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博士論文要旨

論文題目:十八世紀における<知>の形成と展開―幕臣・成島道筑と在地の指導者の学問・思想の関係性―
著者:鈴木 愛 (AI, Suzuki)
博士号取得年月日:2018年3月20日

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本論の目的は、十八世紀の地域社会に必要とされた、学問や書物の知識、情報といった〈知〉がどのように形成され展開するのかを、幕臣・成島道筑(1689~1760)と、門下の村役人(在地の指導者)との関係性に着目しながら明らかにすることである。
 道筑は奥坊主組頭や御同朋格御書物預などを務めた人物で、先行研究では、荻生徂徠門人の儒者、冷泉家に師事した歌人などとして取り上げられてきた。吉宗の侍講として近侍していたことも分かっている。興味深いことに道筑には複数の村役人らが師事していた。例えば、武蔵国川越の名主・奥貫友山(1708~1787)や、川崎の名主・池上幸豊(1718~1798)である。さらに『民間省要』で知られる田中休愚(1662~1729)も、道筑と関係のあった在地の村役人の一人である。本論では、農村指導者、地域リーダー、在村知識人などとも呼ばれてきたこれらの中間層を「在地の指導者」と総称する。彼らが活躍するフィールドは、必ずしも一村に限られるものではなかったからである。
 幕臣である道筑がなぜ、複数の村役人層(中間層)と生涯にわたり親交を結んだのか。本研究では、この理由の解明を念頭に置きながら、道筑の学問や思想を明らかにすることを試みた。「中間層」をめぐっては、公共的な役割や活動などについて1980年代から研究が蓄積されているが、意識や思想に注目した研究はいまだ多いとは言えない。道筑と関係のあった中間層に光を当て、学問観や思想形成などの関係性に着目することで見えてくる18世紀社会の実相に迫る。さらに、両者の間でどのような〈知〉が形成され、どう展開したかを分析することは、「民間社会」の具体的様相に迫り当該期の社会構造を改めて把握する手掛かりにもなりうるはずである。
 本論文の構成は以下の通りである。

【第一部 幕臣・成島道筑の基礎的研究】
第一章 成島道筑の学問と思想
はじめに
第一節 伝記史料に見る道筑――各史料の性格と出自について
第二節 伝記史料に見る道筑――『飛鳥山碑』撰文
第三節 伝記史料に見る道筑――村役人層との関係
第四節 道筑が築いたネットワーク
第五節 道筑の学問観――門人の講義録(『書紳遺言』)から
第六節 道筑の学問観――門人の講義録(『芙蓉楼玉屑』)から
第七節 道筑の学問観――奥貫友山宛ての書簡
第八節 道筑の学問観――門人の講義録(『処世往来』)から
おわりに

第二章 成島道筑と享保の改革
はじめに
第一節 紅葉山文庫と『名家叢書』――「成嶋考」をめぐって
第二節 『幕府書物方日記』にみる成島道筑
第三節 「成嶋考」「深見・桂山・成嶋考」の成立経緯と内容
第四節 「成嶋考」と享保の改革
おわりに

第三章 農政改革と成島道筑
はじめに
第一節 『民間省要』『農家貫行』の序に見る道筑の思想
第二節 道筑の農政思想――『墾田之古法』の分析から
第三節 『農事大全』に見る道筑の農政改革論
おわりに

【第二部 十八世紀における在地の指導者の思想】
第四章 奥貫友山の学問と思想
はじめに
第一節 久下戸村と奥貫家
第二節 伝記史料にみる奥貫友山
第三節 奥貫友山と師・成島道筑
第四節 寛保の大水害
第五節 家督相続と正俊宛ての「遺書」
第六節 明和の伝馬騒動と晩年の「遺書」
おわりに

第五章 池上幸豊の思想形成
はじめに
第一節 池上家の由緒と大師河原村
第二節 池上幸豊と成島道筑
第三節 池上幸豊の新田開発事
――成島道筑との関係性を中心に
第四節 幸豊の晩年の思想
――新田開発事業の展開と砂糖の国産化を踏まえて
おわりに

第六章 「民間省要」と田中休愚の思想
はじめに
第一節 「民間省要」に見る休愚の百姓観
第二節 十八世紀の在地の指導者の苦悩と葛藤
第三節 「民間省要」成立とその後の社会
――休愚と道筑の関係性を中心に
第四節 「民間省要」が道筑に与えた影響
おわりに

終章 十八世紀における〈知〉の形成と展開
――成島道筑と在地の指導者の学問・思想の関係性
一、道筑の学問・思想とその変化
二、成島道筑と享保の改革
三、在地の指導者の学問観と思想形成
四、道筑と在地の指導者との関係性から見える十八世紀社会
五、課題と展望

第一章では、道筑が自らの学問を公儀のものと位置付け、朱子学道徳からの解放を唱えた徂徠学を批判し、できるだけ幅広い学問をするように門弟たちに勧めたことが確認できた。道筑は学究よりも、幅広い学問・知識・情報を受容し、幕府に還元することこそが必要だと考えており、それは幕藩体制を維持・安定させるためのものだった。さらに、道筑が職分を問わず幅広いネットワークを築いており、特に武蔵国を中心とする村役人層と深く付き合っていたことを確認した。
第二章と第三章では、享保改革を①農政改革、②それ以外に分け道筑の関与の有無を考察した。まず第二章で、農政改革以外を検討した。分析対象としたのは、道筑が吉宗の諮問に答えた八点の報告書「成嶋考」(共著を含む)である。内容の分析から道筑が朝鮮通信使(外交政策)、貨幣政策などについてまとめた報告書が含まれていることが分かった。少なくとも道筑は、奥坊主就任直後の享保四(1719)年から政策立案の過程に関与していたことが指摘できた。
 第三章では、道筑の著した農事・農政に関する五点の史料の検討から、道筑の農政改革への関与を指摘した。このうち、寛保元(1741)年に幕閣に上申した『墾田之古法』は、道筑自身の意見も盛り込まれており、門弟の池上幸豊に技法や思想を授ける形で実践に移された。つまり、道筑は農政改革にも関与していたということができるのである。道筑は晩年、農事・農政に関する四点の書をまとめた『農事大全』を著した。道筑が『農事大全』に記したのは享保の農政改革への批判だった。道筑の農政論の最大のポイントは、百姓を勧農すべき「農師」が不在であることへの批判だった。道筑の批判や指摘は具体的、且つ細部に及ぶもので、情報量もかなりのものだった。道筑が長年にわたって在地の状況を調査し続けたことがうかがえる。長年の調査に基づく道筑なりの農政改革論が『農事大全』だったと考えられる。学問や書物の知識と、こまめな情報収集による在地の情報が組み合わさる形で、道筑をめぐる〈知〉は形成されていった。道筑の〈知〉が享保の改革に活用されたことを考えると、道筑の〈知〉には幕藩体制の維持に必要な要素が盛り込まれていたといえよう。
 第二部(第四章~第六章)では、道筑と関係があった三人の村役人の学問観と思想を検討した。第四章では、道筑に学問を師事した武蔵国川越の名主・奥貫友山の学問と思想形成を道筑との関係性に着目しながら分析した。友山はその生涯を通じて四通の「遺書」を残している。分析の際は「遺書」を柱に据え、前後の時期の家や村、地域社会の動きを重ね合わせながら考察した。遺書を基軸とした友山と道筑の関係性の分析からは、これまで理由が不明確だった友山の遺書執筆の動機が見えてきた。さらに、晩年の遺書からは、百姓に対する警戒心や不信感を滲ませるなど友山の複雑な立場や苦悩が垣間見えた。上(幕藩権力)にも下(百姓)にも警戒心を持っている様子が読み取れた。動揺する幕藩体制の中で上からの重圧と、変容する地域社会の下からの突き上げの中で矛盾を抱え、苦悩する友山の姿を見ることができた。
 第五章では友山の抱えた矛盾や苦悩が、当該期の他の村役人にも通じるものではないかとの問題意識の下、道筑の門弟である池上幸豊の思想に迫った。その思想を時系列で分析するため、幸豊の日記や随筆が収められた「与楽亭集」「与楽亭文集」を主な分析対象とした。この中には、確かに「村をさ」の苦悩が記されおり、上(公儀)と下(百姓)の間で、名主とは苦しい立場にあるという幸豊の意識を明らかにした。
第六章では、川崎宿の名主役だった田中休愚の思想を分析し、三者(休愚、友山、幸豊)の「悩み」の背景や実態を比較した。『民間省要』を対象として休愚の「百姓への視点」に着目し、休愚が抱えていた悩みの実態を探った。この結果、「百姓との関係(=下からの突き上げ)」に関しては、三者ともに村方騒動や騒動に発展しかねない諍いに苦悩する様子が見られた。「上からの重圧」に関しては三者ともに感じていたが、その感じ方には濃淡があった。この差異は、村方騒動をめぐり領主層から何らかの処罰を受けたかどうかに起因している可能性が高いことを指摘した。
道筑は農事・農政について言及する際、必ずと言っていいほど、休愚の名前を挙げ、休愚から聞き及んだ内容などを記した。道筑は休愚から得た知識や情報(主に『民間省要』)を受容したうえで、それを村役人層に還元(展開)していたことが指摘できた。
道筑は門弟である奥貫友山や池上幸豊に学問の知識を授けるとともに、地域社会に関連する施策については助言を求めることもあった。例えば、享保十五(1730)年の川越の伊佐沼開発に当たって道筑は友山に、開発の是非に関し助言を求め、それを取り入れている。池上幸豊には、海辺の新田開発に関する技法・思想を記した書(『墾田之古法』)を授け、実践を手助けした。道筑はかなり頻繁に友山や幸豊らと連絡を取り、情報収集に努めていた。
 一方、村役人の側も道筑から授けられた学問や教訓を受容する様子が史料から確認できた。友山と幸豊が道筑から得た〈知〉は、学問の知識に留まらず、実体験に基づく教訓や実学的な内容も含んでいた。
享保改革において、さまざまな調査報告や政策提言を手掛けた道筑だったが、晩年に最も注目したのは農政であり、道筑なりの農政改革論(『農事大全』)をまとめている。なぜ、道筑は農政に注目したのか。その答えを知る手がかりは、友山や幸豊の村役人としての「苦悩」や「葛藤」の中にあった。
友山は遺言の中で「百姓は義のなき者」と述べ、今後社会に動乱が起きるとすれば、それは「諸侯(大名)」ではなく「百姓」に起因するものだろうとし、「百姓」への警戒感を示すとともに、決して「公儀」には逆らわないよう戒めた。幸豊も百姓を導くことの難しさを記し、「村をさ」は苦労が多いので「なるものではない」と書き残している。
十八世紀半ばは幕藩体制の動揺が始まった時期とされている。当該期に村役人を務めた友山や幸豊の思想を分析した結果、上(公儀)からの重圧と下(百姓)からの突き上げの間で、悩み葛藤する両人の姿があった。本論では、この矛盾を背景に村役人が抱えることになった「苦悩」こそが、幕藩体制の「ひずみ」に繋がり、動揺の一因となった可能性を指摘した。
 さらに、『民間省要』を分析したところ、休愚も、「百姓と名主の間ニ油断はならす」「おそろしきもの」と述べ「上をおそれ下をかへり見て、己が身の言分ケをひかへ居るのミ」と記すなど、友山や幸豊に通じる名主としての「苦悩」を感じていたことが分かった。
これまで幕藩体制は商品経済が発展する十八世紀半ばを一つの契機として揺らぎ始めると指摘されてきたが、十七世紀末から十八世紀初めに名主を務めた休愚の思想の中にも、十八世紀半ばの村役人と同様の「苦悩」が見られることから、十八世紀半ばよりも前から、村役人層の中に、社会のひずみが蓄積されていたことが言える。苦悩する中間層の意識の中に蓄積されたひずみが、十八世紀半ばの社会変容の一因になったと考えられるのである。
終章では、成島道筑や、道筑と在地の指導者層との関係性から、いくつかの新事実を明らかにした。道筑に関してはこれまで、奥坊主、徂徠学派の儒者、冷泉派の歌人として研究史上位置付けられてきたが、後年、徂徠学と距離を置き朱子学的道徳観を重視するようになった。これは、社会秩序の安定を目的としたものだった。自らの学問を幕府・将軍のためのものとする道筑は、学問を通じて幕藩体制を安定させようとしていた。柔軟な学問受容を勧める道筑の姿から、改革期に必要とされていたのは、学問の枠を超えた多様な〈知〉であることを明らかにした。
近年、思想史研究では、さまざまな文科史を思想史により統括する試みが進展している。本論では、道筑と在地の指導者との関係性について、学問と思想形成を視覚に分析し、道筑の享保の農政改革への関与を明らかにした。道筑は、海辺の新田開発に関する藤巻教真の教えを受け実践的な提案書(『墾田之古法』)を著し、幕閣に上申したばかりでなく、門弟・池上幸豊に同書を授け、ある意味主導的に開発事業を実践していったのである。享保の改革をめぐっては、これまで、経済史や政治史、地域史などさまざまな分野からアプローチされ多くの成果を示してきた。しかし、この中に道筑の農政改革への関与が指摘されることはなかった。これは、道筑と在地の指導者層との思想的な関係性に着目したからこそ見えてきた成果だと考えている。
さらに、在地における読書や学問の「受容」に着目した研究が重ねられている。本論では、受容された知識がどのように変化し、再受容されていくのか、つまり〈知〉の形成と展開の過程を分析した。道筑は書物の知識や経験知を組み合わせる形で『墾田之古法』を著した。同書は池上幸豊が受容し、海辺の新田開発として実践した。地域社会の変容を背景に揺らぐ幕藩体制を維持するために、道筑が受容した〈知〉が必要とされていたのである。展開する〈知〉とは、当該期に必要とされる〈知〉と同義だと考えられる。「〈知〉の展開」を分析視覚としたことの成果だと考えている。
本論では、道筑と在地の指導者層との関係性を通じて、当該期の「民間社会」の具体的な様相に迫ろうとした。この結果、見えてきたのが十七世紀後半から十八世紀半ばにかけて、村役人層(中間層)が抱えた「苦悩」「葛藤」だった。ここに矛盾を抱えながら成熟する「民間社会」の一端を見ることができた。これら在地の指導者層の中に蓄積されていった「苦悩」や「葛藤」こそが、幕藩体制の動揺につながる「ひずみ」だったといえる。

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