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博士論文要旨

論文題目:<僧侶らしさ>と<女性らしさ>の宗教社会学―日蓮宗女性僧侶の事例から―
著者:丹羽(安達) 宣子 (NIWA (ADACHI), Nobuko)
博士号取得年月日:2017年3月21日

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はじめに
序章 女性僧侶を問う現代的意義
  第1節   本研究の問題意識
  第2節   先行研究の整理
  第3節   本研究の視点と方法
  第4節   本研究の構成
第1章 女性僧侶とは誰か
第1節 女性僧侶・女性教師・尼僧
第2節 「全国日蓮宗女性教師アンケート報告書」から見えてくるもの
第3節 リサーチ・クエスチョン
第2章 女性僧侶研究の方法論的視座
第1節 調査対象者と筆者の立場
第2節 ライフストーリー・アプローチの射程
第3節 「宗教と女性」研究とライフストーリー・アプローチ
第4節 「問題経験」と「宗教活動と日常生活の連続性」への着目
第3章 「つながりがどんどん出来てきたときに、あぁ自分は女性だったんだって思い出す」——Aさんのライフストーリー
第1節 僧侶になることを志すまでの問題経験
第2節 僧侶になった後の問題経験
第3節 Aさんにとっての剃髪の意味
第4章 「いっそのこと開き直って、私らしいやり方で」——Bさんのライフストーリー
第1節 女性が僧侶として新たなチャレンジをすることの難しさ
第2節 女性であることを活かした布教活動の模索
第3節 僧侶であることと女性であることの問題経験
第4節 住職就任と剃髪をめぐる問題経験
第5章 「平等じゃない社会のなかで、それでも生きていく」——Cさんのライフストーリー
第1節 「周利槃特になりなさい」
第2節 戦略変更後の問題経験
第3節 Cさんにとっての剃髪の意味
第4節 女性僧侶間の差異
小括
第6章 〈男社会〉の多面性
第1節 女性僧侶の問題経験からみる〈男社会〉の位相
第2節 〈男社会〉が維持されるメカニズム
第3節 〈男社会〉を生き抜くために
第7章 〈僧侶らしさ〉と〈女性らしさ〉の交渉実践
第1節 専門職主義への接近戦略
第2節 女性性の拡大戦略
第3節 「らしさ」の選ばれ方
第4節 多面的な〈僧侶らしさ〉へ
終章 結論と残された課題
おわりに
参考文献

2.博士論文の研究課題
 本論文の課題は、現代日本社会において「女性が僧侶として生きるということ」を明らかにすることである。明治維新後の日本仏教各宗派において進んだ事実上の出家主義の後退とは異なる道を辿った女性僧侶たちが、現代社会において、新たな女性僧侶像を探求し、僧侶として果たすべき役割を模索する姿を考察する。
 仏教は元来、出家主義の宗教である。しかし、日本各地の仏教寺院の多くは、男性僧侶(住職)の婚姻と、息子への世襲によって維持されている。近現代の日本仏教では、男性僧侶が公に結婚生活を送るようになった一方で、女性僧侶は出家元来の姿を守り続けてきたといわれている。今日においても、女性僧侶あるいは尼僧と呼ばれる人々は、非婚で剃髪というイメージをもたれることが多い。しかし、少なくとも本論文でとりあげる日蓮宗においては、2004年に剃髪・有髪、非婚・既婚いずれも参加可能な「全国日蓮宗女性教師の会」が結成されるなど、伝統的な尼僧イメージとは必ずしも合致しない女性の僧侶たちも教団内で認知され、活躍の場を広めつつある。多様な背景や、様々な属性をもつ女性僧侶たちの、発生と展開の現代的な意味を明らかにする必要が生じているのだ。
 本論文では、日蓮宗の女性僧侶たちを経験的事例として設定した。日蓮宗は全僧侶9626人中、1253人が女性である(2016年2月時点)。女性僧侶比率と女性住職比率は、他宗に比べると、若干ではあるが高い。日蓮宗では、宗祖日蓮と根本教典『法華経』により、女性は女性のままで成仏することができるとされている。そのため、他宗に見られるような女人成仏をめぐる混乱はなく、教義的にも女性性が否定されているとはいえない。しかし、女性が僧侶として活躍するにあたって、特有の問題が生じている。そして、性差による混乱を回避するため、あるいは少しでも自分に有利な状況を引き出すための戦略として〈女性らしさ〉を引き受けようとする傾向が一部にみられる。しかし、〈僧侶らしさ〉、すなわち聖職者としての特殊な立場を維持しようとする場合、〈女性らしさ〉の強調はかえって不利益になると考える者もいる。
 では、〈僧侶らしさ〉と〈女性らしさ〉は対立概念なのだろうか。それとも、両立可能なのだろうか。両立可能な場合、〈女性らしさ〉は〈僧侶らしさ〉の下位に位置してしまうのだろうか。日蓮宗の女性僧侶の語りを分析していくと、その複雑な関係が浮かび上がってくる。〈僧侶らしさ〉と〈女性らしさ〉をめぐる女性僧侶の葛藤や戦略、そして〈僧侶らしさ〉や〈女性らしさ〉に関わる言説が必要とされる理由を、女性僧侶のライフストーリーを再構成することによって明らかにすることが、本論文では目指された。

3. 各章の要旨
 「序章 女性僧侶を問う現代的意義」では、先行研究の到達点と、分析視角、本論文の課題を論じた。今日の日本では様々な研究分野にジェンダー研究の視角の導入は進んでいるが、仏教と女性をめぐる実証的研究は、いまだ緒に就いたばかりである。とりわけ、女性僧侶の実態および宗教的主体性に迫る研究の蓄積は乏しい。近現代の日本仏教を論ずる先行研究では、女性僧侶は伝統的な出家理念の体現者として描かれることが多く、結婚生活を営む女性の僧侶、髪を剃らない有髪の女性僧侶が論じられることは、ほとんどない。しかし、本論文で取り上げる日蓮宗では、女性の僧侶のうち、結婚経験者は約7割、有髪のまま教師(所定の修行を修了し、僧階を授けられた僧侶)となった者も約半数に登る(いずれも日蓮宗現代宗教研究所によって2003年実施、2004年発刊された「全国日蓮宗女性教師アンケート報告書」掲載データより)。この点に鑑み、女性僧侶の現実に即した議論を展開させる意義について、序論では述べた。
 「第1章 女性僧侶とは誰か」では、「僧侶」という言葉の多義性やゆらぎ、僧侶および教師の日蓮宗宗制上の定義、教師資格取得過程、本論文で用いる「女性僧侶」の語の示す範囲、そして、日蓮宗の女性僧侶をめぐる状況を、2004年発刊の「全国女性教師アンケート報告書」を読み解きながら記述し、リサーチ・クエスチョンを提示した。
 「第2章 女性僧侶研究の方法論的視座」では、ライフストーリー・アプローチの射程を示し、宗教研究とジェンダー研究における有効性を論じた。また、筆者が本論文において議論の中心に据えることになる、生活世界での曖昧で不確かな経験群(論文中では「問題経験」〔草柳千早、2004、『「曖昧な生きづらさ」と社会—クレイム申し立ての社会学』〕)と、「宗教活動と日常生活の連続性」を分析視角として導入する意図を記述した。これらの分析視角によって、公共的問題として認知され難く、個人の問題として矮小化されやすい経験、しかし、最もジェンダーにまつわる息苦しさが現れ、理想とする僧侶像の達成を困難とするものへのアプローチが可能となる。
 第3章から第5章では、3名の女性僧侶のライフストーリーを再構成し、彼女たちの宗教活動や日常生活で問題となっていたものと、それらを乗り越えようとする営みを記述した。
 「第3章 「つながりがどんどん出来てきたときに、あぁ自分は女性だったんだって思い出す」—Aさんのライフストーリー」の主人公Aさんは、「女性」であるという自己認識を意識的に後退させ、「お坊さんには男とか女とか関係ない」という方針をとろうとしていた。Aさんは僧侶としての資質向上のために専門的な修行機関の門を叩き、管区での活動や後輩指導をしていくことになる。しかし、僧侶としての活動の場を広めることは「自分は女性だったんだって思い出す」契機でもある。Aさんはこの緊張関係の只中にいる。そのため、僧侶としての自己を貫くために、「短いことが戒めになる」と剃髪することを意味付けていた。
 「第4章 「いっそのこと開き直って、私らしいやり方で」ーBさんのライフストーリー」では、〈女性らしさ〉を活かした布教活動の可能性と限界が示される。Bさんは、母親目線を活かした布教活動を展開している女性僧侶である。かつて「僧侶らしくない生活に還俗を考えるほど」悩んでいたBさんであったが、女性や子ども達に寄り添った布教活動をすることで、自分にしかできないことを見出し、自信を回復していった。一方で、〈女性らしさ〉を否定しない「私らしいやり方」は、〈僧侶らしさ〉の体現という意味では「多少の後ろめたさ」を生じさせるものとなっていた。また、住職就任後は、これまでのような「お寺で地域に貢献するっていう女性目線の取り組み」だけでは解決しえない新たな問題が生じていた。
 「第5章 「平等じゃない社会のなかで、それでも生きていく」—Cさんのライフストーリー」では、矛盾や葛藤を抱えながら僧侶として生きていこうとする営みが記述される。Cさんは伝統的な出家型尼僧に憧れていた。しかし、檀信徒との交流を通じて、「世の中ってそんなに割り切れるものじゃない」と、聖だけではなく俗を抱えながら生きていくことを選んでいく。粗相をしないように、減点されないようにと剃髪し続けているが、あえて馬鹿を披露する、優しく見えるような化粧をするなど、Cさんはその時々で〈僧侶らしさ〉に柔軟な態度をみせていた。またCさんは、「複雑な縁という人間社会」を「これが仏教の世界」と呼び、そこにある矛盾や差別を信仰の語彙を用いて読み替え、ひとつひとつの経験を人生のなかに意味付けようとしていた。
 3人の女性僧侶の語りからは、「お坊さんの世界は男社会」という共通する前提を析出することができる。この前提に立ち、Aさんは〈女性らしさ〉から意識的に距離をとり、Bさんは〈女性らしさ〉を活用し、Cさんは〈女性らしさ〉を部分的に利用しようとしていた。いずれの場合も、〈僧侶らしさ〉と〈女性らしさ〉には緊張関係があり、ある時は重なり合い、ある時は反発している。
 共通の前提であった「お坊さんの世界は男社会」の意味するところは、僧侶の男女比の偏り、不均衡な権力構造、男性住職と寺庭婦人を前提とした寺院運営システムだけではない。それぞれのライフストーリーを精査していくと、女性僧侶を「女」という単一カテゴリーにしてしまう圧力、伝統的「尼僧」イメージの影響力の大きさ、少数派同士の眼差しの意識化など、様々な要素が「お坊さんの世界は男社会」には含まれていることが見出される。「第6章 〈男社会〉の多面性」では、このような多様な位相を含む日蓮宗の女性僧侶が生きる世界を〈男社会〉として記述し、それが生成し、維持されてきたメカニズムを分析した。
 本論文で考察した日蓮宗の女性僧侶は、伝統的な出家修行者としての「尼僧」とは必ずしも合致しない人々である。実家寺院の後継(予定)の女性僧侶たちには、現実的な問題として、継いでいかなければならない寺院があり、守らねばならない家族がいる。そのため、出家型尼僧の〈僧侶らしさ〉に自らを重ねることができない。母や妻といった家庭内での役割もあるため、男性僧侶的な〈僧侶らしさ〉に同化することも難しい。ある女性住職の語る「奥さんほしいよね」は、多くの男性住職が「奥さん」によって支えられていること、女性に課せられる家庭での役割の重責を見抜くものである。そしてまた、在家出身の女性僧侶が「お寺を生業にしすぎている」と指摘するのも、他の視点から見る〈男社会〉のあり方なのである。しかし、だからこそ、本論文で考察してきた日蓮宗の女性僧侶たちは、「剃髪か有髪か」、「女性ならでは」、「人間らしさ」、「私らしさ」、「社会から求められるものの変化」、「これまでお寺の活動と思われなかった活動」、「社会性」などの語彙を動員しながら〈僧侶らしさ〉の再定義を試み、宗教的主体性を発揮するための回路を求めようとしていたのである。
 結論部となる「第7章 〈僧侶らしさ〉と〈女性らしさ〉の交渉実践」では、多面的な〈男社会〉の中で、自分自身の力を発揮するための回路として、そしてそれを有効に発揮しうる安定した自分を調整するため、〈僧侶らしさ〉や〈女性らしさ〉に関する言説が用いられていたことを確認した。男性僧侶や伝統的尼僧型の〈僧侶らしさ〉に接近することも、オルタナティブな〈僧侶らしさ〉を目指すことも、そして、〈女性らしさ〉と距離を置くのも、活用するのも、部分的に利用しようとするのも、それらは多面的な〈男社会〉のなかで選ばれる戦略のバリエーションなのである。
 「終章 結論と残された課題」では、これまでの議論の成果を概括するとともに、今後の課題を提示した。

4.本論文によって得られた知見
 本論文では、日蓮宗の女性僧侶のライフストーリーから、前述の「お坊さんの世界は男社会」という事実の多角的理解に努めた。これによって明らかとなった〈男社会〉の多面性ということが、第一の知見である。同一人物の語りにおいて、ある時は男性僧侶的な〈僧侶らしさ〉が、ある時はオルタナティブな僧侶像を導く〈女性らしさ〉が現れることがあった。しかし、多面的な〈男社会〉という視座を導入することによって、これらの語りは矛盾ではなく、〈男社会〉という多層的アリーナのなかで選ばれる、その時々の戦略的な振る舞いとして理解することが可能となる。
 また、このことによって、〈僧侶らしさ〉と〈女性らしさ〉を二項対立的に捉える見方から脱却することができる。これが、第二の知見である。それぞれに異なる立場、属性、その人を取り巻く環境やしがらみの中で、各々の僧侶が果たそうとする役割を見定めていくことは、現代日本の僧侶研究の視野を広げることにも繋がる。すなわち、様々な変数や関係性を考慮した、新たな僧侶論構築の試みへと歩を進めることが可能となる。
 筆者が〈男社会〉の多面性を強調してきたのは、その社会で生きる人々の苦しみや悩み、葛藤に序列をつけようとする見方を排し、その多面的で複合的な環境下で選ばざるを得なかった生き方を等しく取り上げ、個々のライフストーリーの独自性として論じるためであった。そして、それぞれ独自なライフストーリーが響きあうところを重ね合わせることで、日蓮宗の僧侶たちが生きる世界を描き出してきた。在家出身の僧侶の抱える困難も、住職として寺院を継いでいく重圧も、僧侶としての正しさだけを追い求めていくことのできない後ろめたさも、本論文で〈男社会〉として記述してきたプリズムのなかで乱反射する生のリアリティなのである。

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