博士論文一覧

博士論文要旨

論文題目:近代天皇制の再編―皇室の経済機構とその変容過程―
著者:加藤 祐介 (KATO, Yusuke)
博士号取得年月日:2017年3月21日

→審査要旨へ

序章 
第1節 先行研究と本論文の立場
第2節 分析対象と方法
第1章 皇室財政の制度と動態
はじめに
第1節 明治後期
第2節 大正期
第3節 昭和初期
小括
第2章 皇室財産課税問題の展開
はじめに
第1節 対立軸の形成と展開
第2節 対立軸の解消と下賜金慣行の形成
小括
第3章 大正期における御料地処分政策の形成
はじめに
第1節 問題の概観
第2節 帝室林野管理局の御料農地経営構想
第3節 御料地調査委員会における論議と「御料農地整理方針」の確定
小括
第4章 御料地争議の事例分析
はじめに
第1節 発生(1920年6月~1922年12月)
第2節 激化(1922年12月~1923年8月)
第3節 決着(1923年8月~1924年8月)
小括
終章
 第1節 総括
 第2節 若干の展望


序章
本論文は、国民統合の基軸的システムとしての近代天皇制の歴史的展開について、主に政治史的な視点から分析するものである。ここでいう国民統合とは、民族観念や言語、政治制度、イデオロギー装置などを介して、人々に国民(国民国家の成員)としての自覚を持たせていくことを指す。近世国家の身分制の体系を解体し、近代国家の国民を創出していくという事業は、明治政府にとって最も重要な課題の一つであった。本論文は、そうした国民統合の基軸として機能したシステムこそ、近代天皇制であったという前提に立っている。
具体的には、皇室の経済機構とその変容過程という対象に着目した。近代の皇室は、国庫から支出される皇室費と皇室財産からの収益を歳入とし、必要な歳出を行うという独自の財政体系=「皇室財政」を有していた。こうした皇室財産や皇室財政を本論文では皇室の経済機構と総称している。皇室の経済機構においては、近代天皇制の精密な縮図が内在的に展開していたように思われる。本論文では、その分析を通して、近代天皇制というそれ自体としては見えにくく捉えにくい問題を、具体的な過程に即して読み解いていくことを目指した。
なお、史料としては、宮内庁書陵部宮内公文書館が所蔵する宮内省の公文書を積極的に用いた。

第1章 皇室財政の制度と動態
 第1章においては、皇室の経済機構の中心的な体系をなす皇室財政について、明治後期から昭和初期までを通して分析を行った。特に1927年から29年にかけて宮内省内に設置された「事務調査会」を、皇室財政の歴史のなかに位置付けることに力点を置いた。
1880年代に皇室財政の整備が進められた。1888年~89年には大日本帝国憲法(明治憲法)・皇室典範・帝室会計法が制定され、90年には皇室財産の編入が完了した。その後、皇室財政の制度は大きく言えば二度変容した。まず1891年の皇室会計法の制定によって動産からの収益が皇室財政のなかに組み込まれ、次に1912年の皇室会計令の制定(14年施行)によって御料地経営の収益が皇室財政のなかに組み込まれた。
皇室財政は、1900年代後半と1920年代の二回にわたって逼迫した。このうち1920年代の逼迫は、御料地経営の収益を皇室財政に組み込んでなお発生したものであり、状況はより深刻であった。加えて同時期においては、「君徳」観念に背馳するという懸念から、国庫支出の皇室費の増額を避けることが志向された。以上の背景の下で、1920年代を通して皇室財政における歳出削減が模索されていった。具体的には、大正後期においては部局統廃合と定員削減が実行され、昭和初期においては、それに加えて、予算統制の強化と皇族関係費中の臨時的歳出の削減という問題が模索されていった。しかし、予算統制の強化については、「事務簡捷」という観点から反発を受けたこと、また省の統括方式を変更することに対して合意が得られなかったことにより、不十分な結果に終わった。
また、第一次世界大戦後には、「一君万民」・「一視同仁」といった観念と抵触する可能性のある皇室財産中の株券について、それを処分するか否かという問題が浮上していた。宮内省はこの問題に対して、株券の新規購入・引き受けを抑制しつつ、国債・地方債の購入への積極姿勢を示すことで対応した。また、それは「国家本位」の措置であり、なおかつ「地方開発」の趣旨を含んでいるとして国民に宣伝された。以上の方針は、「事務調査会」において正式な投資方針として追認され、以降、国債と地方債の購入が加速していった。
また、デモクラシー思潮の拡大の下、戦後恐慌を機に、人々の間でも皇室財政についての関心が一定の高まりを見せていた。これに対して宮内省では、皇室財政の実態を漸進的に公開し、国民的合意を涵養・獲得していくという構想が一部から提起されたものの、それは大勢とならず、皇室財政を非公開事項とする原則は変更されなかった。

第2章 皇室財産課税問題の展開
 第2章においては、1890年から1920年における、皇室財産への課税をめぐる問題の展開過程に着目しつつ、国家と皇室の関係をめぐる解釈のあり様と、その制度化の過程に胚胎していた問題について分析を行った。
1890年から1903年にかけて、同問題をめぐって政府と宮内省の間で対立が展開した。政府は、皇室財産のうち普通御料地は「私的」な財産であり、課税もなされるという解釈であったのに対し、宮内省は、全ての皇室財産は「公的」な財産であって、「私的」な財産ではないため、課税はなされないという解釈であった。こうした対立は、1903年以降における皇室制度改革によって解消されていく。改革を主導した帝室制度調査局の基本的な方針は、「歴史」的に見て皇室は国家の一部であるという観念の下、皇室の事務を国法である宮務法の体系(皇室典範―皇室令)によって規定していくことであった。ここにおいて皇室は国家の一部として包摂され、そのなかで国家の事務(国務ないし政務)と皇室の事務(宮務)の分界が画されていく(「宮中・府中の別」)。
上記の方針の下、具体的には皇室財産令案の審議の過程において、「公的」な皇室の事務の執行を物的に担保する皇室財産も「公的」な財産であり、それゆえに非課税である、という解釈が確立していった。その一方で帝室制度調査局は、課税相当額を管内に普通御料地が所在する行政機構に「交付」する措置を提起し、その旨を皇室財産令案において定めていた。しかし、審議の過程において「交付」という文言は、「君徳」に基づく天皇の「一方的な行為」を意味する「下賜」という文言に変更され、そのため、この措置は法制度の外部に位置付けられるべきものとして、最終的に削除されることになった。管内に御料地が所在する行政機構への実際の手当てが積み残されたため、第一次世界大戦の戦中・戦後において矛盾が表出していく。これに対し宮内省は、独自の回路を用いてそうした問題をキャッチし、1920年以降、管内に御料地が所在する市区町村に対して、地租附加税に相当する金額を下賜するという措置を慣行化させていく。ここに問題の最終的な帰結を見出すことができる。

第3章 大正期における御料地処分政策の形成
 第3章においては、大正期において御料地中の農地(御料農地)の処分方針が決定されていく過程について分析を行った。
大正初期の宮内省において、御料地経営をめぐって二つの構想が相克していた。第一に、帝室林野管理局の構想である。同局は今後の御料地経営の方針として、御料林とともに御料農地の経営を重視する構想を提起した。同局は御料農地を「君徳」が可視化される空間として定置することを重視していた。第二に、他の宮内省幹部の構想である。彼らは御料農地を払い下げ、御料地における事業を御料林経営に一本化させることを主張した。結果的には後者の主張が全面的に通り、1918年に「御料農地整理方針」が決定された。大正期における御料地処分政策の形成過程とは、直接には帝室林野管理局の構想が否定されていく過程であった。
帝室林野管理局の構想は、特定の地域と人的・物的・イデオロギー的に結び付く天皇像を提起することにつながる部分があった。これは全国・全国民に対して等距離に立つ天皇という、近代天皇制の天皇像と背馳する可能性を含んでいた。そうした構想が否定されたことは、やはり必然であったように思われる。
しかし、同局の構想は、近代天皇制を分析するに当たって興味深い素材であることもまた確かである。特に「国家の公事」として相応しい皇室のあり方とは何かという問いに対して、「君徳」という観念が提示されていったこと自体は重要である。その内実は、御料農地の借地人を道徳的に感化し、また彼らに慈恵を施すというものであった。一方でそれは、借地人の権利を前提としそれを尊重するという観念とは異質な側面を含んでいた。
同時に、大正期における御料地処分政策の形成過程からは、宮内省の認識の限界という側面も見出すことができる。すなわち、宮内省は、御料農地における借地人と転借人の間の紛争という問題に対して、明確な危機意識を組織として有するには至らなかった。

第4章 御料地争議の事例分析
 第4章においては、1920年から24年にかけて、北海道上川郡神楽村(現旭川市)に所在する御料農地において、借地人と転借人の間で発生した争議を事例として取り上げ、分析を行った。
この争議の主要な局面は、転借人側と借地人側双方における、近代天皇制のイデオロギーに引き付けた主張の正当化の論理によって規定されていた。転借人側は、「一君万民」・「一視同仁」といった観念を自己の立場に引き付け、借地人側を<自らと天皇の間に介在する相対的権力者>であると見なし、攻勢をかけた。しかし、争議の最終局面においては、組合転借人を<自らと天皇の間に介在する相対的権力者>と見なして排撃する非組合転借人が台頭し、転借人側の分裂が深刻化した。すなわち、「一君万民」・「一視同仁」といった観念に引き付けた主張の正当化は、転借人側の運動の強さと弱さの両面を規定した。これに対し借地人側は、宮内省が転借人側を尊重する決定を行うことに反対した。具体的には、宮内省が直接耕作者である転借人を尊重する決定を行うことは、<直接耕作者の尊重=正統、地主による高率高額の小作料取得=異端>という解釈を認めることと同義であり、それは既存の土地制度を動揺させると主張して、宮内省に対して圧力をかけた。
1920年代における全国的な土地制度の動揺状況が御料農地に波及した結果起きたのは、借地人と転借人の紛争であり、全ての国民から等距離に立つ天皇という近代天皇制の天皇像や、「一君万民」・「一視同仁」といった観念、またその背景にあるイデオロギーの問題が問われていく空間の現出であった。宮内省が転借人側に融和的な中央と借地人側に融和的な出先の間で大きく揺れ動き、ちぐはぐな決定を繰り返すことを余儀なくされたように、その空間の統御は困難を極めた。
本事例の全体を概観した際に改めて浮き彫りになるのは、全ての国民から等距離に立つ天皇という近代天皇制の天皇像や、「一君万民」・「一視同仁」といった観念は、どこまでも「君」と「民」のタテの関係を表すものであって、「民」同士のヨコの関係―一般的な言葉に置き換えるならば社会ないし政治社会という領域―を問題としていく契機や、それを調整していく機能を有していない、ということである。そのため本事例においては、各派がイデオロギー的な主張の正当化を行うなかで、紛争が激化し、結果として過剰に政治的な空間が現出していくことになった。そして、そうした事態に対して宮内省は「上手く」対応できなかったのである。

終章
本論文では、日露戦後から1920年代にかけて皇室の経済機構が変容を遂げていったことを明らかにした。具体的には、①国家の一部としての皇室、「公的」な存在としての皇室、「私的」な領域を有しない存在としての皇室こそ、「歴史」的な皇室のあり方であるという解釈に基づいて、皇室と皇室財産の法制度化が進められていったこと、②「君徳」という観念が前景化していったこと、③全国・全国民に対して等距離に立つ天皇という近代天皇制の天皇像、あるいは「一君万民」・「一視同仁」といった観念が改めて追求されていったことを指摘した。
この変容過程は、日露戦後における国民(国民国家の成員)という範疇の外延の拡大に伴って、体制側において国民統合の問題がそれとして自覚化され、近代天皇制の再編が志向されていく過程に対応しているのではないだろうか。

このページの一番上へ