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博士論文要旨

論文題目:フランス革命とパリの民衆――「世論」から「革命政府」を問い直す
著者:松浦 義弘 (MATSUURA, Yoshihiro)
博士号取得年月日:2017年5月17日

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 本論文の課題は、革命政府と民衆運動との関係に関するアルベール・ソブールの博士論文『共和暦2年のパリのサン=キュロット』で表明された見解を再検討することにある。その課題を究明するため、本論文は、序章、本論第I〜IV部、および終章から構成されている。
 序章「研究史の現状と問題の所在」では、最近までの研究状況を整理した上で本論文の課題を提示し、その課題の解決のために利用した史料に関する説明をおこなった。
 ソブールによれば、革命政府と民衆運動の関係の変化という点で決定的であったのは、「ジェルミナルのドラマ」であった。公安委員会と保安委員会を中心とする「革命政府」は、まず、1794年3月13〜14日の夜にサン=キュロットの支持を得ていたエベール派を逮捕し、3月24日(共和暦2年ジェルミナル4日)に処刑した。ついで、革命政府は民衆組織の抑圧もおこない、3月27日(ジェルミナル7日)にはパリの「革命軍」を、4月1日(ジェルミナル12日)には「買占め対策委員」を廃止したのに続いて、4月から5月(共和暦2年ジェルミナル〜プレリアル)にかけて、セクションの「人民協会」をすべて閉鎖ないし活動停止に追い込んだ。これら一連の出来事が「ジェルミナルのドラマ」である。
 ソブールによれば、「ジェルミナルのドラマ」は、革命政府からサン=キュロットを離反させることになったのであり、革命政府の存立の条件であった両者の「同盟」の解体が、のちの「テルミドール9日のクーデタ」をもたらすことになったのである。本論文の課題は、革命政府と民衆運動との関係の変化という点でソブールが重視する二つの事件、つまり「ジェルミナルのドラマ」と「テルミドール九日のクーデタ」に考察の対象を限定し、これらの事件に関するソブールの見解を、パリの「世論」(当時の出来事に関するパリの民衆の意見=言説)という観点から再検討することである。
 第I部 「食糧と政治」では、「ジェルミナルのドラマ」と「テルミドール九日のクーデタ」という二つの事件に共通する土壌とも言える問題、つまり食糧危機と食糧騒擾の問題が考察されている。本論文では、フランス革命は、それら二つの事件も含めて、17世紀末から19世紀なかばにいたる「食糧騒擾の時代」におこった事件であり、この「食糧騒擾の時代」には食糧問題が繰り返し問題となり、その時代に固有な制度と振舞いと感性が存在したことを論じた。とくに18世紀初頭には「飢饉」が消滅したにもかかわらず食糧騒擾が増加した要因を考察し、その要因として、①パリを中心とする「国民的市場」の形成にともなってローカルな市場からの穀物の搬出を阻止しようとする騒擾が増加したこと、②穀物の不足と高騰が「人工の飢饉」の結果とみなされたため、不当に高騰した穀物を「正当な価格」で分配・購入する「民衆による価格設定」という食糧騒擾があらたに発生したこと、などを仮説的に指摘した。
 また、アンシャン・レジームの食糧騒擾とフランス革命期の食糧騒擾を連続と断絶という観点から比較検討し、革命期の食糧騒擾には、新しい要素がみられると同時に、アンシャン・レジームのそれとの連続面も大きかったことを検証した。一方では、革命期の食糧騒擾では、その担い手が革命の理念や法によってみずからの振舞いや要求を正当化することがみられたり、穀物やパン以外の生活必需品の価格高騰が食糧騒擾の原因となったりするといった新たな側面がみられた。しかしながら他方で、革命期の食糧騒擾でも、「人工の飢饉」や「飢饉の陰謀」という観念が政治エリートと民衆の双方に共有されていただけではなく、食糧騒擾をめぐる中央の議会や地方当局の対応も、けっして首尾一貫したものではなかった。そして「食糧騒擾の時代」には、「自由主義」も無制限の「自由」を意味したのではなく「規制」に開かれていたこと、この「自由主義」は、「生存権」が個人の「所有権」の行使に優先されるべきだという考え方を伴っていたこと、さらに総最高価格法もこの「自由主義」の文脈で理解されうるものであることを指摘した。
 第II部「革命政府と民衆的制度の形成」では、本書の課題を究明するために必要な前提条件があつかわれている。まず、革命政府の主要機関である公安委員会と保安委員会の形成過程を内外の危機との関連に留意しながらたどり、両委員会の組織や構成メンバーの変遷、メンバーの職業・年齢構成などを概観した。ついで、食糧危機や食糧騒擾と密接に関連して誕生した「買占め対策委員」や「革命軍」、さらには「人民協会」のような民衆的制度が形成された経緯をたどった。そのうえで、革命政府と民衆的制度の形成をふまえて制定された共和暦2年フリメール14日(1794年12月4日)の法令の内容とその意味を考察した。そしてこの法令では、権力機関の上下関係に関する「権力地図」が明確に描きだされ、パリ・コミューン総評議会など、国民公会によって制定された法令の執行と適用を監視すべき任務を負う「中間的な権力機関」よりも、国民公会とその内部の公安・保安委員会のほうが上位の権力機関であることが法的に明確に定められたことを示した。
 以上の前提作業をふまえて、第III部「『ジェルミナルのドラマ』と『世論』」では、ピエール・カロン編『恐怖政治期のパリ  内務大臣密偵報告』やエベール派に関する裁判史料などに依拠して「ジェルミナルのドラマ」を再検討した。すでに記したように、ソブールは、革命政府がジェルミナルにサン=キュロットの支持を得ていたエベール派を粛清し、民衆組織を抑圧したことが、革命政府からサン=キュロットを離反させ、テルミドール9日のクーデタを招くことになったと解釈した。現在も定説の位置を占めているこのソブールの解釈を、パリの世論の変化という観点から再検討したのが第III部であり、その結果として本論文では、ソブールの解釈とはまったくことなる解釈が提示されるかたちとなった。
 そもそも、エベール派は、逮捕される以前に世論においてなかば信望を失っていた。エベール派のこの地盤沈下は、まず94年1月4日発行の新聞『ヴィユー・コルドリエ』第5号に、エベールが陸軍大臣ブショトから不当に金をもらったという記事が載ったことよって生じた。この記事はただちに、エベールが金持ちのふるまいをするという言説、さらにはエベール派が「陰謀」によって成り上がったという言説を生みだし、マリ=アントワネットを奪取する「陰謀」や「飢饉の陰謀」などの「陰謀」とエベール派を結びつけた。そしてエベール派の地盤沈下にとって決定的だったのは、エベール派がいったん「蜂起」を訴えながら、それを否定したことだった。この態度の豹変が、コルドリエ・クラブに近い人びとにも、エベール派は信頼できないという考えを植えつけたからである。
 しかし、エベール派が逮捕された当日、パリの世論はなお分裂しており、エベール派を支持する人びとも少なくなかった。ところが、エベール派の逮捕を契機に世論は急変し、エベール派に対する「激しい憎しみは普遍的」なものとなる。それまでエベール派を支持していた人びとが、彼らの逮捕によって裏切られたと感じ、エベール派に対する激しい憎しみを表明するにいたったからである。
 他方、革命政府がエベール派の粛清後におこなった民衆的制度の廃止も、革命政府からサン=キュロットを離反させることにはならなかった。パリの革命軍の兵士たちには国民公会へのある種の信仰が存在し、彼らは革命軍の解散を抵抗なく受けいれた。買い占め対策委員も、その不正や横暴が激しい批判の的となり、その廃止がパリ・コニューンや民衆によって要求された。そして人民協会の廃止も、革命政府の中心である国民公会と公安・保安委員会に結集することが必要であると考えた活動家自身の精神状態に照応していた。パリの一般民衆も民衆的制度の廃止を一様に歓迎した。
 以上のように、「ジェルミナルのドラマ」は、革命政府からのサン=キュロットの離反を招かなかった。逆に、サン=キュロットは、信頼していたエベール派によって裏切られたと感じ、国民公会や公安・保安委員会への信頼を強めたのである。それはまた、前述の「権力地図」が民衆の間に浸透しつつあることを示すものであった。
 第IV部「テルミドール9日のクーデタと48セクション」では、テルミドール9日のクーデタが史料の網羅的な分析によって再検討されている。具体的には、パリの48セクション全体で144の文民組織(総会、民事委員会、革命委員会)と96の軍人組織(国民衛兵、砲兵)が、テルミドール9日にどのような契機で国民公会支持に転じ、それをどのような言説で正当化したのか、という点に焦点を当てて、その行動が検討されている。その結果を簡単に示せば、以下のとおりである。
 まず、48セクションの文民組織に関しては、24セクション72組織がテルミドール9日にコミューンの誓約要請に応じて市庁舎に委員を派遣せず、したがってコミューンでの誓約・署名もしなかった。それに対して、残りの24セクション72組織のうち44組織は広義の情報収集などのためにコミューンに委員を派遣し、そのうち35組織が誓約ないしは誓約・署名をおこなった。しかし、これら44組織は、国民公会側の指令がとどき、コミューンに派遣した委員によって国民公会に対するコミューンの「反乱」が確認された時点で、史料的に不明な7組織とオプセルヴァトワール・セクションの革命委員会を除いて、すべて国民公会支持を鮮明にした。
他方、48セクションの軍人組織に関しては、24セクションの軍人組織がコミューンの派遣指令に応じなかったか、応じた形跡がないのに対して、残りの24セクションでは、30組織(国民衛兵13、砲兵17)がコミューンの派遣指令に応じてグレーヴ広場に出動した。しかし、そのうち27組織は、「コミューンの反乱」を知らずにコミューンの派遣要請に応じた軍人組織だった。実際、30の軍人組織のうち23組織は、コミューンでのさまざまな経験などを通してコミューン認識を変え、国民公会支持に転じたのである。
 以上の検証結果から明らかとなったのは、テルミドール9日においては、フリメール14日の法令によって定められた「権力地図」が48セクションの組織と個人によって受容されていたということであり、「人民」の主権の行使としての蜂起は、すでになかば正当性を失っていたということであった。その結果としてセクション組織は、ごく少数の例外を除いて、コミューン総評議会の蜂起への訴えに応じることなく、国民公会に従うことを選択したのである。したがって、これまで主張されてきたように、コミューンの派遣指令に応じてグレーヴ広場に出動した国民衛兵や砲兵は、かならずしもコミューン派を意味するわけではなかった。さらに、テルミドール9日の午後7時ごろから午後10時ごろまでは、蜂起コミューン側が軍事的に圧倒的に優勢であったため、蜂起が失敗した根本的な原因は、蜂起を先導しなかったロベスピエールらコミューン側の指導者にあったとする従来の見解も、妥当性を欠いているということになる。
 終章「フランス革命におけるデモクラシーのゆくえ」では、以上の検証結果の意味をフランス革命のプロセス全体のなかで考察した。フランス革命においては当初から、主権者としての「国民」ないしは「人民」の意志を誰が表現するのかという問題が存在し、その問題が代議制民主政と直接民主政、あるいは「法」と「蜂起」とのあいだの緊張関係として先鋭に表現された。テルミドール9日のクーデタは、この緊張関係に決着をつけた事件であった。というのも、このクーデタでは、国民公会が定めた法やそれに由来する指令が、セクションの組織がみずからの行動を正当化する根拠となっていたからであった。

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