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博士論文要旨

論文題目:市民社会と政治社会の間:インド、ムンバイの市民をめぐる運動の人類学
著者:田口 陽子 (TAGUCHI,Yoko)
博士号取得年月日:2016年1月13日

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章立て


序論
第一節 新しい市民/ミドルクラス
Ⅰ 「新しい市民」の活動
Ⅱ 「新しいミドルクラス」という集団
Ⅲ 「市民」と「ミドルクラス」のつながり
第二節 本論文の理論的視座
Ⅰ 部分的つながり
Ⅱ インド民族社会学と分人論
Ⅲ 文脈自由と文脈依存
第三節 本論文の構成


第一章 フィールドとプロジェクト 第一節 フィールド概要
Ⅰ ボンベイ:コスモポリタンな植民地都市
Ⅱ シヴ・セーナーとヒンドゥー・ナショナリズム
Ⅲ ムンバイ:暴動後のコスモポリス


第二節 フィールドワーク
Ⅰ 予備調査
Ⅱ 本調査
第三節 プロジェクト概要
Ⅰ 新聞の美化キャンペーン:「汚れとの戦い( Fight the Filth)」
Ⅱ 行政と市民のパートナーシップ:「先進的地域管理(ALM)」
Ⅲ 市民候補者の選挙運動:「ムンバイ 227」


第二章:市民社会と政治社会:複数の統治の相互関係
第一節 市民社会のポジション
Ⅰ 諸関係の中の対抗的市民社会
Ⅱ 相互作用から現れる市民社会
第二節 政治社会のポジション

Ⅰ サバルタン研究を経由して
Ⅱ インドの政治社会
第三節 市民社会と政治社会の制度
Ⅰ 留保制度と反対運動
Ⅱ 都市行政における「パラレル構造」?
第四節 政治社会の文脈
Ⅰ 政治社会とパトロン・クライアント関係
Ⅱ パトロン・クライアント関係と生モラル秩序
Ⅲ 配分のアナロジー
第五節 小括


第三章:腐敗と反腐敗:市民的な価値の運動
第一節 日常の中の腐敗
Ⅰ 腐敗の語り方
Ⅱ 官僚的統治の綻び
Ⅲ 腐敗の実践
第二節 反腐敗運動
Ⅰ アンナー・ハザーレー
Ⅱ 運動のいち風景
Ⅲ 反腐敗運動への批判
Ⅳ ミドルクラスの「二重性」
第三節 運動の展開
Ⅰ 非政治的で企業家的な「市民候補者」
Ⅱ 腐敗と「個人的価値」
第四節 価値の分断と接合
Ⅰ チェータン・バガトと「若いインド」の価値
Ⅱ 『革命 2020』
第五節 小括


第四章 ウチとソト:複数のウチの変容と拡張
第一節 「公と私」、「ウチとソト」
Ⅰ 公共空間の私有化という問題
Ⅱ 「文化」としての「ウチとソト」
Ⅲ 汚物の文化と変遷の語り
Ⅳ 「自分のもの」と公共空間の「ウチ化」
第二節 ボンベイ・フラットの歴史
第三節 「ウチ」の拡張と重なり合い
Ⅰ 「招かれた空間」としての「ウチ」
Ⅱ 「私たちのエリア」としての「ウチ」
第四節 「ウチ」と「ソト」の交渉
Ⅰ 「市民意識の欠如」と美化キャンペーン
Ⅱ 露天商とストリート・フード
Ⅲ キャンペーンの形式
Ⅳ 「サーベイ」と「ソト」への介入
第五節 小括


第五章 個人と分人:インテグリティと関係性の可視化
第一節 <分人化>と心理学化
Ⅰ 管理社会の<分人化>
Ⅱ 新自由主義時代の心理学化
第二節 インドの分人性
Ⅰ 市民的「行為」:満足、ギーター、果報
Ⅱ 分人性の動態:カルマと文脈自由
第三節 心理学化と市民運動
Ⅰ 心理計測の起源
Ⅱ 「インテグリティ」の計測
Ⅲ 「心理計測アセスメント」講座の形式
Ⅳ 「オカルト科学」とのアナロジー
Ⅴ 「文化」の可視化
第四節 関係性の生成と摩擦
Ⅰ セーワーと社会奉仕
Ⅱ 学生の奉仕
Ⅲ 企業家的な奉仕
第五節 小括


結論
第一節 ムンバイの市民をめぐる運動
第二節 市民社会と政治社会の間

本論文は、インド、ムンバイ における「ミドルクラスの市民運動」の人類学的な記述を通 して、市民社会と政治社会の部分的つながりを考察する。2000 年代のムンバイでは、都市の 美化運動、官民のパートナーシップの推進、反腐敗運動などの活動が興隆し、これらの運動を 牽引する「市民社会(civil society)」が注目を集めている。本論文は、市民社会 をめぐる研 究者の論争、活動家たちの主張、運動の展開を分析することで、この運動の位置づけを明らか にする。そのうえで、ムンバイにおいて、人はどのように市民になろうとしているのか、そし て、この運動はいかなる政治的活動なのかを探究する。
市民社会は、西欧において、好ましくないものの反対としての、あるいは発展段階を示すも のとしての、規範的な概念として成立してきた。人類学においては、その概念を一度引き受け たうえで異なる社会実践の記述と理論化に役立てるか、あるいは、市民社会という概念自体の現地への受容や流通の過程を考察するか、という方向性が示されてきた。本論文は、基本的に は後者の立場をとる。ただし、インドでは、市民社会の概念や理論そのものが、単に外部から 輸入されたものではない。インドの研究者や活動家が、概念の翻訳や生成過程に深く関与して いるからである。そこで本論文では、西洋の概念を普遍概念としてインドの分析に用いること を批判してきたサバルタン研究を踏まえ、「政治社会(political society)」との関係から市民 社会を考察する。サバルタン研究は、市民社会を、西洋の啓蒙主義に基づく自律的な市民 の領 域と位置づけた。対してインドで重要なのは、市民ではなく「統治される者」たちが、共同体 の論理を活用しながら、主権者に対して要求を行う「政治社会」であるとされる。こうした背 景のもと、冒頭で述べた今日のインドの市民運動は、自らを政治社会と区別し、「非政治性」
を主張しながら活動を展開している。本論文では、「市民をめぐる運動」を、この市民社会と 政治社会の間を可視化するものとして論じていく。


各章の要旨
序論では、第一節で、本論文の対象となるインドにおける「新しいミドルクラスの市民運動」 の位置づけを論じる。先行研究においては、サバルタン研究における市民社会論を背景として、 近年の市民運動は批判的に論じられてきた。そこでは、従来のインドの市民社会は、独立インドの開発主義に基づき国家への責任を持つエリートとしての「古いミドルクラス」によって構 成されていたが、1990 年代の経済自由化により、消費者としての「新しいミドルクラス」と 彼らの政治運動である新しい市民運動が台頭したとされる。そして、この新しい市民運動は、 階級的アイデンティティに基づき、活動家たち自身の生活向上を謳い、サバルタンを排除するものだと批判されてきた。こうした直線的な「新しさ」の議論に対して、本論文は、人々が市民として都市空間や他者や自らに介入しながら活動することで、「古さ」と「新しさ」を含み こんだ接続と分断からなる形象が作られていることを論じる。そのため、市民運動が、どのよ うな要素のつながりから成り立っているのかを記述することを試みる。
以上の目的のため、第二節では、マリリン・ストラザーン「部分的つながり」という概念と、 インドの民族社会学を接続することで、本論文の視座を示す。ストラザーンが部分的つながりのイメージとして用いるのは、機械と身体がつながって動いている、ダナ・ハラウェイのサイ ボーグ・フェミニズムである。部分的つながりは、異質なものや不釣合いなものが、 お互いに部分になることで、ひとつのシステムや全体性に包摂されることなく、関連しながら生成して いく動きを示している。サイボーグとしてのフェミニズムは、特定の偏りを持った主張としての、また具体的な身体と「機械」の接続によって形成されるものとしての「視点」に基づいた、 複数のポジションから成り立っている。そこでは、立場の異なる部分的な論争が、実践上なんとかつながりながら、しかし相互にずれや断絶を生み出すことで、カウンター・ポジションに 拡張する。ここにおいて、ある部分は、何かの一部でありながら、同時に異質な何かの一部で もある。
本論文で取り上げる市民運動も、こうした部分的つながりを体現している。例えば、作家の チェータン・バガトやムンバイ行政が「利益集団」としての「ミドルクラス」に訴えるのに対 して、美化キャンペーンや選挙運動は、普遍的で属性を問わない「市民」に訴える。さらに、それらの運動が展開していく実践において、活動家は、神や共同体との関係に基づく「ヒンド ゥー」としての奉仕の精神を参照することで、市民的で個人的な責任を果たそうとしている。 このように、それぞれ異質なものが、一方が他方を完全に包摂することなく、異なるポジショ ンを維持している。市民をめぐる運動においては、その部分性と、「間にある」という性質が 可視化されるのである。
こうした運動を理解するためには、境界づけられた自律的な個人としてのみではなく、複数 の関係性によって成り立っているムンバイの市民の在り方にも目を向ける必要がある。この点 を探究するため、市民社会論とは一見断絶している、人類学的な人格論を参照し、外部との関 係から作られるインドの「分人(dividual)」概念を検討する。「インド的思考」を追及した民族社会学において、マッキム・マリオットは、食事や儀礼、会話や行為における、「サブスタ ンス=コード(substance-code)」のやり取りから作られる分人概念を提示した。さらに A.K. ラーマーヌジャンは、サブスタンス=コードの動きを方向付け、分人を成り立たせる「文脈依存的(context-sensitive)」な規則と、そこから自由になることを目指す 「文脈自由(context-free)」への運動の循環を提示した。これは、「インド的思考」のなかに、外部の視点を取り込 みながらポジションとカウンター・ポジションを作り出す動きがあることを示唆している。市民をめぐる運動は、異質なものが部分的につながって動くサイボーグのように、文脈依存と文 脈自由の動きを可視化する形象であると考えられる。こうした観点から、本論文では、今日の 市民社会という形象を探究していく。
第一章では、まず、ボンベイ/ムンバイの「脱コスモポリタン化」という流れに沿って、文 脈を変えていくコスモポリタン都市について論じる。商業の名の下に、さまざまな異なる人種やコミュニティで形成された「多様性」を誇った植民地都市ボンベイは、極右政党シヴ・セーナーの台頭に代表される暴力的なヒンドゥー化/土着化の波に襲われて、ムンバイになった。 しかし、ムンバイは、この流れに適応しながらも「コスモポリス」であり続けている。今日の ムンバイの市民運動は、ひとつの「多様性」の理想が敗れた後に、どのように差異と折り合い をつけて生きていくのかという切迫した状況下での人々の実践なのである。こうした背景を踏 まえたうえで、現地調査の概要を述べ、本論文が事例とする三つのプロジェクト、Ⅰ 新聞の 美 化 キャ ンペ ーン 「汚れ と の戦 い( Fight the Filth )」、 Ⅱ 行 政と 市民 の パー トナ ーシ ッ プ「先進的地域管理(ALM)」、Ⅲ 市民候補者の選挙運動「ムンバイ 227」の概要を示す。

第二章「市民社会と政治社会」では、ムンバイの市民運動を形成する市民社会と政治社会そ れぞれのポジションを明らかにする。まず、西洋における市民社会論のポジションを対抗的な 諸関係から整理し、この市民社会論に対する政治社会論のポジションを明らかにする。サバル タン研究者のパルタ・チャタジーは、国家から切り離された自律的な市民の領域としての市民 社会を西洋近代に固有のものとし、インドでは統治される集団が国家への要求を行う領域であ る政治社会が重要だと論じた。これを踏まえて次に制度を検討する。具体的には、政治社会を 支 え る 制 度 と し て の 留 保 制 度 と 、 市 民 社 会 を 作 ろ う と す る 制 度 と し て の 先進的 地 域 管 理
(ALM)を取り上げ、両者の関連性を論じる。以上を通して、現代インドにおいて市民社会 と政治社会それぞれが影響を与えながら存在し、その相互作用自体が人々の政治的な関心事で あるという点を確認する。そのうえで、市民社会と政治社会を包摂する概念を提示するのではなく、市民社会と政治社会の相互関係自体を民族誌的に検討する本論文の方向性を明示する。
第三章から第五章では、腐敗と反腐敗、ウチとソト、個人と分人という枠組みに沿いながら、 運動の形象を描き だす 。共通しているの は、 各章の題目にある 二項 対立が、 互いにカ ウン ター・ポジションになりながら、部分的なつながりを生み出していくことである。
第三章「腐敗と反腐敗」では、市民による「反腐敗運動」に焦点を当てる。2011 年に盛り上がった反腐敗運動は、「非政治的」であることを掲げ、市場交換の論理を前面に出すことで、 政治家や官僚の汚職や癒着を批判した。本章では、この動きを、個人の自己責任によって市場活動を促進させる「自由主義」的な自由と、ラーマーヌジャンの示した関係性からの離脱を目 指す「文脈自由」が合わさった「自由的なもの」を目指す運動として分析する。そのうえで、運動が「自由的なもの」を希求しながら、再度腐敗と愛着の両義的なつながりのなかに文脈化 されていったことを示す。具体的には、まず、アンナー・ハザーレーの率いた反腐敗運動と、 反腐敗運動への左派の批判の論点を検討する。そして、ハザーレーの運動から派生したムンバイでの選挙運動や心理計測、バガトのエッセイや小説を事例とする。これらの事例の検討から、ミドルクラスの人々が、腐敗とそれに反する「価値」という異質なものをつなげるイメージを 形成していることを論じる。
第四章「ウチとソト」では、市民運動と公共空間の再編の関わりを考察する。西洋における 公共空間は、私的 領域 と区別される開か れた 公的領域とされる 。 サ バルタン研究者た ちは 、「公と私」を参照しながら、インドにおける「ウチとソト」の概念を練り上げてきた。吉祥な「ウチ」の領域はきれいに保たれるのに対して、ウチの反対としての「ソト」の領域は汚くて も構わないとされてきた。この「ソト」と「公共空間」の認識のずれが一因となったインドの公共空間の汚さが、植民地期以降、「市民意識の欠如」として問題視されている 。本章は、「公と私」と「ウチとソト」の関連に注目しながら、ボンベイのフラット(集合住宅)の構造と現 在のフラット単位の市民活動(ALM)を論じる。ALM の市民運動では、ウチから徐々に広が る延長線上に「公共空間」が想像されている。そして、市民意識を広めるという言説は、この「ウチ=公共空間」を「ソト」へ広げようと訴える。しかし、美化運動など実際の活動におい ては、「ソト」を「ウチ化」するのではなく、その間を可視化する形式が作り上げられている。
第五章「個人と分人」では、市民を形作る運動に焦点を当てる。運動において、市民とは、「 非 政 治 的 」 で あ り 、 正 直 さ や 完 全 さ 、 分 け ら れ な さ を 意 味 す る 「 イ ン テ グ リ テ ィ(integrity)」を有するべきだとされる。しかし、そうした個人としての市民の理想とは矛盾 する関係性に埋め込まれた分人が、常に緊張を孕みながらも併存している。本章では、<分人 性>という概念を手掛かりに、この運動を探究する。まずは、人々をデータによって管理する 現代社会における<分人性>と、グローバルな状況下での社会の心理学化について考察し、本 章の分析的視座を示す。次に、そうした枠組みでは捉えきれないムンバイの市民活動家の事例 に目を向け、再度インドの民族社会学を参照しながらインドにおける分人性を考察する。そし て、ムンバイ 227 の運動で用いられた「心理計測アセスメント」の事例を中心に、複数の分人性の接触と組み合わせの中で、個人の在り方が模索されていることを論じる。最後に「奉仕」の概念を再考し、奉仕による関係性と市民運動が作り出そうとする関係性との摩擦を検討する。 最後に、結論では、市民社会と政治社会の間という観点から論文全体の議論を整理する。本論文の対象であるムンバイの市民をめぐる運動は、ポジションとカウンター・ポジションを行 き来しながら、その狭間を概念化し、可視化しようとしていた。そうすることで、運動が狭間 に留まることを可能にしているということが、本論文の主張であった。
ストラザーンが論じた部分的なつながりによる拡張は、互いが互いの道具になることで、潜 在的な能力を引き延ばしたり、新しく生み出す可能性を有している。他方、有機的なヒンドゥ ーの国を夢見るシヴ・セーナーへの奉仕がムスリムの虐殺につながることもあるように、分人 化とつながりは、権力と暴力の拡張に寄与する危険性も有している。この点を踏まえてムンバ イの市民運動を振り返ると、その政治的な意義に新しい視点を加えることができる。市民をめ ぐる運動は、奉仕といったヒンドゥー的価値や国民国家を中心としたナショナリズムに突き動かされながらも、そこには回収されることのない企業家的価値や個人のインテグリティを追及 し、新たな市民像を作り上げていた。すなわち、片方に完全に組み込まれることなく、狭間に 留まることこそに、部分的なつながりとしての運動の政治性が見出せるのである。
腐敗についてのバガトの一連の仕事や心理測定講師の解説は、腐敗と反腐敗の間を、そして腐敗への嫌悪と愛着のつながりを表現したものである。美化キャンペーンにおいては、「ウチ=市民的公共空間」の拡大という目的が、「ソト」あるいは異なる「ウチ」との接触のなかで、 特定の形式を作っていった。その過程で「ウチ」の概念が市民的公共空間の理想から再度ずれていき、キャンペーンは「ウチ」と「ソト」の間に留まる形象となった。個人をめざす運動に おいても、「インテグリティ」や「奉仕」というイメージや、心理計測を用いながら、個人と 分人の間を可視化する運動が繰り広げられた。そこでは ALM の活動家が、「成功と満足」と いう言葉を用い、ヒンドゥーとしての奉仕やダルマの概念と関連付けながらも、距離を置きながら市民活動を行っていた。また、個人や企業家の価値を重んじながら、奉仕と配分を介して作られる関係性の構築が試みられていた。このように、ムンバイの市民をめぐる運動は、ポジションとカウンター・ポジションの異質な視点を可視化する「間」の形象を作り上げている。 本論文が記述してきた市民の運動は、鷹揚で柔軟なボンベイ/ムンバイという都市の文脈に反発するものでありながら、その文脈とのつながりによって生み出され、動かされている。本 論文がムンバイの市民から学び、描こうとしたのは、全体性に包摂されることなく、次のカウ ンター・ポジションと拡張を生み出していく可能性を有した運動の形象であった。

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