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博士論文要旨

論文題目:中国における国有企業の雇用システムの研究:労働力流動化との関連性において
著者:章 慧南 (ZHANG, Hui Nan)
博士号取得年月日:2000年3月28日

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一. 問題の設定

1. 研究課題

 本論文の課題は、中国の計画経済システムから市場経済システムへの転換過程において、不可欠となる労働力流動化に焦点を当て、「試点企業」(モデル企業)の事例を通じて、中国の国有企業が労働力流動化をどこまで推進してきたのか、という実態を明らかにし、労働力流動化の過程でどのような問題が発生しているのか、またこれから労働力流動化を円滑に進めていくためにはどのような政策が必要とされているのか、といったことを明らかにすることにある。

2. 先行研究との関連

 中国における労働力流動に関する研究は、全体から見ると、主に3つのグループに分けられる。

 第1のグループは、農村から都市への人口移動に関する研究であり、この人口移動は、かつては「盲流」、1991年以後は「民工潮」と呼ばれているものである。

 この研究をさらに分ければ、主に二つのパタ-ンに区分することが出来る。

 1つは欧米の既存のモデル(例:ルイスの「二重構造論」、フェイ=ラニスの「二重構造修正論」、トダロの「労働力転換論」)が中国に適応できるかどうか、という視点から論じたものがある。

 もう1つは、「戸籍制度」の問題を如何に解決するかについての理論(例:費孝通の「小城鎮」理論、丁水木の「戸籍機能」理論、劉純杉の「二元的社会構造」理論)である。

 前者は、中国の現状、即ち、不完全な市場や社会主義的な制度・政策が重要な役割を果たす等の要因がモデルに組み入れられておらず、従って、モデルは基本的には中国に適応できない。

 後者については、いまだに統一的な見解が見当たらないが、現実の政府の政策を見てみると、例えば、戸籍の等級性(都市民と農民)の強化や戸籍の売買、言わば「価格化」現象の流行等、その政策が殆ど費孝通の「小城鎮」理論に沿って展開されていることが分かる。

 農村過剰労働力を農村から都市へ移すのではなく、農村内部の小城鎮(町)で雇用を吸収して大都市を過剰に膨らませないようにバッファーを作ろう、というこうした考え自体は優れているものである。しかし、地域的限定性や経済規模の非効率性等の問題、都市の中での労働力流動化の問題、特に過剰雇用を抱えている国営企業を今後どのように立ち直らせていくのか、といった諸問題にはこの理論は一切触れていない。

 確かに労働力流動を妨げる主な原因である「戸籍制度」という問題を解決しない限り、労働力流動に関する具体策や全国統一的な労働力市場は形成できないと考えられる。だが、  「戸籍制度」の機能から考えれば、中国の農村と都市の「二元的な社会構造」を維持できるか否かは、その「特殊機能」――都市人口の社会的増加を抑制する機能――と「付加機能」――「戸籍」に基づく生活物資・サ-ビス供給と社会保障給付を行う機能――という2つの要因にかかっていることが分かる。従って、戸籍制度の根本的改革の決定要因は戸籍制度以外――「付加機能」――の改革にあると言えよう。 より具体的に言えば、食糧・油・砂糖等の日常生活物資の配給切符(92年から完全に無くなった)の配分、住宅の分配、乳幼児の入園手続き、学生の就学地の確保、従業員家族の就職斡旋、産児制限政策の推進等、「単位」が実施している諸政策を改革すれば、国営企業の労働力流動化に対する障害はなくなるのである。戸籍制度の改革のキーポイントは、「単位」の改革に帰結できる。それゆえ、「単位」に対する研究は、戸籍制度以上に有意義であると考えられる。

  第2のグループとしては、近年制度・政策の緩和によって活発化している地域間(主に省と省の間)の労働力流動についての研究がある。

 この第2のグループも分ければ、2つのパタ-ンに区別することができる。1つは、地域間の労働力流動化の原因を分析する研究である。もう1つは地域間の労働力流動による特定地域の社会・経済システムへのインパクトに関する研究である。

 総じて見れば、80年代には、地域間の労働力流動を引き起こす諸要因と地域間の労働力流動によってもたらされた諸結果を区別せずに研究する文献が殆どであった。より具体的に言えば、プル・プッシュ要因(例えば、重工業・工業都市・地域等優先政策による労働力需要、賃金・福利厚生格差等のプル要因と、過剰労働力・食糧危機・「人民公社」崩壊等のプッシュ要因)で、その労働力流動化の原因を指摘し、そして地域の住宅難や交通事情、就職状態等から労働力流動がその地域にもたらすインパクトなどを論じるものである。90年代に入ってから、統計資料が徐々に整備されたことがきっかけとなり、従来の大雑把な研究からマクロ的な統計数値を利用した定量分析へと移り、さらに詳細な実証分析へと変化してきた。

 しかし、この研究はマクロ的な分析であり、省と省の範囲を超えて増加しつつある労働力流動化現象自体を捉えてはいるが、その原因を十分に把握しているとは言えない。個別企業レベルでの変化状況や政府政策の転換等、を分析しない限り、こうした現象の原因も究明できないであろう。またこれらの研究も「小城鎮」理論と同様、都市内部の労働力流動化の分析を対象外としている点に、大きな「欠点」があると言えよう。

 第3のグループとしては、国有企業の改革に関する研究、その中でも、特に中国の労働体制と関連して労働力流動の重要性を強調する研究が数多く発表されてきた。また、社会的経済的な視点から「単位」の特徴を通じて労働力の非流動性及び中国社会における「単位」の重要性を強調する研究も数多く存在して、第3グループを形成している。

 以上のように労働力流動化に関する研究は蓄積されてきているが、研究の多くは、労働力の非流動性を与件として出発し、市場配置の観点から逆に現在国有企業の労働力流動が不十分であることを強調する、という共通点を有している。しかし、現実には様々な面で中国の労働力の流動化が進展しているのである。従って、このような論法は、非流動性から流動化への転換という「動」の変化を軽視することにつながる。また日中共同調査の事例集があるとは言え、研究の多くは業種的にも地域的にも偏っていて、個別の事例を羅列するだけで、殆ど分析していない。どこが変化したのか、何がそれを可能にしたのか、という点は不明瞭なままである。

 他方、社会的経済的な視点から非流動性及び「単位」の重要性を強調した文献が数多くある。それらの研究は、「単位」の個人に対する統治機能、「単位」の形成要因や「単位」内の縁故関係及びこれらがもたらしたマイナスの影響等を指摘してはいるが、「単位」自体の分析やその統治機能及び「単位」が個人を統治する具体的な手段やプロセス等に対しては本格的な分析と言える段階には達していない。1つの例を挙げれば、路風の研究は、体系的に「単位」を直接の分析対象とした点で今までで唯一の研究である。路風は社会組織の分析視点から改革前の国営企業を対象として「単位」の政治的・社会的・分業的諸機能の未分離性や従業員の「単位」との非契約性、非流動性を鋭く分析したが、しかし、なぜ従業員が「単位」から離れないのか、或いは何がそれを可能にしたのか等については、具体的に明らかにされていない。また改革後、「単位」が如何に変化したのか、その変化は従業員に如何に影響を与えたのか、という点は分析の対象とならなかった。

 上述の「単位」に関する先行研究は次のような基本的特色ないし欠陥を共有している。第1に、「単位」の個人に対する統治機能を指摘しているが、その存立条件を具体的に究明していない。第2に、改革前の「単位」を分析対象としたが、改革後の「単位」が如何に変化したか、またその変化が従業員に如何に影響を与えたのかについては触れていない。第3に、「単位」の個人に対する統治機能の決定要因として「単位」を中心とする生活保障制度が強調されているが、しかし、もしそれが本当であるなら、生活保障制度の殆どない小「単位」がなぜ個人を統治できるのかといった問題は、未開拓のまま残されている。

 以上のような先行研究の研究状況を踏まえて、本論文は次の点に注目する。

 1)労働力の非流動性を可能にする条件については通説と異なるが、「単位」を中心とする生活保障制度が確かに重要な役割を果たしているとは言え、档案制度の重要性も無視することができない、と考える。

 2)労働力の流動化は一様に始まっている訳ではない。政府は市場経済を全国化させるために「試点企業」(モデル企業)を指定して、試行を行っているので、「試点企業」のデ-タを参照すれば、労働力流動化の最先端の状況を把握できる。そこで、未だに公表されておらず、業種的にも地域的にも偏りのない「試点企業」の事例を通じて、市場経済化の先進事例の経営内容を具体的に明らかにする。

3. 本論文の研究範囲の限定と構成

 1)研究範囲

 本論文では研究対象の範囲を、国有企業(「単位」)に限定する。その理由は次の通りである。国有企業は、国家財政総収入の約66%に当たる財源に貢献しているだけではなく、国家のエネルギ-、交通、重要原材料、技術設備の主たる提供者でもある。また国有企業を中心とする国有経済セクタ-は、従業員総数15、040万人のうちの11、094万人(74%)を雇用しており、その内部には資質の高い産業労働者と全国の大半の科学者・技術者が含まれ、このような労働者によって工業企業を支え、その賃金によって多くの国民の生活を支えているからである。

 具体的には「単位」の次のような点に注目する。即ち、周知のように中国の「単位」は、経済的機能のほかに生活保障等の機能も兼備している。「単位」を市場経済に適応させるためには、「単位」から生活保障機能を切り離して、それを公的部門に移し変えなければならないと考える。また「単位」に残される経済的機能の点で生産性をより向上させるためには、能力主義的システムに変えていくことが必要となる。即ち、2つの「変革」が求められ、この「変革」を推進していくために、労働力流動化が不可欠となる。そしてこの労働力流動化を円滑に進めていくために、解雇や配置転換等のような、外部労働市場の流動化も内部労働市場の流動化も必要となってくる。それゆえ、流動化の重要な鍵である雇用制度がどのように変化したのか、また社会保障システムの企業外への分離が現在どこまで進んでいるのかを分析することが、労働力流動化の進展状態を把握する基礎となる。

 2)本論文の構成

 本論の構成は次の通りである。

 まず、第一部では、中国における「単位」の特徴、及び「単位」制度のうちの何が労働力の非流動性をもたらすのか、その構造を概観した上で、労働力の非流動性に起因する社会的経済的なマイナスの側面を整理する。この第一部は、第二部の論述を進めていく上での準備作業ともなるものである。

 第二部では、まず、市場経済化が進んでいる中で、従来の「単位」システムを再建するために、政府の方針がどのように転換したのか、そしてこのような転換の中で、これまで「単位」が担ってきた重要な機能の幾つかを切り離すことになったのであるが、従来の「単位」の企業としての性質がどこまで活性化されたのか、また、企業としての存在を妨げている多機能性がどこまで「単位」から切り離されたのか、といったことを、労働力流動化と関連して、公式統計数値とヒアリング調査等から検討する。さらに、市場経済を全国化させる意図をもったモデル企業を取り上げ、このモデル企業では、従来の労働力の非流動性の諸要因をどこまで改革したのか、その具体的な経営内容を明らかにすると共に、労働力流動化の最先端の状況を検討する。

 最後に、本論の結論と今後の課題について総括を行う。

二.本論の内容

 第1章 では、「単位」組織の構造、その特徴及び労働力流動との関連性について考察する。周知のように中国の「単位」は生活共同体なのである。「単位」は生産のほか、保育園・学校・食堂等生活関連サ-ビスの供給及び消費物資の配給を行う。しかも、「単位」は生活共同体以上のものである。なぜなら社会保障サ-ビスや諸証明書の発行等の行政サ-ビス、さらに思想教育、警察組織にまで及ぶ行政的・司法的機能をも合わせ持っているのである。ここで労働力流動との関連性から「単位」の2つの特性、即ち、・「単位」組織の多様性、及び・「単位」の企業としての性質を析出し、この2つの特性を通じて、「単位」が如何に労働力の非流動性を可能にしてしまったのか、また、「単位」の非流動的な雇用関係及び非能力的な職務規定や賃金決定などを構造的に解明しようとした。

 次に第2章、第3章では、第1章の延長線として労働力流動化の重要な役割を果たしている雇用・賃金制度の仕組みや特徴が、どのようにして作られてきたのか、その流れ及び経営への悪影響を分析すると共に、労働力流動への規制を明らかにする。そして、なぜ個人が「単位」から離れないのか、或いは何がそれを可能にしたのかという問題に対して、労働力の非流動性を可能にしてしまった条件から、その条件の内容を更に具体化し、日本の定義や慣行と比較しながらその特徴を洗出し、通説的理解に対して若干の異を唱えようとした。

 続いて、第4章では、第一部を総括し、改革前の「単位」と雇用制度、その特徴及び非流動性による「後遺症」について纏めたものである。具体的には、「単位」は、経営自主権や自己責任の欠如や多機能性といった特徴を持っていると考え、そして個人の職業選択の非自主性、終身雇用関係及び就職・福利・保障の「三位一体」は、従来の雇用制度の主な特徴と考える。最後に、これらの諸原因による労働の非流動性は、「過剰労働力」の氾濫や勤労意欲の低下、非効率的な就業構造等がもたらしてきたことを指摘する。

 第5章では、「単位」から企業への経営方針の転換について考察する。市場経済化が進んでいる中で、従来の「単位」システムを立ち直らせるために、従来の「単位」の企業としての性質の活性化や、企業としての存在を妨げている多機能の純粋化等が不可欠となる。「単位」から企業へ移行する際、政府の方針が、基本的に「政企分離」と自己責任制を基にして展開したことをあとづけている。

 第6章、第7章、第8章では、改革・開放政策の下で、これまで「単位」が担ってきた重要な機能の幾つかが、少しずつ市場によって肩がわりされるようになってきているが、労働流動化と関連している諸要因が、どのように変化してきたのか、またその変化は、どこまで進んでいるのかについて、公式統計数値やヒアリング調査等から検証する。

 まず、第6章では、労働流動化の重要な鍵をもつ雇用・賃金制度の転換について、従来の雇用・賃金制度と対照して、採用の仕方や雇用形態、雇用調整等、また普及されつつある「崗位」技能賃金制の導入や設定、及び労働力流動への影響等から考察した。その結果、次のことが示された。即ち、一部の大学新卒者等を除けば、企業側は自由採用ができるようになった。採用された者は、契約労働者に該当し、政府の規定の枠内で企業側の都合によって解雇することができるようになった。「第2職業」(副業)や転職者等は確実に増えている。また賃金制度においては、企業の賃金総額が企業の経済効果とリンクされ、企業内部の分配自主権も持つようになった。その結果、「崗位」に応じてある程度の賃金格差が開かれた。

 次に、第7章では、労働力の非流動性を可能にした条件の一つである人事考課(「档案」制度)及び能力主義的なシステムへの転換に不可欠となる昇進制度について、その改革の進展状況や労働流動化への影響等から考察した結果、次のことを指摘する。確かに一部の地域では、政府の人材交流センタ-・労働力市場等の機構が「単位」に代わって「档案」を保管するという動きが出始めている。また「流動档案」と呼ばれる「労働手帳」も発行されている。ただし、住宅等がまだ完全に社会化されていないため、「档案」の「役割」は依然として機能している。また昇進においては、政府の幹部に関する多くの関連規定の改革が遅れているため、モデル企業のような「幹部聘任制」の実施は、まだそれほど普及されていない。

 続いて、第8章では、労働の非流動性を可能にしたもう1つの条件である「単位」を中心とする生活保障制度、及び労働流動化を進めていく上で不可欠となる失業保険について考察する。その結果、次のようなことが明らかになった。失業保険の面では、従来の失業のない体制から、少なくとも国有企業のみに失業保険制度が整えられるようになった。また年金保険の面では、失業保険と同じく、国有企業のみに省・市の地域的な統一管理が実現された。そして医療保険の面では、ほかの改革と比べれば進展が遅れているが、95年現在、既に500万人の国有企業の従業員が社会統一管理に加入した。さらに住宅制度の面では、改革の進展はあることはあるが、残された課題が少なくない。

 第9章では、公式統計数値やヒヤリング調査等から考察する際の制約を補うために、政府に指定されたモデル企業(「試点」企業)の事例分析を通じて、従来の労働力の非流動性の諸要因がどこまで改革されたのかを検討すると共に、労働力流動化の最先端の状況や市場経済に近づいた経営内容を具体的に明らかにした。その結果、モデル企業では、社会保障に関する改革が殆ど国家の規定に基づいて行われている以外、その他、例えば労働・人事制度、賃金制度、教育訓練・考課の面において、改革がかなり進んでいることが示された。

 最後の結言では、本論の結論と今後の課題について総括を行う。具体的に、中国の「単位」は、計画的社会主義体制に合わせて作られた社会的諸制度の改革によって、市場経済の下での企業に転換しようとしている。このような転換の中における「単位」の大きな変化は、経営自主権の拡大と経営自己責任の導入という2つの点に集約できる。

 以上のような変化の中で、従来の「単位」システムを市場経済に適応させるために、具体的に各章で検証したように、企業としての性質と、企業としての存在を妨げている多機能の2つの変化が確認された。このような変化によって、結果として労働力流動化がもたらされてきた。総じて、少なくとも80年代末頃と比べれば、90年代半ばには、労働力流動化はかなり進んでいると言えよう。

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