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博士論文要旨

論文題目:近世後期の四国遍路と民衆の信心
著者:西 聡子 (NISHI,Satoko)
博士号取得年月日:2016年6月30日

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1、本論文の構成
序章 四国遍路研究の成果と課題
  第一節 四国遍路研究の現在
第二節 民衆思想史・地域文化史と四国遍路研究
第三節 課題と方法
第四節 本論文の構成と各章の概要
第一部 地域文化のなかの四国遍路―阿波半田商人酒井弥蔵の風雅と信心―
 第一章 近世後期の遍路日記に関する基礎的考察―酒井弥蔵の「旅日記」を例に―
  はじめに
第一節 酒井弥蔵の「旅日記」
第二節『さくら卯の花旅日記』の基礎的考察
第三節 道中案内記の影響と遍路日記の多様性
おわりに
 第二章 四国遍路の旅にみる信心と俳諧―酒井弥蔵を例に―
  はじめに
  第一節 酒井弥蔵と四国霊場への旅
  第二節 地域における信仰の営みと俳諧活動
  おわりに
 第三章 民衆の信心と地域文化―酒井弥蔵の旅と俳諧・石門心学―
  はじめに
第一節 酒井弥蔵と俳諧を通じた交友
  第二節 石門心学活動と生活実践
  第三節 信仰実践としての寺社参詣
  第四節 風雅の交流の変容
  おわりに
第二部 行き倒れ人からみえる遍路
 第四章 近世後期阿波における行き倒れ人と村の対応―四国遍路の扱いをめぐって―
  はじめに
第一節 阿波における行き倒れ人と四国遍路
  第二節 遍路のさなかに行き倒れた者への対応―秋本家文書を例に―
  第三節 行き倒れ人への対応―木内家文書を例に―
  おわりに
 第五章 行き倒れ人関係史料にみえる遍路―近世後期阿波を事例に―
  はじめに
  第一節 阿波における行き倒れ人と村
  第二節 病気の遍路
  第三節 「困窮人」の遍路
  第四節 「辺路体」と遍路
  おわりに
終章 近世後期の四国遍路からみえる民衆意識
  第一節 四国遍路の独自性と他の旅との共通性
  第二節 四国遍路と地域文化―通俗道徳との関係を視野に―
  第三節 幕末・維新期への展望

2、先行研究の成果と課題
本論文は、近世後期において四国遍路の旅を行った人々と旅をとりまく周囲の人々の信心や意識のありようを、民衆思想史・地域文化史の視点を取り入れて検討することで、四国遍路の歴史的特質及びそこから見える民衆意識について考察しようとするものである。なお、ここで言う四国遍路とは、弘法大師の遺跡とされる四国地方に点在する八十八ヶ所の札所をめぐる巡礼と巡礼者のことである。
1990年代までの近世の四国遍路に関する歴史学的な研究では、交通史の視点から古代から近世までの各寺社参詣の歴史的変遷を検討した新城常三氏の研究が大きな意味を持っている。氏は他の寺社参詣と比較して四国遍路は苦行性が高く、篤い信仰心で行うこと、「病人」「経済的弱者」「乞食」等が多いこと、四国住民の弘法大師信仰を背景とした遍路への援助・接待は遍路独自のものであること等を総合的に提示した。一方で、この指摘は結果的に遍路特殊論ともいうべき見方につながり、四国遍路が近世史研究の主要な論点に関わる考察対象とはならず、遍路の特殊性・独自性に注意しつつ近世社会に生きた人々の営みの中に四国遍路をいかに位置づけるのかという課題が残った。
ところで2000年以降、四国の地域文化として遍路に注目があつまり四国の大学や研究会主催のシンポジウムが続けて開催されたことと相俟って、従来とは異なる視点からも研究が行われるようになった。これにともない、近世の四国遍路の歴史的特質解明に重要な問題とされている遍路にまつわる信仰・信心のありようについて、(a)四国遍路の独自性と他の旅との共通性をふまえて明らかにすること、(b)人々の教養や文化的営為の中で明らかにすること、(c)四国の藩や村の行政的対応から自ら記録を残さなかった遍路(「病人」「乞食」等)の意識や四国住民の遍路に対する意識の解明という観点をまじえて明らかにすること、が課題として浮上している。
 上述の課題に取り組む上で視座を与えてくれるのが、民衆思想史と地域文化史の視角である。安丸良夫氏は、民衆宗教が人々をとらえた契機(病気・貧乏・不和等)と人々の思想形成をうながす危機感・課題意識を「通俗道徳」に着目して説明した。一方で、このような民衆思想史研究の視角では固定化された地域民衆文化像を生み出すことになるという問題意識から始まった地方文人に関する研究や、地域文化・在村文化の研究では、民衆の豊かな文化的営為や人的交流の実相が次々と明らかにされた。近年では、民衆の寺社参詣の旅もこうした地域文化の営みを背景に行われていたことが指摘されている。これらの研究を踏まえると、四国遍路に赴く人々の信心について、信仰を求める契機や人々の思想形成をうながす危機感・課題意識、そして地域文化の営みの中で醸成された文化的関心との関わりから総合的に捉えることが必要となってくる。

3、本論文の課題設定と方法
上記を踏まえ、本論文の課題を次のように設定する。①遍路を行った人々の信心の内実を、人々の思想形成をうながす危機感・課題意識や信仰を求める契機を視野に入れながら明らかにすること(その場合、著述を残した人だけでなく自ら記録を残さない存在にも十分注意すること)、②遍路の旅を地域文化の営み・人的交流の中で捉えることで、旅を行った人物の意識や信心のありようを考察すること、③上の①②を明らかにするために四国遍路の独自性と他の旅との共通性を明らかにすること。これら諸点の検討にあたって本論文では、一つは遍路の旅に関する著述を残した人物に即して検討すること、もう一つは遍路のさなかに行き倒れた人々に関する史料をもとに自ら著作を残さなかったより下層と想定される人々に着目して検討すること、この二つの方向から取り組むことにした。

4、本論文の概要
序章は、これまでの四国遍路に関する先行研究の成果と課題を示した上で、四国遍路に着目することによって近世史研究の論点にいかにアプローチできるのかを検討した。あわせて本論文の課題設定と方法、構成を示した。
第一部は、遍路を含め多くの寺社参詣の旅を行った阿波国美馬郡半田村(現、徳島県つるぎ町)の商人酒井弥蔵(1808~1892)に即した検討を行うことで、民衆の四国遍路の旅に込める信心や意識のありようを地域文化の営みの中から考察した。
第一章は、四国遍路の旅で作成された記録である遍路日記の特徴を、酒井弥蔵の「旅日記」に即して考察した。弥蔵の遍路日記『さくら卯の花旅日記』は、他の「旅日記」と記載項目や俳諧・名所旧跡への関心が強く表れている点は同じであったが、弘法大師の「御修行の御跡を慕」って霊場を巡拝するという意識を強く持って記されていたこと、及びその記述の背景には、遍路の道中案内記『四国偏礼道指南増補大成』(明和4年初版)の強い影響があったことを明らかにした。
 第二章は、四国遍路の旅に込める信心の内容を検討するとともに、旅の背景にある信心と俳諧への関心の密接な関わりについて考察した。弥蔵は四国八十八ヶ所霊場のうちのいくつかを巡るという形態で四国霊場巡りを行っていたが、この旅には弘法大師信仰を背景にした「現当二世安楽」を求める信心と、芭蕉を意識した俳諧行脚の旅としての意味づけが矛盾なく併存しており、日常を過ごす地域においても弘法大師信仰に基づく行事・活動と俳諧文化が両立するものとして弥蔵の基層に流れていたことを明らかにした。
 第三章は、四国遍路の旅に赴いた人々の文化活動を通したネットワークのあり方と交友関係から、地域文化の営みの中での四国遍路及び寺社参詣の旅の意義について考察した。四国遍路等の寺社参詣の旅は、俳諧を中心とする風雅の実践と、石門心学を中心とする通俗道徳の実践による人格形成という課題を重視するネットワーク・地域文化を基盤にして、神仏信仰にもとづく現世利益を求める信心行為として行われていたことを明らかにした。
 第二部は、遍路のさなかに行き倒れてしまった人々に関する史料をもとに、自ら記録を残さなかったより下層と想定される人々の信心や、そうした人々と接した四国住民の意識について考察した。
 第四章は、行き倒れた遍路の境遇や信心を考察する前提として、行き倒れ人に関する記録がどのような行政手続きの過程で作成されているのかを検討し、あわせて遍路とそれ以外の行き倒れ人に対する四国住民の対応に違いがあるのかを分析した。現存する記録では近世後期の阿波における行き倒れ人129事例のうち99事例という大半が四国遍路を行っていると記されていたが、遍路かどうかに関わらず行き倒れ人に対しては決まった行政手続きの中で対応していることを明らかにした。
第五章は、第四章でデータ化した129事例の行き倒れ人に関する史料から、阿波の村人の目を通して見える行き倒れた遍路の境遇や信心、遍路としての存在形態を考察した。病気や困窮を契機として遍路に来ていた者の存在等が浮かび上がったこと、また遍路と他の旅人・「乞食体」には、見た目・状態において共通の面があったことを明らかにした。そして先行研究で指摘される遍路=「女性などの非独立層」「経済的弱者」「病人」「乞食」等は、この中のどれか一つに固定して捉えられるような存在ではなく、それぞれが重なり合い、明確に分かつことはできず、また遍路かどうかも分からない曖昧な状態で存在していたのではないかと考察した。
終章は、本論文の内容を総括し、今後の課題と展望について述べた。

5、本論文の成果と課題
①四国遍路の独自性と他の旅との共通性
 本論文の検討により、四国遍路独自の特徴を持つものと、他の旅と共通に見られるものの両面が明らかになった。酒井弥蔵の旅からは、神仏信仰をもとにした現世利益を希求する信心をともなっている点、俳諧や名所旧跡への関心等という旅人個人の関心が旅に表れている点は、四国遍路と他の旅で共通であったことが分かる。また、行き倒れ人関係史料からも、阿波の村人は遍路であるかどうかにかかわらず行き倒れ人に対しては決まった行政手続きの中で対応していること、遍路と他の旅人・「乞食体」には見た目では判別しづらい共通の面があったことから、四国住民が遍路と他の旅を明確に線引きしていないという一面が見え、この意味で遍路と他の旅の共通性がみえる。
一方で、酒井弥蔵の旅からは、遍路の旅には弘法大師の修行の跡を「慕」って四国霊場を巡拝するという意識のもとで赴いている点は、他の旅との違いを見出せる。また、行き倒れ人関係史料からも、遍路を行うことを「四国修行」や「四国順拝」という他の旅とは違う区分をなすものとして四国住民が認識していたことや、「辺路」であれば接待(宿の提供等)を行う対象と見なすという四国住民の遍路に対するある種の特別な位置づけが窺える。
以上を踏まえると、四国遍路は、近世の旅の中での独自の位置づけ(=弘法大師の修行の跡を慕って四国霊場を巡拝する旅として。時には接待を行う対象(「修行」・「順拝」をしている旅人)として)があるとともに、他の旅との共通性も見られることが分かる。このように見ると、四国遍路がきわめて特殊な位置にあるとは言い切れず、四国遍路を近世の旅の研究に位置付けることが必要となる。
近世の旅の研究では、旅の持つ信仰面の分析が手薄であったことから、信仰と遊山の両面を分析することが重要であるとされているが、このような課題にとって四国遍路の研究はますます重要となってくる。本論文は従来から信仰の分析が不可欠とされている四国遍路に着目したことで、旅と、旅とは違う日常の場面において信仰の営みがいかに行われているのかを明らかにすることを検討課題に据えて考察を進めた。その結果、遍路以外の寺社参詣の旅においても信仰は単なる名目ではなく重要な契機・目的となっていたこと、及びそれが俳諧への関心と結びついていたことが明らかになった。このことは、近世の旅が信仰と文化的関心の密接な関わりにおいて行われていたことが、一人の人物を通して具体的に見えてきたという点において、近世の旅の研究に新たな論点を提示し得るものと考える。

②四国遍路と地域文化―通俗道徳との関係を視野に―
 酒井弥蔵の例から、四国遍路等の参詣の旅が、俳諧を中心とする風雅の実践と石門心学を中心とする通俗道徳の実践による人格形成という課題を重要視するネットワーク・地域文化を基盤にして、神仏信仰にもとづく現世利益を求める信心行為として行われていたことが明らかになった。ここで想起されるのは、安丸良夫氏の通俗道徳論である。通俗道徳論では、民衆宗教が人々をとらえた契機は病気・貧乏・不和等であったとし、こうした病気・貧乏等により没落する、あるいは農村荒廃がもたらされるという危機感にゆさぶられて、通俗道徳の実践による思想形成が進められたとされている。本論文からは、病気平癒等の「安楽」を求める信心を旅の直接の契機としながら、その信心は、通俗道徳の実践により人格形成をはかるという課題意識に正当づけられていたとともに、こうした信心と課題意識は、俳諧を中心とする風雅の実践の中で醸成されたものであったことが分かる。農村荒廃や没落の危機に対する意識とは一見相容れない風雅文化と、通俗道徳による修養・人格形成が密接な関係にあったのである。
 他方、行き倒れ人関係史料からは、病気や困窮を契機として遍路に来た者の存在が窺えるが、病気・貧乏からの脱却を求め、あるいは脱却できずに救いを求めて遍路に来て、最終的には心願叶わず死亡してしまった者が少なからずいたということが推測される。自ら記録を残さないこれらの人々と風雅文化との関わりは今後の課題と言わざるを得ないが、地方文人ともいうべき弥蔵と、行き倒れ人関係史料からみえる遍路の意識は、信心という点では必ずしもかけ離れたものではなかったといえる。
四国遍路の旅は、病気や困窮からの救いを求めた、あるいは病気平癒等の「安楽」を求めた信心のもとに行われていたが、こうした旅は地域における風雅の交流の中で醸成された通俗道徳の実践により人格形成をはかるという課題に正当づけられた信仰の実践としても行われていたと見ることができる。本論文の検討は、四国遍路に赴く人々の信心から、通俗道徳論における民衆意識と、地域文化史における風雅文化の密接な関係を提示したものとも意義づけることができる。

③幕末・維新期への展望
 先行研究では幕末・維新期は、藩や県の布達と「文明開化」を進める新聞記事等から「遍路に対する「排斥論」が吹き荒れた時代」であると理解されている。本論文と先行研究の指摘を踏まえると、近世後期から幕末・維新期の歴史的展開は、遍路かどうか分からないという曖昧さが残る「乞食体」の存在が問題であった時代から、遍路そのものが取締りの対象として認識されていく時代となっていくと展望することができる。
しかしまさにこの時代を生き、遍路を行い続けた酒井弥蔵の言葉と行動からは、「文明開化」に同調しない旅人・四国住民がいたことも窺える。弥蔵のような存在をいかに位置づけながら四国遍路史上の幕末・維新期という時代を考察していくか、今後課題となる。
弘法大師信仰にもとづいて大師の修行の跡を慕って四国霊場を巡拝する―近世後期における四国遍路はこのような位置づけのもとに行われたと考えることができる。民衆の願い・信心が込められた四国遍路は、近世後期から明治期にかけての社会において、どのように機能・変容していくのか、大きな課題である。この課題に答えていくためにも、この時代に生きた四国遍路に関わった人々の意識や営みに即して理解するという方法を、さらに鍛えていかなければならない。

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