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博士論文要旨

論文題目:日中戦争期、『東南日報』と地域社会
著者:鈴木 航 (SUZUKI, Ko)
博士号取得年月日:2016年6月30日

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本論文は、1930年代後半に急成長した『東南日報』が、日中戦争期(1937-45)における国民政府の重慶遷都(1937年11月)以後も、その統治区の一角をしめる「東南」において発行を継続していたことに注目し、中国メディア・ジャーナリズム史および日中戦争史においてその存在がどのような歴史的意味をもっていたのかを明らかにする。ここでの東南とは、とりあえずは一般に称されてきたように、中国全体のなかで東南部に位置する五省――浙江省・江蘇省・江西省・安徽省・福建省――を含む地域をさしている。
『東南日報』は中国国民党(以下括弧なしで「国民党」とする)浙江省党部の機関紙『(杭州)民国日報』が株式会社法人化され、1934年6月に『東南日報』と改名したものである。国民党中央と浙江省党部の要人が役員となり、党の要人が株式を保持して、その影響力を保持したが、その先進的な経営や編集も注目される。浙江省杭州に本拠を置き、独自取材の報道や「副刊」(文芸欄)および多様な読者のニーズにこたえる各種の「専刊」(医療・衛生・女性・児童などの分野ごと特集面)の充実などによってその魅力を押し出していく。もともと数千部から1万を超える部数に増加し、改組後の1934~37年の間に2万部から4万部以上に一気に部数を拡大し、全国各地の主要都市にも販路を広げていった。
このような『東南日報』をめぐる歴史研究の意義について本論文は主に次の二点を意識している。第一は、日中戦争をふくむ中華民国期の社会をメディア・ジャーナリズムの側面から、より豊かなイメージでとらえることである。広大な中国におけるメディアをより深く理解するためには、これまで主に知られてきた外国租界の強い影響のもとに発達した一部の大都市メディアだけでなく、それ以外の地域におけるメディアの展開をも視野にいれる必要がある。『東南日報』は大都市中心に発行されたメディアとは異なり、農村社会をめぐる地方政治や行政区分を超えた地域の動向が、その報道にとって重要な意味をもっていた。『東南日報』を考察するうえでは、メディア学やジャーナリズム論などの方法を参照しつつも、それを単純に中国にあてはめるのでなく、中国におけるメディア・ジャーナリズムの形成を歴史的にとらえることを重視する。
第二は、中国の地域性についての歴史的な理解を深めることである。『東南日報』が成立した1930年代半ばの中国では、1929年に統一を実現した南京国民政府のもとで沿岸部を中心に経済発展が実現しつつあった。一方で、この時期は満洲事変(1931年9月18日)以来の日本の中国侵略に対する抗日世論が広がり、日中の全面戦争にいたる前夜でもある。この時期、日本軍は華北地域の地方政府に働きかけることでそれらを日本の影響下におこうとする「華北分離工作」を推進し、中国の国内統一をめざす国民政府や民族主義の世論と衝突する。地方・地域の政治は、当時の中国にあって単なる内政ではなく、外交問題でもあった。『東南日報』が「東南」という地域名称を冠する新聞として拡大したことは、そのような歴史的背景と無関係ではない。『東南日報』への改組から約3年後の1937年7月、盧溝橋事件によって戦線が中国全土へ拡大し、年末には上海・南京が陥落すると、同11月国民政府は重慶遷都を宣言する。その統治範囲の主要な部分は四川・雲南・広西など西南地域の諸省となり、これらは「大後方」と呼ばれた。他方、重慶政府の地方政権に位置する中国東南部の浙江省において、省都杭州を日本軍に占領されながらも省政府とともに『東南日報』が同省金華へ移転した。これにより同紙は周辺諸省を含む東南地域のメディアとして重要な位置におかれる。日中戦争期の中国の地域性を、「東南」というもう一つの視野から見ることで、その理解を促進することをめざしたい。
さらに、このような課題を研究する現代的な意味とねらいは、現代の中国メディア・ジャーナリズムを歴史的な視野からみようとすることにある。いいかえれば、『東南日報』の考察をつうじで、中国の現代メディアの歴史的な形成過程を考察するための視点を提示するということである。中華民国期は、メディアをふくむ経済・社会の近代的な諸制度や諸思想において現在の中国につながる基盤や経験が形成された時代であり、それらは同時代の日本を含む東アジアにおける連鎖を見せながら、その一部は台湾へも継承された。現在の東アジアにおける言論の自由やメディアをめぐる問題は、その歴史的な理解を必要とする。メディア・ジャーナリズムをめぐる歴史認識を深めることが、現在のさまざまな対立をはらむ東アジアの政治や社会を考えるうえでも欠かせないと考える。
そうした問題意識をふまえて、本論文では『東南日報』をめぐるジャーナリズムを考察の対象とし、具体的には、①記者組織とジャーナリズム、②地方・地域の新聞の発行、③職業としての記者としてあらわる問題に注目していくことにしたい。これらは相互に関連し合いながら地域における報道を支えていた重要な諸要素であり、具体的な史料の分析のなかから見出される『東南日報』とジャーナリズムに関わる重要な論点である。
第1章では、日中戦争期のジャーナリズムの全体像を概観しつつ、そのなかで『東南日報』の移転や報道の特徴を位置づけた。日中戦争期のメディアは日本軍によって陥落した沿岸大都市から、なお占領されなかった上海租界や香港、および武漢をへて長沙・桂林・西安・昆明そして武漢などの別の地方都市へと移転していった。こうしたなかで『東南日報』も、日本軍によって陥落した杭州から金華へ移転しつつ、浙江省だけでなく、東南地域全体の「地域性」を強く押し出した紙面によって、近隣諸省を含めた広い地域で販路を拡大していくことになる。この背景には政治・経済・文化的な「東南」地域意識の形成があった。また『東南日報』はそれら地域連携を維持するための報道を提供し、東南という地域的なまとまり意識を再生産する役割もはたしていた。
第2章では、1938年4月に成立した浙江省戦時新聞学会(以下、括弧なしで「浙江新聞学会」とする)が戦争のなかでも中国の現実をふまえたジャーナリズムの理念や規範を追求していく重要な役割をはたしていたことを論じた。『東南日報』社長であり同時に国民党の地方幹部であった胡健中は浙江省政府の文化総動員計画と抗戦のための文化団体の統一を主導し、同時に教員や地方幹部が関わる教育関係の団体との連携を組織化した。新聞記者の団体である浙江新聞学会の活動において、復旦大学新聞系出身である『東南日報』主筆の杜紹文がその専門的知識を生かして機関紙『戦時記者』を発行し、ジャーナリズムをめぐる議論の場を提供した。批判的・民主的な討論の要素もあらわれ、農村の実態を視野に入れた新聞の大衆化・通俗化をめざす議論、中間層への新聞普及を社会教育としてとらえる視点、戦時宣伝の過剰な報道に対する批判などを、『東南日報』の記者たちが積極的に受けとめて紙面改善にもいかしていった過程をみる。
第3章では、『東南日報』をめぐるメディア環境について視野を広げて考えるために、浙江省政府の地方新聞に関する政策とその実施について検討した。1938年末以降、浙江省政府により新聞発行の地域格差を克服しようとする政策が実施される。メディア関係者や各党派の議論を反映した国民参政会(戦時の臨時議会の性格をもつ組織)において戦時新聞政策案が可決されるが、『戦時記者』誌上ではこれを受けて「地方新聞」改革をめぐる多様な意見が表出した。その問題の中心は、陥落した大都市から移転したメディアが、残された地域の一部の中心都市へ集中したことである。それらはメディアの過剰供給とみなされる一方で、戦時動員の必要から不可欠とされた周辺の農村地域では交通の障害や識字率の低さなどからほとんど新聞が普及しない状況であった。そこで浙江省政府は、そうした地域格差を調整するために、地方新聞の新創刊を制限し、「一県一紙」を目標として統廃合を推奨しつつ、県ごとの新聞発行の拡大を政策的に推進する。新たな新聞創刊の人員派遣や記者養成講座などによって、『東南日報』が以上の政策を支える役割をはたしていた。
第4章では、『東南日報』特派員となった作家の曹聚仁が、東南地域の取材経験にもとづくジャーナリズム論を打ち出したことに注目した。もともと、上海の複数の新聞社や中央通訊社の特派員として前線の取材を担当した曹聚仁は、中国側が部分的に勝利した台児荘会戦の速報スクープを配信して一躍有名となる。こうした従軍記者を中国では「戦地記者」と呼び、これに対する世論の注目も高まった。しかし、その直後に曹聚仁本人は、そうした従軍取材の継続を断り、東南地域の取材へ転じる。そのなかで『戦時記者』に寄稿した曹聚仁は自らが「落第の戦地記者」であるとして初期の取材経験を反省的に回顧した。それは、直接的には軍事知識や戦略への無知などが問題としてあげられているが、1950年代の回想録において自ら吐露しているとおり、台児荘会戦の速報スクープなどが全体的な情勢からみれば一部だけを強調し、事実から乖離した報道になっていたことを反省したものであったと考えられる。これをへて、1938年後半から、通信記事やルポルタージュの長篇記事を重視する新たな取材報道スタイルに変化し、1940年末に「新聞文芸論」など若い記者たちへ向けた新たなジャーナリズム論を発表する。『東南日報』はこのような曹聚仁の模索にとっても重要な場を提供したことになる。
以上のような『東南日報』とその記者たちの実態から見えてきたのは、その省域をこえたメディアとしての特質である。これらは次のようないくつかの視点からみて、中国メディア・ジャーナリズム史および日中戦争史における重要な意味があったと考える。
第一に、『東南日報』は従来、新聞の発行がなかった地域社会におけるメディア基盤の拡充を支える役割をはたしていた。地方の末端の行政単位である県ごとの新聞発行が浙江省においてはとりわけ拡大していくことになる。このような県ごとの新聞発行は、その後の人民共和国期においても継続された。ただし、第2章でみたように、県レベルの新聞の確立がめざされる過程で公正なジャーナリズムをもとめつつ、その保障を政府にもとめるという、戦時のジャーナリズムをめぐる困難性をみることもできる。
第二に、戦時における国民党のメディア統制の両義性を明らかにした。国民党のメディア統制は、当然ながら自らの支持基盤を拡大するためのものであり、有力な国民党系新聞を拡大することや、他党派の新聞の規制などにあらわれる。しかし、国民党系の新聞である『東南日報』が単純にその中央の方針に追随したり、画一的な戦時宣伝を無批判におこなっていたりしたわけではない。杜紹文らは『東南日報』の記者は専門的なジャーナリズム教育をうけて、その理念を中国の現実のなかでいかす方途を模索していた。従来の研究でいわれてきたような、のちに共産党員となる者を含む「進歩的」な記者を『東南日報』が包摂・許容していた事実は、東南におけるメディアの拡大とともに、胡健中や杜紹文らのこうしたジャーナリズムに対する姿勢をも背景としたものであったと考えられる。
第三に、東南において成立した省域を超えるメディアの形成が明らかになった。それは『東南日報』が日本の侵略に抵抗する経済的な基盤としての東南地域の連携強化への志向を基礎としながら、戦時において『東南日報』の報道がそのような東南地域意識を再生産することになった。それは従来の研究で強調される抗戦を支えるメディアとしての意味もあったが、それだけではない。地域的な広がりは、販路の拡大へと結びつき、同時に地域社会の人々と新聞との結びつきをめぐる関係性を広げ、新たな記者人材を多数育成するなどのかたちで、第一に述べたような地域におけるメディアの基礎を拡充するうえでの重要な前提となった。曹聚仁をはじめ多くの有力な人材が集まってきたことの背景には、このように省域を超えたメディアとしての存在が、重要な受け皿をつくりだしたことがあったともいえる。
本論文にとっての今後の課題は、終章でふれながらも問題の提起の段階にとどまっている戦後から人民共和国期における階層としての記者集団の実態をより明らかにすることであろう。日中戦争期における『東南日報』の研究は、このような現代につながる中国メディア・ジャーナリズム史研究への展望を含んでいる。


博士論文:
「日中戦争期、『東南日報』と地域社会」目次

序章
第1節 本論文の視角とその意義
第2節 中国ジャーナリズム論
(1)ジャーナリズムについて
(2)中国ジャーナリズム史(19世紀~1937)
(3)ジャーナリズムの論点
第3節 地域性をめぐって
(1)省域を超える地域
(2)国民党系新聞と「CC系」
(3)日中戦争のなかの地域
第4節 『東南日報』研究の課題と方法
第1章 省域をこえる東南意識の形成
第1節 抗戦のなかの報道態勢
(1)戦争と報道政策の変化
(2)戦時報道をめぐる諸相
第2節 『東南日報』と東南地域
(1)胡健中による人材登用の傾向
(2)背景としての東南地域
(3)地域の報道と通信記事の重視
小結
第2章 戦時総動員のなかの記者たち
第1節 浙江省の抗戦体制と文化動員
(1)地域社会と抗戦の組織
(2)文化総動員の組織
第2節 浙江省戦時新聞学会
(1)組織の概要
(2)戦時の報道界への問題提起
(3)『戦時記者』の構成と寄稿者およびその特徴
第3節 新聞と民衆はいかに結びつくか
(1)文化のデモクラシーと新聞の公共性
(2)戦時宣伝に対する批判とその対応
(3)『東南日報』と浙江新聞学会のその後
小結
第3章 新聞発行の地域格差と新聞政策
第1節 問題としての新聞発行の地域格差
(1)新聞発行と農村経済
(2)行政区単位の新聞発行
第2節 馬星野と地域報道の改革論
(1)地方新聞改革の必要性
(2)「戦時新聞政策案」における地方新聞
(3)地方新聞ネットワーク計画
第3節 浙江省における新聞発行
(1)1937年7月以前の新聞発行
(2)金華の隆盛と新聞の空白地域
第4節 浙江省における新聞発行の調整
(1)戦時における地方新聞発行の調整
(2)一県一紙をめぐる諸相
小結
第4章 「落第」の戦地記者――曹聚仁の取材
第1節 「落第」の戦地記者とは
(1)曹聚仁と『東南日報』
(2)抗戦初期の取材報道――上海戦・台児荘会戦
(3)求められる戦場特派員とその現実
第2節 曹聚仁の東南取材
(1)独立記者による「報道の眼」
(2)地域とその境界への視線
(3)新聞文芸論(ルポルタージュ)
小結
終章
第1節 本論文の要旨
第2節 戦後の『東南日報』
第3節 階層としての新聞記者
第4節 『東南日報』とその地域性

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