博士論文一覧

博士論文要旨

論文題目:帝国議会における臨時軍事費―大正期から日中戦争期までを中心に―
著者:尹 賢明 (YUN, Hyenmyeng)
博士号取得年月日:2017年3月21日

→審査要旨へ

序章
1.問題の所在
2.研究史整理
3.本稿の課題
第1章 臨時軍事費の概略
 第1節 臨時軍事費の特徴
1.概念と経緯
  2.予算の成立と運用
  3.帝国議会との関係
  4.問題点
第2節 臨時軍事費の略史 
1.日清戦争期(1894年6月-1896年3月)
  2.日露戦争期(1903年10月-1907年3月)
  3.第1次世界大戦・シベリア出兵期(1914年8月-1925年4月) 
  4.日中戦争・太平洋戦争期(1937年9月-1946年2月) 
 
第2章 大正期の帝国議会における臨時軍事費
 第1節 一般軍事費の動向
1.葛藤期   
2.軍拡期
3.軍縮期
第2節 帝国議会における臨時軍事費
1.臨時軍事費特別会計の成立と運用 
2.予算の説明と公開問題
3.陸軍機密費問題と決算審議

第3章 日中戦争期の帝国議会における臨時軍事費
第1節 一般軍事費の動向
1.ロンドン海軍軍縮条約と満州事変以後の転換
  2. 総合国策機関と物動計画
第2節 帝国議会における臨時軍事費
 1.臨時軍事費特別会計の成立と臨時軍事費問題
 2.日中戦争の長期化と臨時軍事費問題
 3.対米戦争への傾斜と臨時軍事費審議
 4. 予算の説明と公開
第3節 太平洋戦争期の臨時軍事費
 1.太平洋戦争における臨時軍事費
 2.終戦後の臨時軍事費

おわりに
参考文献目録


<本文要旨>
予算は政治的決定が数量で表現されるものであり、その成立においてはさまざまな政治的対抗関係が存在する。そのため、予算の成立とそれに伴う政治過程は政治史を明らかにするための重要な問題である。そこで、本論文では、政治史の視点から近代日本の軍事費について見ていきたい。
近代日本には、一般会計とは別途に特別会計として運用される臨時軍事費が存在した。臨時軍事費は「臨時軍事費特別会計法」に基づいて戦争の際に成立し、運用されており、日清戦争、日露戦争、第1次世界大戦・シベリア出兵、日中戦争・太平洋戦争の戦費は臨時軍事費によって賄われた。これは臨時軍事費の重要性を示している。しかし、臨時軍事費に関する先行研究は少なく、その多くは財政史・経済史のものである。政治史の視点からの研究の場合、吉田裕の研究と鈴木晟の研究が存在するに過ぎない。こうした研究状況に対し、筆者は軍事費のコントロールと帝国議会の役割に着目して臨時軍事費が帝国議会でどのように成立したのかに注目する。そこで、本論文では一般軍事費も視野に入れて、大正期から日中戦争期までを中心に臨時軍事費が帝国議会でどのように公開されたのか、どのような議論を経て成立したのか、時期ごとにどのように変わっていったのかを分析し、臨時軍事費が議会権力の弱化に伴っていかに予算のコントロールから外れていったのかを考察する。各章の内容は以下の通りである。
第1章では、臨時軍事費の特徴と略史について述べた。まず、臨時軍事費の特徴を見ていこう。戦費としての臨時軍事費は他の予算と違い、特別扱いを受けた。帝国議会で臨時軍事費は、機密上の理由で予算の内容がほとんど公開されなかった。また、その法律案と予算案は常に可決され、否決・修正されることもなかった。それから、臨時軍事費は、会計制度上、戦争の終結までを一会計年度としたため、開戦から戦後処理が終わるまで長く運用された。さらに、新たな軍事行動・戦争のために運用期間が延長されることもあった。要するに、臨時軍事費は予算のコントロールという点で大きな問題点を孕んでいたのである。次に臨時軍事費の略史を見ていこう。最初の臨時軍事費特別会計は、日清戦争の際に設けられ、その法律案と予算案は第7議会(1894年10月召集)で成立した。その結果、臨時軍事費は日清戦争の戦費として支出されることとなった。日清戦争の臨時軍事費は、台湾征服のための諸経費として引き継がれた後、終結された。日露戦争の時も臨時軍事費が運用された。この時期の臨時軍事費の特徴は、金額の大きさ、外国債への依存という2点にまとめられる。第1次世界大戦・シベリア出兵期の臨時軍事費は、第1次世界大戦の戦費として成立したが、シベリア出兵の費用として引き継がれた。そのため、1914年に設置された臨時軍事費特別会計は1925年まで継続され、臨時軍事費の長期化という先例を残した。日中戦争・太平洋戦争の臨時軍事費特別会計は、日中戦争の際に設けられた。最初の予算は、短期決戦の費用として第72議会(1937年9月召集)で成立した。しかし、戦争が長期化するにつれその追加予算が次々に成立した。当初、臨時軍事費は日中戦争を理由に成立したが、対米開戦の後は、そのまま引き継がれて太平洋戦争の戦費として支出された。太平洋戦争の臨時軍事費は日中戦争の臨時軍事費の追加予算として成立し、支出されたのである。終戦後、臨時軍事費は連合国総司令部の指示で、ようやく1946年に打ち切られた。
第2章では、一般軍事費の動向を葛藤期、軍縮期、軍拡期に分けて述べた上で、帝国議会における臨時軍事費について、臨時軍事費特別会計の成立と運用、帝国議会における臨時軍事費の説明と内訳の公開、陸軍機密費問題と決算審議の順に述べた。まず、一般軍事費の動向について見ていこう。葛藤期に陸海軍は、それぞれ25個師団と8・8艦隊の建設を目指して軍拡を進めた。反面、政党勢力と世論は、不況・財政悪化を理由に減税を要求し、軍拡に反対した。そのため、陸海軍の軍備拡張費は、帝国議会で頻繁に否決・修正された。要するに、葛藤期において帝国議会は陸海軍の軍拡に歯止めをかけたと言えよう。軍拡期には、第1次世界大戦の勃発による国際情勢の変化・好景気を背景に、帝国議会が軍拡を積極的に支持した。帝国議会は、陸海軍の軍拡路線に同調して多額の軍備拡張費を可決したのである。軍縮期には、第1次世界大戦以後の国際的な平和主義・経済不況を背景に、軍縮による軍事費の節減が図られた。そのため、政府はワシントン会議以後、軍縮と政府全般の行財政整理を行い、帝国議会もこれに応じた。陸海軍の軍縮は不徹底な面があったものの、日露戦争以後続いてきた軍拡が抑制され点で評価すべきである。それでは、臨時軍事費はどうだったのか。第1に、臨時軍事費特別会計の成立と運用についてである。近代史上の3回目の臨時軍事費特別会計は、最初、第1次世界大戦のために設けられた。日本の軍事行動は主に東アジアに限られ、臨時軍事費の規模は大きくなかった。依然軍事費の中心は一般軍事費であったのである。当時、帝国議会で一般軍事費は、軍事費削減要求の中で頻繁に否決・修正されたが、臨時軍事費は常に原案とおり可決された。予算規模が小さく、国権の伸長のための費用だと見なされたからだと考えられる。だが、この時期は、予算のコントロールにおいて臨時軍事費の問題点が浮き彫りになった時期でもあった。第1次世界大戦のための臨時軍事費がシベリア出兵の経費に引き継がれたためである。そのため、帝国議会では、正式の戦争ではなく、シベリア出兵のために臨時軍事費が支出されていることに対し激しい批判が行われた。第2に、帝国議会における臨時軍事費の説明と内訳の公開についてである。根本的な限界があったものの、大正期は、他の時期と比べて臨時軍事費の公開が進んだ時期であった。帝国議会に提出された予算書上の内訳は、臨時軍事費、予備費の2本建てに過ぎないが、政府側の説明では陸海軍の区分、款と項を超える公開が行われた。また、予算案に関連して兵力量を含める丁寧な答弁が行われた。ただ、これは、制度の改善よりも、議会勢力が軍事費問題に深く介入できたため生じた変化だと考えられる。第3に、陸軍機密費問題と決算審議についてである。陸軍機密費問題と決算審議は臨時軍事費の問題点を浮き彫りにした。その問題点は帝国議会で明確に指摘・批判された。だが、陸軍機密費問題はうやむやに終わり、決算審議は会計的な問題を処理することで終了した。
 第3章では、ます、一般軍事費の動向としてロンドン海軍軍縮条約と満州事変以後の転換、それから、総合国策機関と物動計画について述べた。その上で、臨時軍事費をめぐる帝国議会での議論を分析し、最後に、対米開戦から臨時軍事費特別会計の終結とその決算審議までの流れを検討した。まず、一般軍事費の動向を見てみよう。大正期は、帝国議会が軍事費全般に多大な影響力を行使した。しかし、こうした状況はロンドン海軍軍縮条約と満州事変を転換点として大きく変化しており、対外的には国際関係の悪化、対内的には政党勢力の衰退・帝国議会の弱化が進んだ。また、この中、総合国策機関の設置を通して国家政策の大局的な判断、国家的見地による予算編成の試みが行われた。次に、臨時軍事費をめぐる議論を見ていこう。日中戦争を理由に臨時軍事費特別会計が設けられた時、帝国議会の委員会は臨時軍事費の長期化を危惧し、これに対し政府側は臨時軍事費特別会計は臨時措置であることを強調した。しかし、日中戦争が長期化するにつれ、議論の争点は、戦時対策と臨時軍事費の運用上の諸問題に移った。その際、帝国議会の委員会では、臨時軍事費に関連する批判・追及が行われた。陸海軍は、実際には対ソ戦・対米戦に備えて多額の臨時軍事費を転用しつつ、さらに、政治資金として流用しながらも、議員たちには、臨時軍事費は日中戦争のために正しく支出されていると虚偽の答弁を行った。このうち、臨時軍事費の転用による軍拡は、対米開戦への見通しを与えた点で重要である。しかし、国際情勢の悪化・対米関係の緊張が高まっていく中で、政府側も、特に対米戦に備える臨時軍事費支出をはっきりと認め、議員たちもこれを容認することとなった。その後、臨時軍事費は太平洋戦争の戦費として引き継がれることとなった。次に、帝国議会における臨時軍事費の説明と内訳の公開について見てみよう。日中戦争期は、臨時軍事費の公開が大正期と比べて大きく後退した時期であった。主な変化は次のようである。第1に、大正期のような款と項を超える説明がなくなった。第2に、政府側が議員たちの質疑応答に非協力的であった。もちろん、兵力量の公開も行われなかった。予算は陸軍臨時軍事費、海軍臨時軍事費、予備費の3本建てであり、陸海軍の区分があったものの、大正期の公開とは大きく違うものであったのである。こうした公開は太平洋戦争期まで維持された。最後に、対米開戦から臨時軍事費特別会計の終結とその決算審議までの流れを見てみよう。太平洋戦争の勃発後、臨時軍事費をめぐる政治的議論はほとんどなくなり、その予算規模は戦況の悪化につれますます大きくなった。その中、臨時軍事費は帝国議会のみならず、行政機関の監督からも外れ、放漫な支出が行われた。もはや、臨時軍事費は予算のコントロールから外れていたのである。こうした臨時軍事費の流れは、予算制度全般に悪影響を及ぼし、一般予算の「臨軍化」をもたらした。日中戦争・太平洋戦争期の臨時軍事費は、圧倒的な予算規模、公債比重の高さ、戦争の連続と拡大、予算監督と支出上の諸問題という点で他の時期の臨時軍事費と区分される。この時期は臨時軍事費の問題点が極端に表れた時期であった。終戦後、臨時軍事費は戦後処理の費用として支出された後、連合国総司令部の指示で1946年2月28日に終結された。その後、臨時軍事費特別会計の決算結果は、最後の帝国議会である第92議会(1946年12月召集)に提出されており、同議会の決算委員会で決算審議が行われた。ところが、臨時軍事費に関する議論は主に会計的な問題に限られ、政治的な問題はほとんど挙げられなかった。結局、臨時軍事費問題は、その責任の所在が曖昧なまま、新憲法と国会の誕生を控えて早急に処理されたと言える。次に、本論文で明らかになった点を序章の課題に沿ってまとめておく。
第1に、臨時軍事費の歴史と実態の解明である。臨時軍事費は、日清戦争、日露戦争、第1次世界大戦・シベリア出兵、日中戦争・太平洋戦争の際に成立し、運用された。日清戦争期、日露戦争期は比較的短期間に運用されたが、第1次世界大戦・シベリア出兵期には長期化し、さまざまな問題点を残した。その後、臨時軍事費は日中戦争の際に運用されはじめ、太平洋戦争に引き継がれた。臨時軍事費は終戦後、1946年にようやく終結した。この流れは、先に述べた各章の内容と重なるので、詳しい内容は省略する。
第2に、帝国議会で軍事費がどのように成立したのかの分析である。大正期に、一般軍事費は帝国議会によって頻繁に否決・修正された。とりわけ、議会勢力は、軍事費審議を通して陸海軍の兵力量の決定にも影響力を行使した。臨時軍事費の場合、否決・修正されたことはなかったが、帝国議会で臨時軍事費予算案の修正案が提出された点、予算内容が他の時期より詳しく公開された点、決算審議の際に公然とした批判が行われた点は評価すべきである。とりわけ、政府側が款と項の範囲を超えて臨時軍事費予算案を説明したことは大正期(第1次世界大戦・シベリア出兵期)のみである。この時期に帝国議会は、軍事費全般に多大な影響力を行使したわけである。だが、こうした状況はロンドン海軍軍縮条約の締結と満州事変の勃発を転換点として大きく変化した。この中で政党勢力の衰退・帝国議会の弱体化が進んだ。その上、日中戦争を理由に設置された臨時軍事費特別会計は、帝国議会の軍事費への介入を一層厳しく制限した。臨時軍事費の内容の公開もより制限された。さらに、陸海軍は、軍事費のほとんどを臨時軍事費に編入していき、臨時軍事費予算は常に全会一致で可決された。つまり、日中戦争期には帝国議会の弱体化に伴って議会の軍事費への介入が事実上、遮断されたと言える。大正期と比べて大きく異なる状況であったのである。
第3に、昭和戦前期における「戦時議会」の位置づけである。日中戦争の臨時軍事費特別会計が設置された後、帝国議会の役割が大きく制限されたのは事実である。だが、戦時立法と臨時軍事費予算案の成立には帝国議会の協賛が必要であり、帝国議会は依然内閣を圧迫できるほどの勢力を保持していた。この中で、議員たちは政府を批判・追及したものの、戦時対策と戦況を重視して臨時軍事費特別会計法案とその予算案を常に全会一致で可決した。また、議会勢力は、自主的な判断に基づいて対米強硬論を主張し、第77議会(1941年11月召集)の際には、事実上、対米戦のための臨時軍事費予算案を迅速に可決した。帝国議会の最大の関心事は、軍事費のコントロールではなく、戦争遂行とそれに伴う国権の伸長だったのである。帝国議会の権限が弱化したとはいえ、昭和戦前期の戦時議会は、戦時体制を支える有効な政治勢力の1つであったと言える。
以上の研究成果を踏まえて、帝国議会における臨時軍事費について結論づけたい。予算のコントロールという点で臨時軍事費は、帝国議会の軍事費介入を妨げ、ひいては、軍事費を立憲的な予算のコントロールから外すものであった。だが、それにもかかわらず、臨時軍事費制度は帝国議会の黙認と協調に基づいて維持された。結局、臨時軍事費は、帝国議会の軍事費介入を制限するものであった反面、「大日本帝国」の発展の中で、帝国議会が政府と協調して「帝国の戦争」を支える手段でもあったと言える。

このページの一番上へ