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博士論文要旨

論文題目:日本型排外主義-在特会・外国人参政権・東アジア地政学
著者:樋口 直人 (HIGUCHI,Naoto)
博士号取得年月日:2015年9月25日

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2000年代後半の日本では、外国人排斥を声高に叫ぶ排外主義運動が台頭した。2013年には、運動の代表的な組織たる「在日特権を許さない市民の会(在特会)」に対抗するカウンター勢力が大々的に組織された。そこで提示された「ヘイトスピーチ」というフレームが大きな共鳴力を持ち、社会問題として注目を集めている。では、在特会はなぜ急激に勢力を拡大しえたのか。換言すれば、捉えどころのないネットユーザーに働きかけ、「在日特権」なる虚構を信じさせるという「離れ業」がなぜ可能になるのか。本論文の目的は、ミクロ(個々の活動家=3~5章)とマクロ(政治構造=6~8章)の両面から、こうした問いに答えることにある。
排外主義運動の動員をめぐる「わからなさ」は、当事者のみならず観察者・分析者にとっても同様であり、それだけに憶測や予断に基づく解釈が跡を絶たない。とりわけ、非正規雇用の増加などに伴う不安・不満が、弱者の排斥に向かうという見方が浸透している。それに対して本論文では、極右研究や社会運動研究の学説史を参照しつつ、不安・不満説の当否を検討した(序章~第2章)。集合行動論や相対的剥奪論など、初期の社会運動論は不安・不満が運動参加を説明すると考えた。しかし、それを批判する形で登場した資源動員論や政治的機会構造論は、運動へと押し出す不安・不満よりも運動へといざなう資源や機会が重要だとした。
実証的な検討素材として取り上げた安田浩一の『ネットと愛国』は、取材の行き届いた優れたルポルタージュで、「下層の不満」が在特会の背後にあることを強く示唆している。だが、その内容を精査すると学歴や職業のような社会的基盤にもとづく不安・不満が運動の背景とはいいがたい。メディアの報道から浮かぶ参加者像をみても、特に下層に偏した運動であると結論付けるのは無理がある。それに加え、筆者が実施した排外主義運動の活動家34名に対する聞き取りをみても、組織する側は新中間層が中心で学歴も比較的高かった。
結果的に、不安・不満を強く持つ社会的基盤が存在し、それが排外主義運動の発生を規定するという見方は否定される。これは、米国でBleeが白人至上主義者に対して行った調査、Klandermansらが欧州の極右活動家に行った調査とも一致した見解となる。また、極右政党に対する投票行動の研究でも、「近代化の敗者」が極右支持者になるという見方が妥当ではないことが検証されてきた。こうした結果を受けて、Muddeは極右現象を「通常の病理」とみるのではなく、「病理的な通常」と捉えるべきと総括している。本論文でも同様に、何らかの病理を抱えた人の病理的な行動として排外主義運動を捉えるのではなく、病理的だが合理的に理解すべきものとして分析を進める。
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その際、既存の言説で軽視されてきた要因たる政治的イデオロギーに着目する。排外主義運動は極右に属するとみなされるため、イデオロギーに目を向けないのは奇異に映るが、不安・不満原因説が政治への着眼を妨げてきた。だが、筆者の調査対象者の多くは自民党に投票してきた保守系が多く、「保守」が「排外」に転換する過程を分析する必要がある。本論文ではこのように問題を再設定し、個人が運動参加に至る過程を分析するミクロ動員論のアプローチを採用した(第3~5章)。運動参加をめぐるメカニズムはそれほど単純なものではない。活動家が政治的社会化を経る過程、排外主義運動のフレームに共鳴する過程、その背景にあるインターネットという動員構造の機能をみることで、運動参加を説明する必要がある。
まず、活動家たちは排外主義運動との接触以前にどのような政治的志向を持っていたのか。これを解くのが政治的社会化の過程であり、活動家が政治的イデオロギーを形成し排外的な意識を持つようになった要因を明らかにする。排外主義運動に関わる以前の活動家たちを、ノンポリ、転向者、草の根保守、右翼、排外主義者すると、約半数にあたる18名が草の根保守に分類された。これは、保守層ではあるが特に極端な政治志向を持っていたわけではないことを意味する。同時に、右翼と排外主義者だった者も10名と3分の1程度存在し、活動家にそもそも右翼的な者が多いことも示す。ノンポリと転向者は6名でしかなく、その意味で突然宗旨替えして排外主義者になるというよりは、もともと運動と親和的なイデオロギーを持っていたといえる。
一定数の者が、政治的社会化に際して家族の影響があったと答えているが、それはもっぱら祖父母の影響であり両親を挙げた者は少なかった。これは、祖父母の戦争体験にもとづく歴史観が修正主義的であり、そこから歴史修正主義を内面化した経路を示唆する。家族の影響ではないが、歴史修正主義の受容が排外主義につながる者、拉致問題のような近隣諸国に関わる「事件」をきっかけに排外主義を受容する基盤ができた者と合わせて、大きく3つの政治的社会化の経路があった。その意味で、在日外国人に対する関心を持っていた者は例外で、むしろ歴史修正主義や近隣諸国との関係に影響を受けて、排外主義を受容するような政治的社会化がなされている。
ただし、そうした意識がただちに運動参加につながるわけではなく、政治的社会化に続いて運動のフレームを受容する過程の分析が必要となる。2000年代後半以降の排外主義運動を牽引したのは、「在日特権」フレームになるが、これはインターネットやマンガでしか使われない程度の広がりしかなかった。にもかかわらず、多くの者がこのフレームを受容し運動に参加していったのはなぜか。運動と活動家のフレーム調整の過程をみることで、この問いに答えていく。その際、両者が当初持っていたフレームの距離に応じて、フレーム架橋、フレーム増幅、フレーム邂逅、フレーム転換(順に親和性が低くなる)という類型を設定した。その結果、半数近くがフレーム架橋に該当しており、運動と接点を持つ以前から活動家の認知と運動のフレームには齟齬がなかった。そのため、運動の動画をみて自らの考えを体現する存在と運動をみなし、参加に至っている。
逆に、排外主義に批判的だったが運動に接して見方を変える、フレーム転換を経験した者は皆無だった。無関心だった者が運動に接してのめりこむフレーム邂逅も3名だけで、ほとんどの者が排外主義運動の主張に親和的な認識を持っていた。その意味で、政治的社会化の過程で「在日特権」フレームに共鳴するイデオロギーはできていた。排外主義運動と接点を持って意識が変わったというよりは、自らの意識を体現する存在として運動が捉えられていたといってよい。潜在的支持層になる最大の原因は、イデオロギー的に近いからということができる。多くの活動家は、「外国人問題」に関心がなかったと述べており、それよりもイデオロギー的な距離の方が重要ということになろう。もちろん、そのためには運動の主張を裏書きする「証拠」が現れる(経験的信憑性)、関心のあるテーマを運動が取り上げる(中心性)といった条件が必要となる。
ただし、「経験的信憑性」「中心性」により「在日特権」フレームが受容される事例は、数としては少なかった。より多くの者に影響を及ぼしていたのは、「自虐」「反日」という右派社会運動全体を束ねるマスターフレームだった。「在日特権」フレームは、そうした「自虐」「反日」の下位フレームの1つと考えられる。すなわち、「在日特権」という「経験的信憑性」の低いフレームは、「自虐」「反日」という近隣諸国・在日コリアン・日本の左派という敵手を一体のものとして扱うフレームによって補強される。歴史修正主義や近隣諸国に対する敵意は、半数以上の活動家がイデオロギーを形成するに際して重要な影響を及ぼしていた。彼ら彼女らは、まず「自虐」「反日」フレームに共鳴した上で、それと密接に関わるとされる「在日特権」フレームにも共鳴する。こうして「在日特権」という虚構は、歴史修正主義の持つ物語の包括性に寄生する形で受け入れられていく。
ミクロ動員の分析に際して最後にみるべきは、インターネットの役割である。活動家たちの政治的社会化とフレーミング過程では、インターネットがきわめて重要な役割を果たしていた。では、インターネットが何を可能にしたのか。排外主義運動に関してみれば、何の組織的基盤もないところで多くの人を動員したことが特徴であり、それに関して個々の活動家がどのような影響を受けたかを分析していく。その際、インターネットにより促進された要素とインターネットで初めて実現した要素を区別する必要がある。排外主義運動の台頭に際して、インターネットは不可欠なものだったのか、ある程度の影響があったにとどまるのか、明らかにできるからである。さらにそれを運動との接触(ハード)と認知面の変化(ソフト)に分けて、インターネットが果たした役割を分析した。
活動家34名中25名はインターネットを介して動員されていた。在特会に関してみれば、27名中25名がインターネット経由であり、その役割の大きさは明らかだろう。だが、単に検索機能を使って排外主義運動を知ったという程度の利用が、10人と最多であった。偶発的に排外主義のコンテンツを閲覧した者は9名おり、その意味でインターネットが新規の勧誘を実現する側面はある。だが、インターネットを介した認知の変化は、6名についてしか生じていない。つまり、インターネットは運動と活動家を結び付けるハードとしては機能しているが、ソフトな変化をもたらす機能は見劣りする。インターネットは、政治的な立場を変えるほどの影響力を持つわけではなく、既存の立場を拡張する媒介になると考えた方がよい。以前から政治的に保守的な者が活動家になっているのは、そうしたインターネットの特性によるところもあるだろう。
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ミクロ動員過程の分析から明らかになったのは、活動家たちが参加する経路は合理的に理解可能なことだった。こうした動機は普通に考えても理解しがたく、それゆえ不遇に対する鬱憤晴らしのような代替的な動機を想定したくなるのだろうが、本論文はそうした説明の否定の上に出発している。では、どのように考えればいいのか。単なる差別扇動に過ぎないものを愛国の大義にみせる文脈こそが重要で、それが後半で扱う政治とのかかわりになる。ただし、排外主義運動は制度政治と直接のつながりを持つわけではなく、政治体内部の同盟者を重視するようなアプローチはとれない。その代わりに、運動と政治にみる言説上のつながりに着目し、言説の機会構造という概念を用いて両者の関係を分析する。
言説の機会構造は、特定の政治環境において関心を集め、信憑性を持ち、正統性を持つ言説のあり方を規定する。それに親和的な争点を扱い、フレームを構築する社会運動は、動員に成功する可能性が高まる。2000年代になって排外主義運動が台頭した背景として、インターネットという動員構造の変化に加えて、言説の機会構造の変化もあるのではないか。つまり、体制内の右派にとっての敵手に変化が生じ、それが排外主義に正統性を与えているのではないか。こうした問いを解くために、自民党右派と現状認識をほぼ共有する右派論壇誌の記事データから、80年代以降の変化をあとづけた。
その結果は大きく以下の3点に要約できる。第1に、冷戦時に米国と関心を二分したソ連に対する関心は90年代以降減少し、再び復活することはなかった。それに対して、2000年代になって中国、韓国、北朝鮮を取り上げた記事が急速に増加し、右派にとっての最重要な関心となっている。第2に、90年代後半から歴史問題を取り上げる記事が増加し、現在に至る基調をなしている。第3に、在日外国人を取り上げる記事は少数で、右派の関心事になっていない。
ここから言えるのは、「近隣諸国に対する敵意」「歴史修正主義」という拝外主義運動の活動家を引き寄せる要素が2000年代に出そろったことである。さらに、在日外国人に対する関心の低さも活動家たちの当初の意識と符合しており、日本の排外主義が「外国人問題」ではなく近隣諸国や歴史認識の問題から生まれたことを示す。それが排外主義へと転じたのは、インターネットにおいて独自に作られた言説=「在日特権」の影響であり、『マンガ嫌韓流』はその集大成と評価できる。
2000年代に変化した言説の機会構造は、インターネットを経由することで「在日特権」という鬼子を生み出した。別言すると、排外主義に至るほとんどの要素は右派論壇の言説の機会構造が開かれた時に用意されており、そこに技術的条件の変化という媒介が加わったに過ぎない。その両方の条件が揃ったのが2000年代後半なのであり、排外主義運動の発生はこの2つの要素によって説明可能である。その意味でも、排外主義を敗者の不安・不満が生み出したものとみなすのは誤りで、政治との関連で説明する必要がある。
同時に、2000年代になるとインターネットで醸成された排外主義が、政治の側に逆流する現象も生まれている。これを外国人参政権問題に即して検討すると、安全保障化という傾向がみえてくる。外国人参政権は、もともと西欧諸国における外国人の政治的統合をめぐる文脈で議論されてきた。それは外国人を国民へと包摂する一方向的な流れを想定しており、「将来の国民」の処遇とみることができる。それに対して日本では、戦前の日本本土で参政権を持っていた旧植民地出身者(特別永住者)の権利として提起されており、「過去の国民」の処遇をめぐる問題であった。その意味で、日本は他の国より外国人参政権の法制化を進めやすい状況にあったともいえるが、逆に他の国ではありえないほどの大きな政治問題となった。
そうした政治問題化を進めた大きな要因として、2000年代になって外国人参政権の安全保障化がなされたことが挙げられる。外国人参政権はマイノリティの権利問題であるはずが、「国境離島が乗っ取られる」といった安全保障問題として語られるようになった。これはインターネット上でネット右翼が構築したデマに過ぎないが、それが政治の場でも取り上げられ反対派の大きな論拠となるに至っている。その結果、外国人参政権をめぐる政治は、外国人の権利をめぐる国内問題を完全に離れ、日本と他の東アジア諸国とをめぐる安全保障の従属変数になった。その結果、在日外国人は日本に居住するマイノリティとしてはみなされず、東アジア地政学における各国の代理人にさせられる。反対派が外国人参政権にみるのは、日本国内のマイノリティとしての外国人ではなく、その背後にある周辺諸国の幻影だったといえる。
それでは、「外国人が国境地帯に集結する」などというデマがなぜ受け入れられるのか。これは、「在日特権」というデマが受容されるのと同型の問題であり、解明に際しては東アジア地政学に立ち戻って考える必要がある。本論文では、そのうち在日コリアンに直接かかわる要素に限定して分析するが、その際にはブルーベイカーの議論をもとに「三者関係」の産物として日本の対在日コリアン政策を分析する。すなわち、「民族化国家=日本」「民族の祖国=韓国、北朝鮮」の関係から、「ナショナル・マイノリティ=在日コリアン」に対する政策をあとづけていった。
その結果わかったのは、日韓基本条約、国連人権規約や難民条約への加入、日韓法的地位協定といった外交関係を通じてしか、在日コリアンの処遇改善を国レベルで進める動きが生じなかったことである。逆に、北朝鮮の核開発やミサイル発射、拉致問題といった二国間関係が、朝鮮籍コリアンの弾圧という形で権利侵害をもたらしていた。日本政府は、在日コリアンの処遇を内発的に検討する機会(審議会の設置など)を、戦後から今に至るまで一度も設けていない。対在日コリアン政策は、日本政府と在日コリアンという二者関係によってではなく、日本政府と韓国/北朝鮮との関係が在日コリアンに反映されるという三者関係の産物であった。韓国や北朝鮮との関係が悪化したことと排外主義運動の台頭には、ある種の必然性があったともいえる。
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 これまでの分析をもとに、本論文の題目である「日本型排外主義」とは何かを、最後に考えてみたい。欧州と比較したとき、日本型排外主義の現象面での特徴は、標的となる集団の違いとなる。欧州ならば、欧州域外にルーツを持つ移民(とりわけムスリム)が標的となり、経済的、文化的な脅威として移民は構築される。それに対して日本では、経済的文化的に統合が進んだ在日コリアンが標的とされる。東アジア域外よりも、東アジアにルーツを持つ者が憎悪の対象となっており、そこに現象面での特質がある。
 こうした相違は、日本では東アジア地政学や歴史修正主義を受ける形で「外国人問題」が構築されることにもとづく。それなくして在日コリアンが標的となる要因、ひいては排外主義運動が急速に台頭した要因を解明することはできない。日本型排外主義とは近隣諸国との関係により規定される外国人排斥の動きを指し、植民地清算と冷戦に立脚するものである。直接の標的になるのは在日外国人だが、排斥感情の根底にあるのは外国人に対するネガティブなステレオタイプよりもむしろ、近隣諸国との歴史的関係となる。その意味で、外国人の増加や職をめぐる競合といった、欧州で排外主義を生み出す要因は、日本型排外主義の説明に際してさしたる重要性を持たない。
 その意味で、日本型排外主義の起源は冷戦体制下で日本が過去の清算をうやむやにするという「恩恵」を被ったことにあるとみたほうがよい。東アジア冷戦は、結果的に日本の植民地支配や戦争責任の所在を曖昧にするのに役立った。今世紀に入ってからの保守政治の変容は、確かに排外主義運動の台頭に影響を及ぼしている。だがそれに至る経路は、はるか以前から築かれてきた。それが日本型排外主義の背景にあるとすれば、その抑制に際しては、歴史的に経路づけられた三者関係の再構築が不可欠となるだろう。

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