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博士論文要旨

論文題目:性暴力と被害者の属性―性風俗従事者に対する性暴力の不可視化―
著者:田中 麻子 (TANAKA, Asako)
博士号取得年月日:2015年3月20日

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本研究の問題意識と課題
性暴力は、他の犯罪に比べて被害申告率が低く、暗数の多い犯罪であり、性暴力の被害者は、被害について相談することができないだけでなく、必要な支援を受けられない場合も多い。性暴力の被害者が、被害について相談できない背景には、性暴力による身体的・精神的衝撃が強く、被害について語るのに大きな負担がかかることや、被害者の自責が挙げられる。また、何を「性暴力」とするのかが不明瞭で、被害者に起こった出来事が「性暴力」と認識されづらい環境や、性暴力を訴えた被害者が加害者よりも非難されてしまうような環境も、性暴力を可視化しづらい要因となっている。
このような状況を打開するものとして、近年、日本では、性暴力に関する法制度の整備や被害者支援制度の拡充が進んでいる。そこでは、性暴力概念が精緻化され、被害者の身体的・精神的負担が明らかにされつつある。また、犯罪被害者学や心理学、社会学を中心に、「被害者非難」の研究も進み、性暴力の被害者が被害について語ることができない背景に、被害者の属性(人種や性別、職業や性質など)が関わっていることも明らかになっている。例えば、性暴力の被害者が少女の場合、性暴力の加害者が非難されやすいが、被害者が派手な格好をしていた場合や、被害者が加害者に抵抗しなかった場合、加害者ではなく被害者が非難されやすい。また、被害者と加害者が過去に恋愛関係や性的関係にあった場合や、被害者の属性に違法性や不道徳性が備わっていると見なされる場合にも、性暴力の信憑性(被害者が本当に性暴力を受けたのか否か)を問われやすいことも明らかになっている。
これらの研究は、性暴力被害を語りづらい背景や、どんな属性を持つ被害者が非難されやすいのかを明らかにしてきた。しかし、ある属性が、なぜ非難の対象となり、それらの属性を持つ被害者に対する性暴力がなぜ是認されるのかといったことは体系的に分析されておらず、それらの属性を持つ被害者に対する性暴力を可視化する方法の模索には至っていない。そこで本研究は、性暴力の被害者が被害について開示できない要因を、被害者の属性との関係から分析し、性暴力の被害者がその属性に囚われることなく被害を相談できる(可視化できる)方法を考察する。その際、日本の「性風俗従事者」に対する性暴力に着目する。本研究では、「性風俗」を「対価の授受を以って性的行為を行うこと及びその場」とし、産業としてシステム化されている性風俗産業から、街娼や援助交際といった個人の行為までを含むものとする。そして、性風俗のサービスを自身の身体を以って提供する側を性風俗従事者、その相手を性風俗利用者とする。
本研究が、日本の「性風俗従事者に対する性暴力」に着目する理由は、性風俗従事者に対する性暴力が信憑性を問われやすく、また、社会的な問題だと考えられていないからである。
性風俗従事者が日々受けうる性暴力は世間に注目されにくい。それは、「性風俗従事者」という属性に不道徳性が備わっていると考えられやすく、性暴力の信憑性が問われるからである。また、「性風俗は性暴力を食い止める性の防波堤である」といった、性風俗の存在意義を性暴力防止に位置づける論議も後を絶たない。それは、性風俗従事者たちの性や身体が、非性風俗従事者たちのそれよりも軽んじられ、「性暴力を受けること」に耐えうる身体であるか、「性暴力を受けても問題ない」身体であるかのように見なされていることを意味している。性風俗従事者に対する性暴力は、「問題とされるべき性暴力」の序列の最下層に位置づけられ、性暴力の被害者が「性風俗従事者である」ことを以ってその性暴力が社会的に是認されているのである。
そのため、性風俗従事者に対して性暴力を行使することが、被害者が「性風俗従事者である」という属性ゆえに正当化されたり、その属性ゆえに性暴力被害を訴えられないような状況を分析することで、性暴力の不可視化と被害者の属性との関係を明らかにし、性暴力の被害者が被害を可視化できるような環境を模索できると考える。
このような問題意識の下、本研究では大きく二つの課題を設定する。一つは、性風俗従事者に対する性暴力とそれが不可視化される要因を明らかにすることである。そして、性風俗従事者に対する性暴力を可視化するための方法を検討することである。

本研究の構成 
第1章では、本研究の方法論を提示する。本研究における「性暴力」と「性風俗」の定義、資料の選定方法、本研究で実施したインタビュー調査方法を説明する。
また、同章では、「性暴力の不可視化」についての先行研究を基に、本研究の分析枠組みを設定する。まず、「性暴力の不/可視性」について考察する。性暴力が可視化される過程には、性暴力のイシュー化と個人の経験の再定義化(「性暴力の被害者」への同一化)という二つの可視化の過程がある。性暴力が可視化されるには、性暴力がイシュー化され、従来「個人の不快」や「からかい」などと受け止められてきた出来事が、「暴力」の一形態に位置づけられる必要がある。さらに、個人が自分に起きた出来事を単なる「性的行為」ではなく「性暴力」として認識し、自身を「性暴力の被害者」に同一化することで、性暴力は被害者自身に可視化される。つまり、性暴力がイシュー化されることで、被害者が語ることができない場合にも、「性暴力」という問題が可視化される。さらには、被害者が自分に起きた出来事を語るための言葉を得て、出来事を可視化する力を得るのである。しかし同時に、性暴力がイシュー化される過程では、「性暴力の被害者」が名指しされる危険性や、「共通課題」としてイシュー化される「性暴力」という問題が抱える内部の差異が不可視化される危険性もある。
同章では、このような「性暴力」のイシュー化の可能性と危険性を整理した上で、本研究における「性暴力の不可視化」の意味と、性暴力の不可視化を被害者の属性との関係で分析する方法を考察する。
本研究では、性暴力の被害者が非難されるメカニズムや、性暴力の信憑性が問われやすい被害者についての研究を進めてきたレイプ神話研究と被害者非難研究を参照しながら、本研究における「性暴力の不可視化」を定義する。本研究では特に、Burt(In Parrot & Bechhofer, eds., 1991)が提示したレイプ神話(ある出来事が「性暴力ではない」と判断されるときに使われるメカニズム)の四つの分類を整理し、「性暴力が不可視される」という状態を、性暴力が「無化」、「矮小化」、「性的化・能動化」、「教訓化・制裁化」される状態と定義する。性暴力の無化は、出来事の存在そのものを否定することによって、そして、性暴力の矮小化は、性暴力の影響を過小評価して性暴力を「性的行為」に変換することによって、その信憑性を揺るがせる。また、性暴力の性的化・能動化は、被害者がその行為を望んだと見なすことによって、そして、教訓化・制裁化は、被害者の言動が性暴力を誘発したと見なすことによって、性暴力が起きた原因や責任を被害者に向け、性暴力やその加害者の責任を不可視化する。さらに、性暴力の教訓化・制裁化は、性暴力を被害者に向けることを是認するものである。
同章ではさらに、性暴力の不可視化と被害者の属性との関係を分析するために、「スティグマ」概念を考察する。性暴力の信憑性が疑われ、性暴力の責任が被害者のみに問われ、そしてある個人に性暴力を行使することが是認される背景には、被害者の属性のスティグマ化がある。スティグマ化とは、ある属性を逸脱や異常と見なして差異化し、その属性を持つ者に差別や偏見、暴力を向けることを正当化することである。スティグマ化された者に対する性暴力の原因や責任が、「被害者がスティグマ化された属性を持つこと」に帰されることで、その被害者に対する性暴力が是認される。さらに、そのようなスティグマ化を被害者が内面化することによって、性暴力の被害者自身が、性暴力が起きた原因を自身の属性に帰し、性暴力を属性に対する教訓や制裁として納得してしまうこともある。つまり、ある属性のスティグマ化は、その属性を持つ被害者に対する性暴力を第三者が不可視化するのを促すだけでなく、スティグマ化を内面化した被害者自身による性暴力の不可視化をも促すのである。同章では、これらを基に、本研究の分析枠組みを設定する。
第2章では、「性風俗従事者に対する性暴力」の概念レベルの不可視化を検討する。すなわち、「性風俗従事者に対する性暴力」についての先行議論を整理することで、「性風俗従事者に対する性暴力」のイシュー化の過程を明らかにする。「性暴力」が、「風紀の乱れや家父長の恥」から「被害者の性的権利の侵害や被害者の苦悩」としてイシュー化され、被害者の性的自己決定権や精神的負担についての認識が高まったことは、「性風俗従事者に対する性暴力」のイシュー化とも無縁ではない。しかし、「性風俗は何かしらの強制の結果である」ことを前提とする議論では、「性風俗に従事すること」が「性暴力に遭うこと」と同義のように議論され、性風俗に従事することの結果が「傷ものになる」などと抽象的に語られ、性風俗従事者に対する性暴力の具体的な内容や影響が不可視化される危険性があった。また、性風俗が内包する性差別や性的搾取、あるいは性風俗で起こりうる様々な暴力についての議論が、性風俗従事者が強制されて性風俗に従事しているのか、自由意思で従事しているのかを軸に展開される場合は、自由意思で従事する性風俗従事者に対する性暴力の原因が、性風俗従事者が「性風俗に従事することを選択した」ことに帰されやすく、性暴力の加害者の存在やその責任が不可視化される危険性があった。同章では、このような「性暴力」のイシュー化の可能性と危険性を整理し、「性風俗従事者に対する性暴力」が現在どこまで明らかになっているのかを整理する。
 第3章では、先行調査や性風俗従事者の手記やルポなどの資料を基に、性風俗従事者に対する性暴力を体系的に整理し、分析する。まず、海外調査と国内調査を基に、性交強要や言葉による嫌がらせなど、「性風俗従事者に対する性暴力の内容」を明らかにする。さらに、性風俗の形態や性風俗従事者のジェンダーによっても、性暴力の内容や被害率が異なることを示す。次に、「性風俗従事環境に組み込まれた性暴力」を明らかにする。性風俗従事者に対する性暴力には、性風俗従事環境に組み込まれているために、「暴力」ではなく「性的サービス」の一環としてしか認識されていないものがある。その主なものとして、性風俗に従事する前に実施される「講習(性風俗店のルールを確認するロール・プレイ)」と「避妊具無しの性的行為」を取り上げ、それらが「性暴力」になりうる可能性と、「性暴力」として認知されづらい背景を分析する。その後、「性風俗従事者を取り巻く環境」について考察する。性風俗従事者を取り巻く経済的背景やジェンダー構造、性風俗従事者の性的トラウマや周囲の人々の影響は、性風俗に従事する意思の無かった人を性風俗に導いたり、性暴力に対する脆弱性を高めたりすることがある。ここでは、性風俗従事者を取り巻く環境と対人的な性暴力との繋がりを明らかにする。最後に、「性風俗従事者の抱える身体的・精神的負担」を考察する。ここでは、特に日本の性風俗議論が、性風俗に従事することを「人格が崩壊する」などと抽象的に議論してきたことの問題を指摘した上で、性風俗従事者が慢性的に抱えている身体の不調や精神的負担(鬱症状やリスク行動など)を分析する。
 第4章では、性風俗従事者に対して性暴力を行使することがどのように正当化されているのか、また、性暴力が起こった後に出来事がどのように不可視化されるのかといった、「性風俗従事者に対する性暴力が不可視化される文脈」を考察する。同章ではまず、性風俗従事者が性暴力被害を語る環境が整っていないことを明らかにする。この主なものとして、性風俗産業の回転が早いために被害を訴える相手や場を見つけにくいといった「性暴力被害の告発対象の不確かさ」を考察する。そして、性風俗従事者が性暴力被害に遭った時にすぐに助けを求められるような支援的な従事環境が欠如していたり、性風俗従事者に対する偏見があるために公的機関に性暴力を訴えにくいといった公的機関の非支援的な状況を明らかにする。
同章ではさらに、「性風俗従事者に対する性暴力」についての言説を考察することで、「性風俗従事者に対する性暴力」が何を根拠に不可視化されているのかを分析する。この考察によって、「性風俗従事者に対する性暴力」を不可視化する根拠として用いられているのは、被害者が実際に性風俗に従事しているか否かという事実だけでなく、対価を伴う性的行為や不特定多数との性的行為、性的行為のプロフェッショナリズムなど、「性風俗に従事すること」が示唆する性質であることが明らかになる。つまり、「性風俗従事者である」という属性は、社会的に様々に意味づけられており、その様々な意味づけが、性風俗従事者に対して性暴力を行使したり、そうした性暴力の存在や責任を不可視化する際に利用されているのである。同章では、性暴力を不可視化する際に利用される「性風俗従事者である」という属性が、実際の性風俗従事経験だけを意味しないことを明らかにした上で、「性風俗従事者に対する性暴力の不可視化」を分析するためには、「性風俗に従事すること」の社会的意味づけを明らかにする必要があることを指摘する。
 第5章では、「性風俗従事者に対する性暴力」がなぜ是認され、なぜ不可視化されるのか、その要因を分析する。ここでは、第4章での考察を受け、「性風俗に従事すること」の社会的意味づけを分析する。まず、「性風俗に従事すること」は、「労働」とは見なされにくく、「労働」と見なされる時にも、「低級の労働」として位置づけられやすいことを考察する。次に、「性風俗を利用すること」との比較から「性風俗に従事すること」の意味を明らかにする。「性風俗に従事する」という経験は、性風俗従事者の性質を表象する経験と考えられるのに対し、「性風俗を利用する」という経験は、「一次的な遊び」や「気の惑い」と考えられやすい。そのような「性風俗に関わること」の二重規範は、性風俗で起こりうる様々な不利益やその責任を、「性風俗に従事することを選択した」性風俗従事者の性質に帰す構造を形成している。「性風俗に従事すること」が否定的に意味づけられている社会においては、性風俗従事者に対する性暴力の責任が、性風俗従事者にのみ問われやすいことを明らかにした上で、さらに、そのような否定的意味づけを内面化することで、性風俗従事者自身が、性暴力を受けても自業自得として諦めてしまったり、性暴力を受けたことを語ってはならないと考えたりし、性暴力を不可視化してしまう危険性を考察する。
 さらに同章では、このような第三者と被害者自身による性暴力の不可視化が、被害者の「不純さ」を問題にしていることを明らかにする。性風俗や性風俗従事者の存在は、人と人とのコミュニケーションや愛情の表現と考えられている性的領域に対価を持ち込むことや、他者との身体的交わり、性感染症などの病気とイメージづけられることによって、「不純さ」と密接に結び付けられている。「性風俗に従事すること」が「不純さ」に結び付けられることによって、性風俗従事者に性暴力を向けることが正当化されているのである。このとき、性風俗従事者に対する性暴力とその責任の不可視化に異議を唱えるためには、被害者が「不純ではない」ことを証明する方法によってではなく、被害者の「不純さ」を以って性暴力を解釈することに異議申し立てしなければならない。なぜなら、この「不純さ」は、社会的通念や価値基準によって不明瞭に設定され、さらには、「性風俗従事経験」といった、被害者の拭えない事実によっても付与されるからである。同章では、「性風俗従事者に対する性暴力」が、「性風俗に従事した経験のある者に対する性暴力」を意味するだけでなく、「不純さを付与された人に対する性暴力」の問題であることを明らかにする。
第6章では、これまでに検討した不可視化の要因を克服すること、すなわち、性風俗従事者に対する性暴力を可視化するための試みを検討する。同章ではまず、本研究でインタビュー調査した事例を基に、「性暴力を可視化する可能性」を考察する。その上で、性風俗従事者に対する性暴力を社会的な取組の中で可視化していく方法を検討する。
ある属性に対する性暴力を可視化させるには、その属性に対する「性暴力」をイシュー化したり、概念を精緻化したりする必要がある。本研究では、対人的な性暴力と被害者を取り巻く環境との関係を指し示す概念として、「サバイバル・セックス」という用語を広義化することを提案し、これまで「性暴力」だと認識されていなかった出来事を「暴力」の一形態として組み込むことを試みる。また、性暴力を受けた性風俗従事者自身が性暴力を不可視化したり、被害について語る資格が無いと考えたりしないよう、他の性風俗従事者とのネットワークを形成したり、性風俗従事者に対する偏見に抗するためのアプローチが必要であることも提案する。さらに、性暴力が被害者の属性によって不可視化されることの無いように、法制度を整備したり、被害者に接触しうる「専門家」(警察や弁護士、医療関係者など)の教育を実施したり、さらには、性風俗の経営者やスタッフの意識改革が必要であることを提案する。最後に、性風俗に強制的に従事させられていたり、性風俗を辞めたいと思っていても諸事情で辞められないなど、性風俗に従事すること自体が「性暴力」になっている場合に性風俗から脱却する方法と、性暴力を行使しながらも責任を免除されている「性暴力の加害者」の更生、そして性風俗利用者による性暴力を防止する方法を提案する。
終章では、本研究で得られた知見を「本研究の意義」として大きく二つにまとめて説明する。本研究の意義は、性風俗従事者に対する性暴力の実態を明らかにしただけでなく、そのような対人的な性暴力が可能になる環境、そして、性暴力が不可視化される文脈といった、「性風俗従事者に対する性暴力」を成り立たせる一連の関係性を明らかにしたことである。また、本研究のもう一つの意義は、性暴力が被害者の属性を以って不可視化されることを分析し、そのような性暴力を可視化する方法を提示したことである。本研究は、性暴力が人と人との関係性の中で不可視化されることを考察するものである。そのため、本研究から得られる知見は、「性風俗従事者に対する性暴力」を可視化する方法に留まらず、自分の属性が否定的に意味づけられることで出来事を不可視化されてしまうような性暴力の被害者たちが、被害を可視化する方法を模索するための一助となるものである。
終章ではさらに、本研究の限界と今後の課題を整理する。今後の課題として、性暴力の被害者が、その属性によって沈黙することなく、性暴力の「被害者」として声を上げられるような空間を広げていくことの重要性を提示し、本研究を終える。

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