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博士論文要旨

論文題目:日韓の歴史教科書問題に関する政治史的考察―1982、1986、2001年の事例から―
著者:李 宣定 (LEE, sunjung)
博士号取得年月日:2018年3月20日

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1.本論文の構成

序章
第一節 問題意識の概要
第二節 先行研究の整理と本論文の課題

第一章 1982年の教科書問題
第一節 歴史教科書検定の外交問題化
第二節 教科書問題の展開-宮澤喜一官房長官談話と近隣諸国条項を中心に
第三節 韓中両国政府の対日行動
第四節 誤報キャンペーン
第五節 近隣諸国条項をめぐる動き

第二章 1986年の教科書問題
第一節 『新編日本史』の登場と韓国政府の反応
第二節 『新編日本史』をめぐる日本政府の対応
第三節 韓国側の資料にみる1983、1984年の「是正通報」
第四節 「超法規的修正」と「是正通報」の狭間から

第三章 「妄言」と教科書問題
第一節 藤尾発言と教科書問題の再燃
第二節 データで読み解く「妄言」
第三節 「妄言」と罷免

第四章 2001年の教科書問題
第一節 森喜朗内閣における教科書問題
第二節 小泉純一郎内閣における教科書問題
第三節 教科書問題における日韓両国政府の対応変化
第四節 転換点としての2001年の教科書問題

終章
第一節 韓国政府における教科書問題の位置づけ
第二節 日本政府における教科書問題の位置づけ

参考文献


2.本論文の概要

(1)序章
 本論文は、日韓関係における歴史教科書検定の外交問題化の構図を1982年、1986年、2001年の事例から明らかにするものである。
 1982年以降における日韓の教科書問題は、日本の検定時期と照応せず断続的に起きている。そもそも日韓の歴史認識には溝があり、その歴史認識の溝が記述された教科書、あるいは文部省の検定結果が問題になり得る余地は常に存在する。なぜ外交問題になるのか。そこには、日本の歴史教科書の検定結果によって再認識された歴史認識の溝が何らかの要因で激しく表出し、政府レベルで外交問題化せざるを得ない構図が存在すると考えられる。
 本論文では日韓両国の外交過程、政治過程に注目し、日韓両政府が教科書問題をどのように認識し、どのように位置付けてきたかについて考察を行う。この作業は「いつ」、「なぜ」問題化したかに関する外交問題化の「開始」の要件と、「どう」処理されたかに関する外交問題化の「終結」のパターンを明らかにすることに置き換えることもできる。
 なお、同時代史のもつ史料的制限を少しでも克服するため「情報公開制度」を積極的に活用し、教科書検定の外交問題化を裏付けるデータとして日韓両国の大新聞における教科書問題関連記事の推移を分析した。

(2)第一章 1982年の教科書問題
 第一章においては、国交正常化以後の日韓間、日中間における初の歴史認識問題として1982年の教科書問題を取り上げ、高校教科書の検定結果公表(1982年6月25日)から宮沢喜一官房長官談話の発表(8月26日)に至るまでの過程について分析を行った。
 1982年の教科書問題は『朝日新聞』をはじめとした大新聞の検定報道、すなわち「侵略」、「進出」の書き換え問題に端を発しているとされており、後にその検定報道の一部が「誤報」であったことが明らかになる。しかし、日本の検定問題に関する報道が急激に増加し、韓中両国政府が公式抗議を行うのは、韓中の教科書問題批判を「内政干渉」とした松野幸泰・国土庁長官の発言(7月23日)以降のことであり、1982年の教科書問題を「誤報」に直結させるのは妥当ではない。保守系言説による大々的な誤報キャンペーンは、1982年の教科書問題の核心を誤報に集中させることで韓中の批判を退けると同時に文部省の検定姿勢を擁護し、家永三郎の教科書裁判への影響を阻止しようとするものに他ならない。
 韓中政府の公式抗議や修正要求をめぐって、検定制度に執着する文部省と外交関係を優先する外務省のスタンスが拮抗するなか、小川平二文相や特使の訪韓、訪中を拒否される事態に発展すると、日本政府は教科書を「政府の責任において是正する」という宮沢談話を発表した。教科書問題の勃発で日韓経済協力の交渉が難航していた韓国政府はすぐに宮沢談話を受け入れ、沸騰した韓国世論を「克日運動」と独立記念館の設立議論に誘導した。
 宮沢談話における「是正」の実行は、教科書検定基準に「近隣諸国条項」を追加することで行われるが、日本政府が提示した「是正」の意味が極めて曖昧だったため、第二、第三の教科書問題はある程度予定されたものであった。
(3)第二章 1986年の教科書問題
 第二章においては、『新編日本史』(原書房)をめぐる日本政府の「超法規的修正」の経緯、すなわち①なぜ韓国政府は公式抗議を回避したのか、②なぜ日本政府は一冊の教科書を対象に検定制度を逸脱する大幅な修正を行ったのか、の二点について分析を行った。
 1986年の教科書問題で公式抗議を表明したのは中国のみであり、1982年のように国際的に問題が拡大していったとは言い難い。政府レベルでの批判の減少に加え、教科書問題の対象が『新編日本史』一冊に集中し、日本政府が早急に問題個所の修正に乗り出したことが大きい。問題は「超法規的修正」の実体である。
 まず、「超法規的修正」の経緯からは、検定制度の否定を断じて受け入れない文部省側の姿勢がうかがえる。『新編日本史』をめぐる「超法規的修正」はすでに内閲本審査の時から始まっており、日韓間、日中間で問題化する前から行われていた。そもそも『新編日本史』の合格自体が批判の対象になり、検定制度の恣意性を問われていたところに韓中からの関心や抗議が加えられたのである。『新編日本史』合格の責任を問われたくなかった文部省は1982年のように「検定は間違っていない」という立場を維持し、近隣諸国条項を利用して同書に対する大々的な修正を推し進めた。1986年の教科書問題で問われるべきは、むしろ「超法規的修正」をしてまでも『新編日本史』を合格させた文部省の検定姿勢にある。
 次に、「超法規的修正」をめぐる日韓政府の対応からは、教科書問題の再燃を阻止するという共通点が見えてきた。
 ひとつは、「日韓新時代」とも謳われた良好な日韓関係にある。中曽根康弘は1982年11月の首相就任後の初の外遊先として異例的に韓国を選び、40億ドルの経済協力に合意した。また、全斗煥も大統領としては初めて1984年9月、日本を公式訪問訪することで両政権には前例のない信頼関係が芽生えていた。
 もうひとつは、教科書問題をめぐる韓国側の内なる理由にある。宮沢談話における日本政府の自主的な「是正」を「約束」として受け止めた韓国政府は、1983、1984年の「是正通報」によって「是正」を確信した。当時の韓国政府からすれば、日本の教科書問題は歴史認識の他に体制の問題もあり、日本の検定問題は距離を置くことが望ましい外交案件とされていた。韓国側が二度の「是正通報」を実態以上に過大評価した理由はここにある。

(4)第三章 「妄言」と教科書問題
 第三章においては、「妄言」が日韓両国の外交「案件」を外交「問題」に発展させるきっかけになることを前提に、1986年の藤尾発言をめぐる日韓政府の対応を次の二点から考察し、以下のようなことが明らかになった。
 一点目は、「妄言」はどのような状況下で発せられ、その「妄言」が外交案件にどのような影響を与えたのか、について考察した。
 1980年代の問題発言の中でも、とりわけ「妄言」として扱われた1986年の藤尾発言は、同じ旨の発言を計画的かつ意図的に繰り返し、ひいては活字化したという大きな特徴があり、単なる失言や放言の域を越えていた。また、藤尾の言動は韓国世論を刺激し、植民地時代の評価や日本側の歴史認識、韓国認識に対する議論を活発化させ、教科書問題が再燃しかねない状況を助長した。その世論は韓国政府の対日外交姿勢への圧力として作用し、日韓外相会談の延期を招くことにつながり、中曽根訪韓の懸念材料となるのであった。
 二点目は、「妄言」をめぐる日韓の対応から見えてくる当該期の教科書問題の位置づけや日韓関係の特徴について考察した。
 藤尾発言をめぐる日韓両国の対応は、『文芸春秋』のインタビュー記事掲載を境に分かれる。『新編日本史』問題においても公式抗議を控えていた韓国側は「納得できる措置」を迫り、外相会談を延期するという強硬策を講じた。日本側はこれまで「非公式」な場で発せられた「私見」と位置付けてきた藤尾発言が、「文部大臣」という肩書付きの記事になったことに困惑した。問題発言だけでは済まされない「文部大臣」藤尾の「主張」や「歴史観」を、もはや「私見」と見做すことができなくなった中曽根政権は、藤尾を罷免して一私人とする手段を選択した。一私人となれば、その発言は私見とみなされるからである。
 閣僚の罷免は33年ぶりのことで、とりわけ外交関係をめぐる罷免は初めてであったが、この罷免はどのような意味を持っているのか。藤尾の罷免は、大枠からみると日本政府の東アジア戦略のなかで行われた、日韓関係を優先した外交的な決定であると同時に、『新編日本史』問題の終結と中曽根訪韓の安全を保証する担保だったのである。

(5)第四章 2001年の教科書問題
 第四章においては、「新しい歴史教科書をつくる会」が編纂した『中学歴史』(扶桑社)をめぐる日韓両国政府の対応変化について分析を行った。
 2001年の教科書問題における最大の特徴は、同問題をめぐる日本政府の態度硬化にある。1980年代における二度の教科書問題が日本政府主導により比較的早期に政治的な終結を迎えたことに比べると、2001年の教科書問題は「問題」として政治懸案化していた期間が最も長く、8月15日の採択終了日を境に政府間の協議頻度が減少していき、10月の日韓首脳会談で歴史共同研究案が合意される形で終止符が打たれた。
 1982、1986年の教科書問題の際に日本政府が示した教科書の歴史認識における「政府の責任」が2001年の教科書問題では姿を消し、日本政府が教科書問題「不介入」を貫徹した形であった。
 中国側より早い韓国政府の公式抗議や修正要求は一見強い姿勢で教科書問題に臨んでいるかのように見えたが、それは2000年代後半から沸騰し始めていた世論を多分に意識したアクションであり、内実の乏しい対日行動である。世論の反応を伺いながら対日行動を取る基本姿勢は1980年代の教科書問題の際と同様であるが、2001年の教科書問題における韓国政府の対応には特徴というべき変化も表れた。
 それは一言でいえば、「外」に向けた教科書問題の拡散である。韓国政府は従来日韓の二国間において展開された教科書問題を国際社会に持ち込み、世界的に世論を喚起することで日本政府の行動を促すという方針に転じた。韓国政府はこれらの取り組みを自ら「強硬対応」として位置付けている。しかしこれは、日本政府を直接批判できない韓国政府の対日姿勢の限界と不誠実な日本政府の対韓姿勢、またいとも簡単に軋み出す日韓関係の脆弱性を浮き彫りにする動きでもあった。

(6)終章
 本論文では日韓両国政府における教科書問題の歴史的展開について述べてきた。特に、日本の教科書検定が外交問題化した1982、1986、2001年の事例を中心に、韓国政府が「何」を問題視し、日本政府が「どう」対応してきたかを通して、日韓両国政府における教科書問題の位置づけを考察した。
 三つの事例をめぐる韓国政府の対応を整理してみると、1980年代は最初から明確な目標をもって教科書問題に取り組んだというより、韓国世論と日本政府の出方次第で対応のレベルを調整しており、教科書問題の浮上を好まない傾向があった。2000年以降は日本政府の態度変化に混乱しながらも修正要求を具体化し、なおかつ教科書問題を国際的に喚起していくことで韓国政府内でもようやく歴史認識問題への自覚が芽生えたかのように見えたが、それは対日外交における脆弱性ゆえの対応でもあり、韓国政府が教科書問題の解決に積極的になったとは必ずしも評価できない。
 一方、1980年代以前は主に「日日問題」としての教科書問題への対応に追われていた日本政府は、1980年代に入り教科書検定の外交問題化に二度も直面する。1980年代の教科書問題はいずれも閣僚の問題発言が外交問題化のきっかけとなり、1982年には「近隣諸国条項」を通して検定基準を改善したり、1986年には『新編日本史』の修正と藤尾正行文相の罷免で日本政府の歴史認識を「外」に示した。無論、日本政府内の一部に不満は存在したが、それらを抑制し韓中との外交問題を解決してきたのである。
 しかし、2001年以降、日本政府は教科書検定をめぐる「外」からの視点、つまり韓中との問題に対しては「介入しない」方向に舵を切った。表面的には限定的に「侵略」を認めることで韓中両国と外交関係を保ち、教科書問題を解決してきた日本政府であるが、教科書問題が「侵略」から「慰安婦」、「竹島」に論点が移行していくことによって、教科書問題への介入が日本政府の負担としてのしかかったのである。日本政府の立場からはすでに終了している請求権問題が教科書問題によって触発され、歴史認識の改善だけでは終わらない賠償と謝罪を伴う歴史問題や領有権問題にシフトしていく可能性を孕んでいることが、日本政府が教科書問題への対応を躊躇する理由に他ならない。
 特に2002年以降、教科書記述のイシューが竹島領有権に及ぶと、竹島問題を棚上げしたい日韓両国政府の利害が一致し、日韓の教科書問題への対応は平行線をたどる結果になる。教科書問題をめぐる日韓両政府の姿勢や対応は教科書記述の変化、すなわち「何を問題にするか」にかかわっており、竹島領有権の記述が続く限り、教科書問題も「棚上げ」されていく可能性が高いと考えられる。

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