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博士論文要旨

論文題目:戦後世界秩序のなかの「国際人権」、1945~1953 年―「フォーラム」としての国連、「抗議のコトバ」としての人権―
著者:小阪 裕城 (KOSAKA, Yuki)
博士号取得年月日:2017年6月30日

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〈構成〉
序章 世界秩序の歴史を「国際人権」から見るということ
第一章 国際連盟と戦後世界秩序のダイナミズム
第二章 国際連合の設立と「人権」
第三章 「ユダヤ人問題」の解を求めて-アメリカ・ユダヤ人委員会、国際人権とイスラエルの建国
第四章 黒人運動の「外交」-全米向上協会、国際連合と冷戦
第五章 「人権外交」のジレンマ―国際人権規約起草をめぐる国際/国内政治とアメリカ国務省1949-1953―
終章 戦後世界政治のなかの「人権」と国際機構
資料
参考文献


1.問題設定

本博士論文は、第二次世界大戦後の世界秩序の形成期を、「人権」に焦点を当てることで再検討するものである。
今日の国連は、数多のNGOが参入し、諸国家と共鳴しあい、利害を調整しながら人権や人道、発展や正義を追求する場となっており、女性や先住民族といった各種の「マイノリティ」が、国際人権法を駆使することで自らの直面する不公正を国際社会に向けて提訴する結節点として機能している。すなわち、国連憲章(1945)、世界人権宣言(1948)から国連先住民族の権利宣言(2007)に至るまで、「人権」をめぐる戦後の国際政治史は、国家間の権力政治の一方で、様々な社会運動が「国際人権」に依拠し、既存の主権国家に挑戦し、自らの安全や社会的地位向上のために闘ってきたもう一つの歴史によって彩られてきた。主権国家間の外交と各種NGOの抗議運動の相互作用を検討することは、世界秩序の過去と現在を考える上で重要な課題である。本論文はそのような「現在」をめぐる問題意識を戦後世界秩序の出発点に投影し、国連と「人権」をめぐる歴史像の更新を試みるものである。国家間の「ヨコ」の対立として描かれてきた戦後国際政治の歴史を、国家と社会の関係という「タテ」の対立をも交えた形で再考し、世界大戦から冷戦へと向かう世界秩序の変容過程を分析するとともに、国際関係史、アメリカ外交史、アメリカ黒人史など複数の分野の歴史研究を接続させながら国際人権レジームの出発点を取り巻く文脈を描くことで、黎明期の国連や国際人権の歴史的意義とその限界について考察する。
世界秩序の歴史において国連の持つ歴史的意義は何か。最上敏樹はその著『国連とアメリカ』において、1960年代以降にアジア・アフリカの新興独立国が増加し、国連総会が人権や反植民地主義、反人種差別といった国際規範の基準設定能力を身につけていったことで、国連が米国にとって徐々に「居心地の悪い場所」になっていく過程を描いた。国連の中枢である安保理において米国は拒否権を有している。ところが、第三世界が台頭し、数の上でマジョリティを構成する一方で、NGO等のトランスナショナルな市民社会が発言力を高めていく時代にあって、拒否権制度のない国連総会やユネスコのような各種専門機関が、米国のヘゲモニーが貫徹し得ない場所として存在感を増してくるのである。
最上の見方に学びつつ本稿が考えたいのは、国際機構における米国のヘゲモニーと国際規範・世論の関係をめぐる問題意識を第二次世界大戦直後の国連に投げかけた時、どのような歴史像が浮かび上がってくるかということである。新興国が大量に加盟する1960年代を待つまでもなく、国連は実はすでにその黎明期より大国の意のままにならない場所になろうとしていたのではないか。本稿は第二次世界大戦直後の時期に焦点を当て、国際と国内、外交と社会の境界が揺らぎ、再編される世界秩序のなかで、中小国や各種市民団体がどのように自律性を発揮し、覇権国である米国はどのような問題に直面したのかを浮き彫りにする。その作業を通じ、国家に限らない「多主体」間の政治の場としての国連の来し方行く末を考察し、今日の世界のあり方への理解を深めることを目的としている。


2.先行研究
 序章第二節では、本論文が接続する諸分野における先行研究の動向を確認し、本論文の課題を提示した。①「新しい冷戦史」研究、②「人権の歴史」研究、③日本における国際関係史研究の伝統的視座、④その他の国際史研究、の動向を踏まえた上で、本論文は国際関係史研究の方法としての「人権」の意義を提起する。「人権」に焦点を当てることで、本論文はアプローチの多様化する冷戦史研究において、外交史と社会史を総合する一つの視座を提示する。それは国家に限らない多様な主体が織り成す世界秩序のダイナミズムを捉えるものであり、「人権」の歴史を単線的な発展史としてではなく、権力と運動の対抗のなかで「人権」の意義と限界の双方を視野に入れた批判的歴史叙述を可能にする。それはまた、世界秩序を動態的に理解するためには外交史だけでは不十分であることを主張すると同時に、単に社会史を国際的文脈のなかに位置づけるだけでなく、外交史との間で接続していくことの重要性と意義を強調するものでもある。そこから浮き彫りになるのは、権力政治が要請する理念と、それを受容する社会における政治的主体化の力学との間の弁証法的政治過程である。


3.各章の概略
以下、各章の概要と結論をまとめる。
第一章では、序章で述べた「方法としての「人権」」という問題意識と視角から、本論の前史として、国際連盟が創設された文脈とそれが世界政治に与えたダイナミズムについて、各分野の先行研究を接続し、素描した。国際連盟創設の物語については、各種の民間団体や知識人の貢献を強調する諸研究が存在するが、一方で連盟はアメリカ外交史におけるウィルソン主義の問題やイギリス帝国史におけるスマッツの「帝国的インターナショナリズム」の文脈と切り離すことはできない。さらに、総力戦の経験が世界の中小国や人々に与えた政治的意識化と主体化の力学もまた、国際連盟の創設とその後の政治過程を規定する重要な要因だった。本章は、各領域の蓄積をつなぎあわせつつ、連盟創設に向けた「理念」の政治、すなわち大国の思惑や中小国の異議申し立て、社会的動きが交錯するところで国際機構のダイナミズムが生じてくる様を描いた。
第二章では、第二次世界大戦時に国際連合が創設される過程を描いた。総力戦であり、人種戦争であった第二次世界大戦は、各国の社会において著しい人口移動、産業構造の変化を伴うとともに、政治的・社会的地位の向上を企図した人々の意識化を促した。世界の人々や運動が、米英の発表した大西洋憲章に触発され、戦後国際秩序の構想に関心を持ち、変化を求めた。反植民地主義と反人種主義の潮流に、女性の地位や労働者階級の経済的社会的権利意識の普及といった潮流が合流することで、戦後世界を司る原理として「国際人権」を求める運動が台頭した。国連憲章を完成させた1945年のサンフランシスコ会議では42の民間団体が米国代表団の顧問団体として招かれたが、代表的な公民権運動団体の一つである全米黒人向上協会(National Association for the Advancement of Colored People, NAACP)や、非シオニスト団体としてスタートしつつ今日代表的なイスラエル・ロビーの一翼を担っているアメリカ・ユダヤ人委員会(American Jewish Committee, AJC)もまた、顧問団体に加わり、戦後世界の秩序原理の一つとして「人権」が国連憲章に明記されることを求めて活動した。
第三章は、元来「非シオニスト」団体としてスタートしたAJCが、なぜ、どのようにして、穏健なシオニストと提携し、パレスチナの分割とユダヤ人国家の建国を容認するに至ったのかという問題を論じた。本来、AJCにとって「国際人権」は、戦後世界における「ユダヤ人問題」の、シオニズムに代わるオルタナティブな解だった。国連を中軸として、各国におけるあらゆる住民の人権が保障されるならば、シオニストの追求するようなユダヤ人国家の必要性はなくなるはずだった。しかし、戦後ヨーロッパのユダヤ人難民問題は、そのようなAJCの戦後構想に難題を突きつけた。東欧での反ユダヤ主義が再び高揚した結果、連合国占領下のドイツにおけるユダヤ人難民の数は、1947年になっても増え続ける一方だった。同時にパレスチナの現地情勢も急速に悪化していった。こうした情勢を受けて、AJCは現実的な解を求め、穏健なシオニストであるユダヤ機関と提携し、パレスチナの分割を容認するに至る。
ところがAJCが危惧したように、イスラエルの建国は在米ユダヤ人の「二重忠誠」問題を生みかねなかった。また、イスラエルの建国は対立する中東・北アフリカのアラブ諸国におけるユダヤ人住民の迫害の問題を惹起した。建国の余波は、国境を越えてアメリカとアラブ諸国へと波及していたのである。三章の後半では、AJCはこれらの問題にどう対応したのか、そしてそれがどう「現在」につながっているのか、という問題を論じた。
第四章は、1947年10月23日にNAACPが国連に提出した請願をめぐる政治を描いた。請願は、戦後の米国における人種差別と暴力に抗議し、国際社会の注目と国連の介入を求めるものだったが、それは1947年の国際情勢を鑑みるならば極めて挑戦的といえるレトリックとともに、国際社会の眼前に示されようとしていた。二次大戦の経験によって、戦後世界平和の担い手とされた国連や、その設立目的の一つとして掲げられた「人権」に対する期待が高まっていたが、そのような期待が国際政治の現実と交錯する時、何が起こったのか。そしてアメリカ黒人の運動にとって、戦後の国際人権の潮流とは何だったのか。それらが本章の主題である。
NAACPの請願は結局のところうまくいかなかった。主権国家体制としての国連の制度と、アメリカの冷戦外交が行く手を阻んだのである。そしてその挫折はNAACPの内部に亀裂をもたらした。請願を主導してきたデュボイスが、その後もインド政府の協力を頼りに総会への提出を目指したのに対して、ホワイトら主流派は米国政府との協力間関係の維持を模索した。ホワイトらにとって、国連はデュボイスが考えたような、主権国家に改革を強制するアクターにはなりえなかった。人種状況の改善は結局のところ、各国政府による公民権政策にかかっていたし、脱植民地化の問題は米国外交を通じて影響力を行使していく他なかったのである。彼らにとって、国連とはむしろ長期的に見たときに、「人権」という国際道義のスタンダードを設定し、各国の政策の正当性の方向性をゆるやかに規定することによって、法廷闘争を展開するアメリカ黒人の地位向上に資するような国際環境を生み出すアリーナであった。NAACPがデュボイスのような形で請願の提出と議題化という短期的課題にこだわることをしなかったのは、国際社会のなかで「マイノリティ」が発言する回路の確保を企図したが故だった。
第五章は、国連経済社会理事会の下に設置されていた国連人権委員会における、国際人権規約の起草過程において、米国外交がいかなる状況に置かれていたのかを明らかにした。国連という舞台を中心に、中小国や非政府主体が「人権」に依拠した自己主張を展開するとき、米国外交はジレンマに直面した。世界秩序の要となるべき国連安保理がソ連の拒否権のために機能しなくなるなかで、米国は「平和のための結集決議」のような形で拒否権制度のない国連総会を強化することで対ソ牽制の場とすることを企図した。そのことは、米国にとって総会の多数派を占める国々の「心と精神」を掴むことが喫緊の課題となることを意味した。米国外交にとって、国際人権の領域でリーダーシップを取り続け、国際社会の期待に応え続けることは、ソ連に対抗し、各国との友好関係を維持するためにも不可欠だった。
そのような紛れもない冷戦の一舞台であった国連において、途上国や非政府主体が「人権」に依拠して声を上げ、それが国連を米国外交の思惑に反する方向へ導いていくような状況が生じた。国連の多数派諸国が、個人請願権と経済的社会的文化的権利を国際人権規約に挿入することを求めるなか、米国が国連の場でそれらに反対の意思を示すことは、国内の国際主義勢力と国連の多数派諸国からの反発を招き、米国の自由世界の旗手としての立場を損ないかねなかった。他方、米国がそれらを支持し、人権規約起草にコミットし続けることは、米国内の保守派からの猛反発を呼んだ。米国は国連人権委員会の場において「人権外交のジレンマ」というべき難題に直面していたのである。脱植民地化の時代を経て、国連は米国にとって「居心地の悪い場所」となっていくが、その萌芽はすでにこの時期に見られていた。
終章は第一節で本論文の議論をまとめつつ、戦後世界秩序のなかで「人権」と国際機構の位置を再考した。第二節では日本でも注目される入江昭とマーク・マゾワーによる二つの歴史叙述を批判的に検討しつつ、さらに今日のパレスチナをめぐるグローバルな綱引きを紹介しながら、国際主義の理念と国際機構の歴史をどう描くかという課題について考察した。「アメリカの世紀」としての20世紀像を前提とするのではなく、パレスチナをめぐるグローバルな綱引きのような「現在」を意識したとき、改めて20世紀後半の世界秩序の歴史を、国内体制(間関係)と社会(間関係)を視野に入れた形で再審することが求められるということ、ゆえに、世界政治の来し方行く末を再考する作業は、外交と社会、国家と市民、国際政治と社会的裾野の双方を包摂した、国連と「人権」のグローバル・ヒストリーの模索とならなければならないのだということを主張した。

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