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博士論文要旨

論文題目:体育・スポーツの戦時編成とジェンダー
著者:鈴木 楓太 (SUZUKI, Futa)
博士号取得年月日:2015年3月20日

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論文の構成

序章
第1章 戦時期の学生スポーツ
第2章 女子体力章検定の制定過程
第3章 明治神宮体育大会における実施種目の戦時編成とジェンダー
第4章 明治神宮地方大会の開催方針と実態
第5章 体育・スポーツ政策と対象者の区分
終章

問題意識

本論文は、日本における戦時期の体育・スポーツをジェンダーの視点から分析することを目的としたものである。日中戦争以降を中心とする戦時期には、総力戦に動員する「人的資源」としての国民の体力向上に対する国家の要請が強まった。その対象には、それまでの体育・スポーツ政策では周辺的、副次的に扱われていた女性や労働者などが含まれ、それなりの切迫感を持った施策が展開された。戦時期は、ジェンダーの視点から体育・スポーツ史をえがく上で一つの画期であったと考えられる。

各章の概要

 序章では、以上のような問題意識を述べた上で、1)戦前の女性の体育・スポーツを対象とした研究と2)戦時期の体育・スポーツを対象とした研究を検討し、成果と課題を整理した。その結果、従来の研究が提示する「スポーツの暗黒時代」という「定説的」な時代像が実際には青年男性の状況に依拠していること、対照的にその他の人々、特に女性に関する状況はほとんど明らかにされておらず、「定説」を批判的に乗り越えようとする近年の研究潮流においても女性やジェンダー視点についてはほとんど手つかずの状況であることを指摘した。これをふまえて、戦時期においてスポーツが戦技訓練に塗りつぶされていったという「定説的」な理解と、近年明らかにされつつある、これに当てはまらない様々な状況、この両者を共に体育・スポーツのジェンダー編成という一貫した視点でとらえ直し、一つの時代像を提示することを本論文の課題とした。
また、その際の分析視角としては、①国家の体育・スポーツ政策を、総力戦遂行という大目標の下位に位置づけられた体力向上や慰安の提供などのいわば中間的なレベルの目標に沿って捉えること、②「青年男子」や「産業人女子」といった政策対象の区分の仕方とそれぞれに対応する体育の目的の差異および優先順位に着目すること、③全国的なイベント、地方行事、恒常的な体育運動等のレベルの違いに着目すること、④奨励された具体的運動種目と目的との対応関係を明らかにすること、⑤政策やスポーツ界の取り組みの結果と、戦局の悪化による物理的影響の区分けに留意すること、⑥スポーツを含む広義の「運動種目」という概念を用いること、等を採ることとした。
第1章では文部省の「重点主義」政策を分析した。学生スポーツの弾圧は先行研究においても繰り返し論じられてきたが、女子学徒に対する文部省の方針を明らかにすることで「重点主義」の新たな解釈を試みた。その結果、男子学徒では戦技訓練が最優先されてほとんどのスポーツ種目が冷遇された一方で、女子学徒に対しては寧ろ全面的に球技スポーツを奨励するという文部当局の方針が明らかになった。これは、兵力動員の対象とならない女子学徒には従来のスポーツ種目を冷遇する合理的理由がなかったことと、僅少な運動用具を効率的に活用するために男子では後回しにされた球技が優先的に女子に割り当てられたことによって説明できる。ただし、「重点主義」政策の中心的な対象はあくまで男子学徒であった。「重点主義」では、兵力動員の対象となるか否かによって、男子学徒の体育が女子学徒の体育よりも重視されたのである。とはいえ、女子学徒についても方針を示す必要があり、出産、男性の代替労働、銃後の生活遂行の3つを兼ね備えた「健母」の育成が求められた。
こうした女性の体力の目標に関する議論を掘り下げたのが第2章における女子体力章検定(以下、女子検定)の制定過程の分析である。ここでは女性の体力向上の目的に関する関係者の論調の変化を明らかにした。1938年後半の構想段階においては、女子検定は同時に構想された男子の体力章検定に類似したものとして、漠然とした形で女性には男性よりも低い体力の標準が想定されていた。1941年後半の制定段階になると、戦時人口政策を背景として、女子検定が男子検定とは異なる独自の意義と内容を持つことが強調された。ここでは第1に「人的資源」の源泉としての「健康な母体」の養成が、第2に防空活動などを含む戦時の日常生活に必要な体力の獲得が、女性の体力向上の目的として打ち出され、この方針に沿って検定種目も構想段階から多数入れ替えられた。男性労働力の枯渇を補う女性労働力の確保がさらに切迫した課題となった1943年の実施段階になると、「生産増強」という産業人としての体力向上が女子検定の目的として加えられ、上記2つの目的にも増して強調されるようになった。こうして、「健康な母体」の養成や戦時の日常生活遂行という課題を突き詰めて選定されたはずの検定種目は、「生産増強」という女子検定の新たな目的を旗印に掲げて実施された。
また、その際に各種目の合格基準の記録が軒並み引き上げられたことで、「生産増強」のためには従来の「健康な母体」育成や家庭生活の遂行よしも高い体力が必要であることを示すことになった。男子検定とは異なる「新たな基準」を標榜した女子検定は、男性の代替労働としての女性の労働力動員に呼応する形で女性の体力の標準が高められたことで、結局は男女の「体力」を序列化したようにもみえる。
 第3章では、1939年の第10回大会から厚生省主催となった明治神宮国民体育大会の中央大会を分析した。神宮大会は厚生省の体育・スポーツ政策の中心的な事業であり、その政策方針を示す場でもあった。神宮大会における厚生省の基本方針の一つは参加者層の拡大であり、これは主に産業人と女性の参加者種別(参加枠)の増設という形で実行された。さらに、1941年には「臨戦態勢下」の実施方針として、「性、年齢、職業等ノ別ニ対シ国家ガ奨励スル体育ヲ範示スル」ことが掲げられ、対象者毎に適当な種目を示すという方針が明確にされた。こうした観点から実施種目を分析した結果、従来の実施種目の編成に大きな変化が加えられたのは、中等学校、青年学校、青年団等の青少年男性の部であり、女性や産業人にはこのような変化がほとんどみられず、寧ろ球技種目が拡充される傾向にあったことが明らかになった。ただし、ここでも最も重視されたのが青年男性であることは、戦場との連続を謳った実施方針や、女性や産業人で奨励されていたものの青年男性には不適当とされた種目が除外されたことなどに明確に表れていた。
 第4章では、従来ほとんど明らかにされてこなかった明治神宮地方大会の開催の経緯やその実態に迫ることで、町内会レベルの運動会について考察した。宮城県白石町の町民体育大会がモデルとなったこの大会は、第3章で分析した中央大会とは異なり、町内の住民が一堂に会して団欒的に開催されることが求められていた。この方針は一貫しており、鍛錬的な種目よりも厚生的、慰安的な種目が重視された。一方で、青年層には別途方針が示されるようになり、戦技訓練や体力章検定を通じた鍛錬が求められた。
また、ここで実施された運動会種目には、前線と銃後における役割を反映した名称を冠して男女に振り分けられたものと、老若男女を問わず参加できるよう工夫されたものがあった。後者は一見するとジェンダーによる差異が目立たないが、家族制度や隣組制度におけるジェンダーと世代を含む諸関係が、チーム構成に持ち込まれていた。これらの種目を通じて、地域の運動会における女性や壮老年者の参加が促進されたと考えられる。
以上の各章に共通していたのは、国民全体が対象となった戦時期の体育・スポーツ政策が、国民を「人的資源」として動員することを企図した戦時人口政策を背景として、それぞれに要求する体力の標準と体育の目標、実施すべき運動種目等を提示していたことであった。これが最も明確に表れていた町内会や部落会を実践単位とするような恒常的な体育運動に関する政府の方針を分析したのが第5章である。
全体として、政策方針レベルでその実施対象が言及される際には2つの位相があるように思われる。1つは、国民全体を対象とするというものである。ここでは「老若男女」を分け隔てなく取り込むことに力点が置かれており、戦時期においても国民心身鍛錬運動や町内および職場の実践体組織の整備を通じて一層徹底された。
もう1つは、対象者毎の奨励種目の提示である。これは、年齢、性別、職業、体質、生活環境等の諸条件で異なる対象者の生活実態を考慮するというものから、総力戦に動員する「人的資源」に対する国家の要求よって対象者を区分するというものへと変化した。この区分は漸次明確にされ、1943年の厚生省方針を画期として青年男性、青年女性、産業人、一般国民の4区分が確立された。戦時動員の直接の対象となる人々に対しては国家の要求する役割に資する体力の要請を基準とした種目を割り当て、その他の「一般」国民に対しては諸条件に応じて選択した運動種目を通じてそれぞれの持ち場で戦争遂行に貢献できる体力を獲得させるというのが、対象者と種目に関する戦時期の政策の基本的性格であったといえよう。
 最後に、終章では複数の規定要因に留意しつつ前章までで明らかになった事実を上述の4区分に即して整理したうえで、本論文の分析課題である体育・スポーツの戦時編成という本論文の主題に引き付けて、以下のように結論を提示した。

結論

奨励された運動種目と実施方法は、全体的には戦争の終盤に向かって次第に鍛錬的な傾向を強めながらも対象によってかなり異なっていたが、こうした差異は戦時人口政策と「人的資源」論という視角によってある程度統一的に説明することができた。重要なのは、この人口政策が、兵力及び労働力としての男性と、その量的拡大の源泉となる「母性」としての女性というジェンダーの境界を明確にしたものであったという点である。
戦時期の体育・スポーツ政策では、特にその対象が広範に及んだ厚生省を中心に、「老若男女」の別を問わず全ての国民を政策対象として体育の普及拡大が目指されると同時に、特定の対象に重点を置いて別個に方針が示された。両者は並立した2つの政策系統というわけではなく、総力戦遂行に利用・動員する「人的資源」として国民を捉えている点で根を同じくしており、相補的な関係にあったといえる。厚生省の設立を契機として、まず前者が前面に出され、戦争の長期化、人口政策の確立、労働力動員の切迫化等を背景として次第に後者に対する要請が強められた。
前者は1920年代からの「社会体育」の系譜を引きつつ、日中戦争期以降に「人的資源」としての体力保持が「国民の義務」として要請される中で拡充・具体化されたものである。ここでは日常生活に根ざした平易で継続性の高い内容が重視され、万人に対して歩行、体操、水泳が奨励された。また、その他の種目は性別、年齢、職業などに応じて適宜実施することとされた。政府主催となった明治神宮大会が「全国民をして体育を実践」させる契機として意義づけられ、地方大会が創設されたのもその一環であった。そして厚生省の1943年方針(第5章で分析)で対象者の区分が示されて以降は、「一般国民」に対する方針として継続された。
後者は人口政策における「人的資源」のジェンダー化した動員を基盤として、主に青年層の国民を「人的資源」の3要素である兵力、労働力、「母性」に対応して区分した。即ち、青年男性、産業人、青年女性であり、各対象の体育の目的は「人的資源」として要請された役割を果たしうる身体と運動能力の獲得に置かれ、その目的に沿って運動種目が奨励、もしくは抑制された。また、青年女性の場合、奨励種目の形態の規定要素としてより強く働いたのは、人口政策における早婚多産に焦点化した「母性」というよりは、「戦時家庭生活の遂行」を主とした広義の「健康な母体」に必要な体力のあり方あった。加えて、こうした区分は、あくまでも「人的資源」の利用・動員を目的とした国家による国民の区分であり、人々の生活実態に対応したものではなかった。
 総力戦への貢献を大前提とする戦時体育政策における「中間的なレベルの目標」(序章で提示した分析視角)は、青年男性及び青年女性では専ら心身の鍛練に、産業人と一般国民に対しては鍛錬と慰安・厚生の両面に置かれた。この慰安・厚生は、産業人では主に労働力としての「人的資源」の疲労回復の方途として、一般国民ではこれと並んで隣組や職場単位で皆が集まって楽しむ団欒の手段としても意義づけられた。
このうち、ジェンダー差が明確に表れたのは鍛錬的な部面であり、これはそうした鍛錬が「人的資源」の3要素に即した身体と運動能力の獲得を要請し、運動種目の形態をも規定したからであった。青年男性の戦技及び国防競技、青年女性の女子体力章検定や防空競技、産業人向けの各種体操等がそれである。これらは、戦時化によって奨励種目の形態におけるジェンダー差が顕著になったものとして位置づけられる。加えて、最も重点が置かれた対象は常に青年男性であり、国民体力法及び体力章検定の実施時期や文部省の重点主義において、政策対象としての男女間の優先度の差は明確であった。兵力動員が切迫した戦時期の構造的特質によって、この差が拡大したといえよう。女性の体育が重要度を増したことも示され、戦争の終盤にかけてより高い体力が要請されるようになったが、男性とは異なるとされた「女子体育」の理論的な指針の提示は先送りされた。
他方、慰安・厚生の部面においても性別や年齢に応じた内容を選択すべきとされたが、これらは「人的資源」としての上からの区分というよりは、個人の資質の多様性として位置づけられていた。その結果、基本的には戦時期以前からの種目のジェンダー編成が温存されたと考えられる。ただし、より細かく見れば、一般向けに重視された団欒的な体育行事でも、例えば運動会種目の中には前線と銃後の役割分業を連想させる種目名を冠して男女に振り分けられたものや、家族制度や隣組制度におけるジェンダーと世代を含む諸関係がチーム構成に持ち込まれたものが、時局を反映した種目として登場した。これらは、表象的なレベルにおいて運動種目の戦時化とジェンダー化が結びついた事例であった。
また、男女の体力の関係については、女子体力章検定の制定過程の分析から明らかになったように、青年女性の体力の標準は、一度は人口政策を背景として男性との異質性・独自性が強調されたが、産業人としての体力要請の強化に伴って標準記録が切り上げられたことで、産業労働には家庭生活の遂行よりも強度の体力が必要であるという関係を示すこととなった。産業労働への女性の進出は男性の代替であり、なおかつ男性よりも軽易な職種が中心であった。戦争末期に大日本体育会が刊行した『厚生遊戯』において、女性では「鍛錬的」とされた種目の殆どが男性では「慰楽的」とされたように、女性における産業人としての体力標準の標準化は、女性の体力標準を引き上げる一方で、男女の体力を序列化するものとして位置づけることになったともいえよう。

以上のような本論文の結論を提示した上で、最後に「スポーツ」に焦点化して本論文の成果を述べた。本論文は多くの先行研究に共通する、「スポーツはどう変容したか」という問題設定を一旦脇に置き、広義の運動種目という概念を用いることで、より包括的な視野から個別事例の布置連関を描き出してきた。その上で、スポーツ史研究としての本論文は、その成果を今一度スポーツ史の文脈に位置づける必要があろう。
まず、スポーツの奨励、利用、弾圧の諸相は、ここまで述べたように対象者の区分、体育実施の目的、競技会や日常的鍛錬といった場面、そして戦局の推移等によって規定されていたが、全体として以下のように整理することができる。第1に、生活に根ざした恒常的で平易な運動種目という基準からはスポーツは奨励されなかった。第2に、「人的資源」の動員目的に規定された実用的な種目としてスポーツは奨励されなかった。第3に、資材や場所の有効活用という点でスポーツは部分的に奨励された。第4に、慰安・健全娯楽の手段としてスポーツは奨励された。第5に、競技大会では、スポーツはある程度継続された。スポーツの有効性は、直接的な戦時貢献の手段としては承認されなかったが、間接的な戦時貢献を果たすという大前提の範囲内ではあれ、まさに自己目的的に楽しむことができるという点で承認されたといえよう。
青年男性でスポーツが抑制されたことは、これが従来スポーツの中心的な担い手であり、且つ戦時期の体育・スポーツ政策で最も重視された対象者であっただけに、そのインパクトは非常に大きかったが、一方でスポーツは、青年男性以外に対する非鍛錬的な場面で奨励されることとなった。その結果、大まかに言えば、青年男性よりも産業人や一般国民に、また学生では男性よりも女性に、産業人では青少年よりも女性や壮老年において、スポーツの奨励度合いは高くなった。日本におけるスポーツの導入以降、スポーツとジェンダーとの関係が問題にされたのは基本的に常に女性であったが、近代国家が男性国民に対して求める兵士としての貢献は、その要請が極限まで肥大した戦時期において、初めて男性ジェンダー故にスポーツとの関係が問題となるという状況を生んだのである。

成果と課題

 序章で示した戦時期の体育・スポーツ研究の課題のうち、本論文では、最も影響力の大きなアクターである国家の政策レベルの分析を中心に据えた。その範囲でこの時代の見取り図を示すこと、また、単に女性の状況を「付け加える」のではなく、ジェンダー視点を持ち込むことで戦時期の体育・スポーツの時代像を修正ないし深化できることを示すのが本論文の試みであった。これは、各事例の細かな実証分析を通じてある程度達成できたと考えられる。人口政策の「人的資源」論と対象者区分という分析の枠組みが、男女間の差異及び同性内の差異を解明しようする過程で構築されたものであることを改めて強調しておきたい。
今後は、本論文では補足的に言及するに止まったスポーツ界の戦略や、厚生運動及び産業報国会の取り組みを明らかにするとともに、戦時体制における諸政策との関係を分析することでこの研究を発展させていきたい。さらに、占領期から戦後復興期までを視野に入れることで、戦時期の位置づけをより明確にする必要がある。

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