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博士論文要旨

論文題目:ドイツ通俗哲学の理念とカント批判哲学の誕生 ―〈健全な理性〉=コモンセンス概念をめぐる1754-65年の言説研究―
著者:小谷 英生 (KOTANI,Hideo)
博士号取得年月日:2016年1月13日

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目次

序論 本論文の目的・意義・方法
1.本論文の目的と意義
2.ドイツ通俗哲学と批判哲学
3.ドイツ通俗哲学とその時代
4.本研究の方法
5.本論文の構成

第1部 ドイツ通俗哲学の理念

第1章 第1部の課題と先行研究の概観
1.通俗哲学に対する先入観
2.現代におけるドイツ通俗哲学研究
3.通俗哲学を軸とした18世紀ドイツ思想史の流れ

第2章 ドイツ通俗哲学の一般的理念
1.ドイツ通俗哲学研究の端緒における困難さ
2.ドイツ通俗哲学の一般的理念
3.哲学におけるドイツ語改革

第3章 ドイツ通俗哲学の誕生 ――エルネスティ、ニコライ、ズルツァー ――
1.ドイツ通俗哲学の誕生――エルネスティ「序説」
2.同時多発的なプロジェクト――ニコライとズルツァー
3.本章の結論

第4章 18世紀ドイツにおける二つの理性
――〈健全な理性〉と〈推論的理性〉の区別と優劣をめぐって――
1.表記上の注意と一般的な理解
2.コモンセンスとしての〈健全な理性〉――その四つの特徴
3.〈健全な理性〉の哲学に対する異論
4.本章の結論

第5章 ドイツにおける〈健全な理性〉概念の展開
――トマジウス対ヴォルフ、マイアー、バゼドウ――
1.18世紀前半の議論
2.ラディカルな再定義 ――マイアー
3.通俗哲学=〈健全な理性〉の哲学=経験主義 ――バゼドウ
4.本章の結論
第6章 クリスティアン・ガルヴェと観察の論理
――「自己観察」と「関心」の構造――
1.ガルヴェについて
2.シュライエルマッハーのガルヴェ評価
3.フォーヴィンケルのガルヴェ解釈
4.「自己観察」と「関心」の構造
5.本章の結論


第2部 理性批判の最初の構想 ――1760年代のディスカッション――

第7章 通俗哲学者カント? 先行研究の見解について
1.先行研究の概観と第2部の方法
2.浜田義文『若きカントの思想形成』における〈健全な理性〉理解
3.坂部恵『理性の不安』における通俗哲学とカント
4.ザンミート『カント、ヘルダー、人間学の誕生』における通俗哲学とカント
 5.本章の結論

第8章 ベルリン・アカデミー懸賞課題をめぐるメンデルスゾーンの見解
――カントの『判明性』論文読解の準備作業として――
1.1763年度ベルリン・アカデミーの懸賞課題
2.『明証性』における数学論
3.『明証性』における形而上学論
4.本章の結論

第9章 〈健全な理性〉へのコミットメント
――『根拠』および『判明性』の分析――
1.『根拠』における〈健全な理性〉
2.『判明性』の分析(1)――数学と形而上学の判明性の差異
3.『判明性』の分析(2)――形而上学の判明性と〈健全な理性〉
4.『判明性』の分析(3)――自然神学の確実性
5.本章の結論

第10章 〈健全な理性〉のアポリア ――『脳病試論』と『公告』――
1.『脳病試論』――〈健全な理性〉の徳と腐敗をめぐって
2.『公告』――理性批判の最初の提示
3.本章の結論

第11章 『視霊者の夢』の論証構造
1.『視霊者の夢』の成立事情
2.「霊魂」概念の分析:第1部第1章「形而上学のもつれた結び目」
3.「非物質的世界」の存在証明
――第1部第2章「霊魂世界の扉を開く神秘哲学の断章」
4.〈健全な理性〉の限界としての〈健全な理性〉
――第1部第3章「反カバラ。霊魂世界の扉を閉じる通常哲学の断章」その他
5.本章の結論

第12章 〈健全な理性〉の批判
――マイアー『理性論要綱』への書き込み――
1.〈健全な理性〉の再定義
2.経験の由来
3.本章および第2部の結論

結論と展望

参考文献一覧


1.本論文の目的と意義
本論文では、これまで一般的な西洋哲学史のみならず近代ドイツ哲学史においても軽視されてきたドイツ通俗哲学(Deutsche PopularphilosophieまたはPopulärphilosophie)を思想史的に再評価し、それがカント批判哲学の誕生に対していかなる意味をもったのかを明らかにする。
とはいえ、本論文ではまだドイツ通俗哲学の具体的な思想内実、すなわちその認識論・形而上学・幸福論・政治哲学などを主要な論点とするわけではない。むしろ、そうした思想を正当かつ公平に評価するためのいわば地ならしとして、ドイツ通俗哲学の理念を明らかにすることが本論文の狙いである。カント批判哲学の誕生についても同様である。私たちは1770年以降のいわゆる「沈黙の十年」におけるカントの試行錯誤やターミノロジーの変化を具体的に論じるわけではない。そうではなく、その前段階すなわち1760年代のテキストを通俗哲学との関係において論じることで、「沈黙の十年」以前のカントがいかなる思想史的文脈の中から理性批判という考え方を生み出したのか、それを確認することがここでの課題なのである。それによって『純粋理性批判』の生成史をより豊かに描き出すための準備をすることが、本論文の目標である。
本論文の学術的な意義は以下の五点にある。
第一に、哲学史・思想史上の意義である。哲学史研究において、これまでドイツ通俗哲学はほとんど無視ないし軽視されてきた。しかし本論文の成果を通じて、ライプニッツ=ヴォルフ学派の克服者としてのカント、あるいはイギリス経験論と大陸合理論の合一としてのカント、といった既存の教科書的哲学史理解を修正・深化させ――というのもそれは不十分だが間違ってはいないからである――、より適切な文脈と概念布置に即して哲学史を理解することが可能となるはずである。
第二に、ドイツ通俗哲学研究そのものにおける意義である。先行研究はカント批判哲学およびドイツ観念論の影響から、ドイツ通俗哲学は劣悪な思想であるとの先入観の下で行われる傾向にあった。しかしそれでは、カント批判哲学やドイツ観念論に結びつきにくい要素については切り捨てられてしまうことになる。そこで本論文では可能なかぎり同時代の視点に立って分析を試み、ドイツ通俗哲学の言説空間をそれ自体として再構成しようと努めた。それによって通俗哲学がいかなるモチベーションに導かれ、何を目指したムーヴメントであったのかが判明になるはずである。
第三に、カント研究上の意義である。本研究では1760年代のカントの議論を詳細に取り扱う。最近では下火になってしまったとはいえ、この時期のカント研究はライプニッツ=ヴォルフ学派との関係に着目して行われるか、あるいはカント個人の交友関係や時代状況といった外在的文脈を考慮してなされるかのいずれかであることが多かった。しかし本論文では通俗哲学との関係、とくに〈健全な理性〉概念に着目し、この時期のカントのテキストを同時代の言説空間に位置づけながらも内在的に分析する。こうした作業によって、これまで哲学的概念としては省みられてこなかった〈健全な理性〉概念が、批判哲学の誕生にとっていかに重要であったのかが明らかになるだろう。本論文は1760年代のカントのテキスト解釈に新たな光を投げかけるはずである。
第四に、概念史的な意義である。本論文で着目する鍵概念は〈健全な理性〉であり、これはコモンセンスを意味している。アリストテレス、キケロ、ヴィーコといった思想家たちに継承されてきたコモンセンス概念は、ドイツでもその哲学的意義をめぐって大論争を巻き起こした。〈健全な理性〉=コモンセンスは1760年代後半にスコットランド・コモンセンス学派からドイツに輸入されたものと考えられがちであるが、本論文ではそれが18世紀を通じて大きな位置を占めていたことを実証する。
第五に、社会思想史上の意義である。通俗哲学は実践哲学、とくに政治・社会哲学に重点を置くものである。したがって本研究は18世紀ドイツの社会思想史というやはり相対的に研究の進んでいない領域の開拓にも寄与するはずである。18世紀ドイツをめぐる神話のひとつは経済的・社会的な後進性であろう。なるほどイギリスを基準とすれば、こうした後進性は統計的に確認できる事柄かもしれない。しかしながらそれが18世紀ドイツ社会思想にいかに影響したのかという点は不透明であるし、影響関係を強調することにそれほど正当性があるわけではない。学芸、とくに〈美文学(schöne Litteratur [od. Wissenschaft] / belles lettres)〉の分野での立ち遅れであればいざ知らず、経済的・社会的後進性を嘆いている思想家は皆無といってよいからである。18世紀ドイツ社会思想史は二つの矛盾した見解に彩られている。一方では後進性が嘆かれることがしばしばである。しかし他方では、フリードリヒ二世治下での自由と繁栄が称賛されているのである。本論文は後者のイメージに即し――それは当時の思想家たちのリアリティにずっと近い――、その現れであるドイツ通俗哲学の言説を具体的に分析するための下準備を行った。
通俗哲学はトマジウス流の啓蒙主義の正嫡子であり、ライプニッツ=ヴォルフ学派からカント批判哲学へという歴史の狭間に挿入された思想的ムーヴメントであった。しかし結果として新たな哲学構築に失敗し、またカントの華々しい成功ゆえにこれまで貶められ忘却されてきた。それでも哲学史のよりよい理解のために、新たな哲学の可能性を模索するために、カント批判哲学を歴史的に把握するために、ドイツ通俗哲学に定位して歴史を再構成することは無駄ではないだろう。本論文の学術的意義を総括すれば、現在では忘却ないし曲解されている大きな思想史的潮流を掘り起こし、人々の目をそちらに向けるというそのこと自体にあると言えよう。

2.本論文の課題
本論文は当初、「ドイツ通俗哲学の興亡とカント批判哲学の誕生」という大それたテーマの下で構想された。このテーマにおいて、私たちは二つのテーゼを論証しようと企てた。第一に、ドイツ通俗哲学がカント批判哲学の出生地のひとつであったことである。第二に、にもかかわらずカント批判哲学の誕生がドイツ通俗哲学の衰亡を決定づけたということである。第一のテーゼはもちろん、批判哲学は通俗哲学との関係のみから誕生したという主張を含意してはいない。あくまでも通俗哲学への、とくに〈健全な理性〉へのコミットメントが批判哲学の誕生に関わっていたことを言っているだけである。第二のテーゼの方が明らかであり、これは〈健全な理性〉の支持者たちがが『純粋理性批判』の中で自然主義者と呼ばれ批判していること、カントの後継者たち、とくにラインホルトが通俗哲学を徹底的に批判していることなどをふまえれば理解できる事柄である。
本論文では残念ながら、この第一のテーゼのみを論証する。それだけでも大きな仕事になってしまったからである。残された第二のテーゼについては割愛し、別の論考に委ねざるをえない。
本論文ではさしあたり、カントの批判哲学を次のような意味で理解したい。まずカント自身の意図に即してみれば、批判哲学とは認識能力の限界画定を通じて認識の、そして形而上学的思考のアプリオリな諸条件を明らかにし、学としての形而上学のための確実な方法を発見しようという試みである。つぎに象徴的意義という観点からみれば、先に述べたコペルニクス的転回であり、カント批判哲学の誕生は、世界から働きかけられ、世界に調和させられるのではなく、世界に働きかけ、世界を調和させる主体的な知の誕生を告知するものであった。本論文が「カント批判哲学の誕生」として明らかにしたのは最初に指摘したカントの意図に関するものであり、批判哲学のもっとも初期の構想を1765年頃に見出すことが課題となる。そしてそのためにはドイツ通俗哲学を正確に理解する必要があるというのが本論文の主張である。

3.本研究の方法
本研究では18世紀後半のテキスト群を内在的に分析し、その言説空間を再構成するという手法を採用する。したがって本研究は、外在的条件に訴えることも、また別のところで用意された――とくにその後の歴史を前提とした――カテゴリーを用い分析することも可能なかぎりさし控えることにしたい。これまでの18世紀ドイツ思想史研究においては、ほとんどの場合このような外挿法が採られてきた。たとえば哲学史において、ライプニッツ=ヴォルフ学派からカントへ、そしてドイツ観念論へという理解は発展史的なものであり、ドイツ観念論という結果から省みられたものにすぎない。ヒンスケやシュナイダースらの一連の啓蒙思想研究によって相対化されてきたとはいえ、このような見解は現在でもまだ「正史」のままであるように思われる。そしてこのような思想史理解に基づけば、1760年代および70年代は空白の時期であり、メンデルスゾーン、バウムガルテン、クルージウス、テーテンスそしてカントがわずかにこの空白を埋めるだけである。しかしながらこの時期には多くの哲学雑誌・哲学書が出版され、ニコライ、アプト、バゼドウ、ロシウス、少し遅れてガルヴェといった通俗哲学者たちが活躍していた。カントの批判哲学がこうした豊かさを過去のものとし、忘却させてしまったことは事実ではあるが、しかしそれは1760‐70年代ではなく、18世紀末から19世紀以降に属する事実にすぎないのである。
社会思想史の分野では、18世紀ドイツは後進性の一言で片付けられてしまうことが多い。たしかに学芸の領域では、英仏を見習うべきことをこの時期の思想家立ちはしばしば主張している。しかし管見のかぎりでは、彼らが政治・経済の後進性に対する不平不満を漏らすことはなかった。後進性の神話もまた外部から挿入された視点であり、18世紀ドイツの社会思想史を正当に評価するには不十分である。
もっと精緻な学問的見解についても同様である。たとえばマイネッケの国家理性の歴史やO・ダンのドイツナショナリズム研究、F・バイザーのフランス革命期の言説研究などは、なるほどたしかに実りは多いものの、しかし通俗哲学者を含む中小の思想家にはまったく目もくれないか[マイネッケ, 1957=1960]、ほんのわずかに触れるだけか[ダン, 1996=1999]、たんに保守主義のレッテルを貼るような結果に終わってしまう[バイザー, 1992=2010]。ハーバマスの『公共性の構造転換』についても同様のことが言える。ハーバマスは18世紀ドイツにおける「市民」をブルジョワ階級の教養市民とみなしている。彼の研究の目的からして、そうすることに一定の意味があることは否定しえないであろうし、また事実としても正しいのかもしれない。しかしながら18世紀、とくに「市民社会(bürgerliche Gesellschaft)」という概念を「政治社会」ではなく経済的な「ブルジョワ社会」の意味で最初に用いたガルヴェにとっては、ブルジョワとは産業資本家はおろか中産階級ですらなかったのである。その意味では、教養市民を19世紀に限定して論じているユルゲン・コッカの方が注意深いといえるかもしれない[コッカ, 1988=2000]。しかしそれは18世紀における市民概念の研究からの撤退を意味するだけであり、問題は依然として残り続けるだろう。
私たちは純粋な興味から歴史研究に入ることもあれば、現代的問題意識から入ることもある。したがって現代的なカテゴリーの外挿法的な研究そのものを非難することは無意味である。そもそも厳密に言えば、現代人のカテゴリーを用いずにテキストを理解することは不可能であるだろう。私たちがここで警戒しているのは、それゆえ外挿法的研究そのものではない。ただ、その適切な使用である。外挿法的研究は、少なくとも18世紀ドイツ思想史に関していえば応用問題に当たるからである。18世紀ドイツ思想史研究にあっては、幾つかの基本概念や思想傾向の分析が不足している。それを補うためにはまず、諸概念の意味や布置を定める言説空間を再構成する基礎研究が重要である。私たちが外挿法を可能なかぎり慎み、通俗哲学の言説空間を――本論文ではさしあたりその最も基礎的な部分を――再構成するのは、近代化ないし文明化をめぐる18世紀ドイツのディスカッションを正当に評価するための基礎を与えるためなのである。
しかしなぜ言説空間の再構成が基礎研究として必要なのだろうか。それは、いま述べたように言説空間というコンテキスト抜きでは思想の意味を十分に理解できないからであり、またポーコックが述べたように、ある思想は同時代に存在する諸概念およびその布置を通じて表現される他ないからである[ポーコック, 1975=2008]。それゆえ言説研究の課題のひとつは、思想が思想として成立し流通するために潜り抜けなければならない概念的・理論的なフィルターを解明することであり、当時の思想家たちが関わらねばならなかった問題を言語使用の観点から理解することである。また、現在私たちが関心を寄せるテーマや諸概念について、ある思想家が当時のどのような言説に託してそれらを思考していたのかを理解することである。言いかえれば、当時の言説空間を理解することによってはじめて、彼らの問題関心や思想の位置を理解したり、また私たちの言説空間の中で彼らの思想を翻訳することも可能となるはずである。

4.本論文の構成
最後に、本論文の構成を以下に示す。
本論文で明らかにしたいことは、第一に、ドイツ通俗哲学が決して小さな潮流でも愚鈍な思想でもなかったことである。それは理念を伴ったプロジェクトないしムーヴメントであり、トマジウス流の啓蒙主義を復権するとともに講壇哲学を乗り越えようという試みであった。また、英仏啓蒙思想の当時最新の成果を受けたドイツ啓蒙思想の新たな展開でもあった。第二に、講壇哲学の行き詰まりから、限定的にではあれ1760年代前半のカントは〈健全な理性〉の哲学にコミットしていたことである。それを言い換えれば、1760年代のカントは通俗哲学者であったということである。そして第三に、通俗哲学から批判哲学へと移行する際の重要な一契機に、〈健全な理性〉の批判が存在していたことである。『純粋理性批判』のコア・アイディアをどこに定めるのかについては様々な解釈がありうるが、〈純粋思弁理性は可能的経験の領域においてのみ妥当性をもつ〉という基本的なアイディアは、通俗哲学の限界の克服によって生まれたというのが本論文の仮説である。
つづいて各章の概要を示していきたい。本論文は二部構成であり、一点目は第1部で、第二・三点目は第2部でそれぞれ論証される。
第1部第1章ではドイツ通俗哲学に関する先行研究を整理する。
続く第2章と第3章は内容的に連続している。まず第2章では通俗哲学行研究に関する困難さが除去され、また通俗哲学の一般的理念が説明される。こうした理念は1754年の段階ですでにエルネスティやズルツァーらによって語られていたことが第3章で論証され、通俗哲学が自然発生的なものではなく、自覚的な理念に主導されたプロジェクトないしムーヴメントであったことが確認される。
つづく第4章と第5章も連続しており、そこでは〈健全な理性〉と〈推論的理性〉の区別と優劣をめぐる哲学的立場の対立が素描される。〈健全な理性〉とはコモンセンスのことであり、事柄を直接把握する知的作用である。これに対し〈推論的理性〉とは事柄を間接把握する知的作用を意味している。哲学において〈推論的理性〉よりも〈健全な理性〉を重視したのが通俗哲学(およびトマジウス派)の立場であり、これに対し哲学は〈推論的理性〉のみで構築されるべきだとしたのが講壇哲学(およびカント・カント学派)の立場である。第4章および第5章第1節ではこの区別と対立が18世紀ドイツを通じて存在したこと、ならびにその具体的なディスカッションをテキスト横断的に再構成する。第5章第2節ではヴォルフ学派の代表としてマイアーの見解を、第3節では通俗哲学の代表としてバゼドウの見解を検討する。
第6章はガルヴェ論に費やされ、通俗哲学において重視された経験観察がガルヴェにおいてどのようなかたちで理論化されていたのかを確認する、なるほどガルヴェは1754-66年よりもだいぶ後に(1772年以降)活躍した思想家であるが、通俗哲学を擁護・正当化する議論の到達点がもっともよく現れているためにここで扱う。第5章第3節のバゼドウ、第6章のガルヴェの議論によって、通俗哲学が哲学的にも哲学史的にも興味深いものであることが示されるはずである。
 以上が第1部である。第2部では1762-65年のカントにおける通俗哲学へのコミットメントが明らかにされる。
第7章は先行研究の整理に充てられている。先行研究一般を概観した後、浜田義文、坂部恵、ザンミートの議論を詳細に分析する。1760年代のカントは通俗哲学者であったとする彼らの議論は結論そのものには納得できるところがあるものの、通俗哲学そのものの性格を抑えていないために論証としては失敗している。そこで、第1部の成果をふまえ、第8から11章では〈健全な理性〉に対するカントのコミットメントを軸に、カントが通俗哲学者であったこと、そしてそこで形而上学は〈健全な理性〉の領域に限定されるべきであると主張されていたことを析出する。
第8章では『自然神学と道徳の原則の判明性についての研究』(以下『判明性』)を読解する準備作業として、メンデルスゾーンの『形而上学的諸学における明証性について』を分析する。それを踏まえて第9章では『判明性』と『神の現存在の論証のための唯一可能な証明根拠』(以下『根拠』)を分析し、カントが弱い意味での通俗哲学者であったことを論証する。弱い意味という表現で私たちが言いたいのは、通俗哲学の理念を全面的に支持していたわけではなく、ただ限定的にコミットメントしていたにすぎないということである。しかしカントはたしかに、〈健全な理性〉の哲学的意義を認めていたのである。
このコミットメントが〈健全な理性〉そのものの再吟味を促し、理性批判というアイディアに――ただしそれはまだ超越論的批判ではなかったが――結実していったことを確認するために、第10章では『脳病試論』『1765-66年冬学期講義計画公告』(以下『公告』)を分析する。『公告』では著作上はじめて「理性の批判」という語が登場し、それは〈健全な理性〉の「批判と規定」と「本来の学識」の「批判と規定」に分かれていた。カントは1765/66年冬学期の論理学を前者に費やしており、そのとき使用した教科書がマイアーの『理性論要綱』に残されている。
第11章では『視霊者の夢』が分析され、その理論構造が解明されるとともに、そこでもカントが〈健全な理性〉の哲学の立場に立っていたことが論証される。
最後に、第12章では先ほど述べたマイアー『理性論要綱』へのカントの書き込みを分析し、〈健全な理性〉の哲学からの離反の契機を確認する。
第2部の叙述によって、1760年代のカントは通俗哲学者であったという事実が論証され、それが批判哲学の最初の構想に結実していったこと、そしてにもかかわらずカントは〈健全な理性〉の批判において、早くも通俗哲学の限界にまでたどり着いてしまったことが明らかになるであろう。
繰り返しになるが、本論文は「ドイツ通俗哲学の興亡とカント批判哲学の誕生」という研究課題の前半部分に当たる。「カント批判哲学の誕生」と銘打っているにもかかわらず1770年代以降の展開に――つまり『純粋理性批判』そのものの構想に――踏み入れなかったのはやや不十分であるが、この課題については今後も継続的に研究し、成果を発表していく予定である。また、ドイツ通俗哲学についてもトマス・アプト、メンデルスゾーン、バゼドウ、ガルヴェ、ロシウスなどは個別にきちんと論じられるべき思想家であり、純哲学的なディスカッションであれ政治社会思想的なディスカッションであれ、歴史的に回顧されるに値する。とくにガルヴェについても私たちはそれなりにまとまった研究をこれまで行ってきた。彼らについての研究も今後さらに深め、その成果を世に問うていきたいと考えている。

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