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博士論文要旨

論文題目:犠牲者ディアスポラと労働ディアスポラの間で―横浜市鶴見区で邂逅するウチナーンチュたち―
著者:藤浪 海 (FUJINAMI, Kai)
博士号取得年月日:2018年3月20日

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序章 ディアスポラの視座から読み解く沖縄系-南米系移民
 1.問題意識――グローバル化のなかで邂逅を果たすディアスポラの人々
 2.先行研究
 3.研究課題
 4.分析枠組み――移住システム論とエスニック・ネットワーク論
 5.調査方法
 6.本研究の構成

第1章 「帝国・冷戦の時代」における沖縄からの出移民――植民地主義のもとでの「犠牲者ディアスポラ」
 1.はじめに
 2.「帝国の時代」:日本への強制的な編入と政策的に作り出される貧困
 3.「冷戦の時代」:沖縄戦により荒廃する土地と押し付けられる米軍基地、そして本土復帰運動
 4.小括

第2章 「帝国・冷戦の時代」における沖縄から鶴見への移民――底辺労働市場への編入と二重意識の形成
 1.はじめに
 2.「帝国の時代」:本土移住の始まりと「人夫出し」の登場――「沖縄的労働市場」の形成
 3.「冷戦の時代」:本土県人会も巻き込んだ「本土送り出しシステム」の形成
 4.小括

第3章 「冷戦の時代」における沖縄から南米への移民――「政治の道具」としての移住から、農業・自営業での発展へ
 1.はじめに
 2.コロニア・オキナワの沖縄系コミュニティ――農業コミュニティとしての発展と転住の進展
 3.ビラ・カロンの沖縄系コミュニティ――自営業コミュニティとしての発展と転住者の受入
 4.小括

第4章 「グローバル化の時代」における南米から鶴見への移民――「フレキシブルな建設労働者」としての「労働ディアスポラ」
 1.はじめに
 2.コロニア・オキナワから鶴見への移民
 3.ビラ・カロンから鶴見への移民
 4.「フレキシブルな非熟練労働力」としての編入――「労働ディアスポラ」としての鶴見の南米系移民
 5.小括

第5章 経済・就労におけるエスニック・ネットワーク――沖縄系日本人との分離からエスニックな労働市場の確立へ
 1.はじめに 
 2.沖縄系日本人電設業者からの独立と起業の進行
 3.「強い紐帯」のもとでの労働市場安定化に向けた取り組み――アソシエーションの結成
 4.南米系第二世代への継承へ
 5.小括

第6章 生活・教育におけるエスニック・ネットワーク――「犠牲者ディアスポラ」としての歴史が生み出す「共振」と断絶
 1.はじめに
 2.「犠牲者」性がうながす/阻む日本人とのネットワーク
 3.日本人の取り組みがうながす子どものエンパワメント――「沖縄へルーツを探る旅」
 4.小括

第7章 ブラジル系コミュニティと「男性稼ぎ主型」ジェンダー分業――再生産労働を担う女性たち、ブラジルへの帰還を選択する男性たち
 1.はじめに
 2.女性たちの抱える困難
 3.ブラジルへ帰還する男性たち
 4.小括

終章 犠牲者ディアスポラと労働ディアスポラの間で
 1.本研究の結論
 2.今後の課題

付録
参考文献
あとがき・謝辞

2.論文要旨                                                     
(1) 問題関心
 戦前から戦後にかけて沖縄から多くの人々が本土や海外に向けて送り出され、各地に沖縄系の人々の集住地が形成されてきた。横浜市鶴見区はその主要な集住地の一つとなっているが、この地が興味深いのは単に沖縄系日本人の集住地となっているだけでなく、1980年代以降沖縄系-南米系移民(とくにボリビアのコロニア・オキナワ出身者とブラジルのビラ・カロン出身者)の集住も進み、沖縄系日本人と沖縄系-南米系移民という2つの離散集団の集住地となっていることである。日本の植民地主義の「犠牲」となるなかで沖縄から送り出された鶴見の沖縄系日本人は、離散後も日本-沖縄の非対称な権力関係に直面し続け、Cohen(2008=2012)のいうところの「犠牲者ディアスポラ」としての性格を色濃く残してきた。それに対して沖縄系-南米系移民はその離散の過程で「犠牲者」性を減じ、資本主義の論理のもと市場経済を支える労働者として、すなわちCohen(2008=2012)のいうところの「労働ディアスポラ」として鶴見に移住した。沖縄という同じ起源をもちつつも異なる経路をたどってきた両集団は、なぜこの地に集住することとなったのか。そして「犠牲者ディアスポラ」沖縄系日本人と「労働ディアスポラ」沖縄系-南米系移民の間では、いかなる関係が構築されてきたのか。
 これまでディアスポラ研究では離散した集団同士の越境的なつながりの形成の可能性が語られることが多かった(Clifford 1994=1998など)。しかし異なる経路をたどってきた集団同士が容易につながりを形成しうるとは限らない。離散集団の間のつながりの形成はいかなる文脈のなかでうながされ、あるいは阻害されるのか。本研究はこのような問題関心を背景として、横浜市鶴見区の沖縄系の人々の事例から、歴史的な視野のもとにディアスポラの人々の越境的なネットワーク形成をめぐる可能性と限界を探るものである。

(2) 各章の要旨
 序章では、上記の問題関心を述べたうえで、検討課題の設定をおこない、分析枠組みと調査方法について述べた。鶴見の南米系移民のネットワークについては、移民集団内部にとどまらない越境的なネットワークの存在も明らかにされてきたが(広田 2003)、それをもたらすような制度は他の移民集住地でも一般的に見られるものであるとの批判もまたなされてきた(樋口 2010)。しかし文化的にも経済的にもマイノリティとしての立場におかれてきた沖縄系の人々を、ほかの地域の日本人と同一視することはできない。そこで本研究では、かれらの「マイノリティ」としての歴史的文脈、そこで生じる非対称な権力関係の作用に着目し、他の集住地とは異なる沖縄系独自の論理関係のもと沖縄系日本人と南米系移民の結合と分離の双方が進行したことを明らかにした。
 本研究の第一の課題は、沖縄系の人々のコロニア・オキナワやビラ・カロン、そして鶴見への歴史的な移動過程を追いつつ、そのディアスポラとしての性格の変容を検討することである。この課題については、メゾ水準のネットワークのみならず、マクロ水準の政治経済的変動をも視野に入れる移住システム論の枠組みを用い検討をおこなった。本研究の第二の課題は、鶴見で邂逅を果たした「犠牲者ディアスポラ」沖縄系日本人と「労働ディアスポラ」南米系移民がいかなる関係を築いていったのかを検討することである。この課題については、一つの移民集団内部にとどまらないネットワークのあり様を描き出すエスニック・ネットワーク論の枠組みを用い検討した。次に用いたデータについて、鶴見に居住する/していた南米系移民へのインタビューを双方の課題に共通するデータとして用いた。このインタビューでは南米のコミュニティのあり様や鶴見への移住の経緯や鶴見での就労・生活状況について聞き取った。さらに第一の課題については各離散地に関する先行研究と県人会史等の一次資料を用い、それらを有機的に結び付けながら沖縄系の人々の鶴見への集住に至る歴史的経緯を検討した。第二の課題については、日本人の支援団体やブラジル系移民の相互扶助組織での参与観察をおこない、「沖縄」を軸としたネットワーク形成のあり様や、沖縄系日本人と南米系移民との分離が進行したなかでの南米系移民のコミュニティ形成のあり様について検討した。
 第1章から第3章では、鶴見への南米系移民の集住が人的なネットワークによって進展することができた前提条件となる「帝国の時代」(1900~40年代)から「冷戦の時代」(1950~70年代)にかけての沖縄からの離散の継続について検討した。第1章では「帝国・冷戦の時代」における沖縄からの離散の要因について、とくに日本政府との関係から検討した。沖縄からの離散をめぐる先行研究において、それは貧困によってうながされた「労働ディアスポラ」として解釈されることが多かった。それに対して本研究では、両時代とも、日本の沖縄に対する植民地主義的政策のもとで継続的な離散がうながされており、それは「犠牲者ディアスポラ」としての性格が強いものであることを明らかにした。「帝国の時代」には軍事拡大が進むなかで沖縄での経済的搾取体制が確立し、政策的に貧困が作り出され、本土や南米への離散が進行していった。「冷戦の時代」には沖縄戦による土地の荒廃に加え本土からの米軍基地の移転が進むなかで南米への移住が政策的に促進され(1950~60年代)、さらにその後米軍に対する島ぐるみ闘争の流れを受けた本土復帰運動のなかで本土への移住がうながされていた(1970年代)。
 第2章では「帝国・冷戦の時代」における沖縄から鶴見への移民について、とくにメゾ水準のネットワークやコミュニティのあり様に着目しながら検討をおこなった。沖縄から鶴見への移住は、日本の帝国主義的・資本主義発展を支えるフレキシブルな低賃金労働力として沖縄系の人々が本土の底辺労働市場のなかに編入されていくなかで進行し続けていたこと、そして鶴見ではウチナーンチュとしての「二重意識」(Du Bois 1903=1992)が形成されていき、「沖縄らしい」とされた言語や習慣は克服すべきものとして認識されるようになっていったことを明らかにした。さらに、一般の本土企業への就労も難しいなかで自営業化を果たした沖縄系の人々がおり、かれらが沖縄からの移住者の受け皿となり続けていたことを示した。
 第3章では、鶴見の多くの南米系移民の出身コミュニティであるコロニア・オキナワ(ボリビア)とビラ・カロン(ブラジル)を取り上げ、「冷戦の時代」にそれぞれのコミュニティにおいていかに沖縄系移民の集住が進行したのかを明らかにした。戦後の南米への移住は冷戦体制のもとで「政治の道具」として実行されていたことを確認しつつ、コロニア・オキナワとビラ・カロンがそれぞれ農業/自営業コミュニティとして発展するなかで前者から後者への転住が進行し、両コミュニティを取り結ぶネットワークが強化されていったことや、両コミュニティで社会的・経済的地位の達成がはかられていくなかで「ウチナーンチュ」としての文化やアイデンティティは必ずしもマイナスの価値づけをなされずに後続世代へと継承されていたことを示した。
 次いで第4章では、「グローバル化の時代」(1980年代~)におけるコロニア・オキナワやビラ・カロンからの鶴見への移住について検討した。金融市場の不安定化のなかで鶴見と南米(ビラ・カロンとコロニア・オキナワ)双方の移民がそれぞれの経済的な難局を乗り切ろうとするなかで、「帝国の時代」と「冷戦の時代」にかけて形成・維持され続けてきたディアスポラ・ネットワークが作動し南米から鶴見への移住が進行していたことをまず確認した。さらにここでかれらは重層的な下請構造の末端に「フレキシブルな非熟練労働力」として日本社会のなかに編入されていたことを確認し、鶴見の南米系移民が、資本主義の論理のもと市場経済を支える労働力として移動する「労働ディアスポラ」としての性格を強くもったものであることを示した。
 第5章から第7章では、異なる経路を背景にもちつつも経済的利害関係の一致のもとで「協働関係」を形成した沖縄系日本人と南米系移民がその後どのように関係性を変容させていったのかを検討した。まず第5章では、電設業という労働市場のなかでの沖縄系日本人と南米系移民のつながりについて検討した。元請-下請の非対称な権力関係が強く働く重層的な下請構造における沖縄系電設業者の不安定な経営が、南米系移民にとっての起業の機会構造を作り出したことで、沖縄系日本人と南米系移民の経済的な場面でのつながりが切れていっていたことを論じた。さらに、その後南米系移民は移民同士の強い紐帯のもと独自のアソシエーションを結成することによって下請としての経営状況の安定化をはかっていったこと、さらに電設業という職業が第二世代男性に継承されていく兆候も見られることを明らかにした。
 第6章では生活・教育支援の場面に目を移し、「沖縄」を軸とした日本人とのネットワークの形成と断絶について検討した。鶴見の沖縄系日本人の「犠牲者ディアスポラ」としての歴史性のもとで日本人のなかに南米系移民に「共振」する人々が現れ、「共同関係」の構築が一定程度進行し、それが日本人による生活・教育支援にもつながっていったこと、そしてそのもとでマイノリティとしてさまざまな困難に直面せざるを得ない日常生活を送る子どもたちをエンパワメントする取り組みが立ち上がっていたことを確認した。しかしまた同時に、その「犠牲者ディアスポラ」としての沖縄系日本人の歴史性が「共同関係」の構築を阻害するものともなったことを確認し、この場面での両者のネットワークは限定的なものとなったことを示した。
 このように南米系移民男性たちはその「強い紐帯」を活かしエスニックな労働市場を確立させていく一方、「沖縄」を軸とした日本人との「弱い紐帯」は限定的なものにとどまった。そのようななかで鶴見のブラジル系コミュニティにおいて生じたのが、ジェンダーをめぐる問題であった。第7章では鶴見における「男性稼ぎ主型」のジェンダー分業に焦点を当て、再生産労働の主な担い手となっている女性たちが抱えている困難や、一見「成功」を収めているかのように見える男性たちのブラジルへの帰還について検討した。再生産労働の主な担い手となった女性たちは、日本社会に関する制度的知識が不足するなかでとくに子育て・教育に関して困難を抱えることとなっており、そのなかでコミュニティの内部からそれを克服する取り組みが立ち上がっていた。また一見「成功」を収めているように見える男性のブラジルへの帰還という現象の背景には、鶴見のコミュニティにおける職業の限定性やコミュニティ人口の不均等なジェンダー比の問題があることを指摘した。
 以上の議論を踏まえ終章では、本研究の知見をまとめ、今後の課題について論じた。いかなる文脈のなかで沖縄系の人々の越境的なつながりの形成はうながされ、そしてそれはいかに変容していったのか。この問いに対する一つの重要なポイントとなっていたのは、植民地主義の論理であった。マクロな水準での沖縄への経済的搾取体制は沖縄系の人々の継続的な移住をうながし、ミクロな水準での社会的差別はそれぞれの離散地でのコミュニティとアイデンティティの形成のあり様に強く影響を及ぼした。そしてこれらの点が沖縄系の人々の越境的なネットワークの形成と断絶を、大きく左右することとなったのである。また、もう一つ、資本主義の論理もネットワークのあり方に強く影響していた。南米系移民の鶴見へのネットワークを用いた移住は資本主義の論理のもとでこそうながされ、沖縄系日本人との邂逅がもたらされることとなった。だがしかしそれは民族的マイノリティたるかれらを労働市場のなかで不安定な立場におき、就労の場面での両者の分離をうながすこととなっていた。資本主義の論理のもとマイノリティが「フレキシブルな労働力」としての役割をあてがわれたことが、沖縄系日本人と南米系移民のつながりの形成と断絶に強く影響していたのである。
 以上本研究では、植民地主義や資本主義のもとでのマイノリティ性が鶴見における沖縄系日本人と南米系移民の関係性に強く作用していることを明らかにしてきた。しかし「ホームランド」沖縄側からの働きかけなどを受け、異なる論理のもと新たな関係性が築き上げられる萌芽も見られる。そこで最後に、「ホームランド」沖縄側からのディアスポラへの働きかけや鶴見での新たな関係性の生成を検討することを今後の課題として設定し、本研究を締めくくった。

【参考文献】
Cohen, Robin, 2008, Global Diasporas [Second Edition], London: UCL Press(=2012,駒井洋訳『グローバル・ディアスポラ』明石書店).
Clifford, James, 1994, “Diasporas,” Cultural Anthropology 9(3), 302-338(=1998,有元健訳「ディアスポラ」『現代思想』26-7: 120-156).
Du Bois, Edward Burghardt William, 1903, The Souls of Black Folk, Chicago: A. C. McClurg & Co(=1992,黄寅秀・木島始・鮫島重俊訳『黒人のたましい』岩波書店).
樋口直人,2010,「都市エスニシティ研究の再構築に向けて――都市社会学者は何を見ないできたのか」『年報社会学論集』23: 153-164.
広田康生,2003,『エスニシティと都市[新版]』有信堂高文社.

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