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博士論文要旨

論文題目:日本復帰前の沖縄における島ぐるみの運動の模索と限界―B52撤去運動から尖閣列島の資源開発にいたる過程に着目して―
著者:秋山 道宏 (AKIYAMA, Michihiro)
博士号取得年月日:2017年3月21日

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序章
第1節 本研究の背景と課題
第2節 研究史の整理と研究手法
 2−1 研究史の整理:沖縄戦後史研究において島ぐるみをいかに記述するか
 2−2 本研究における視点と研究手法
第3節 本研究において扱う時期と主な研究対象
 3−1 本研究の時代背景と検討対象とする時期
 3−2 本研究における研究対象:1960年代後半の基地経済と中部地域(コザ、嘉手納)
第4節 全体の構成と各章の概要

第1章 1960年代後半の社会的対立の顕在化と島ぐるみの運動の困難:即時復帰反対論からイモ・ハダシ論にいたる議論の展開に着目して
はじめに
第1節 即時復帰反対論をめぐる社会・経済的背景とその論理 
 1−1 即時復帰反対論をめぐる社会・経済的な背景
 1−2 即時復帰反対論と言論界における『沖縄時報』の位置
 1−3 即時復帰反対協議会による即時復帰反対論の展開
第2節 一体化政策の展開と即時復帰反対論の帰結
 2−1 塚原ビジョンと一体化政策の展開
 2−2 即時復帰反対論の位置づけの変化と即時復帰反対協議会の活動
第3節 即時復帰反対論からイモ・ハダシ論への展開
 3−1 表面化する即時復帰反対論の論理
 3−2 イモ・ハダシ論への展開と議論の特徴
まとめと小括

第2章 生活/生存をめぐる島ぐるみの運動の歴史的背景と展開:嘉手納におけるB52撤去運動の展開とイモ・ハダシ論
    はじめに
第1節  日常化する基地被害とB52戦略爆撃機の常駐化
    1−1 度重なる基地被害への不安と抗議の声
    1−2 B52戦略爆撃機の常駐化をめぐる不安と撤去運動の展開   
第2節  嘉手納村長選挙においてなにが問われたのか
     2−1 嘉手納村長選挙の経過とそこで問われたもの
     2−2 嘉手納村長選挙に対する反響とイモ・ハダシ論
第3節  B52爆発事故によって喚起された生活/生存への危機
     3−1 B52爆発事故をめぐる経過と訴えられる恐怖 
     3−2 喚起された生活/生存への危機と嘉手納におけるB52撤去運動の展開 
     3−3 B52撤去の要求と危機を遮断する論理
    まとめと小括           

第3章 B52撤去運動の島ぐるみでの広がりと2・4ゼネスト回避の論理
    はじめに
第1節 島ぐるみで広がるB52撤去運動の過程と2・4ゼネストに向けた動き
     1−1 B52撤去運動の島ぐるみでの広がりと県民共闘会議の結成
     1−2 B52撤去運動と全軍労による「生命を守る」という主張 
     1−3 2・4ゼネストをめぐる結集点の形成と島ぐるみの志向性 
第2節 2・4ゼネスト決行と回避をめぐる動き
     2−1 経済界における2・4ゼネストへの態度と回避の動き 
     2−2 嘉手納における2・4ゼネスト回避の動きとその論理 
    まとめと小括

第4章 尖閣列島の資源開発をめぐる島ぐるみの運動の展開:沖縄経済の可能性を結集点とした県益擁護運動の模索と限界
    はじめに
第1節 1960年代後半における「「援助」から「開発」への転換」
第2節 1960年代後半における外資導入と県益の顕在化
     2−1 外資導入が開いた経済開発のビジョン
     2−2 石油・アルミ外資の導入と県益化のプロセス
第3節 尖閣列島の資源開発をめぐる島ぐるみの運動
     3−1 尖閣列島の資源開発の歴史的背景
     3−2 県益化する尖閣列島の資源開発
     3−3 島ぐるみの運動をめざした尖閣列島の資源開発とその限界
    まとめと小括

終章:日本復帰前の島ぐるみの経験とはなにか
あとがき・謝辞
参考文献および資料一覧
インタビュー対象者一覧



【論文の要旨】
問題関心と研究課題・対象
 2010年代に入り、沖縄では、保守・革新といった政治的立場やイデオロギーを超えて一致点をさぐり、「オール沖縄」や「島ぐるみ」と表現される基地反対運動が展開されている。本稿は、この同時代史的な動きも視野に入れつつ、保革対立の顕在化に伴い連帯(連携)が困難になったとされる日本復帰(復帰)前の沖縄を対象に(1967年〜72年)、そのなかでも広範な人びとの結集をめざそうとした運動・志向性のあり様と、その歴史的な位置づけを検討した。沖縄戦後史研究において、いわゆる「島ぐるみ闘争」とは、1950年代半ばの米軍による新規土地接収と地代の一括払い方針への抵抗を背景とした土地闘争や、60年代の日本本土への復帰運動をさし、多くの研究が蓄積されてきた。「島ぐるみ闘争」としての復帰運動は、1960年代後半にかけて、運動の一翼を担った沖縄教職員会が革新勢力として自己規定するなかで保守勢力との対立が顕在化し、次第に困難になったと理解されている。本研究は、保革対立の影響により規定された時期に着目し、従来「島ぐるみ闘争」とは直接名指されなかった営み・経験・時期にも、人びとの結集をめざす「島ぐるみ」の過程が見いだせるものと捉え、その様相を明らかにした。
 以上の問題関心を踏まえ、本研究では、次の二つの課題と着眼点から考察を行った。一つ目の課題は、上述の島ぐるみをめざす運動・志向性の「契機」と「過程」を明らかにすることである。その作業で着目したのは、島ぐるみの動きの起点となったB52戦略爆撃機(B52)の爆発事故や経済開発といった「出来事そのもの」と、嘉手納を中心とした沖縄本島中部の「地域」における動向である。二つ目の課題は、復帰前の時期において、基地との関わりで形成された、身近な生活(狭い意味での経済活動も含む)に対する認識と態度のあり様を明らかにすることである。本研究では、この認識と態度を人びとの「生活・生命への視点」と捉え、その歴史的な変遷をたどった。ここでは、上記の視座から対象にアプローチすることで、島ぐるみの動きにおける結集点や分断点も明らかにすることできた。
 この研究課題のうえで、本論文で主な検討対象としたのは、復帰前の二つの島ぐるみをめぐる経験である。一つ目の経験は、1968年11月の主席公選選挙(主席選)後に展開されたB52撤去運動である。この戦後初の主席選では「基地がなくなれば、戦前のようにイモを食い、ハダシで歩く生活に逆戻りする」というイモ・ハダシ論が論争を巻き起こし、まさに「基地反対か経済か」の選択が迫られるほど、社会的な対立は激しくなった。しかし、保革対立が顕在化したとされる時期でも、主席選後のB52爆発事故は、生活と生命への危機を呼び起し、「生命を守る」ことを結集点とする島ぐるみの運動がゼネラルストライキ(2・4ゼネスト)の一歩手前まで展開された。この研究対象の検証では、「基地反対か経済か」の選択を求めるイモ・ハダシ論的な視点の展開と、B52爆発事故後の島ぐるみの運動が、その視点に対してどのような転換を迫ったのかに着目した。二つ目の経験は、まさに上述の島ぐるみの動きが収束する1969年に顕在化した、経済開発をめぐる県益擁護の運動である。本研究では、いずれも1967年頃から復帰直前にかけて争点化した、外資導入と尖閣列島の資源開発(尖閣開発)という二つの事象に着目し、検討した。2・4ゼネスト回避後、B52撤去や復帰のあり方をめぐる島ぐるみの動きが困難となるなか、経済開発に可能性を託し、自立経済や「豊かさ」を求めたのがこれらの動きであった。ここでは、以上の二つの島ぐるみの経験を一連の過程として検証した。本稿の結論部分では、B52撤去運動における「生命を守る」という一致点が、県益擁護の運動へとシフトしていくなかで、「県益」や「豊かさ」へと転換したことの歴史的位置づけを示した。なお、本研究で依拠した資料は、新聞資料、行政資料および個人資料などの文書資料を主要なものとし、関係者へのインタビューも補足的に用いた。そのうち、ここでは、新聞資料を中心に検証したことで、島ぐるみの動きの歴史的な波及(契機と過程)を時系列的に把握でき、また、人びとの認識・態度と直面していた状況との関わりを捉えることができた。
本論の概要と結論
 以上を踏まえ、第1章では、B52撤去運動と経済開発をめぐる島ぐるみの動きの置かれていた歴史的条件について明らかにした(1967〜68年)。本研究の対象とした1960年代後半の時期は、上述した保革対立の顕在化だけでなく、復帰や基地への態度を問うかたちで、身近な経済活動をどのように捉えるのか、という認識上の対立の深まりも存在していた。本章では、1967年9月以降に主張された即時復帰反対論から、翌年のイモ・ハダシ論への展開を追いながら、経済活動をめぐる認識上の対立の局面について描き出した。コザの商工業者(基地関連業者を含む)を中心に展開された即時復帰反対論は、先行きの見えない復帰への危機感を背景として出されたが、1967年11月の佐藤・ジョンソン会談によって、即時復帰の見送りと経済面における一体化路線が具体化されたことで役割を終えた。この過程では、経済面での「開発」の可能性が強調され、沖縄自らが「開発」について議論することが可能となった。その後、主席選が政治日程にのぼるなか、「復帰への態度」から「基地への態度」へと争点が明確化され、1968年夏頃からイモ・ハダシ論争が展開された。そこでの対立は、基地を容認し経済活動を重視するか、それとも基地反対の態度をとるのか、という「基地反対か経済か」という選択を迫るものであった。第2章以降で検討した島ぐるみの動きは、上記の対立の深まりという歴史的条件のもとで展開された。
 続く第2章と第3章では、B52爆発事故後の撤去運動について、嘉手納における運動の展開と、その後、いかに嘉手納を超えて運動が広がりゼネスト回避にまでいたったのか、について検討した(1968〜69年)。まず、第2章では、嘉手納という「地域」に着目し、B52爆発事故後の撤去運動の歴史的背景と過程を明らかにした。この撤去運動の背景には、同地域において、くり返されてきた米軍機事故や基地被害への不安の積み重ねと、抗議運動の蓄積があった。本研究では、1962年と66年に起った米軍機事故後の補償運動と基地拡張工事による砂じん被害に対する座り込み(ハンガーストライキに発展)の運動を取り上げ、「生活と生命を守る」という契機が嘉手納で重視されてきたことを明らかにした。そのなか、1968年2月、ベトナム戦争と北朝鮮情勢の悪化からB52が常駐化すると、撤去運動が、嘉手納を中心として取り組まれ、役場職員の取り組みをかわきりに、中・高校生も自発的に参加する島ぐるみの動きへと展開した。立法院では、超党派でB52撤去決議と日本本土への撤去要請決議が可決され、日本政府への要請もなされた。この要請に対して、日本政府は「対米交渉を実施しない」と回答したため、反発は大きかったが、11月の主席選と8月の嘉手納村長選挙が政治日程として近づくにつれ、日本政府への協力姿勢を打ち出す沖縄自民党の動きから、島ぐるみの動きはなしくずし的に終息した。その後、嘉手納村長選挙では沖縄自民党の推す古謝得善が大差で勝利し、嘉手納村外からは、基地を容認し、経済活動を重視するイモ・ハダシ論を受け入れる結果と評価された。これら対立も深まるなか、主席選直後の19日未明にB52爆発事故が起った。この事故の衝撃は、物理的な被害にとどまらず、ショックから声が出なくなる者や、戦争へまき込まれるという恐怖・危機感もあいまっていた。まさに、深まる危機のなか、基地容認と目された古謝村長は、「保守系」を自認しながらも撤去運動の先頭に立ち、また、子どもらの恐怖する姿を間近で見ていた「母親」や教職員は、デモやストライキといった直接行動を組織した。これらの動きを背景に、B52撤去運動は、地域や階層、運動団体の枠を超えて展開された。
 第3章では、B52撤去運動の島ぐるみに向けた動きについて、2・4ゼネスト回避にいたる過程を取り上げて検討した。この章では、従来のような運動体中心のB52撤去運動やゼネストの検討ではなく、地域や階層を超えた取り組みの存在と、嘉手納や経済界からのゼネスト決行阻止の動きを扱った。この運動の波及では、既存の運動団体の動きだけでなく、高校生による取り組みの広がりや地域の議会における撤去決議採択の運動が、草の根のかたちで存在していた。また、組織的な動きも、B52爆発事故に対して「最大の抗議行動を組織しよう」と訴え、従来とは異なる危機感のもとで取り組まれ、広範囲な団体・組織が参加する「県民共闘会議」の結成へとつながった。この団体の通称が「生命を守る県民共闘」とされたことからも、第2章の「生命を守る」という一致点が広がっていたことがわかる。だが、2月1日未明、県民共闘会議においてゼネストを主導していた沖縄県労働組合協議会はゼネスト回避の決定を下した。組織的な運動として捉えた場合、ゼネスト態勢はこの時点で崩壊したと言えるが、本研究では、B52撤去運動の広がりを考慮に入れ、地域や経済界からのゼネスト回避の動きについても検討した。経済界の動きは、沖縄経営者協会(沖経協)を中心としたもので、「政治ストは違法」および「ゼネスト決行による経済的混乱・経済的損失の回避」の二つを主張していた。沖経協を中心に、琉球政府へのゼネスト回避要請を行うなど、ゼネストに向けた動きに分断をもたらした。また、嘉手納におけるゼネスト決行反対の陳情活動は、米兵向けの貸住宅組合や歓楽街(特飲街)の組合により行われたものであった。そこでの主張は、嘉手納でのゼネスト決行が「生活を破壊」するとし、それに反対するものであった。この陳情は、嘉手納村議会で審議され、鋭く意見が対立するなか可決された。以上のように、B52撤去運動は、ゼネスト決行をめぐり、嘉手納や経済界のなかからの批判によって分断にさらされた。
 最後の第4章では、2・4ゼネストが回避され、B52撤去運動が分断されるなか、浮上してきた経済開発をめぐる島ぐるみの動きを検討した(1967〜72年)。この動きは、政治的な局面での島ぐるみの動きが困難となるなか、自立経済や「豊かさ」を一致点とした運動をめざした。本章では、まず、工業化路線への可能性を具体化した外資導入をめぐる動きを検討した。琉球政府は、「自治権の拡大」の一環として外資導入の審査権限を得ていたが(1965年)、その権限を行使し、石油外資の許認可を行った(1968年1月以降)。そこでの姿勢は「県益重視」を軸としていたが、石油・アルミ外資の進出の過程で、日本政府による国家的な「かけ込み外資」の阻止が強硬的に行われ、県益と国益とが正面から対立した。しかし、ここでの「県益」は、石油企業による工場建設が地域レベルでの対立を顕在化させたため、島ぐるみでの一致点とはならなかった。これとは対照的に、尖閣開発は、組織的な動きも伴って島ぐるみ化した。この開発をめぐり、沖縄からは、石油資源を県益と捉え、自立経済の達成に向けて経済開発に組み込もうとする動きが出てきた。そこでは、県益の確保を訴える鉱業権者の呼びかけや八重山諸島からの尖閣開発への動きもあり、2・4ゼネストでは批判の急先鋒であった沖経協を含めた団体が発足し、「県益擁護」の運動が展開された。しかし、この動きは、一時的には島ぐるみのかたちをとったものの、鉱業権者の個別的利害の対立、日本政府による台湾政府への鉱区権設定の追認や中国政府の領有権主張による尖閣問題の棚上げといった要因を背景に、なしくずし的に終息した。この県益擁護の運動は、ゼネスト回避後の既成事実化に抗うものではあったが、日本政府を中心とした国益の論理の強硬的な主張や、一致点とされた経済的利益の個別的利益への矮小化といった分断によって、限界性を露にした。
 以上の各章での検討を受け、終章では、復帰前の島ぐるみの経験の位置づけについて「代替可能性/不可能性」という観点から、以下のように結論づけた。B52撤去運動における一致点は、「生命」という、人びとにとって、他の事物とは取り替えることが不可能な対象であった(代替不可能性)。だからこそ、その対象は、政治的な対立に左右されることなく、守られるべきものとされた。しかし、2・4ゼネスト回避以降、基地が固定化されるなか、「生命を守る」という代替不可能なはずの要求はたなざらしのまま、「可能性の残された領域」としての「開発」に、新たに自主性や主体性が託されていった。いわば、復帰前の島ぐるみの動きとは、代替不可能なもの(「生命を守る」)から、代替可能なもの(「県益」や「豊かさ」)への一致点の転換とともに、経済的な結集点を前景化させるものであったと言える(復帰後の日本国家による開発主義的統合の端緒ともなった)。
 本稿は、復帰前の島ぐるみの経験の位置づけを明らかにしたことで、保革対立や沖縄闘争を軸として扱われてきた当該時期に関する沖縄戦後史研究に、新たな知見と視座を加えるものである。

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