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博士論文要旨

論文題目:1990年代における東アジア地域及び台湾の放送事業の変容 ― グローバル化/ローカル化の連動という視点から ―
著者:邱 琡雯 (CHIOU, Shwu Wen)
博士号取得年月日:1997年6月24日

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 政治的社会統制(political social control)を目的に作られている国民文化(national culture)が放送事業を通して国民に広められているのは、東アジア地域の多くの国々の共通点である。しかし、1980年代末以降、欧米先進諸国の主導によるグローバルな放送事業が東アジア地域に浸透したことによって、この地域における政治的社会統制の道具としての放送事業は次第に変容しつつある。本論では、1990年代における東アジア地域及び台湾の放送事業の変容という状況の分析を通して、国民文化そのものの変容、及び国民文化を相対化するものの出現について考察する。その際、グローバル化/ローカル化の連動という視点に基づいて考察を展開している。

 第・部は「放送事業のグローバル化/ローカル化」研究である。
 第1章では、スレバニ・モハマデイによって提起された「国際コミュニケーション研究」の系譜を手掛かりにして、「放送事業のグローバル化/ローカル化」研究の枠組みを把握する。スレバニ・モハマデイの整理では、「国際コミュニケーション研究」の系譜は「コミュニケーンョンと近代化理論」、「文化帝国主義論」、「文化多元主義論」、「グローバル/ローカル・モデル」の順であるとされている。ただし、「グローバル/ローカル・モデル」についてはまだ名付けられているだけで、実際にはまだ構築されていない。そこで、まず先行的アプローチとしての「コミュニケーションと近代化理論」、「文化帝国主義論」、「文化多元主義論」の諸説を主に送り手側から検討する。そのうえで、次にグローバライゼーションに関する諸説からグローバル化/ローカル化の連動について考察することで、スレバニ・モハマディがいう「グローバルノローカル・モデル」を筆者なりに提示している。

 第2章では、第1章での検討から析出された“グローバル化/ローカル化の運動”という概念を「放送事業のグローバル化/ローカル化」研究の理論的枠組みとして位置付けることが主題となっている。まずグローバル化/ローカル化の連動の特徴を明らかにし、次にグローバル化/ローカル化の運動の特徴を如何にして「放送事業のグローバル化/ローカル化」研究の中に組み込むのか、また「放送事業のグローバル化/ローカル化」研究の研究対象とは何かを説明している。

 まず、グローバル化/ローカル化の連動の特徴の中でローカル化の顕在化について見てみよう。確かにローカル化という概念は相対性を持っているが、それぞれのローカル次元は放送事業において顕在化するかどうかはまた別の問題である。東アジア地域の放送事業に限って言えば、放送事業が草創期から政治的社会統制の道具として各国政府によってコントロールされているために、ローカル次元の中でナショナル次元が最も顕在化している。この放送事業におけるナショナル化の顕在化に対して、他のローカル化の顕在化は果たして進んでいるのかどうかという点については、より詳細に検討する必要がある。そこで、リージョナル次元、サブ・リージョナル次元、サブ・ナショナル次元から、東アジアでの各次元における顕在化の状況について考察した。こうした検討から、アジア地域におけるローカル化の顕在化においては、ナショナル化以外の上記の諸次元の顕在化は進んでいないのが現状であると判断される。だが、東アジア地域全体においてローカル化はナショナル化の顕在化というかたちでしか起こりえないということでは決してない。本論の第・部で検討する台湾では、東アジア地域の普遍性であるナショナル化が進行しつつも、台湾独自の特殊性から、それと異なったローカル化も並行して出現していたのである。こうした点を留意して「放送事業のグローバル化/ローカル化」研究は行わなければならない。

 次にグローバル化/ローカル化の連動という概念に基づいて「放送事業のグローバル化/ローカル化」研究の研究対象について提示している。本論では、放送事業におけるグローバル化/ローカル化の連動を送り手の登場をもたらす背景、送り手の登場、送り手の制作する番組の3点から検討している。まず、送り手の登場をもたらす背景とは、政策的側面や社会変動の側面を意味する。具体的には、政策的側面については、米国側の主導によるグローバルな放送事業の拡張と、東アジア諸国側の放送事業政策の対応の2点をさす。また社会変動の側面は、中国語圏放送メディア空間の構築を可能にする背景、及び台湾国内の政治活動の展開という2点をさす。

 登場する送り手について見てみると、本論で取り上げる4つの送り手とは、主にグローバル次元、サブ・リージョナル次元、ナショナル次元、サブ・ナショナル次元の4つの次元で放送事業を展開するものをさす。グローバル化とは映像分野のメディア多国籍企業が主導している放送事業のグローバルな展開、サブ・リージョナル化とは中国語圏内部の企業が構築している中国語圏放送メディア空間の展開、ナショナル化とは中央政府と民間企業による在外同国人向けの衛星放送の実施、サブ・ナショナル化とは台湾内部の政治活動とケーブルテレビ事業との発展、とそれぞれ定義しておく。

第3点めの送り手の制作する番組については、上記の4つの送り手によって制作される番組内容を分析している。映像分野のメディア多国籍企業は、グローバル/アジア地域/台湾の3つの次元に関する標準化/現地化の戦略を利用した番組制作を行っている。中国語圏放送メディア空間の構築を目指す企業は、グローバル/中国語圏放送メディア空間/台湾という3つの次元の連動を強調し番組制作を行っている。民間企業による在外同国人向けの衛星放送も、同国人の出身社会と現在居住しているホスト社会との運動を視野に入れて番組の制作を行っている。台湾内部の政治活動の推進主体は、ケープルテレビを利用して政治活動を展開する際に、政治的社会統制の地上波と対抗する視点から、次第に市場原理を重視して番組を制作している。

 以上の、送り手の登場をもたらす背景、送り手の登場、送り手の制作する番組の3点に関する分析を、以下第・部と第・部において「放送事業のグローバル化/ローカル化」研究の視点から進めている。

 第・部は「東アジア地牧の放送さ※の変容:グローバル化とローカル化の一局面としてのナショナル化の連動を中心に」である。既に述べたように、東アジア地域におけるローカル化の顕在化がナショナル化の顕在化を指す場合が多い。言い換えれば、ローカル化の最も重要な一局面として挙げられるのはナショナル化の顕在化である。したがって、第・部の目的は、東アジア地域の放送事業における今日のナショナル化の顕在化の特徴を明らかにすることである。ここでいう今日のナショナル化の顕在化は、主に東アジア諸国の放送事業政策の対応及び在外同国人向けの衛星放送の2点をさす。

 最初に東アジア諸国の放送事業政策の対応であるが、これについて検討するために、まず米国側の主導によるグローバルな放送事業の拡張を見ていかなければならない。この米国側の主導によるグローバルな放送事業の拡張を把握するために、国際衛星通信事業の自由化、知的財産権の保護強化、メディア・コングロマリット化の進展の3点を分析している。これらは、今日放送事業のグローバル化/ローカル化の展開を可能にする重要な背景となっており、外資系放送企業の東アジア地域への進出を可能にする条件として位置付けることができる(第3章)。

 次に、外資系放送企業にとって東アジア地域が重要な一大放送事業マーケットであるという事実を確認した上で、米国側の主導によるグローバルな放送事業の拡張に対応するために、東アジア諸国側が外資系放送企業の導入政策と国内放送事業の整備を進めていることを検討している。外資系放送企業の導入政策については、具体的に放送事業を規定する従来の方針、放送事業の規制緩和の推進、外資系放送企業の誘致、知的財産権法の適用の4点から取り上げる。また国内放送事業の整備については、自国衛星の打ち上げと放送事業の集中化の促進の2点を分析している(第4章)。

 これに引き続き、在外同国人向けの衛星放送について検討している。このように在外同国人向けの衛星放送を通してナショナル化の顕在化を捉えることには、以下の二つの理由がある。
 第一に、ナショナル化の顕在化が必ずしも特定の国境内に限定されるだけではないからである。すなわち、国境を越える場合においても、ナショナル化を推進する主体はナショナル化を維持、拡大することが可能である。特に、衛星放送という情報技術は従来の活字メディアと音声メディアに加えて、国境を越えるナショナル化の維持と拡大をもたらすものとして大いに利用されている。
 第二に、今日在外同国人向けの衛星放送を担う主体の多くは各国の中央政府であり、しかもそのターゲットが外国人というより在外同国人だからである。ただし近年、中央政府だけではなく在外同国人向けの衛星放送を担う新たな発信主体としての民間企業が次第に登場しつつある。その場合民間企業による在外同国人向けの衛星放送は、中央政府によって実施されている在外同国人向けの衛星放送とは異なった側面を見せつつある。筆者は、民間企業による在外同国人向けの衛星放送を今日のナショナル化の顕在化の変容として位置付けている(第5章)。

 第・部は「台湾の放送事業におけるグローバル化/ローカル化の再編成」である。ここでは、特にナショナル化の顕在化を“相対化”する視点から台湾の特殊性を捉えることを目的としている。このためには、1990年代における東アジア地域の放送事業の変容の中で、台湾が持つ普遍性と特殊性の両方から考える必要がある。

 まず、台湾の普遍性について、台湾が東アジア地域のほかの国々と共適しているものを析出しておきたい。Lee(1980:143-171)は台湾の地上波放送事業の構造的特性を「産官複合体」(Bureaucratic-commercial infrastructure)という言葉で表現している。この言葉は、台湾の地上波放送が国内の政治的社会統制を強化する道具として政府によって利用される性格と、視聴率とコマーシャルの獲得を至上主義とする体質の両面を持ち合わせ持つ存在であるということを示している。だが、このような地上波放送事業に内在している「産官複合体」の特性は、決して台湾のみにあてはまる状況ではない。第・部で述べているように、東アジア諸国、例えばタイ、マレーシア、インドネシアの政府は放送事業の使命を規定する各原理の中で、放送事業を政治的社会統制の道具として位置付けていた。また、東アジア地域において広告収入を地上波放送の主な資金源とする国も決して少なくない。このような「産官複合体」の構造的特性を有する国々は1980年代末以降、米国側の主導によるグローバルな放送事業の拡張に直面しつつある。その実態は、第・部で述べているように、「東アジア諸国側の放送事業政策の対応」という点に見出される。

 次に、台湾の特殊性に関しては、中国語圏放送メディア空間の構築、及び政治活動とケーブルテレビ事業の発展の2点が挙げられる。この二つの動きは、広く東アジア諸国に進出している映像分野のメディア多国籍企業の動向とは異なったものであると考えられる。まず、中国語圏放送メディア空間の構築についてであるが、近年東アジア地域内における類似した文化圏と言語圏に属する企業同士の多くが放送メディア空間の構築を高唱している。こうした例としては、マレー語圏の放送メディア空間、インドシナ地域の放送メディア空間、中国語圏放送メディア空間などが挙げられる。しかし、その中で顕在化しているのは、中国語圏内部の企業同士によって構築されている中国語圏放送メディア空間だけである。現在、こうした中国語圏放送メディア空間の構築を目指す企業の多くは台湾をターゲットにして進出している。もう一つの台湾の特殊性である台湾国内の政治活動とケーブルテレビ事業の発展については、政治的社会統制との対抗という視点から脱却し市場原理を重視する視点へと変容しつつある台湾の政治活動がケーブルテレビ事業の発展とが相互に関連していることをさす。

 こうした台湾の普遍性と特殊性をふまえたうえで、第・部では以下のような構成で実証分析を行つている。

 まず、テレビ放送事業の変遷と現状を概観する。そこでは、1990年代以降、映像分野のメディア多国籍企業による台湾への進出を促した要因を、政治的社会統制の道具としての地上波放送、地上波放送に取って代わった他の映像メディア、ケーブルテレビ事業と衛星放送事業の連携の3点から検討する(第6章)。次に、台湾に進出してきた映像分野のメディア多国籍企業を米国系のメディア多国籍企業とアジア地域を拠点とする映像分野のメディア多国籍企業に分けて進出の実態を捉える。これらの多国籍企業の活動について、主に番組制作における標準化/現地化の戦略という点に着目する。そこで、番組制作における標準化/現地化を促す背景及び既存の他の多国籍企業に関する標準化/現地化の事例を先に取り上げて、さらに 「CNN」「MTV」「Channel-V」「ESPN」「STAR-TV」「ABN」の6社の事例を検討する(第7章)。さらに、中国語圏の放送メディア空間の構築を目指す企業の活動にも注目し、中国語圏の放送メディア空間の構築を可能にする背景、中国語圏放送メディア空間の構築を目指す企業の特徴、その代表的な企業とその進出戦略の3点を通して明らかにする。ここでは、台湾での進出実績を持っている「CTN」「TVBS」の2社を中心に取り上げる(第8章)。そして最後に、台湾国内の政治運動とケーブルテレビ事業の発展との連関に着目する。具体的には、「民主台」の登場とその変容、地方意識の噴出と台湾語・客家語によるニュース放送、選挙キャンペーンとケーブルテレビ事業の3点から分析する(第9章)。

 最後に、本論の意義をそれぞれ第・部、第・部、第・部に分けてまとめると、次のようになる。

 第・部「放送事業のグローバル化/ローカル化」研究については、今日「文化帝国主義論」と「文化多元主義論」がそれぞれ持つ有効性と限界を指摘した点に意義があろう。また、グローバライゼーションの諸説を手掛かりにして、「国際コミュニケーション研究」の系譜の中にまだ構築されていない「グローバル/ローカル・モデル」の枠組みを設けることは筆者の一つの試みであった。何よりも、これらの論点を整理することによって析出されてきた「グローバル化/ローカル化の連動」の概念は有益であると思われる。この概念に基づいて、1990年代における東アジア地域及び台湾の放送事業の変容を捉えることが可能となった。

 第・部「東アジア地域の放送事業の変容:グローバル化とローカル化の一局面としてのナショナル化の連動を中心に」については、東アジア地域の放送事業に限って言えば、ローカル化における様々な局面の中でナショナル化が未だに最も重要な一局面として存在していることが明らかになった。特に、今日のナショナル化の顕在化の特徴については、外資系放送企業の導入政策、及び在外同国人向けの衛星放送の実施は今日のナショナル化の顕在化の一変客として位置付けることができる。

 第・部「台湾の放送事業におけるグローバル化/ローカル化の再編成」については、東アジア地域全般にわたってナショナル化の顕在化が進んでいるにもかかわらず、台湾の特殊性つまりナショナル化の顕在化を“相対化”するものを取り上げたこと自体が評価できよう。このように国民文化そのものの変容及び国民文化を相対化するものの出現を考察する最大の意義はわれわれの意味空間の広がりへの追求という点にあると筆者は考えている。そして何よりも、中華ナショナリズムと台湾ナショナリズムのような二者択一あるいは二者対立の国民文化によって挟撃されている筆者の出身地・台湾を再考する機会にもなる。

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