピック委員会に対し配慮しつつも、日本青年館屋上への掲揚と楯の使用を許可するといった単なる黙認を超えたインド選手団への積極的な対応もみられた。
第2章では、1934年にフィリピンで開催された第10回極東大会における満洲国参加問題を取り上げた。これは満洲国が第10回極東大会参加を希望したのに対し、中国が反対するという対立の中で生じた問題である。
満洲国関係者は、中国が政治的に極東大会を利用しているとして批判し、日本側に賛同を求めるだけでなく、満洲国の参加が認められない場合は日本も参加を辞すべきだと主張した。満洲国の参加が認められない大会に日本が参加することは、国際連盟を脱退してまで主張している満洲国の存在をスポーツの世界で否定することになるというのがその理由であった。日体協は、満洲国の参加実現に向けて対策を講じたが、満洲国の参加如何に関わらず日本選手団を派遣する方針についてはすでに確定していた。日体協は、スポーツと政治の区別を主張し、スポーツ独自の解決方法を模索すべきで、また、大会期間中に開催される総会で満洲国参加について交渉を行うためにも参加は不可欠であると主張した。このような日体協の主張に対し、岡部平太をはじめとする満洲国関係者は不満を示し、問題解決のため各方面に働きかけを行なったため、愛国主義団体などがこの問題に関与するようになっていく。また、多くの新聞が問題の経過を報道するとともに自社論説等で満洲国の参加を支持する主張を積極的に掲載した。
結局、第10回極東大会前に開かれた日本、中国、フィリピンの代表者による三国会議の場でも中国が反対意見を覆すことはなく、満洲国の大会参加は不可能となる。この結果を受けて、満洲国関係者や愛国主義団体、新聞各紙が日本の大会不参加を主張したが、日体協は大会への参加を表明する。これ以降、満洲国関係者等の取り組みは、極東大会ボイコット運動へと転化することになる。ボイコット運動は、満洲国関係者や愛国主義団体にとどまらず、軍部や学生団体等にまで拡がりをみせ、活発に展開された。彼らは、日本の不参加を求める決議文の公表、文部省、日体協役員や選手への直接交渉だけでなく、襲撃事件まで引き起こした。こうした激しい運動によって、日本代表選手を辞退する者も出たが、中には所属大学からの不参加命令や大学体育会からの除名といった圧力にも屈することなく、参加を貫いた者もいた。最終的にボイコット運動は、日本選手団の大会参加を阻止することができず、収束する。
満州国参加問題をめぐって日体協は、国策とのズレを指摘され、激しい批判を受けたが、スポーツと政治を区別し、スポーツ独自の解決方法や外交政策への貢献をめざすという方針を変更することはなく、自らの使命を遂行するため大会参加を果たしたのである。
 第3章では、1962年にインドネシアで開催された第4回アジア大会における台湾・イスラエル参加問題を取り上げた。この問題は、大会を主催するインドネシアが、自国の国家政策との密接な関係の中で台湾とイスラエルの参加を拒否したことによって生じたものである。
この事態に対し、IOCや国際陸上連盟は警告を発し、参加国の中では大会の中止や名称の変更、選手団引揚げなどが議論されたが、大会はそのまま開催されることになり、日本選手団もその渦中で、参加か引揚げかの決断を迫られることになる。現地では役員間で参加と引揚げを巡り対立関係が生まれ、また政府からは慎重な対応を求める要請が届くが、現地選手団の対応は朝令暮改的に変化し、国内の役員との間にも対立が生じていた。こうした現地の状況は、日本でも新聞報道等によって逐一伝えられていた。最終的に日本選手団は参加を決断するが、日本国内ではこれをインドネシアの政治的意図を容認するものと受け取り、また、参加に至るまでの日本選手団の混乱ぶりに対して厳しい批判が浴びせられた。
大会から帰国後、日本選手団役員は事情説明に追われ、記者会見や国会に臨むことになるが、失言や発言の食い違いなど、対応の不備が露呈し続けた。政府、国会、財界、新聞、世論など多方面からの批判を受け、日体協は日体協会長・JOC会長津島寿一、JOC総務主事の田畑政治などが辞任に追い込まれた。
この間、日本政府に対しては、問題解決のために問題への介入を求める声や、在日本台湾大使館から台湾の参加に対する支援の要請が届いていたが、政府は「スポーツと政治は別」という立場を崩さず、こうした要請に応じなかった。その一方で、日本政府は現地の日本選手団と連絡を取り、帰国後の国会で責任を追及するなど介入に近い行動を取っていたが、それらは、日本選手団の大会参加に関する事情説明があまりに説得性を欠くものであったこと、また、2年後に控えた東京オリンピックに対する悪影響を避けるためになされたものであったと考えられる。第4回アジア大会における台湾・イスラエル参加問題は、スポーツの問題として処理できる問題ではなかったのである。
第4章では、1963年にインドネシアで開催されたGANEFOをめぐる問題を取り上げた。1962年に開催された第4回アジア大会で、台湾とイスラエルの参加を拒否したことで、IOCからオリンピック参加禁止処分を受けたインドネシアは、翌1963年にGANEFOを開催することを決定し、日本の外務省にもその参加要請が届く。GANEFO参加のための政治的配慮をインドネシアから要望された外務省は、「スポーツと政治は別」という立場をとり、判断を日体協委ねる。日体協は、GANEFOがスポーツを政治的に利用するものあると判断し、不参加を決定するが、日体協以外の有志によって選手団が構成され、日本の参加が実現することになった。
日本政府は、GANEFO問題が、近く行われることになっていた池田勇人首相とスカルノ大統領の対談に影響を及ぼすことを恐れ、対談中にGANEFOの話題が出ないように画策を試みようとした。また、選手団には右翼関係者とともに共産党関係者が名を連ねていたことから、日本政府は現地での後者の行動を報告するよう在インドネシア日本大使館に要請した。防共政策をとっていた日本政府にとって、ソ連や中国等の社会主義国が参加するGANEFOでの共産党関係者の動静は監視すべき対象であったのである。一方、日本選手団の団長を務めた右翼の頭山立国から政府関係者に対して礼状が届けられており、日本政府が異なる角度からGANEFOに関与していたことも確認できる。こうした政府の動きは、すべて秘密裏に行われたが、それは当時の世論が、スポーツへの政治介入に対して強い拒否反応を示しており、そうした動向に政府が慎重にならざるを得なかったことを示している。日本政府にとってGANEFOは、インドネシアとの外交関係を考慮して対応を図らねばならない政治的な問題として立ち現れたのである。
GANEFOへの不参加を決定した日体協は、その理由を公表せず「諸般の事情」とのみ説明した。日本とインドネシアの外交関係に悪影響をもたらすことを回避するためである。また、日体協内にはGANEFOへの参加を主張する者や個人参加については日体協の権限外であるといった見解も存在した。日体協の中には、スポーツへの個人の自由意志による参加を尊重する者もおり、GANEFOへの対応も決して一枚岩的なものではなかったのである。

3.総括と今後の課題
 本論文では、日本スポーツ界と政治の関係について1930年代と1960年代のアジアにおける国際スポーツ大会での政治問題の顕在化と日本スポーツ界の対応に照準を定めて考察を行なった。各章の検討結果を本論文の課題に即して横断的に総括すると以下のようになる。
第1の課題、アジアにおける国際スポーツ大会で顕在化することになった政治問題は、当該国にとっていかなるものであり、そしてどのようにして国際スポーツ大会の場に顕在化することになったのかという点については、第9回極東大会における英領インド代表旗問題はインドの独立運動が、第10回極東大会における満洲国参加問題は満洲国という日本の国家政策が、そして第4回アジア大会における台湾・イスラエル参加問題とGANEFOにはインドネシアの国家政策がそれぞれ反映されたことによって発生したものであり、当然ながら顕在化の様相は4つの事例でそれぞれ異なる。
第2の課題、それがどのような反響を日本社会にもたらし、日本スポーツ界がいかなる影響を受け、また、それにいかに対応したのかという点については、第9回極東大会における英領インド代表旗問題では、インド選手団の大会使用旗をめぐって、在日インド人達、愛国主義団体、イギリス大使館、イギリスオリンピック委員会が日体協に抗議を行った。第10回極東大会における満洲国参加問題では、日本の大会参加に対し、満洲国関係者、愛国主義団体、軍部、そしてメディア等が不参加を求めて日体協に圧力をかけ、ボイコット運動は襲撃事件にまで発展した。第4回アジア大会における台湾・イスラエル参加問題では、政界、財界、そしてメディアが、参加した日本選手団の対応を批判し、日体協会長といった要職に就く人物が辞任し、日本スポーツ界の体制の一新がなされた。これらに対しGANEFO問題では、日本スポーツ界の不参加という判断に対し、参加を求める抗議などの政治的圧力がかけられることはなかった。
これらの事例の中で特に反響が大きかったのは、日本の国家政策と直接的な関連をもつ満洲国参加問題であった。第4回アジア大会の台湾・イスラエル参加問題も、大きな反響をもたらしたが、この場合は、参加引揚げを巡る日本選手団の顛末を受けて、政界、財界、メディア、世論が日本スポーツ界に対し不信感を抱いたことが要因であり、その背景にあったのは2年後に控えた東京オリンピックであったと考えられる。日本社会の反響という点では、英領インド代表旗問題およびGANEFO問題は、他の2つの事例ほど大きいものではなかったが、これらの事例の内実も決して単純なものではなかった。
本論文で取り上げたすべての事例において、日本政府がスポーツ界の判断に積極的に介入することはなかった。政府はスポーツ界に判断を一任することを原則とし、1930年代および1960年代共に日本スポーツ界の自主性を容認していたのである。政府のこうした態度の背景には、「非介入」の法理やスポーツへの政治介入に否定的な世論への配慮があったと考えられる。また、日体協がその創設からIOC傘下の国内オリンピック委員会(NOC)としての機能を持ち合わせていたことも見過ごすことはできない。NOCは政治、経済、宗教などのあらゆる圧力から自立し、自主性を保持してなければならないからである。こうした原則が戦前から維持されていたと考えられるが、それはあくまで原則であり、本論文が各章で分析したようにそれを維持し続けるためには、政治的な圧力と対峙することが不可避であったのである。

4.本論文の構成
序章.問題関心と課題の設定
 第1節.問題関心と分析対象の設定
 第2節.先行研究の検討と課題の設定
 第3節.本論文の構成
 第4節.史資料について
第1章.第9回極東選手権競技大会における英領インド代表旗問題
 はじめに
第1節.英領インドの第9回極東選手権競技大会参加
 第2節.代表旗問題の経過
 第3節.第9回極東選手権競技大会終了後
 おわりに
第2章.第10回極東選手権競技大会における満洲国参加問題
 はじめに
 第1節.満洲国関係者の来日と満洲国参加問題の本格化
 第2節.満州国参加問題を巡る見解の相違
 第3節.ボイコット運動の展開
 おわりに
第3章.第4回アジア競技大会における台湾・イスラエル参加問題
 はじめに
 第1節.第4回アジア競技大会の開催と台湾・イスラエル参加問題
 第2節.日本選手団の対応と日本における反応
 第3節.第4回アジア競技大会終了後の顛末
 おわりに
第4章 GANEFO問題
 はじめに
 第1節.GANEFO開催構想
 第2節.日本のGANEFO参加問題
 第3節.日本選手団のGANEFO参加
 おわりに
終章.総括と今後の課題
 第1節.総括
 第2節.今後の課題

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