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博士論文要旨

論文題目:日本近世社会と町役人― 甲府町年寄坂田家の歴史的位置―
著者:望月 良親 (MOCHIZUKI, Yoshichika)
博士号取得年月日:2016年7月29日

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1、本論文の構成   
序章 近世都市史研究の課題と本論の構成
 はじめに
 第一節 近世都市史研究の現在
 第二節 町役人の研究をめぐって
 第三節 分析対象の概観
 第四節 本論の構成
第一章 町役人の系譜―坂田忠家と甲府町年寄―
 はじめに
 第一節 一七世紀後半の甲府と甲府町年寄
 第二節 甲府町年寄の盛衰
 第三節 坂田家の「筋目」と甲府町年寄
 おわりに
第二章 享保期における町役人の変容―享保九年の甲斐国幕領化を事例に―  
 はじめに
 第一節 享保九年柳沢吉里の転封と町方
 第二節 「久敷事をも覚罷在候者」
 おわりに
第三章 甲府町年寄と将軍年始参上
 はじめに
 第一節 将軍年始参上の許可
 第二節 江戸参上の由緒形成
 第三節「先格」の実像
 第四節 安永六年の将軍年始参上
 第五節 寛政六年の変化
 おわりに
第四章 幕領の町役人と江戸―江戸へ去る幕府役人―
 はじめに
 第一節 安永六年の甲府町年寄坂田忠尭と将軍年始参上
 第二節 甲府町年寄と江戸
 おわりに
第五章 甲州騒動と「御救」   
 はじめに
 第一節 思い起こされる天明七年の「御救」
 第二節 甲州騒動後における甲府の「御救」
 第三節 幕末の「御救」
 おわりに
第六章 移動する将軍と町役人の将軍年始参上
 はじめに
 第一節 町役人はどこに行く
 第二節 将軍が居る畿内
 第三節 江戸に集う町役人
 おわりに
終章 近世都市と町役人の家
 第一節 甲府町年寄と坂田家
 第二節 町役人の家
 第三節 町役人の近代
 第四節 都市史を拡げるために

2、先行研究の成果と課題
本論文は、日本近世社会において、都市の支配者である武士と民衆との結節点を担った町役人が自身の家を如何にして存続させていったのかを明らかにし、その存在を近世社会の中に位置付け、近世社会の特質を解明したものである。近世を通じて存在した町役人の家に注目し、世襲化していったことが彼らの意識にいかなる影響を及ぼしたかについて検討し、さらにはその意識と職務・家経営の関係について論じた。
近世都市史研究を1980年代以降牽引してきた吉田伸之は、近著で都市の権力とヘゲモニーを考える際に重要な論点の一つとして、町年寄や名主といった町役人を挙げ、その重要性を説いた。これまでも町役人についての検討は多くあり、京都においては、高い実務能力を備えたことにより町政に不可欠な存在となった町代の研究が挙げられる。江戸では、名主が専業化を遂げ、より広域的な都市行政を担うような動向などが明らかになっており、都市における町役人の重要性は解明されてきている。しかし、これらの研究は、総じて町役人の職務、都市行政の運営という観点からの検討が中心であったと言え、町役人の家については着目していなかった。
このような動向の中、村方の中間層の研究を進めていた志村洋は、村方のみならず、町方も含む地域社会において、近世を通して門閥的な名主などの役人が存在するとし、彼らについて近世初頭から検討することの必要性を提起した。加えて、志村は町村役人の家経営と職務の関連も論点とすることを主張している。都市社会の研究で、この視角において研究を進めているのが、高山慶子による江戸の世襲名主に関する一連の研究である。高山は、名主の縁戚関係・金融関係など、世襲名主の家経営を明らかにしつつある。
町役人に関する研究は、以上のように、現時点では町役人の職務、都市行政に関わる検討が中心であり、近年、町役人の家経営が少しずつ明らかにされつつある。しかし、町役人を世襲的に担った家への注目は、いまだ充分ではなく、代々町役人を務めていったことが、その後の町役人の家の存続に、如何なる影響を与えたのか、その意味までに検討は及んでいない。何代にもわたり町役人を務めた家にとって、公的職務、家経営の側面のみならず、彼らの家がいかなる家であるかという認識を明らかにし、それらが職務や個別の家経営と如何なる関係であったかを具体的に考えることが課題となっている。世襲していることが、職務や家経営に色濃く反映されるはずである。

3、本論文の課題設定と方法
上記を踏まえ、本論文の課題を次のように設定する。世襲的な町役人の家が如何にして存続していったのかを明らかにし、その存在を近世社会の中に位置付けることを目指した。その際には、町役人を世襲していたことが、職務・家経営と如何なる関連であるのかについて注目をした。分析対象としては、戦国大名武田信玄に仕えたとされ、甲府城下町の町役人である甲府町年寄を近世を通じて務めたとされる坂田家を取り上げた。一つの家を近世を通じて分析し、歴史的段階を明らかにすることに取り組んだ。

4、本論文の概要
序章は、近世都都市史に関する先行研究の成果と課題を示し、町役人の家に注目することにより、上記の課題に接続できるかを検討した。あわせて本論文の課題設定と方法、分析対象の概観、構成を示した。
第一章は、坂田家にとっては、相対的に不安定な時期であったと考えられる17世紀後半を中心に、坂田家がこの時代を如何にして生き抜いていったのかを検討した。甲府では、17世紀後半に町政機構が整備され、甲府町年寄は、町奉行と各町を結びつける惣町支配を担う町役人として位置付けられた。この整備を経て、坂田家が町役人の家として変化していった姿を明らかにした。
 第二章は、享保9年(1724)、甲府藩主柳沢吉里の大和国郡山への転封に伴う、甲斐国幕領化時に、甲府町年寄と甲府の町方が如何に関わり、変容していったかを検討した。幕府が少数での支配を行なうために、甲府町年寄は町方への政策実現に関与していたことを指摘した。これ以降の坂田家と山本家の二家が、甲府町年寄を代々務めていく画期を明らかにした。
 第三章では、儀礼・格式に拘泥するようになった18世紀半ばの都市社会において、従来明らかになっていなかった、それを支える財政的な問題について検討した。幕領化以降、幕府が町方への依存を深めていった中、町方へさらなる賦課である将軍年始参上の費用を如何にして賦課することができたのかを考察した。将軍年始参上の許可および費用賦課方法は、坂田家の由緒を利用していたことを明らかにした。しかし、寛政期の費用賦課方法変更時には坂田家の由緒が利用されなくなったと指摘した。
 第四章は、町役人の家と幕府直轄都市の特質との関係について論じた。安永6年(1777)の甲府町年寄坂田忠尭の隠居一件から検討した。忠尭は禁足を解くためなどに前甲府勤番支配山口直郷に近づき、それに対して直郷は一橋家の家老としての職務上の必要性から忠尭との接触を持ち、両者にとって関係を維持することはメリットがあったことを指摘した。幕府役人が数年で交代するという幕府の構造的な特質に基づいた関係であった。
 第五章は、仁政イデオロギーがゆらいでいくとされる天保期の「御救」の実現過程を、甲州騒動直後の甲府の事例から検討した。その際、幕末までを視野に入れ、その変容過程に迫った。天保期には、甲府町年寄が蓄積していた御救の先例を参考にし、新たに設置された広域的な行政を担う肝煎名主などが御救を行なっていた。しかし、幕末になると肝煎名主は困窮人の調査を行なうことなどがなくなり、恒常化・多様化する御救を甲府町年寄の下で行なっていた様子を明らかにした。
 第六章は、幕末に将軍が江戸不在時においても行なわれていた町役人の将軍年始参上を検討した。14代将軍家茂が上洛すると、将軍年始参上は変容しだし、将軍不在時には江戸の寺社奉行屋敷で将軍年始参上が行なわれていた姿を明らかにした。町役人にとって将軍年始参上という名目が重要であるということを指摘し、町役人たちの幕府離れについて言及した。
終章は、本論文の内容を総括し、町役人の家の近代への展望、今後の課題について述べた。

5、本論文の成果と課題
 町役人に関する研究において、これまでは町役人の職務や都市行政を担う様子が検討され、高度な実務能力を持つようになっていった町役人の姿が描かれてきた。しかし、本論文で明らかにしたように、行政的に高度な手腕を発揮する町役人たちの姿には、その家の特質が如実に現われていた。世襲的な町役人の意識と公的職務、個別経営の関係について問わねばならないことが明らかになった。本研究により、これまでの職務中心であった町役人像から、家との関連を踏まえた新たな町役人像へと歩みを進めることができた。
 17世紀後半に町政機構が整備され、甲府町年寄は町奉行と各町を結びつけ、惣町支配を担う存在として位置付けられた。このような中、甲府町年寄坂田忠家は、坂田家が中世以来の「町検断役」に続く、近世の「町年寄」であるという意識を創り出し、家の存続を図った。忠家の意識、職務と家経営の密接な関連が明らかになった。
 享保期に甲斐国が幕領化すると、町人への役賦課などが増大化していったが、その利害調整をしたのが、甲府町年寄であり、彼らの先例調査能力などが幕府に求められていた。坂田家は、幕府からも「代々」甲府町年寄を務めている家であると認識され、その能力が必要とされていた。
 18世紀半ばの甲府町年寄坂田忠尭が、主張した将軍年始参上の許可運動時における由緒も坂田家の家の特徴と密接に関連していた。忠尭は、祖父忠家が創り出した先祖代々坂田家が町検断役と甲府町年寄を務めたという由緒を前提にしていた。それを踏まえ、甲府町年寄として、先祖代々将軍への御目見を実施していたので、許可を得られるようにと述べていた。世襲的な町役人でなければ、できない主張である。天保期の御救時にも前例の確認など世襲町役人として町政では重要な位置を占めていたことも指摘した。
 甲府町年寄坂田忠善は、近代に入ると、明治5年(1872)に戸長、翌年には区長を務め、引き続き町政の一端を担った。しかし、同6年に区長を退任すると、以降は町政に関わる職に就くことはなかった。世襲町役人であった忠善は、近代的な地方制度への橋渡しという重要な役割を担い、その役割を終えたと考えられる。
 このように、世襲的な町役人がいる都市の歴史的な展開を明らかにすることができた。これは、渡辺浩一が近著で主張していることとも関わる。渡辺は、町の運営のあり方の違いが文書保管方式に反映しているのではないかと見通しを立てている。つまり、町役人が交代制の場合と、世襲制の場合で違いがあると述べている。世襲的な町役人の家では、多くの文書が、その家に残されるとする。本論文の検討と併せて考えると、町役人の出自は、これまで以上に重要な要素となり、町政・家経営などの諸側面において決定的な意味を持つと言える。近年、門閥的な世襲町役人、町役人の家経営へも研究の関心が集まっているが、本論文の如く家の歴史を踏まえ、町役人論を構築する必要がある。中世から近世を経て、近代を迎える世襲町役人の家がある都市は多く存在する。本論文で検討した坂田家以外にも、江戸の町年寄を務めた樽屋・奈良屋・喜多村の三家は、近世初頭から町年寄役となり、幕末まで世襲で務めた。京都では、複数の町により構成された町組を管轄した町代も特定の家が世襲して担った場合が多い。他の都市においても町役人たちは、近世初頭から続いている家も多くあり、これら戦国期から、近世を経て、近代に至るまで町役人を続けた家が存続する事例は特殊ではない。さらに、村方に目を転じると、世襲する村役人の数は膨大になる。この視角を踏まえると、新たな町方・村方の役人像を結ぶ必要があろう。
 最後に、本論文で積み残した課題について述べ、さらなる都市史を拡げる視角について考えたい。まず、一点目は坂田家文書のアーカイブズ学的検討である。例えば、本論文で使用した甲府町年寄坂田家の御用日記、御用留は、17世紀の終わりから幕末まで、ほぼ通時的に残存している。触留や『信齊叢書』といった編纂物なども多数あり、現存しているのみでも史料は膨大な量になる。本論文で取り上げた事例においても、坂田家のアーカイブズが利用されている姿は幾度も見ることができた。しかし、本論文ではこれらの史料の生成、保管、活用などの過程を充分には検討できなかった。
 また、このような情報を集められることができた坂田家のネットワーク、学問的な状況なども明らかにする必要があろう。その際に重要であると考えられるのが、相役の甲府町年寄山本家との関係である。例えば、山本家の8代目である金左衛門昌預は、国学を嗜み、歌人としてもよく知られる。昌預は、国学者萩原元克などと言った学者とも関わり、その学問的な状況は断片的ながら明らかになっている。昌預の歌集には、8代坂田忠喬とともに歌を詠んでる姿もみえる。山本家から紐解いていくと、坂田家の学問状況、情報ネットワークが明らかになる可能性を持っている。また、山本家は享保期から甲府町年寄を務めていた点も忘れてはならない。新興の町役人である相役と比較することによって、世襲町役人の特徴がより明らかになるであろう。
 他にも、本論文では、家の個性を明らかにすることを焦点としたため、家の経営内容、町政運営については適宜言及しているが、その分析は不充分な点があったことは否めない。さらには、町人層と坂田家の関係についても言及はあるが、こちらも充分ではなく、一般町人たちが坂田家をどのように見ていたかなど民衆からの視線については課題としたい。上記以外にも、名主層、領主である甲府勤番支配との関連、甲府町年寄が将軍年始参上を忌避するような幕末の幕府離れから近代社会への展開などを課題として挙げることができる。このような課題を乗り越えることにより、町役人の家の特質をより明らかにでき、新たな近世都市、近世社会の様子を見ることができる。

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