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博士論文要旨

論文題目:第二次世界大戦直後の東アジアにおける大国の働きと朝鮮民族の対応:朝鮮半島と日本地域を中心に
著者:洪 仁淑 (HONG, In Sook)
博士号取得年月日:2000年5月17日

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 戦後の世界秩序再編成の本質を把握する際に、小国の問題を取り扱うことは非常に重要な意味を持つ。多くの場合、世界秩序再編成の問題は単純に強大国の勢力圏の調整の過程として「客観的」に説明されるか、あるいは冷戦の産物として淡々と書かれるのが普通である。しかし、この再編成の過程には小国の被害と苦痛が内在しており、その被害と苦痛の歴史が戦後の世界歴史の「質」をはっきりと表現していることを看過することはできない。しかも、最近の事態を通じて、小国及び少数民族の問題が、歴史の中に埋められた過去の問題でなく、今噴出する現在の問題であることが明らかになりつつあるという点ではさらにそうである。戦後の世界再編成の本質を、小国の目を通して、もう一度評価し直すべき時点に到達しているのである。

 その中で、本研究で取り扱う朝鮮の問題は、重要なその一部分をなしている。朝鮮民族は、朝鮮半島及びアメリカ、日本、中国、旧ソ連などに、広く居住しており、同時に朝鮮半島内でも分断国家という独特な歴史状況に面している点で、朝鮮の問題は特別であるといえる。また、このような状況が一方では戦前の日本帝国主義の植民地支配によって招来され、他方では、戦後強大国の勢力争いから惹起されたという点で重要である。即ち、朝鮮の問題は戦前の帝国主義植民地体制の性格と戦後の世界再編成の本質をはっきりとみせているという点で重要であるといえるのである。本研究では、こうした朝鮮の問題を、まず、大戦直後の朝鮮半島と日本地域を対象にして検討して見たいと思う。

 小国の問題に焦点を当てて戦後の世界秩序をみれば、まず小国と大国という対立軸が世界秩序の本質を明らかにする基本軸として設定される。小国も戦後の世界再編成過程において自ら「新秩序を構想」し、それを実現するために闘争しつづけた。これは大国の「世界秩序」の構築過程とともに戦後世界を形成していく上において重要な構成要素として位置づけられるべきである。しかし、現実的にみれば、小国の「新秩序構想」は大国の権力政治のために疎外されるが、それは戦前の植民地体制とは様相を異にするものではあっても、新しい悲劇の出発を告げることにほかならなかった。このような過程で、小国と大国は必然的に対立・拮抗の関係に置かれたのであり、こうした対立・拮抗関係が如何に展開され、その結果、小国の悲劇の内容がどういうものであったかを探ることは、結局、戦後世界の本質的な一つの側面を見極める作業になると思われる。朝鮮の問題と、それをめぐる世界秩序の本質についても、基本的にはこうした視点から探ってみることができる。

 本論文では、以上のような視点から、朝鮮を分割占領した大国米ソの対朝鮮半島政策及び日本を単独占領したアメリカの対在日朝鮮人政策、そしてその政策に抵抗し、積極的な解放運動を展開した朝鮮民族の運動の性格について分析し、戦後東アジアにおける大国主義の働きと朝鮮民族の対応の性格の一端を明らかにした。

 強大国の朝鮮民族に対する政策は、モスクワ外相会議を始発点としヤルタ会議へ帰着していく大国間の各会議で形成された。

 モスクワ会議と「クレムリン晩餐会」は、ソ連の極東進出の信号弾を発する場であった。ソ連は「自発的」に対日戦への参戦を予告し、アメリカに、ソ連の極東における地位を確保してくれるように暗示的に要求していた。アメリカは、ソ連の意思を受容し、カイロ会議でソ連の対日戦参戦の代償を中国に払わせることを決め、テヘラン会議を通じて東アジアにおける米ソの勢力版図の大綱を決めた。

 このような大国間の勢力圏調整は、ヤルタ会議でより具体的な内容を含む形に発展し、同時にそれに伴う小国の犠牲という、大国と小国との矛盾構造もしだいに表面化していく。それまでの大国間の利害調整を締め括る意味を持っていたヤルタ会議では、(1)大連の自由港化、旅順港の租借と満州鉄道の使用、(2)外モンゴルの現状維持、(3)日本の南サハリン、千島、クリル列島の剥奪、(4)中ソ友好同盟の締結をソ連の対日戦参戦に対する代償として確定することになる。

 こうした状況の中で、アメリカはソ連の勢力圏の拡大を最小化するため、急いで原爆を投下したが、ソ連は日本降伏以前に対日参戦を決行した。このようにして、原爆投下による戦争の短縮、そしてソ連の対日参戦という状況が同時に発生することとなるが、これによってヤルタでは具体化されなかった極東地域における勢力圏角逐は本格化することになる。

 結局、大国による戦後東アジア再編成の構図は、アメリカが日本を単独占領し、朝鮮の38度線以南地域を占領し、満州地域に対する中国の領土権を保障する線で、そしてソ連が中国の大連・旅順港及び外モンゴルでの有利な立地を獲得し、朝鮮の38度線以北地域を占領し、サハリン、クリル列島、千島を獲得する線で決着をみることになった。これは、中国・日本及び小国朝鮮の立場から見ると、大国によって一方的に決定された構図が強要されることであり、こうしたことによって大国と小国との間の対立関係は明白に形成されていく。

 アメリカは、戦闘による自国の犠牲を最小化する状態で勝利を勝ち取り、国共合作によって中国革命を防止し、東アジア地域での「最小費用で最大効果」を図りながら、その代償は中国、日本、モンゴル、朝鮮に払わせた。ソ連もまた、中国領土に対して利権を獲得し、北朝鮮を占領するかわりに、プロレタリア国際主義の盟友中国共産党を、表面的・一時的とはいえ、切り捨て、公式的に蒋介石国民党政府を承認する途を選択した。これにより、米ソの一時的協調体制を基軸に、米ソ及び中国の蒋介石政権、共産党、そして弱小民族のその他の運動勢力との関係は一層複雑な様相を帯びていくようになる。

 東アジアでもっとも遅く線引きが行われた朝鮮半島では、不幸にも38度線を境界に米ソが分割占領する「分断の前奏曲」がはじまった。ソ連との「協調」を通じて朝鮮半島の38度線以南地域を確保したアメリカは、米軍上陸の日から朝鮮人に対して排他的な態度で一貫し、朝鮮総督府の機構と幹部たちを温存・留任させ、解放朝鮮で行われていた自発的な政府樹立運動と背馳した。

 米軍政庁は人民共和国に対して、実体もない詐欺劇であり不法であると非常に強硬で威圧的に脅迫した。米軍政庁のこの方針はそのまま地方米軍政に下達され、地方の米軍政機関は各地域の人民委員会を容赦なく弾圧した。

 この時点でアメリカ本国から「朝鮮民政に関する基本指針」が米軍政庁に伝達されたが、それは朝鮮の独立政府樹立の過程について、(1)米ソ軍による臨時的な民政の実施⇒(2)米英中ソによる信託統治⇒(3)独立政府の樹立という3段階を設定していた。また、解放された朝鮮を対日戦の戦利品として認識しており、このような認識のため朝鮮人の自主的な政治活動に基づく迅速な朝鮮政府樹立という当面の課題を統制・弾圧の対象としたのである。

 アメリカの南朝鮮政策は、占領軍の人共否認、左派弾圧、親米勢力の保護・育成による親米友好政権の樹立、朝鮮総督府及び日本人財産に対する没収、没収した財産の管理、その他の経済統制の強化などを内容とする排他的・強圧的な統制政策の方向を基底にし、こうした性格の軍政実施の結果と英国・中国との協力を土台にアメリカに有利な方向で信託統治を実施することを骨格にしていた。

 米軍政庁は朝鮮人の自主的な政府樹立運動を全般的に弾圧し、そのつぎには左派に対する弾圧を行ったが、それと同時に、親米勢力を育成する政策方向をもっと強力に展開した。

 アメリカの朝鮮政策は、解放された朝鮮民族の統一独立に向かう努力を残酷に踏みにじるものであり、左派を極左に追い込み、右派を親米的な極右に誘導し、朝鮮民族の分裂・分断を強要する大国占領軍の政策にすぎなかったのである。

 一方、ソ連軍は関東軍と戦闘を展開しながら北朝鮮を占領しなければならなかったが、これは北朝鮮民衆に「解放軍」としての面貌を見せるに充分なものであった。ソ連軍はその進駐過程で朝鮮人の自主的な政治行動に「友好的な」態度を取ったが、これはすでに作られていた朝鮮人の自主的な地域権力が、戦前の民族解放運動の延長線上で比較的社会主義・共産主義に共鳴する勢力を中心に構成されていたから可能であった。ソ連は間接統治を実施したが、戦前の労働・農民運動が強かった咸鏡南北道では親ソ的政権機関が創出された反面、民族主義右派が強かった平安南北道及び黄海道では、民族主義右派勢力の影響力を牽制して左派勢力を支援する形で、ソ連軍政が主導的な役割をはたした。

 このようなソ連軍政の政策の本質的な性格は、9月20日付のスターリン指令に表れ、対北朝鮮政策の全体的な構想のなかでも確認できる。指令では「ソビエトの秩序を導入しない」が、「反日的民主主義政党組織の広範なブロックを基礎にしたブルジョア民主主義政権を樹立」し、「反日的な民主主義の組織、政党が形成されることを妨害せず、その活動を援助」するとされている。これは共産党を中心とする北朝鮮だけの「ブルジョア民主主義政権」を樹立するという意味に解釈される。

 この指令は朝共北朝鮮分局を結成することを出発に、しだいに現実化していく。ソ連は北朝鮮で安定的に親ソ政権を樹立する基礎として、まず北朝鮮だけの共産党を組織し、それをもって親ソ的な左派勢力を結集していった。また、北朝鮮5道行政局、北朝鮮臨時人民委員会というコースを踏んで、結局左派が主導する北朝鮮だけの親ソ的政権機関に帰結していった。大国ソ連の対北朝鮮政策は、比較的朝鮮人自らの自主的な政治運動を受容するように見えたが、実際には親ソ的な左派勢力を中心に初期から北朝鮮だけの親ソ政権を樹立することに主眼を置いていた。こうしたソ連の政策基調は、初期には宥和的な局面を演出したが、結局曹晩植らの北朝鮮内部の統一指向的な勢力に対する弾圧、米ソ共委での排他的な対応、金日成を中心とする北朝鮮単独政権の強化を招来する決定的な要因として作用するようになる。

 このような米ソの占領政策は、植民地支配から解放され、新しく自主的な統一政権を樹立しようとした朝鮮民族の意志とは対立・拮抗するしかなかった。解放直後、朝鮮の政府樹立運動は朝鮮国内と重慶、延安、満州、ソ連、日本、アメリカなどの地に分散された民族解放運動の力量を統一し、自主的な政府樹立運動へ発展していくべきであった。しかし、大国米ソは親米・親ソ政権の樹立のため、政治勢力の分散的な存在状況を利用したので、米ソによる親米・親ソ勢力の扶植過程は自主的政府樹立運動を分裂・弱化させる遠心力として作用した。

 建準(朝鮮建国準備委員会)は左派・中間派・専門家集団の連合組織として名称どおりの政府樹立準備機関の性格を帯びていた。建準は自主的な政府樹立運動の基礎を築き上げると同時に、解放直後の混乱を収拾するため、治安維持をはじめ食糧対策の樹立など行政府の基本業務を遂行する活動を展開した。

 建準は米軍の進駐を前にして政権機関を樹立しようとして急いで人共を作り出したが、人共は基本的に朝鮮人の政治力量を総集結するため左右連合を追求し、その活動においても左傾的な要素を抑制し、民主主義的諸課題の実現を追求しようとした。人共は大部分の地方地域単位に人民委員会を置き、各地域で広範且つ体系的な活動を展開することができた。一方、雨後の筍のように乱立していた政党も政治性向によって整理され、南朝鮮の政治勢力は李承晩と韓民党(韓国民主党)、臨時政府、人民党、朝共(朝鮮共産党)系列に分かれ角逐した。

 北朝鮮には国内派共産主義者、ソ連派、満州派、延安の独立同盟勢力、民族主義右派の政治勢力が共存し、表面的には各政治勢力の勢力均衡が維持できた。解放直後には国内派と民族主義右派が政治的影響力を行使していたが、ソ連軍が進駐してから急激にソ軍政と金日成とソ連派が主導権をにぎった。1945年12月には国内派に対する牽制と粛清が行われ、金日成が「民主基地路線」を提唱し、しだいに北朝鮮だけの親ソ政権樹立のために本格的な政治活動を展開しはじめた。

 信託統治案は親米右派と親ソ左派の対立を激化させ、両者を戻ることのできない深い溝に陥れてしまった。南朝鮮政局は託治(信託統治)に対する支持勢力と反対勢力に分かれ、右派は反託というスローガンの下で右派陣営の総結集体を作り、朝共は突然三国外相会議決定を「全面的に支持する」と公表した。北朝鮮では公式的な立場表明のようなものはなかったが、1946年1月2日急に後見制という用語を使って三国外相会議決定を支持すると発表した。人民党は、積極的ではないが信託統治について否定的な意思を表明し、アメリカに信託案を放棄するように要求したが、米ソ共同委員会と朝鮮の民主的諸政党社会団体との協議の下で臨時朝鮮政府を構成するという決定については支持する立場を慎重に表明した。

 このように政治的志向と信託統治問題で各政派が互いに葛藤している状況で、呂運亨と白南雲などの中間左派は左右合作を強力に訴えた。左右合作が大衆的支持を受けながら本格化されるや、李承晩は井邑で単政(単独政府)樹立を発言して政局に衝撃を与えた。また、左右合作の進展過程で左派は合作5原則を、右派は合作8原則を提示して対立したので、左右合作委員会は最善を尽くして合作7原則を作り出したが、それは左右の両派から批判を受けなくてはならなかった。ただ、金九は左右合作に直接は参与していないものの、合作7原則を支持し、左派からは人民党と朝鮮民族解放同盟のみがこれを支持した。

 それで、政局は右派、左右合作派、左派に分派され、三派の争いを繰り広げたが、米ソ共委の失敗と呂運亨暗殺から、左右合作運動は弱化されていった。結局、左右合作運動は失敗したが、それは解放以後絶えず展開され続けた左右合作を通じた統一政府樹立路線を維持・発展させ、また、左派と右派に両極化された政局で中道派を選り分けることによって、両極に走る左右派を真ん中に引っ張る役割をし、以後朝鮮現代史を貫通する統一政府樹立運動の母体になった。

 1947年にはトルーマンドクトリンから米ソ間の冷戦体制がはじまり、1947年9~11月、国連総会に朝鮮問題を上程することになった。国連朝鮮委員団の活動が始まるや、李承晩と韓民党は南朝鮮単政樹立路線の実行を要求したが、単政反対路線は両分され、左派は非合法闘争を敢行し、金九・金奎植を中心にした右派・中間派は南北指導者会談を推進した。

 曹晩植を除去して大国ソ連の遠心力が専横する状況になった北朝鮮は、金日成中心の単一体制を強固にしていたが、金九・金奎植の南北代表者会談提案に対して、自分らがイニシアチブを取ろうとしながら会談を周旋した。しかし、南北協商は失敗し、中道派の左右連合・南北統一路線は挫折してしまった。統一志向勢力が除去された南朝鮮と北朝鮮の政治権力は両極に向かって突っ走りはじめ、朝鮮民族の全般的・総体的な異質化・両極化を招来してしまった。

 一方、日本では、日本に対する単独占領を実現したアメリカが、アメリカ的民主主義の定着、そして戦後資本主義経済体制内への包摂を目標に日本の再建を図り、旧日本政府を同伴者として設定したうえ、諸般の政策を実施していった。

 アメリカの在日朝鮮人政策は基本的にそのような大国の性格によって規定されるものであった。アメリカは、まず、在日朝鮮人に対して、日本を親米的に再建していく上において「厄介者」と認識し、結果的には「使い道のない」「敵国国民」として取り扱うようになる。

 在日朝鮮人を「敵国国民」としてみなしたGHQは、一方では「厄介者」の朝鮮人たちをより早く「追い出す」目的で計画引揚の実施に乗り出した。この政策が具体的な形として現れるのは「朝鮮人・中国人・琉球人及び台湾人の登録に関する総司令部覚書」(1946年2月17日)と「引揚に関する覚書」(1946年3月16日)によってであるが、在日朝鮮人たちが危険を押し切って帰国を急いでいた時にはそれを放置していたGHQが、自主的な帰国が急激に減少した時点になって「追い出し」政策を敢行したわけである。

 「厄介なもの」の「追い出し」には大した成果をあげられなかったものの、この計画引揚政策にはもう一つの隠れた政策目的が存在していた。「引揚のための登録」を通じて在日朝鮮人取締りのための基盤を確保することがそれであったが、「引揚のための登録」には引揚を希望する者だけではなく、朝鮮人のすべてが応じなければならず、また引揚希望の有無以外に個人的身分事項全般を記載するように強要された。

 計画引揚も終了し、在日朝鮮人の帰国がほとんど終わると、GHQ及び日本政府の在日朝鮮人政策の重点はさらに取締体制の強化に置かれていく。その具体的な表現が、「外国人登録令」(1947年5月2日)であったが、この「外国人登録令」は、居住していた朝鮮人などを「当分の間外国人とみなす」と規定して、その対象とし、様々な強制条項を含む悪法の典型であった。外国人登録令の適用対象者は、登録の義務のみならず、登録証の携帯と呈示の義務を負うことになり、登録令違反という名目で取締りを行うよい手段として機能した。

 1947年以後にも日本に居住していた朝鮮人の大部分は長く日本に定着する人々であった。しかし、「追い出し」と「取締り」の姿勢を崩さなかったGHQは、朝鮮人の民族教育を放置しておかず、民族教育の弾圧に乗り出した。その結果、零細な朝鮮学校は正規の教育機関として認められる可能性を剥奪され、また私立学校として認められた一部の朝鮮学校も正課として朝鮮人の自主教育を行うことができなくなる。GHQや日本政府は、初期においては、計画引揚による「厄介者」の「追い出し」政策を、そして「追い出し」に応じなかった定住在日朝鮮人については「取締り」と民族教育の抑圧による「同化政策」を駆使しつつ、在日朝鮮人を戦後日本に対する安定的な統治と再建のための犠牲の羊にしてしまったのである。

 しかし、在日朝鮮人は、以上のような政策に対抗しつつ、自主的な民族の営為を求めて運動を展開しつづけた。終戦になるや、在日朝鮮人はできる限りはやく帰国しようと騒ぎだした。しかし、日本政府は強制連行者の引揚さえも、日本政府の任務として認識せず、日本の治安対策の次元で対処した。このような状況で在日朝鮮人は自ら団体を組織し、帰国者の援護に当たり、その過程で在日朝鮮人社会をほぼ網羅する組織として朝連(在日本朝鮮人連盟)が設立された。朝連は全在日朝鮮人の団体として、進歩的な人物を指導者に組織され、在日朝鮮人全体を包摂できる穏健団体になろうとした。

 当時の在日朝鮮人は新朝鮮建設に一番関心を持っていたが、植民地支配からの「解放」を完成し、抑圧と差別のない祖国を建設する課題に朝鮮民族としての強い一体感を持っていたからであった。朝連は「人民を本位とする朝鮮」の像をもって早くから人共を支持し、南朝鮮に本国派遣団を送って「全国人民代表者会議」にも参加した。朝連の人共支持は民戦(民主主義民族戦線)参加に発展して、信託統治案に対する態度においても人共・民戦路線に同調するようになる。すなわち、朝連は信託統治案に含められていた外勢の干渉可能性については慎重な態度をとりつつも、信託統治案を支持し、臨時政府の樹立のための統一戦線への結集には積極的な立場を堅持していく。また、米ソ共同委員会が失敗に終わった以後も、米ソ共委の続開を要求し、さらに朝連ソウル委員会の活動を強化することによって、朝鮮臨時民主政府の樹立を促成する運動を強化していく。

 在日朝鮮人社会ははじめから朝連に総結集されていたが、本国の信託統治問題のため、右派が浮上し、朝連に対抗していった。朝連と右派組織とはその規模と活動内容が比較できないほど朝連優勢であったとしても、在日朝鮮人社会が両分されていく状況を避けることはできなかった。

 建青(朝鮮建国促進青年同盟)は右派団体として組織され、初期には朝連と敵対的関係ではなかったが、信託統治問題で朝連と正面対立し、右派勢力はその勢力基盤を拡張して建同(新朝鮮建設同盟)の結成をみるにいたった。

 建同は朝連の信託統治支持に反発して朝連から離れた勢力も受け入れて民団を結成したが、朝連に比べて絶対的な劣勢を免れることはできなかった。にもかかわらず、民団(在日本朝鮮居留民団)は、GHQと日本政府の「分裂・対立させて支配する」政策のため、朝連に対立する団体として位置づけられた。

 しかし、朝連は中央総本部の下に全国組織を作り、在日朝鮮人運動全般を統制した。朝連は地域単位別に在日朝鮮人を組織化しつつ、「生活権擁護闘争」を本格的に展開した。生活権擁護闘争は全国規模で行われた徴税反対運動が代表的であるが、在日朝鮮人の経済生活と密接な関わりを持つ業種別組合と生活協同組合の設立運動も広く展開され、県本部の主導下で業種別組合が、また支部を単位として生活協同組合が多く形成された。

 在日朝鮮人たちがGHQと日本政府の露骨な弾圧に立ち向かって生活権保障に力を注いでいるうちに、1947年末、朝鮮半島で分断政権樹立の動きが具体化されるや、在日朝鮮人社会は李承晩支持の民団勢力、統一派支持の朝連・建青の統一派勢力、北朝鮮支持の朝連の祖国派・日共派勢力に3分され、朝鮮半島の分断状況が激化するにつれ、在日朝鮮人社会も歪曲されはじめた。

 朝連の統一派は白武が率いていたが、白武は朝鮮の政治状況と関連して中間派の路線を支持し、左右分裂の溝がしだいに深くなっていった在日朝鮮人社会の中でも左右連合を図ろうとした。すなわち、「民族統一論」を取り上げ、朝鮮の左右統一・南北統一と在日朝鮮人社会の左右統一を主張したのである。しかし、朝連は祖国派が主導権をにぎり、白武は朝連から追放された。それで朝連指導部は朝連組織の中央集権化を通じて組織を掌握し、北朝鮮支持に走っていった。この過程で朝連は多くの人員を失ったが、これは民団の組織拡張の大きい要因になった。

 建青は統一派が主導権をにぎり、単選反対を公式表明しており、民団にも統一派が存在したが、朝鮮における南・北の分断が固定されることによって統一派が去勢され、分断政権支持派が主導権を掌握するようになった。

 結局、朝鮮社会が南・北朝鮮に両分され互いに対立するや、在日朝鮮人社会も南朝鮮の大韓民国を支持する民団と北朝鮮の朝鮮民主主義人民共和国を支持する朝連に両分され互いに対立するようになり、朝鮮半島の分断は在日朝鮮人社会にそのまま投影され、同一地域で生活する在日朝鮮人社会も分断社会となってしまった。

 このように朝鮮民族と大国アメリカ及び日本との闘いが絶えず展開されたにも関わらず、東アジアには、朝鮮半島の分断と日本における差別構造の温存という結果になってしまった。しかし、それは現在においても小国及び朝鮮民族の真の「解放」をめざす闘いとして続けられているといえよう。

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