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博士論文要旨

論文題目:資源分配における妬みの適応的機能-資源所有者の分配志向性と資源の分割容易性の影響-
著者:井上 裕珠 (INOUE, Yumi)
博士号取得年月日:2016年3月18日

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1.本論文の構成
 本論文は,妬みを生起させる要因を,感情の適応的機能という観点から理論的に説明し,心理学実験を用いて検証することを目的としたものである。妬みとは,優れた他者が何らかの点で自分よりも優れているときに生じる苦痛で不快な感情である。この論文では,妬みを初めとした感情が進化的環境への適応の産物であるという観点から,妬みに想定される進化適応的機能を議論した。そして,妬みには資源分配を促進させる機能があり,資源を多く持ちながらも分配を渋るような他者に対して,資源分配を促進させるうえで妬みが有益であった可能性を指摘した。このような妬みに想定される機能を踏まえ,妬みの生起要因として,資源所有者の分配志向性の認知と,他者の持つ資源の分割容易性という2要因を取り上げた。そして,分配志向性が低く認知されるような資源所有者が,相対的に分割容易な資源を持つことを知覚した場合に妬みが高まりやすいだろうという仮説を導出し,複数の実験を通じてこの仮説を検証して,仮説を支持する結果を得た。そのうえで,本研究の成果をまとめ,研究の意義と限界,今後の展望について議論している。
本論文の章立ては以下の通りである。

第Ⅰ部 問題
第0章 序章
0-1 はじめに
0-2 本論文の構成
第1章 従来の妬み研究
1-1 はじめに
1-2 妬み感情とは
1-3 妬みを生起させる要因
1-4 妬みの認知と動機づけへの影響
第2章 妬むことの適応的機能
2-1 はじめに
2-2 妬みの適応的機能
2-3 妬みを生起させる要因
第3章 実証研究の目的と概要
3-1 実証研究の目的
3-2 実験場面の設定
3-3 妬み感情の測定法
3-4 実証研究の概要
第Ⅱ章 実証的検討
第4章 妬みの知覚が分配に及ぼす影響
4-1 実証研究1
4-2 実証研究2
4-3 実証研究3
4-4 全体考察
第5章 資源所有者の分配志向性の認知と資源の分割容易性が妬みに及ぼす影響
5-1 実証研究4
5-2 実証研究5
5-3 実証研究6
5-4 全体考察
第Ⅲ章 総合考察
第6章 総合考察
6-1 知見のまとめ
6-2 本論文の意義と示唆
6-3 今後の展望
6-4 結論

2.本論文の概要
本論文の概要は以下の通りである。
 第Ⅰ部序章では,妬みの適応的機能という観点から妬みの生起過程を解明することの必要性を述べている。感情生起のメカニズムを探るアプローチには,感情を引き起こす直接の仕組みに注目したものと,生存や繁殖のために有益となった機能に注目したものがあるが,従来の妬みに関する心理学研究のほとんどが仕組みに注目したものであったと指摘している。そのうえで,妬みの仕組みをより理解するためには,これまでほとんど焦点の当たってこなかった妬みの機能に注目することが必要であると説明している。そして,本論文では進化適応環境における妬みの適応機能に注目したうえで,妬みの生起因(仕組み)を検証すると述べている。また,論文全体の構成について簡潔に記述している。
 第1章「従来の妬み研究」では,まず,妬みの定義や他感情との相違点を述べている。妬みとは,能力や業績,所有物において他者が自分よりも優れており,その優越を主観的に不公平であると感じるときに生じる,劣等感や敵意,憤慨に特徴づけられるような苦痛で不快な感情である。妬みや恥,罪悪感を初めとする,自己を意識することで生じるとされている感情(自己意識的感情)に関する議論を概観したのち,嫉妬や憤慨という類似感情とは異なる感情であることを従来の議論を基に説明している。続いて,従来の妬みに関する心理学研究をレビューし,優れた他者との比較時に自己評価が低下することで妬みが生じるという視点から妬みの生起要因を検証した研究と,妬みが認知プロセスや動機づけに及ぼす影響に関して検証した研究を紹介している。
 第2章「妬むことの適応的機能」では,感情の適応的機能に関する議論を概観したうえで,妬みに想定される適応機能について論じている。感情の適応的機能に関する議論では,ある感情を抱く個人の方が,そうではない個人よりも,祖先に繰り返し降りかかった適応上の難題に対して迅速に対処しやすく,生き残りに有利であったために,今の私たちにもその感情が備わっていると考えられている。そして感情の中でも,妬みや恥,罪悪感を初めとする自己意識的感情は,生存のために重要であった他集団成員との互恵的な関係性を調整し,維持するうえで有益であったとされている。互恵的な関係性の中では,自分の利益を確保しながら他者にも利益を分け与えなくてはならないというジレンマ状態が生まれるが,自己意識的感情はこのジレンマを解消し,他者の行動に応じて自分の行動を調整するよう機能したという。このような自己意識的感情に関する議論を概観したうえで,互恵的な関係性の維持が極めて重要であったと考えられる資源分配場面に焦点を当て,妬みが資源分配場面におけるジレンマ状態を解決するうえで有益であった可能性を述べている。具体的には,資源を多く持ちながらも他者への分配を渋るような個人に対して,資源分配を促すうえで妬みが有益であった可能性を議論している。このような資源分配促進としての妬みの適応的機能に関して直接的な証拠はこれまで得られていないが,妬まれると援助的になることを示した心理学研究や,他者からの妬みを知覚して妬まれることを恐れると食糧資源を分配するようになるという人類学研究,妬みが集団における公平な分配に有益であったとする人類学の議論などを傍証としながら,妬みには資源分配促進としての機能が備わっていたと想定できることを議論している。そして,このような機能が妬みに想定できるのであれば,資源所有者の分配志向性の認知と,資源の分割容易性という2つの要因が妬みの生起に関わるであろうと述べている。妬みが他者との関係性を悪化させる可能性があることを既存の議論をレビューしたうえで説明し,そのような悪影響がある限りは,資源を多く持つ他者を誰彼かまわず妬むことは適応的ではなく,分配を渋るような,いわゆる分配志向性が低く認知される相手に対してのみ妬みが生起するだろうと予測している。さらに,他者の持つ資源の性質によって資源分配を促す程度が変わることを示した心理学および比較認知科学の研究をレビューしたうえで,資源所有者が,相対的に分割しやすい性質の資源を持つ場合の方が,相対的に分割しにくい資源を持つ場合よりも,妬みやすいだろうと予測した。そして,これら2つの予測をあわせて,分配志向性が低く認知される資源所有者が,相対的に分割容易ではない資源を持つことを知覚した場合に,妬みが高くなるだろうという仮説を導出した。
 第3章「実証研究の目的と概要」では,本論文で報告する実証研究について説明がなされている。本論文では,主たる仮説を導く前提として,何も言わずとも分配してくれるような,分配志向性が高く認知される資源所有者を妬むと,関係性が悪化してかえって分配してもらえなくなる可能性を想定している。しかし,従来の研究ではこの可能性について検証されてこなかったため,分配志向性が高い人物が妬みを知覚すると資源を分配しなくなるだろうという予測について,4章で示す3つの研究で検証して支持する証拠を示すと述べている。また,分配志向性が低く認知される資源所有者が,相対的に分割容易ではない資源を持つことを知覚した場合に,妬みが高くなるだろうという本論文の主たる仮説をあらためて述べ,第5章の3つの研究で支持する証拠を示すと述べられている。そして,これらの実証的研究の場面の設定と妬みの測定方法について,関連する研究を概観しながら説明している。
 第Ⅱ部第4章「妬みの知覚が分配に及ぼす影響」では,分配志向性が高い人物が妬みを知覚すると,分配する程度が低くなるだろうという仮説を検証している。研究1は,妬みを知覚すると分配が促進されるという先行研究の知見を確認するために実施された。参加者には,初対面の他の参加者とペアで作業をこなしたあとに,参加者だけがお金を受け取るという状況が与えられた。このときに,参加者が調査ペア相手からの妬みを知覚するほど分配意図や金額が高くなっており,妬まれると分配が促進されるという現象が確認された。研究2と研究3では,仮説を検証するために,分配志向性を高く分配し合ってきたような互恵的な関係にある友人から,運よくお金を手に入れた「あなた」が妬まれるという状況が仮想的なシナリオとして提示された。友人からの妬みの知覚の程度を測定し(研究2),あるいは妬みの程度を操作した情報を提示したところ(研究3),友人からの妬みを知覚するほど友人に奢る金額が低くなっており,分配志向性の高い人物を妬むと関係性が悪化して,かえって分配してもらえなくなることが示唆された。
 第5章「資源所有者の分配志向性の認知と資源の分割容易性が妬みに及ぼす影響」では,資源所有者の分配志向性の認知と資源の分割容易性が妬みの程度に及ぼす影響について検討した3つの実験について説明している。研究4と研究5では,参加者ともう1人の参加者(実験協力者)が2人1組で実験に参加し,もう1人の参加者だけが課題終了時に1000円を受け取るという状況が設けられた。このときに,もう1人の参加者が受け取る1000円の種類を条件によって変えることで資源の分割容易性を操作し,分割容易性高条件では,500円玉2枚(研究4)もしくはクオカード500円分2枚(研究5)をもう1人の参加者が受け取ったのに対し,分割容易性低条件では,1000円札1枚(研究4)もしくはクオカード1000円分1枚(研究5)をもう1人の参加者が受け取った。また,資源所有者の分配志向性の認知については,研究4では,もう1人の参加者から分配してもらえると思う程度を測定し,研究5では一般的な他者の善意の予期を測定する個人差尺度を測定したうえで,それぞれ分配志向性の認知の程度として扱った。その結果,研究4と研究5ともに,もう1人の参加者を分配志向性が低いと認知する人ほど,分配志向性が高いと認知する人よりも,もう1人の参加者への妬みの程度が高かったが,その傾向は分割容易性高条件の参加者に限られており,仮説を支持する結果が得られた。ただし研究4と研究5では,分配志向性の認知と妬みの因果関係が明らかではなかったため,研究6では,もう1人の参加者の分配志向性を操作した。研究6でも同様に2人1組で実験に参加してもらい,独裁者ゲームという2人でお金を分配するゲームに取り組んでもらった。分配金額が決定されたあとに,もう1人の参加者が回答した(とされる)分配金額をパソコン上で伝え,このときの分配金額によって,もう1人の分配志向性認知の操作を行った。分配志向性高認知条件の参加者は,ペア相手が平等分配していたと伝えられるのに対し,分配志向性低認知条件では,自分が多いように分配していたと伝えられた。続いて,課題終了後にもう1人の参加者だけがクオカード1000円分を受け取ったが,研究4と研究5と同様に,この1000円の種類によって資源の分割容易性が操作された。その結果,分配志向性低認知条件の参加者は,分配志向性高認知条件よりも,もう1人の参加者への妬みの程度が高かったが,その傾向は分割容易性高条件に限られており,仮説を支持する結果が得られた。したがって,妬みの程度は,資源所有者の分配志向性の認知と資源の分割容易性に依存することが示された。
 第Ⅲ部第6章「総合考察」では,6つの実証研究の結果を要約したうえで,本論文の意義と示唆について議論している。これまでの妬みに関する心理学研究では,自己と他者の評価という観点から,妬みを直接引き起こす仕組みのみに焦点が当てられ,妬みの生起因が検証されてきた。それに対して本論文は,心理学だけでなく,人類学や比較認知科学などの近接領域の知見を取り入れながら学際的に妬み感情を分析したうえで,従来焦点の当たってこなかった妬みの機能として,資源分配促進という適応的機能を想定した。そして,従来の研究では見出せなかった妬みの生起因として資源所有者の分配志向性の認知と資源の分割容易性に焦点を当て,それらが妬みに及ぼす影響に関して実証的に検討した。本論文から得られた知見は,妬みの資源分配促進としての機能から導かれる予測を支持する初めての証拠であり,妬みや,自己意識的感情のさらなる理解に貢献しうるものであると述べられている。また,本論文で得られた結果は,従来の妬み感情に関する心理学研究の知見からだけでは解釈することが難しく,本論文のように,妬みに想定される適応的機能に焦点を当てることによって初めて予測および解釈することができる結果であると指摘したうえで,本論文の独自性および新規性を説明している。さらに,本論文の知見は,妬み感情や,ひろく感情の理解を促進するだけでなく,人間の進化の過程において,妬みが互恵的な関係の構築や維持にいかなる役割を果たしてきたかを考えるうえで示唆を与えるものであり,ヒトの協力行動の進化を理解するうえで貢献しうると述べられている。そして,最後に今後の研究の展望について議論がなされている。

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