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博士論文要旨

論文題目:承認と正義―アクセル・ホネットにおける承認論の社会的正義論への展開―
著者:王 燕敏 (WANG,Yanmin)
博士号取得年月日:2017年11月30日

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1. 論文題目:
承認と正義─アクセル・ホネットにおける承認論の社会的正義論への展開─

2. 研究目的:
 アクセル・ホネット(Axel Honneth 1949-)の承認論は人間の自己実現を、間主観性を出発点として理解する理論であり、ホネットはこの承認論を規範理論として展開する。これによって社会病理を分析し、現在の社会秩序を批判するために、ホネットは「承認をめぐる闘争」というヘーゲルに由来する概念を用いて、人間の「良き生」を実現するための社会的正義を論じている。こうした承認論によって、ホネットは批判的社会理論の伝統を継承する一方で、独自の批判理論のモデルを構想し、批判的社会理論の発展に貢献している。
 本論文は、上述のようなホネットが展開している社会哲学の発展を素描しながら、彼が構築した承認論と社会的正義論の関係を明らかにすることで、現在の批判的社会理論の意義を明らかにすることを目的としている。

3. 論文の構成
 本論文の構成は以下の通りである。
 序論
第1章 ホネットによるヘーゲル「承認」概念の再解釈
第1節 ヘーゲルによる「承認」の定式化
第2節 ホネットによる「承認」の再定式化
第2章 ホネット承認論の定式化について
第1節 ホネットによるヘーゲル承認論の受容
第2節 ホネットによる三つの承認形式
第3節 道徳的侵害の三つ形式
第3章 批判への応答によるホネット承認論の展開
第1節 社会的な不正に対する「承認論的転回」について
第2節 フレイザーに対する反論におけるホネット承認論の深化
第3節 ホネットによる「承認」概念の再検討
第4節 ホネットによる承認論の修正
第4章 ホネット承認論から社会的正義への転換
第1節 法的自由とその正義の構想
第2節 道徳的自由とその社会的正義の構想
第3節 社会的自由とその正義の構想
結論

4. 本論の概要
 本論文は序論、本論、結論からなり、四章からなる本論では、各章で『承認をめぐる闘争』、『正義の他者』、『再配分か承認か?』、『自由の権利』を扱い、ホネット社会哲学の承認論から正義論への発展を素描することを試みている。
 まず、序論では、ホネット承認論を検討する前に、ホネット同様批判的社会理論の伝統を引き継ぐハーバーマスの討議理論に触れた。なぜなら、ホネットはハーバーマスと同じく、間主観性論から社会理論を展開しているからである。同時に、法・権利というホネットが論じた一つの承認形式は、ハーバーマスが討議を中心に置き、『事実性と妥当性』において形成した法的規範に対応するものと考えられる。しかしながら、ハーバーマスは、規範合意を形成する相互行為のパースペクティブである生活世界と対象を技術的に利用しようとする目的合理性のパースペクティブであるシステムという二元論を前提にしてしまっているため、システムを民主的に組み替える可能性は失われてしまう。ホネットも、それによって、ハーバーマスが「コミュニケーション理論的なアプローチが当初開示していたはずの理論的な潜在的な可能性を開花させていない」(KM,S.334、383頁)と批判している。間主観性論から語用論へ到達したハーバーマスと異なり、ホネットはヘーゲルの「承認」概念を個人の実践的な同一性へ至るための基本的な概念として取り上げ、それを再定式化した。さらに、ホネットは経済的再生産の領域をも扱い、マルクス主義的な歴史哲学を前提とするコンフリクト・モデルを批判した上で、承認をめぐる闘争を通じて、ハーバーマスの討議理論よりも批判力を持つ承認論を展開することとなったのである。
 本論第1章と第2章では、ホネットの自由論と社会的正義論を検討する準備段階として、ホネット承認論の分析を行った。すなわち、第1章では、ホネットによるヘーゲルの承認論の解釈を考察することによって、ホネットにおける「承認」概念の内実を明らかにした。まず、ホネットはヘーゲルの「承認」概念の由来を考察する過程で、フィヒテの「承認」概念を検討した上で、法的関係という限定された相互関係におけるフィヒテの「承認」概念を明らかにした。このことを踏まえた上で、第1節では、どのようにして、ヘーゲルがフィヒテの「承認」概念を乗り越えたとホネットは理解しているのかを検討した。簡単に言えば、ホネットによれば、フィヒテの議論が原子論に陥っていることを批判したことと、「承認」概念をホッブズの闘争に関する議論と結びつけたこと、という二つの点において、ヘーゲルはフィヒテを乗り越えている。また、ヘーゲルは「承認」概念をホッブズの闘争と結びつけることによって、フィヒテを批判的に継承し、『人倫の体系』と『イェーナ実在哲学I』において、「承認」概念を定式化したことを明らかにした。続く、第2節では、ホネットによる「承認」概念の再定式化について検討した。その再定式化において、ホネットはミードの社会心理学を参考にして、ヘーゲルの「承認をめぐる闘争」というコンセプトを社会的な規範理論へと再構成することを試みていた。そのため、この節では、まず、ホネットが肯定的に取り上げているミードの間主観性論とその「承認」概念を考察した上で、ホネットがミードの間主観性論に依拠することで、再解釈したヘーゲルの「承認」概念を明らかにした。
そして、ホネットはヘーゲルが論じた承認の諸段階を受容した上で、経験科学を援用することによって、それを発展させ、愛・法(権利)・連帯という三つの承認の形式を定式化することへと議論を発展させていた。そのため、第2章の第1節では、ヘーゲルの『人倫の体系』と『イェーナ実在哲学Ⅰ・Ⅱ』を取り上げ、ヘーゲルによる承認形式を明らかにした一方、ミードの議論の中に、ホネットの承認形式の原型を見出した。その上で、第2節では、ホネット自身の承認と承認形式がどのようなものであるのかを明らかにした。ここで論じたのは、ホネットが現象学的に構想された類型学の形で再定式化した、愛・法(権利)・連帯という承認形式である。そして、第3節では、それらの承認形式に対応する非承認という道徳的侵害の三つ形式(身体の侵害・権利の剥奪と排除・尊敬の剥奪)を明らかにした。その上で、コンフリクトを乗り越え、自己実現のための承認をめぐる闘争が現実化する過程がホネットによってどのように論じられているかを明らかにした。具体的に言えば、ホネットは社会理論史を遡って、特にヘーゲルに依拠するマルクス、ソレル、サルトルの社会哲学・社会理論を分析し、同一性という道徳的要求から生じる承認をめぐる闘争が、政治的、文化的な時代状況に依拠しつつ間接的に社会運動へと発展することを論証した一方で、社会運動と道徳的経験との関連を明らかにするため、社会闘争を再解釈することになった。ホネットによれば、個々人が尊重の欠如を体験することから道徳的な要求へと動機づけられ、さらにそれらが普遍化された集団的な抵抗へと発展することで社会闘争は成立する。それによって、ホネットは尊重の欠如つまり道徳的侵害という個々人の否定的な経験が、集団的な抵抗へと発展することを提唱していた。さらに、ホネットは自分自身の立場をリベラリズムとコミュニタリアンとの中間に置き、これまで展開したポスト伝統的な承認論を規範理論として再解釈することを試みていた。
 そして、第3章では、フレイザー、イケハイモ、ライティネンらとの論争を軸として、ホネットの承認論が深化を見せたこと、またいくつか修正が必要となったことを明らかにした。最初に、フレイザーに対する反論を通して、ホネットがヘーゲルの愛・法(権利)・連帯という相互承認の関係を直接に採用して、『再配分か承認か?』の中で承認論を深化させたことについて検討した。第1節では、ホネット承認論の出発点に着目し、フレイザーと異なる立場における承認論的転回を明らかにした。そして、ホネットが批判した点を確認した後で、第2節は、ホネットがフレイザーの「再配分」と「承認」概念をどのように理解したのかについて述べながら、彼が再配分を承認の問題として捉えたことを解明した。その上で、フレイザーの正義論を批判した上で、善い生あるいは良き生活という人倫的な理念と結びついたホネットの正義論を素描した。つまり、ホネットは社会正義を、社会的に個人が自己実現あるいは同一性へ至ることができるような良き生活・善い生を保障することとして考えたのである。それによって、ホネットはフレイザーと異なり、同一性を形成することを目指す承認から、それぞれの承認原理に応じて、愛・平等・業績という正義原理を主張する。さらに、ホネットが『見えないこと』を通じて修正した「承認」概念に触れた上で(第3節)、第4節ではユヴァスキュラ大学で行われたシンポジウムにおけるホネットの文章に注目し、ホネットが『承認をめぐる闘争』に対して、いくつかの核心要素を修正していることを確認した。まずは、イケハイモ、ライティネンの議論を通して、ホネットが自らの承認概念を再解釈したことを明らかにした。そして、承認をめぐる闘争を合理的に説明するため、ホネットが対象関係論と欲動理論を結びつけることによって、承認をめぐる闘争の適切な根拠を探ったことを明らかにした。
 以上を踏まえ、ホネットはこのように定式化された承認論に基づいて、『自由の権利』において、内在的な社会批判を行うことで、正義と適切な社会構想を構築することになる。そのため、第4章ではホネットの『自由の権利』に着目し、彼の近代社会における自由モデルに対する批判を検討した上で、規範的再構成の仕方で展開した自由と社会的正義論に関して考察した。まず、第1節では、ホネットがホッブズの自由理念に基づいて定式化した否定的な自由モデルを確認した上で、ホネットが論じた現在の社会制度における法的自由の制度複合体を考察した。そして、第2節では、ホネットが自由モデルを整理する際に論じた反省的自由モデルを整理し、彼が現在の社会に現れた反省的自由モデルのあり方、つまり道徳的自由を社会的正義の中でどのように位置付けたのかを解明した。つまり、ホネットによれば、法的自由と道徳的自由は、個人の自由の実現化の可能性を与えたが、個々人が強制されない自己実現を行うための条件を保証できないという限界がある。そこで、現実の社会制度がどのように反省的な自由の媒体、あるいは自由を完全に成し遂げる条件として捉えられるかを明らかにするために、第3節では、近代社会における社会的な自由モデルを考察した上で、ホネットが規範的に再構成した社会的自由とその正義の構想を明らかにした。すなわち、ホネットは承認論を用いて社会哲学の規範理論を構築し、良い生活を基準とした社会分析の方式を選択したことを示した。それによって、ホネットがただ単に形式的な正義の原理にとどまるのではなく、規範理論と社会理論を結びつけ、具体的な現代社会の領域に基づいて、新たな社会的正義論を提示していることを明らかにした。
 結論では、一方でホネットがヘーゲルの承認概念を、人倫関係を自由なものとして理解するための基礎的な概念として扱い、ヘーゲルの承認論を再構成したことを確認した。他方で、ホネットは現代の社会状況を踏まえた上で、パーソナルな関係、経済市場的行為の制度領域と政治的公共性における制度領域という三つの自由の領域を通じて、自由の実現を可能とする社会的正義の構想を展開したことを述べた。
 以上のようにして、本論文は、ホネットの理論が社会的病理の診断を目指す批判的社会理論として展開され、特に、人間の「善き生」の問題に貢献するものであるという点を示すことで、その意義を明らかにした。

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