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博士論文要旨

論文題目:信仰の共同体と不信の共同性―ネパールのプロテスタンティズムについての民族誌的研究―
著者:丹羽 充 (NIWA, Mitsuru)
博士号取得年月日:2017年3月21日

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本論文の目的は、ネパール連邦民主共和国(以下、ネパール)のプロテスタントが自らの「宗教=ダルマ(dharma)」的帰属および実践の中核に位置付ける「信仰=ビシュワース(biśwās)」を民族誌的に描き出すことである。これまでのプロテスタンティズムの「信仰(belief)」についての研究では、それが神と個人のあいだの関係として私事化されていく傾向が指摘されてきた。それに対してネパールでは、プロテスタンティズムの「信仰=ビシュワース」は、「宗教=ダルマ」の性質を引き継ぎながら共同体の中でこそ実践されうるのであり、したがって本論文では「信仰=ビシュワース」と共同体の関係にとりわけ焦点を当てた。
 本論文の論旨を具体的に敷衍するならば、次のようになる。ネパールのプロテスタントは、神への「信仰=ビシュワース」に基づいて共同体を立ち上げているというよりは、むしろ神を「信仰」するために共同体を必要としている。しかし、それは人間のあいだでの相互不信が蔓延する共同体でもある。ネパールのプロテスタントに特有の「信仰=ビシュワース」は、一方では共同体の必要性を、他方では人間のあいだでの相互不信を自らに畳み込んでいるのである。「信仰の共同体」と銘打たれた第1部では、「信仰=ビシュワース」のために共同体が不可欠であることを描き出した。続いて「不信の共同性」と銘打たれた第2部では、そうした共同体の中で蔓延する相互不信を、その中で「信仰=ビシュワース」活動に取り組むプロテスタントの姿を、そしてもはや相互不信のみならず、嗤笑、競争や対立すら蔓延するようになっているにもかかわらず、なんとか維持されている共同体の性質を浮かび上がらせた。
 以下、まずは章立てを掲げ、その上で序論、各章および結論の要約を示す。

章立て
 序論
 0 はじめに
 1 研究の立場
 2 理論的関心
  2−1 研究の出発点
  2−2 「信仰=信念」と共同性
 3 研究の基本情報
  3−1 調査地の概況
  3−2 調査について
 4 本論文の構成
 5 序論のおわりに
 第1部 信仰の共同体
  第1章 プロテスタンティズムと「信仰=ビシュワース」
 0 はじめに
 1 「宗教=ダルマ」という概念
 2 「宗教=ダルマ」的帰属および実践
  2−1 行為の「規範」としての「宗教=ダルマ」
  2−2 想定されない改宗
 3 排他的な選択
  3−1 「宗教=ダルマ」的包括主義
  3−2 「信仰=ビシュワース」という概念
 4 ネパールのプロテスタンティズム
  4−1 歴史的概観
  4−2 地域および対象に由来する本論文の補足的特徴
 5 小括
  第2章 呪術および「宗教=ダルマ」としてのプロテスタンティズム
 0 はじめに
 1 呪術としてのプロテスタンティズム
  1−1 衰えない呪術的実践
  1−2 プロテスタンティズムと病気治し
 2 神の実在と「信仰=ビシュワース」の証左
  2−1 プロテスタンティズムへの接触
  2−2 見せつけられる効果
  2−3 いやされなければならない病気治し
 3 「宗教=ダルマ」としてのプロテスタンティズム
  3−1 洗礼の過程
  3−2 規則感覚
  3−3 「信仰=ビシュワース」の代価
 4 プロテスタンティズムに差し向けられる眼差し
 5 小括
  第3章 強い「信仰=ビシュワース」を求めて
 0 はじめに
 1 クリスチャン共同体
  1−1 教会
  1−2 教会間ネットワーク
  1−3 私的ネットワーク
 2 規則の存在論
  2−1 規則の公共性
  2−2 「自然=本性」としての規則
 3 「信仰=ビシュワース」活動
  3−1 「信仰=ビシュワース」の強弱
  3−2 活発化する「信仰=ビシュワース」活動
 4 相互不信の眼差し
  4−1 資金調達
  4−2 道具主義批判の言説
 5 小括
 第2部 不信の共同性
  第4章 蔓延する相互不信
 0 はじめに
 1 「信頼」と「不信」
  1−1 ネパールにおける「信頼」と「不信」
  1−2 クリスチャン共同体と「信頼」および「不信」
 2 不信の言説
  2−1 ずる賢さの言説
  2−2 道具主義批判の言説
 3 不信の戦略
 4 難しく危険なコミュニケーション
  4−1 断念される情報探索
  4−2 断念される情報提供
 5 小括
  第5章 相互不信の中での「信仰=ビシュワース」活動
 0 はじめに
 1 他者との比較から他者による評価へ
  1−1 比較の行き詰まり
  1−2 役職をめぐる駆け引き
 2 「信仰=ビシュワース」活動の場を求めて
  2−1 教会分裂
  2−2 超教会団体
 3 「信仰=ビシュワース」活動の評価
  3−1 評価に値する「信仰=ビシュワース」活動
  3−2 評価を高める術
 4 共同体の危機
  4−1 根強い不信
  4−2 止むことのない「信仰=ビシュワース」活動
  4−3 嗤笑の眼差し
 5 小括
  第6章 クリスチャン共同体の共同性
 0 はじめに
 1 統括団体の歴史的概観
  1−1 初期の団結から分裂へ
  1−2 民主化運動と統括団体の乱立
 2 争う統括団体
  2−1 墓地問題
  2−2 代表を名乗るための論理
  2−3 解決しない墓地問題
 3 (非)合理的な参与
  3−1 統括団体に向けられる不信と嗤笑
  3−2 共犯関係
 4 崩壊することのない共同体
  4−1 セミラチス状の共同性
  4−2「信仰=ビシュワース」の共同体
 5 小括
 結論
 0 はじめに
 1 「信仰=信念」について
 2 宗教と「宗教=ダルマ」について
 3 本論文の記述について
 画像資料
 参照文献
 謝辞

序論
 序論では、研究対象となる現象の要請に基づき理論的関心を練り上げるという本論文の基本的な立場を明示した上で、「信仰=ビシュワース」に着目することになった経緯を述べた。また、議論に関係する限りで「信仰」についての人類学的研究とキリスト教研究を検討し、本論文を位置付けると同時に、理論的関心を研ぎ澄ませる作業を行った。その上で、調査地の概況と調査方法を紹介した。

第1章 プロテスタンティズムと「信仰=ビシュワース」
 第1部の冒頭の章では、ネパールにおいて「宗教=ダルマ」という概念が一般にいかに想像され実践されているのかという点を確認するとともに、プロテスタンティズムの特殊性を浮かび上がらせる作業を行った。それを通して示されたのは、ネパールで圧倒的なマジョリティを占めるヒンドゥー教徒と仏教徒のあいだでは、個々人の選択ではなく出自こそが「宗教=ダルマ」的帰属を規定しており、また「信仰=アースタ(āsthā)」ではなく「従う」という行為が「宗教=ダルマ」的実践の中核に位置付けられているということだった。さらにネパールでは、「宗教=ダルマ」的包括主義が実現されており、それによって様々な「宗教=ダルマ」の多元性と寛容が維持されてきたことについて述べた。それに対してプロテスタンティズムは、一般に「宗教=ダルマ」的コンテキストではほとんど用いられない「信仰=ビシュワース」という概念に基づき、個々人の選択による「宗教=ダルマ」的帰属および実践と、厳格な「宗教=ダルマ」的排他主義を打ち出してきたことを確認した。

第2章 呪術および「宗教=ダルマ」としてのプロテスタンティズム
 第2章では、民族誌的記述を通して、プロテスタンティズムのさらなる性質を浮かび上がらせた。そこで示されたのは、ヒンドゥー教や仏教といった「宗教=ダルマ」とは異なり、ネパールのプロテスタンティズムが呪術としての性質を有しているという点であった。病気治しに代表される呪術は、往々にして人々がプロテスタンティズムに最初に接触するきっかけであり、すでにプロテスタンティズムに改宗している人々にとっては自分たちの「信仰=ビシュワース」に確信を得る重要な機会としても実践されていることを指摘した。
 続く部分では、ネパールのプロテスタンティズムが「宗教=ダルマ」としての性質もたしかに引き継いでおり、プロテスタントとして具体的な規則に従うことが重視されている点を指摘した。一連の規則の中でも、とりわけプロテスタンティズム以外の呪術的実践や「宗教=ダルマ」的実践を放棄することは重要であり、それに従わなければ神(イエス)を「信仰=ビシュワース」することができないほどである。ところが、異「(宗)教=ダルマ」的実践の放棄は、ネパールでは一般に「宗教=ダルマ」が共同体的に保有されるべきものだとされているがために、既存の共同体から排斥される危険を伴う。そのため、プロテスタントのあいだでは礼拝、結婚式や葬式といった儀礼体系や日常的「規範=ダルマ」を共有し実践する場であるとともに、また(それゆえに)相互扶助を含めた人間関係のための新たな空間として共同体が不可欠であることを指摘した。

第3章 強い「信仰=ビシュワース」を求めて
 第2章において述べたのは、「宗教=ダルマ」に由来してプロテスタンティズムにおいても規則が重視されていること、そしてそれを実践するための共同体の必要性であった。それに対して第3章で着目したのは、そもそも従うべき規則それ自体を成立させるために、共同体が不可欠であるという点である。聖書に由来する一連の規則は、実際のところ多様な、いや潜在的には無限の解釈に開かれている。だから実際に規則に従うためには、そうした無限の解釈可能性を縮減しなければならず、それは規則の公共的性格に訴えかけることによってこそ行われうるのである。
 第3章の後半では、プロテスタントのあいだでは、「信仰=ビシュワース」をますます強くしていくべきだとされていることに着目した。それは一連の規則を遵守し生活することはもちろん、さらに「神への献身」や「神の栄光」のための活動、すなわち「信仰=ビシュワース」活動に専念することによって成し遂げられる。だが、「信仰=ビシュワース」についていえば、それが実際に神への献身や神の栄光のためになりえているのか確信できない。究極的な評価を下すことができるのは神に他ならない。だが、この世では神を直接的に知ることができない。だからプロテスタントは、自らの「信仰=ビシュワース」活動を他者との比較を通して間接的かつ相対的に評価せざるをえないのである。そしてこのことは、1990年代以降キリスト教に対する公的弾圧が終わりを迎え、教会(関連)活動が公に行われるようになると、「信仰=ビシュワース」活動の無尽蔵な活発化を促してきた。
 第2部への導入として本章の最後では、「信仰=ビシュワース」活動の無尽蔵な活発化が、プロテスタントのあいだに相互不信を蔓延させてきたことについて言及した。彼らのあいだでは、他者の活動の背後に名誉の獲得や金儲けといった欲深さを見いださせる「道具主義批判の言説」が相応のリアリティを伴いつつ、流通するようになっているのである。

第4章 蔓延する相互不信
 第2部の冒頭に位置付けられた第4章では、プロテスタントのあいだで蔓延する相互不信を検討した。「信仰=ビシュワース」活動が無尽蔵な活発化を続ける中で、プロテスタントのあいだでは相互不信が蔓延するようになっている。すなわち、第3章で導入した道具主義批判の言説は実際に人々の想像力を力強く方向付けるようになっているのであり、それが作動する様態に焦点を当てた。
 不信を選択するよう促す言説それ自体の働きに焦点を当てた前半部に対して、本章の後半部では道具主義批判の言説が流通しているという事実の方に焦点を当てた。それが流通しているという事実は、コミュニケーションの際に自らの発話や行為が道具主義批判の言説によって解釈されてしまう可能性を示唆している。また、コミュニケーションの相手も、彼/彼女自身の発話や行為が道具主義批判の言説によって解釈されてしまう可能性を考慮に入れている可能性を示唆している。こうして道具主義批判の言説が流通しているという事実は、コミュニケーションに際して高度な再帰性を要請するようになっており、それを難しく危険なものへと仕立て上げているのである。

第5章 相互不信の中での「信仰=ビシュワース」活動
 第5章では強い「信仰=ビシュワース」を求めて、相互不信が蔓延する中で(さえ)止まることなく活発化を続ける「信仰=ビシュワース」活動を描き出した。出発点となったのは、自らの「信仰=ビシュワース」活動の評価が、他者との比較だけでなく、他者による評価に大きく依存しているという点である。そして、他者からの評価を獲得するために発生する「信仰=ビシュワース」活動の一環として実践される役職をめぐる駆け引き、教会分裂および超教会団体での活動に注目した。
 続いて本章では、「信仰=ビシュワース」活動がその成否によってこそ他者に評価されうるという点、またそれを成功させるためにも積極的に他者の評価を得ようという動きが見られる点、しかしそれでも他者の評価を得ていくことがたいへんに困難であったり、また評価が常に暫定的であり続けるため一旦は手に入れた評価が容易に失われてしまったりすることを描き出した。
 本章の最後には、「信仰=ビシュワース」活動が、いつか神が成功へと導いてくれるかもしれないという「希望」によって止まることなく活発化を続けていること、そしてそのことによってプロテスタントが共同体の危機とすらいえる状況に直面していることを浮かび上がらせた。「信仰=ビシュワース」活動の無尽蔵な活発化は、道具主義批判の言説にさらなる確かさを付与し、人間のあいだでの相互不信をますます強化し続ける。そのことに加えてプロテスタントのあいだでは、個々人間や団体間での嫉妬に基づく争いを指摘する嗤笑の眼差しすら蔓延するようになっているのである。

第6章 クリスチャン共同体の共同性
 第6章では不信のみならず嗤笑が蔓延し、危機に直面しているようにもみえる共同体が、いかに維持されているのかということに着目した。プロテスタントのあいだでは、その黎明期より団結の必要性が認識されており、1960年には最初の統括団体である「ネパール・キリスト教同盟」が組織されている。それは、1980年初頭までは名実ともに統括団体としての役割を果たしてきたものの、それ以降は統括団体としての求心力を低下させていった。ところが1990年代に入ると、もう一度プロテスタントのあいだに団結を取り戻すべく新しい統括団体が相次いで創設されるようになる。だが、それら統括団体のあいだには、単なるすれ違いのみならず、「真の」統括団体の座をめぐるあからさまな争いが発生するようになっているのである。
 本章では、2011年から繰り広げられた墓地問題への対応をめぐって発生した統括団体の争いを取り上げた。具体的には、不信や嗤笑が蔓延する中ですら止まない統括団体への参与が、それらの統括団体が成果を挙げた際には利益にあずかれるようにしておくために行われていることを、だから争い合う統括団体への複数参与が発生してきたことを、そして結果として争い合う統括団体の両方をエンパワーし、結果として両者が争いに専念するばかりで何の利益をもたらしえなくなっていることを指摘した。
 しかしながら第6章の続く部分では、ネパールのプロテスタントのあいだでは不信、嗤笑や計算高さといった、むしろ共同体を危機に陥れかねない関係性を(も)契機として共同体の内部に複雑なネットワークが張り巡らされてきたこと、またその究極的な原動力が紛れもなく「信仰=ビシュワース」であることについて述べた。その上で、さらに一歩進んで、そうした共同性が「信仰=ビシュワース」それ自体に本来的に畳み込まれていることについて議論を進めるとともに、共同体内での統一性と多様性の両方を巧みに調停しうることを示した。

結論
 結論ではこれまでの議論を各章の小括とは別様にまとめ上げることを通して、本論文が有する理論的成果のいくつかをより明示的に打ち出すとともに、必要に応じて今後の課題について言及した。
 まず、プロテスタンティズムの「信仰」をめぐる従来の研究と、これまで議論してきたネパールのプロテスタンティズムの「信仰=ビシュワース」を比較することを通して、前者がとりわけ認識の問題系に属することを、そして後者が行為の問題系に属することを浮かび上がらせた。そして後者において行為が重視される要因として、神の実在についての、また神と自らの関係である「信仰=ビシュワース」についての不安を析出した。
 また、より広範な地域研究及び宗教研究に対する本論文の意義と課題を打ち出した。プロテスタンティズムが西洋の「宗教(religion)」概念の権化であるとすれば、本論文には、宗教(もしくは規範や法)と「宗教=ダルマ」の比較研究や、宗教と「宗教=ダルマ」の出会いについての研究を超えた、宗教の「宗教=ダルマ」化を描き出す試みとしての意義を認めることことができる。そして今後の研究では、プロテスタンティズムがヒンドゥー教や仏教に及ぼす影響、すなわち「宗教=ダルマ」の宗教化という問題に取り組む必要性について言及した。
 結論の最後には、本論文の記述について再帰的な検討を行った。本論文は、もしかしたらいつまで経っても「信仰=ビシュワース」に直接的に迫ることに失敗しているように読まれるかもしれない。しかしながら、そうした本論文の記述が、実際のところ、研究対象であるプロテスタント自身が自らの「信仰=ビシュワース」に直接的に迫れないことに起因しており、この意味においては「直接的に迫れないことに直接迫った」試みであることを明示した。

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