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博士論文要旨

論文題目:インドネシア残留日本兵の社会史的研究 1942-2014
著者:林 英一 (HAYASHI, Eichi)
博士号取得年月日:2016年4月13日

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 本論文の目的は、インドネシアのナショナル・ヒストリーを形成する上で重要な歴史的出来事を、残留日本兵というマイノリティの存在の視点を通じて捉え直すことで、国軍中心史観を実証研究によって相対化し、従来の先行研究よりも長い時間軸の中で比較検討することにある。
 具体的には、二人の残留日本兵のライフヒストリーを縦軸に、日本占領期(一九四二~一九四五年)、革命期(一九四五~一九四九年)、議会制民主主義期(一九五〇~一九五九年)、一九六五年のクーデター未遂による社会変容、スハルトによる翼賛的な個人支配(一九六六~一九九八年)、民主化と地方分権(一九九九年~現在)の過程を横軸として描くなかで、従来の通説的な時代認識を修正し、インドネシアの多元主義と排他的ナショナリズムの相克を展望した。
 本論文の章立てはつぎの通りである。

序論
研究の概要
 全体像の俯瞰
本論
序章 主人公ふたりの生い立ち
第一章 抗日と残留の背景――日本占領の実態 1942-1945
 はじめに
 開戦
 南方軍政
ジャワ防衛義勇軍
ジャワ防衛義勇軍特設遊撃隊
抗日蜂起
武器をめぐる争い
小括
第二章 革命の中心と周縁――脱植民地化の諸相 1945-1949
はじめに
 東部ジャワの状況
 西部ジャワの状況
北部スマトラの状況
小括
第三章 排除と包摂――ナショナリズムと国籍・市民権 1950-1964
 はじめに
 オランダ系住民
 中国系住民
 残留日本人
(一)強制送還問題
(二)無国籍化
(三)帰化
 小括
第四章 記憶と忘却――大量虐殺1965-2011
 はじめに
 九・三〇事件の概要
 先行研究の整理
 調査村の概要
 虐殺以前の村落社会
 住民虐殺の実態
虐殺以後の村落社会の変容
  (一)被害者家族
  (二)加害者家族
  (三)権力関係の形成
  (四)忘却の政治
  (五)村の経済状況
  (六)権力関係の変化
 小括
第五章 組織化――インドネシア日系社会の形成 1979-2014
 はじめに
 有力者の台頭
組織化
名誉回復
二世・三世の就労問題
「記憶の共同体」の架け橋
帰還移民
排除された日系人
国家英雄
小括
結論 
研究の展望にかえて
主要参考文献
図版一覧

本論文の各章毎の要約はつぎの通りである。
 まず序論では、国軍中心史観を定義し、研究対象である残留日本兵について説明した。ついで研究手法、先行研究、社会的研究意義に言及した後、アジア各地に離散した残留日本兵の全体像を俯瞰した。残留日本兵が多く発生したのは、インドネシア、ベトナム、中国の三カ国で、いずれも脱植民地化の過程で激しい戦いが繰り広げられた地域である。これら三カ国については、比較的資料が残されており研究者らによって個々のライフヒストリーにまで踏み込んだ研究がなされている。そのなかでもインドネシアは、ベトナム、中国と異なり、三二四人という多数の残留日本兵が現地に定着し、アジアで唯一の残留日本兵による互助組織を結成し、末裔たちが日系人労働者として日本社会に還流していることから、日本とアジアの七〇年余の戦後を振り返る上で、格好の事例であると指摘した。
 序章「主人公ふたりの生い立ち」では、本論文の主人公である二人の残留日本兵が日本軍入りするまでの軌跡を紹介することで、次章以降で二人のライフヒストリーを再構成するにあたり、彼らが日本社会のなかでどのような位置を占めていたかによって生じるバイアスを修正した。それによれば、小野と藤山は、出身地は異なるものの、三男坊という出自、高等小学校を出て青年学校に学んだという学歴、二〇歳前後で志願して日本軍に入ったという経歴はかなり似通っていた。しかし日本軍入りした動機や体験をつぶさにみてみると、小野が軍隊を相対的に肯定的かつ積極的に捉えて、下士官になることを目標に励んでいたのに対し、藤山はどちらかというと消極的な理由で日本軍に入り、厳しい私的制裁の対象となり、辛酸を舐め、軍隊を否定的に捉えていた。
 第一章「抗日と残留の背景――日本占領の実態 1942-1945」では、三年半にわたる日本占領期を扱った。同時期については一九五〇年代以降、主に東南アジア研究の領域で世界的に研究が蓄積されてきた。その初期には日本軍政の評価をめぐり、軍政が東南アジア史の構造とその政治の質を根本的に変化させたとする「変化説」と、変化は軍政以前からすでにはじまっていたものとして変化説を否定する「連続説」との間で政治史的な論争が繰り広げられ、その後一九八〇年代以降、社会経済史的な観点からの地方史的実証研究へと関心が移っている。また近年では、帝国研究の一環として従来の研究を再検証したり、民族主義者たちの対日協力問題を、対日協力と抵抗の「はざま」で独立への最短距離を目指した自律的な動きと解釈したりするような試みがなされている。こうした研究動向を踏まえた上で、日本軍が補助部隊として東南アジア各地で組織した義勇軍について取り上げることで、日本占領の実態を明らかにした。従来の研究では、ジャワにおける義勇軍の一大団の反乱やビルマ国軍が加わった抗日地下組織の抗日蜂起が日本の支配に対する義挙として、またインパール作戦をともにしたインド国民軍の行動が日本軍と「共戦共死」を選んだものとして理解され、日本軍政の意義を強調する立場からは反乱は過小評価、インド国民軍の行動は過大評価され、逆に国軍中心の歴史観からは反乱は過大評価されてきた。本章では義勇軍教育に貢献した柳川宗成の個人史と絡めながら義勇軍の編制過程を概観するなかで、義勇軍の反乱、抗日が東南アジアで非公式帝国・日本が崩壊した一要因になっていたことを明らかにする一方で、共産党や一般民衆などの義勇軍以外の勢力の存在を指摘し、国軍中心史観を修正した。その上で、東南アジア諸国のなかで相対的に対日協力の度合いが強かったインドネシアに軍政初期の一九四二年にきて、住民から歓迎を受けた小野と、戦局が悪化し、義勇軍が編成された後の一九四四年にきた藤山との体験の相違を指摘し、両者が帝国崩壊をどのように迎え、いかなる状況下で残留という選択を行っていたのかを考察した。そのことを通じて、元義勇兵らが革命の主体として自律的な動きをとるなか、日本軍が保有する武器をめぐる争いが他地域に比べて大規模に発展しなかった西部ジャワは、日本兵たちが残留しやすい環境にあったことを示し、残留という選択に際し個々人の意思よりも、なぜ残留できたのかという外在的な状況を明らかにすることの重要性を強調した。
 第二章「革命の中心と周縁――脱植民地化の諸相 1945-1949」では、四年半の革命期を扱った。同時期は、オランダ軍と戦火を交えたことから、国軍の活躍がとかく強調されやすい。なかでも、一九四八年にオランダ軍によってスカルノ、ハッタ正副大統領が逮捕・連行されたとき、スカルノの投降命令に背いて、ゲリラ戦の陣頭指揮をとった二九歳の国軍司令官スディルマンの行動は、今日国軍によってなかば神話化して語られている。国軍は、スディルマンの行為を、文民指導者の命令が国家の主権や統一を危うくするような場合、それを無視してでも国家のために尽くすとの思想を体現したものと理解し、独立戦争の勝利は降伏を拒否した人民の軍隊の存在によるものであると捉えている。このような考え方は、戦後、アブドゥル・ハリス・ナスティオンによって、理論化された。ナスティオンは、一九五八年に陸軍セミナーで国軍の「中道」路線を提唱し、国軍は国防だけでなく、国内の治安維持の機能も備え、国家の守護者として振る舞うべきであるとの「二重機能」論を確立した。これによって、現在三六万にのぼるインドネシアの陸海空軍の正統性が思想的に裏付けられてきた。しかしながら本章で指摘したように、革命の中心であったジャワでは、たしかにその後半に激しいゲリラ戦が繰り広げられたものの、インドネシア政府の外交交渉と、それに影響を与えた冷戦、とくにアメリカの関与が、脱植民地化を達成する上で極めて重要であった。近年では日本・インドネシア双方で、この独立戦争への残留日本兵の貢献を強調し、彼らをなかば英雄として捉える言説も少なくない。しかし本章で詳らかにしたように、残留日本兵の多くは外交交渉や内戦的状況の煽りを受けて右往左往していていた「ゲリラ」、流狼の「ディアスポラ」というのが実態に近く、小野のように日本人部隊に参加し、東部ジャワの山中で最後までゲリラ戦を繰り広げたのは例外である。多くの残留日本兵は、藤山のように行き当たりばったりで、結婚したり戦線から離脱したりしていたものと考えられる。地域別でみると、ジャワで残留した者よりもスマトラで残留した者の方が多いが、生存率でみると、ジャワの方がスマトラの二倍近くにのぼることが示唆するように、下からの社会革命が発生した北部スマトラでは、様々な民族や武装集団が縄張り争いを演じて、より複雑な脱植民地化が進行していた。本章では、インドネシア残留日本兵のなかでは最高位にあたる陸軍大尉で残留した井上哲郎の知られざる体験を、彼が現地語で綴った手記(未公開史料)を精査することではじめて明らかにした。それによれば、井上は混沌とした状況下にありながら、インドネシア政府の外交力が事態を解決すると見抜いていた。そのことから、オランダ対インドネシアという単純な一元的な構図では捉えられない独立戦争の実態を描いた。
 第三章「排除と包摂――ナショナリズムと国籍・市民権 1950-1964」では、「一九五〇年代(本論文では一九六五年の政変以前までと広義に捉えた)」を扱った。同時期は、かつて「失われた一〇年」と呼ばれるほどインドネシア史研究者の間で軽視されてきた。しかし近年では、現在の民主化の行方を占う上で、西欧流の議会制民主主義が試みられながらも、様々な価値観がせめぎあっていた一九五〇年代の重要性が指摘されるようになっている。本章は主に、筆者がインドネシアで収集した現地語新聞や文献を手がかりに記述した。その結果、明らかとなったのは、この時期のインドネシア政府が、脱植民地化を志向する排他的なナショナリズムを背景に、プリブミを優先して異質な他者をなるべく排除しようとしていたということである。なかでも政府が重視していたのは、オランダ系住民と中国系住民である。独立戦争後二〇数万が残って経済活動に従事していたオランダ人、戦前からの欧亜混血者や戦時に日本人との間で生まれた日系オランダ人は、経済ナショナリズム政策をとるインドネシア政府が一九五七年にオランダ企業を国有化し、オランダ人追放デモが発生すると、つぎつぎとオランダへ引揚げていった。一方、一九三〇年の時点で人口の二%近くを占めていた中国系住民は、生地上はインドネシア国籍、血統上は中国国籍であったことから、中国政府とインドネシア政府の間で二重国籍問題が懸案事項となった。経済ナショナリズム政策を打ち出したインドネシア政府は、中国政府との間で一九六〇年に二重国籍条約を批准した。その結果、インドネシア国籍を取得する者がいる一方で、中国籍の保持を望む者や生活基盤を奪われた者が中国に渡った。これに対して残留日本人はどうだったのであろうか。実はインドネシア政府は一九五三年に残留日本人全員の退去要求を閣議決定し、日本総領事館に申し入れており、実際に強制送還された者もいたが、大多数はそれを免れた。しかし法的手続きを経ないで留まることになった彼らは、居住権を得ている欧亜混血者、華人、インド系、アラブ系よりも立場の弱い、違法滞在者同然で、無国籍化していた。その多くは現地人女性とすでに結婚したり、改宗したりして地域社会に受け入れられていたが、移動の自由は制限され、経済的にも恵まれず、下層社会を生きることになった。都市下層での生活の実態について、本章では藤山秀雄の生活史を取り上げた。日本政府とインドネシア政府の賠償交渉、一九五八年の国交回復と、それにともなう日系企業の進出により、次第に経済的に自立していった残留日本人たちは、一九五七年に陸軍参謀次長ガトット・スブロト准将が署名した暫定身分証明書を得て准インドネシア人となるも、それは法務省の動きを憂慮したガトットによる応急処置に過ぎなかった。ガトットはインドネシア国籍法に特例を設け、インドネシア共和国軍籍にあった外国人がインドネシア国籍を取得するための資格と条件を定めた。これによって、一九六一年以降、国防大臣代理のR・ヒダヤット将軍署名によるインドネシア国籍決定書が数次にわたり発給されたが、実際に国籍を認められた者はごく一部に限られた。国籍を却下された者の多くはすぐに再申請し、一九六三年一二月一八日付で、インドネシア共和国大統領スカルノの署名と大統領マークの印された「国籍に関するインドネシア共和国大統領決定」が、再申請した全員に出された。その結果、残留日本人の国籍取得は、国防大臣署名の証明書と大統領署名の証明書の二種類にわかれ、取得の年月日には複数のバリエーションが生まれた。とくに前者は入籍日を当人がインドネシア軍に入隊した日に遡及するのに対し、後者は宣誓の日としているという違いがあった。独立戦争が終わってから残留日本人たちが国籍を取得するまでには実に一四年もの月日が流れていたことになる。オランダ人や中国系住民に比べると、数の上では圧倒的に少数であった残留日本人が排除されず、インドネシア社会に包摂されていったのには、彼らが革命の主体となった青年層と同世代で、退役・在郷軍人であったことが関係していると考えられることから、国軍の内部対立を反映し、在郷軍人組織が整備されていったことが、残留日本人の国籍・市民権問題に影響を与えていた可能性を指摘した。
 第四章「記憶と忘却――大量虐殺1965-2011」では、一九六五年一〇月一日未明にジャカルタで発生した九・三〇事件を契機に各地で繰り広げられた大量殺戮をめぐる記憶と忘却の問題を取り上げた。九・三〇事件については事件直後から今日に至るまで膨大な研究が蓄積され、諸説あるものの、インドネシア政府は一貫して共産党陰謀説を「公式見解」としてとっており、学校の歴史教育やメディアを通じて、再生産されている。その結果、真相解明と和解は一時的なものにとどまり、むしろそれに逆行する揺り戻しの動きすらある。こうしたなかで、一九九〇年代以降、地方における大量殺戮の実態についても徐々に解明されつつあるが、依然として個別実証的な段階にあり、全体像ははっきりしない。東部ジャワの一村落を対象とする本章も、そのような制約を受けているが、従来の研究では検討されてこなかった、虐殺以後の被害者家族と加害者家族のミクロな人間関係に焦点をあてるとともに、そこに残留日本兵という他者がどのようにかかわっていたのかをはじめて明らかにしたという意味で、従来の研究に新たな材料と視点を提供するものである。具体的には、九・三〇事件後、小野が村でいかなる体験をし、そのことが彼と隣人の「その後」の生活をいかに規定し続けているのかを考察した。小野の暮らすブンガ村(仮名)は、虐殺以前のオランダ植民地期は開発から取り残された地域であったが、そのような共同体のなかでもナサコム期には、村政をめぐり、インドネシア国民党、ナフダトゥル・ウラマ党の支持者からなる保守勢力と、インドネシア共産党の支持者が主導する新興勢力が激しく対立し、住民虐殺が発生していた。村人たちの語るところによれば、村では一九六五年一〇月中旬から一一月中旬の間に虐殺が集中し、被害の規模は少なくとも一〇人、周辺地域とあわせても数十人の範囲内に留まっていた。しかし規模は小さかったとはいえ、虐殺の構図は他地域と同様であった。すなわち、サルウォ・エディ・ウィボオ中将率いる陸軍空挺連隊の一個分隊の兵士が村に来たことを契機に虐殺がはじまり、軍や警察と「連携」して被害者よりも一回り若い、同じ村のイスラム青年たち一三人が武器を手に取り殺害に手を染めた。彼らは二人を除きナフダトゥル・ウラマの青年団であるアンソルの奉仕隊バンセルのメンバーで、日頃から軍や警察とは連絡があった。その上で、虐殺以後の村落社会における権力関係の形成と変化を描いた。虐殺後の村長選挙で村政が一新されたブンガ村では、虐殺の被害者家族を最下層、村役人たちを最上層とする新たな人間関係の序列にもとづく権力関係が生まれた。そしてそれは一見すると一九七〇年代を通じて国家権力が主導した「九・三〇事件は共産党による陰謀」とする忘却の政治と村の好調な経済状況を要因として維持ないし強化されていったかのようにみえた。しかしその内実を詳細に検討してみると、一九八〇年代を境に被害者家族のなかには、一九七〇年代には参加することを事実上許されていなかった共同礼拝や農民グループに参加する者が現れるようになった。その間も被害者家族に対する権力あるいは最上層グループによる差別は継続したが、それ以外の層からの差別や偏見は緩和されるようになり、実際、この頃から村人の多くが被害者家族と近所付き合いをすることを怖がらないようになっていた。その結果、時が経つにつれて被害者家族、加害者家族、傍観者のあいだの関係性に変化が生じ、村人たちは権力との縦の関係においては従来の人間関係の序列を維持しつつ、社会との横の関係においては、新たな権力関係を模索するという「二重の生活」を送っていた。このことから、政治経済あるいは国際関係上はともかく、少なくとも社会関係の次元においては、九・三〇事件はインドネシアの社会構造に大転換をもたらしたというよりも、従来の国軍中心史観を強化するという結果をもたらしたと解釈することができる。一方、小野は虐殺当時、果敢にも被害者の救出を試み、退役軍人としての知己をいかして東部ジャワ軍司令官のスミトロに直談判していた。その後、ジャカルタに出て、日本商社に勤め、村での生活の基盤を築き、歴代村長と縁戚関係を持った。このことから小野は、手放しで村社会に同化し続けた単なるよそ者ではなく、したたかに村の政治に関与する実力者で、インドネシアの軍国主義に順応していたと解釈した。
 第五章「組織化――インドネシア日系社会の形成 1979-2014」では、スハルト体制期から民主化にいたる現在までを扱った。同時期は、国軍がスハルト肝いりのゴルカルとの競争を演じ、アジア通貨危機に端を発する低迷と政変を経て、インドネシアが大国として再浮上する過程として捉えることができる。日本では近年、スハルト体制の崩壊後の政治改革によって、民主主義が定着したインドネシアが、人口ボーナス(生産年齢人口が増加した状態)を活かして六%以上の経済成長を維持することで、経済大国になるとの楽観論が広まっている。しかし民主化が進めば進むほど、むしろアチェなどの地方で国軍の地域住民に対する暴力、政府や警察などとの利権をめぐる対立、アウトローやインフォーマルの権力が強化されるという「民主化のパラドックス」の問題が顕在化している。そしてこうした民主化の果実を蝕む事態を招く元凶となっているのが、陸海空軍総兵力三六万(うち二三万が陸軍)にのぼる国軍であるというのが筆者の見立てである。本章では、この時期に形成されたインドネシア日系人社会の実態を分析することで、国立英雄墓地や国家英雄制度に象徴される、建国の神話を解体し、その揺らぎやほころびを描き出すことを試みた。具体的には、一九六〇年代半ばに市民権を獲得した残留日本人たちのなかから有力者が登場して、組織化が模索されていたことを明らかにした。スマトラからジャワに移住し、経済的成功を収めた石井正治、乙戸昇は、一九七九年に藤山の第一声を契機に発足した福祉友の会の運営において、日本の戦友会や友好団体と連携しながらリーダーシップを発揮し、インドネシア日系人社会の形成に大きく貢献した。しかしその一方で、スマトラのアチェに留まった白川正雄が、折に触れて会の動きを牽制し、抑制していたが、そこには単なる個人的体験や思想の相違を超えて、ジャカルタとアチェの中心―周縁の関係が反映されていたことが推察される。その上で、一九九〇年代に入り、日本政府によって残留元日本兵の名誉回復が急速に進むなか、次第に「英雄」として顕彰、物語化されるのと軌を一にして、日系二世・三世が「帰還移民」として日本に出稼ぎに来るようになったことを、藤山と小野の家族を事例に検討した。それによれば、当初福祉友の会は末裔の日本への送り出しを後押ししていたが、日系人を偽って渡日する者が現れる問題が発生した一九九四年以降は、日系二世・三世の日本行に不介入の方針をとるようになった。それでもその後に日本に出稼ぎに渡った末裔たちが、日本とインドネシアの境界線上で揺れ動いてきた実態を明らかにした。その一方で、福祉友の会が日系人社会を形成した結果、そこから排除されてしまった日系人もいる。彼ら北スラウェシ・マナドの日系人の出自と歴史を詳らかにすることで、福祉友の会の軌跡のなかにも、革命・独立戦争体験やジャワ中心主義、軍国主義を重視する国軍中心史観が内包されているのではないかと指摘した。そして最後に三世や四世を含めれば数万人単位に膨らむ日系人たちが、「日系族」を名乗り、父祖にあたる残留日本兵を国家英雄として認証しようとの動きが起こる可能性に触れた。
 以上、本論文は、日本占領期から現在までにかけて残留日本兵が果たした歴史的役割を通時的に網羅した。そのことには、インドネシアにおける国軍中心史観、それと日本の一国史観の相補的な共犯関係によって生み出された「友好史観」を相対化し、非日常と日常を絡ませながら、インドネシアの多元主義と排外主義の相克を描き出すという意義があったと考えられる。

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