博士論文一覧

博士論文要旨

論文題目:朝鮮における婚姻の「慣習」と植民地支配―1908年から1923年までを中心に―
著者:野木 香里 (NOGI, kaori)
博士号取得年月日:2015年3月20日

→審査要旨へ

本論文は、1908年、大韓帝国政府に設置された法典調査局から、朝鮮総督府取調局、参事官室、中枢院と担当機関が変更されながら継続された「慣習」調査の実施過程、民法起案の方針から朝鮮民事令第11条の制定、改正過程について掘り下げるとともに、婚姻に関する、植民地権力がまとめた「慣習」、法的効力を付与した「慣習」にとどまらない、多様な「慣習」に目を向け、植民地主義、地域、階層、ジェンダーといった複合的な視点から、植民地権力の政策とその意図、日本人官僚の認識、朝鮮人の反応、行動など、様々な思惑と動きを合わせて見ていくことで、朝鮮の「慣習」から日本の朝鮮植民地支配の問題をどのように捉えることができるのかを考察することを課題とするものである。
序章では、先行研究の整理と本論文における課題の設定を行った。従来の研究においては、植民地期朝鮮の「慣習」が1898年施行の日本民法と同じ規定に「歪曲」され、さらに日本民法が移植されることで「同化」されていったという側面のみが着目される傾向があったのに対し、近年では、朝鮮総督府は朝鮮の「慣習」の「自生的な変化」を「法認」したという見解、朝鮮の「慣習」を「誘導」し、「植民地慣習法を形成」したという見解、「歪曲」よりも深刻な「創出」、「生産」をしたという見解などが提示され、より活発な研究が行われている。このように近年までに積み重ねられてきた研究によって、植民地期慣習法の定立過程が事例に即して浮き彫りにされ、「慣習」調査の実施過程について、また政策主体の意図、日本人官僚の経験や認識も掘り下げられるとともに、ジェンダーなど複合的な視点の重要性が示されることで、朝鮮総督府の政策遂行過程、その意図、慣習法の定立過程をより多角的に捉えることができるようになった。
先行研究における問題点としては、法典調査局において実施された「慣習」調査の具体的な過程がいまだ十分に踏まえられていないこと、同時代史料が十分に用いられてこなかったこと、朝鮮総督府が朝鮮民事令第11条において「慣習ニ依ル」という規定を設け、また改正していった過程をより詳細に掘り下げる必要があること、政策主体をより多様に設定し、どのような対抗関係があったのかをより具体的に浮き彫りにする必要があること、従来は法的効力が付与された「慣習」、あるいはその過程が主に着目されてきたが、そこから落とされたもの、それを揺さぶるものなどへ目を向ける必要があること、そしてジェンダーにとどまらない複合的な視点から朝鮮の「慣習」と日本の植民地主義を問い直す必要があることを指摘した。
本論文では、以上の先行研究における問題を克服するため、まずは関連する同時代史料を、網羅的に、かつ詳細に検討するという方法をとり、いったん、研究対象時期の中心を、法典調査局が発足した年から、朝鮮民事令第11条の2回目の改正が実施された1923年までとした。そして婚姻の多様な「慣習」に目を向け、植民地主義、地域、階層、ジェンダーといった複合的な視点から分析を行うこととした。本論文を2部6章で構成し、第Ⅰ部においては、1908年に発足した法典調査局における「慣習」調査の実施過程と民法起案の方針について検討するとともに、「韓国併合」後に継続された「慣習」調査と朝鮮民事令の制定、改正過程を探り、第Ⅱ部においては、婚姻年齢、婚姻の「成立」、「妻の能力」、「離婚」の「慣習」について、それぞれ個別に掘り下げ、その上で、次の5つの論点について考察することを課題とした。第1に、法典調査局における「慣習」調査、とりわけ一般調査の実施過程はいかなるものであり、そこで作成された各地の調査報告書をどのように捉えることができるのか、第2に、法典調査局の顧問梅謙次郎は民法をどのように構想し、それが朝鮮民事令第11条の規定が設けられる過程にどのような影響を及ぼしたのか、第3に、植民地権力は朝鮮における婚姻の「慣習」をいかなるものとしてまとめ、定型化していったのか、第4に、朝鮮総督府が朝鮮民事令第11条の2回の改正において、朝鮮人の「能力」と婚姻年齢と「裁判上の離婚」に関しては日本民法を適用し、婚姻の「成立」と「協議上の離婚」に関しては届出主義を採用した意味は何か、第5に、植民地権力が記録し、まとめ、法的効力を与えた「慣習」から落とされたもの、それを揺さぶるものなどを掘り起し、朝鮮の「慣習」から日本の植民地支配の問題について考察することである。
第1章では、1908年から1910年までにおける、「慣習」調査の実施過程と、民法起案の方針について掘り下げた。1908年、大韓帝国の民法をなどの起案を司る機関として発足した法典調査局は、伊藤博文が領事裁判権撤廃という目的の下、「日本法ヲ模範」として編纂させる方針で組織したもので、とりわけ日本人に適用することが念頭に置かれていた。梅謙次郎は実地調査の開始以前に民法の構想を立て、南部での一般調査が終了した1909年1月には草案を完成させ、夏頃から起草する予定でいたが、1909年7月以降、朝鮮人のみに適用させることになった。とはいえ、その方針に大きな変更はなく、また「日本の慣習」を基準に朝鮮の親族と相続に関する「慣習」が異なると見ていたが、実地調査は幾重ものフィルターがかけられたものであり、梅がそのまま法典に採用できなくはないと捉えた朝鮮の「慣習」は限定的だった。
第2章においては、1910年から1923年までにおける、朝鮮民事令第11条の制定、改正過程を、継続された「慣習」調査の実施過程と合わせて検討した。1910年、寺内正毅は法典調査局における活動を中止させ、「朝鮮民事令案」においても「従来ノ例ニ依ル」との規定を、1912年に制定した朝鮮民事令第11条でも朝鮮人の「能力、親族及相続」に関しては「慣習ニ依ル」との規定を盛り込んだが、それらの事項を成文法として制定するという方針は一貫しており、それを一つの目的にして取調局、参事官室、中枢院において「慣習」調査を継続させていた。朝鮮総督府の方針はできるだけ日本と同一の規定を設けるというものだったが、完全な法律の方針が定まっておらず、また円滑な植民地支配遂行のためにも、朝鮮民事令で特例を設けざるを得なかった。それは朝鮮に対する停滞視から「ダンダンに能力を認める主義」をとったものでもあったが、植民地権力は「尊重」という標語を掲げ続けた。朝鮮民事令第11条の改正が実施されるまでにその方針が2回転換されたが、1921年と1923年の改正で日本民法を適用したのはすでに方針が定まっていたものであり、全体として「慣習」の「固定化」を避けたものだった。一部成文化を成し遂げたものだったが、完全な法律の制定という構想は実現できなかった。そしてここでも「慣習」の「尊重」を掲げたが、それは斎藤実もそのスローガンを引き継がざるを得なかったからでもある。
第3章では、婚姻年齢の「慣習」について取り上げた。朝鮮時代から婚姻年齢の規定が存在した朝鮮では、甲午改革期以降、「文明国人」に範をとりつつも「古俗」にならって「幼年嫁娶」を禁止しようとしており、それは愛国啓蒙運動の中にも位置づけられていったが、法的に強制して禁止させようとするものではなかった。1907年の詔勅は伊藤の指示により日本民法に則ったものであり、植民地権力が婚姻年齢を統制し、日本民法の規定を適用する際に活用された。植民地権力は朝鮮蔑視によって「早婚」を盛んなものとみなし、統制を加えたことでそれが「減少」したとして植民地支配正当化の材料とし、日本民法を適用させたが、「一掃」することはできず、法網を潜って残り続けた。
第4章では、婚姻の「成立時点」と「決定者」に関する「慣習」に着目した。植民地権力は、婚姻の「決定者」について父と祖父を優先させ、「戸主」を組み込み、その他の場合を「例外」とし、さらに「例外」から数多くのものも排除していった。後に母が追加されたが、それは存在していたものである。婚姻の「成立時点」を問題にした植民地権力は、その多様性を無視できなかったが、婚姻儀礼については「略」し、届出主義を採用した。それは婚姻の成立には「戸主」の同意が絶対で、年齢にかかわらず父母の同意を要件とするものであった。
第5章では、植民地権力が、朝鮮に対する蔑視とジェンダー認識に基づいて「能力」の「慣習」をまとめ、夫に絶対に服従する妻、妻に対する権限が頗る強大な夫というイメージをステレオタイプ化するとともに、法的効力を与え、さらにそれを利用して日本民法の適用を正当化していったことを見た。
第6章では、「離婚」の「慣習」について着目した。植民地権力は妻からの離婚は許されないとし、「慣習」から「協議離婚」を排除したために「問題」となり、さらに妻が離婚訴訟をせざるを得ない仕組みをつくった上で、その「増加」を植民地支配の正当化に用いるとともに、一方では「乱訴」とみなし、「裁判上の離婚」の原因を日本民法に当てはめ、適用し、その「絶止」を図ろうとした。「協議上の離婚」については日本民法を適用せず、戸籍を明確にしつつ、年齢にかかわらず夫の父母の同意のみを要件にするために届出主義をとった。
終章においては、本論文の5つの課題に関する考察の結果をまとめ、今後の課題について言及した。まず第1の論点である。法典調査局における「慣習」調査は次のように何重ものフィルターがかけられ、実施されたものであった。(1)質問事項が日本民法の編纂順序、用語、観念に則っていた。(2)日本民法の規定よりも「戸主」が膨大な権力を有しているであろうという梅謙次郎の予断が質問事項に含まれていた。(3)観察府所在地、人口の多い地域、旧観察府所在地、牧、府であった地域、士族や官公吏の「戸数」の割合が全国構成比より高い地域が多く、東萊のように開港場がおかれた地域であっても官公吏が多い面で調査が行われていた。(4)商業や農業に携わる人物も含まれていたが、地域の行政にかかわっていた人物、官職にあった人物、郷所や郷約の役員といった地域の有力な朝鮮人男性に応答者が限られていた。(5)同一人物に対して十数回にわたって調査が実施されることもあった。(6)下級官僚出身の日本人事務官補が翻訳官補による通訳を介して面談を行った。(7)日本民法の具体的な条項、各種法典も提示しながら質問されていた。(8)事務官補が諸法典やジェンダー認識、停滞視、蔑視に基づいた朝鮮における婚姻の「慣習」に関する予断、偏見をもっていた。(9)事務官補が他地域との異同について意識的に記しており、それは各地の多様性を排除し、事務官補たちによる恣意性を強化することに作用した。(10)事務官補が草稿を用い、推敲する時間もないほど調査日程が不十分だった。このようなフィルターを通じて各地の調査報告書が作成された。ただし、実地調査では、応答者との間に「誤解」が生じるなどの「困難」、事務官補の質問と応答者の応答には多分にずれが生じており、事務官補は調査の方針や意図、予断を貫徹できたわけではなく、「十人十色」の応答、地域的な違い、階層による違いなどが少なからず記されていた。
第2の論点である。1909年7月以降、民法は朝鮮人のみに適用させることになったが、日本民法に則って成文法を制定するという方向性に変更はなかった。梅は朝鮮人の「家族制度の観念」は「乏し」く、「戸主権」について理解されておらず、「家督相続」が重要視されていないと捉えており、梅が日本と異なるために重きを置かざるを得ないと考えていたのは「或少数の富有の地方」の「慣習」で、そのうちに法典に採用できなくない「善良なる慣習」が稀にあるとし、「慣習でも悪いのは改めなければならぬ」という考えで、民法を構想していた。寺内正毅がその活動を中止させ、梅が急死した後、1910年9月に作成された「朝鮮民事令案」では、朝鮮人の親族、相続に関しては「従来ノ例ニ依ル」とされていたが、民法を成文法として制定するべきだとしていた梅の考えと異なるものではなく、寺内は「慣習」を悉く綿密に調べた上で「完全ナル法律」を制定するために、取調局で「慣習」調査を続けさせた。「朝鮮民事令案」において示されていた「将来ハ内地ト同一ノ法規ノ下ニ置クヘキ」という方針に大きな影響を与えたのは倉富勇三郎だと考えられる。倉富は「親族関係」について「実際に於ては日本と格別の相違なき」と認識していたからである。朝鮮の「慣習法」について「実際法として認むべきは何程もあらざる」と考えていたことは梅の認識と通じていた。
第3の論点である。1910年12月に刊行された『慣習調査報告書』は、梅の稿本が収集され、項目別の報告書も作成されながら、「成績報告」として編纂されたものである。『慣習調査報告書』にまとめられた「慣習」の特徴について、婚姻の事例から見ると、諸法典の効力の有無について、地域の違いについて、階層の違いについて、一貫性のない恣意的なまとめ方がなされていたことを指摘できる。これらは、日本人事務官補の朝鮮蔑視、階層差別、ジェンダー認識が反映していた各地の調査報告書に、さらに同様の作用が加えられたためである。植民地権力は、このようにまとめ、定型化した「慣習」を植民地支配正当化のために都合よく利用していき、さらに法的効力を付与していった。
第4の論点である。朝鮮人の「能力」について、植民地支配によって「発達」が見られたために日本民法を適用するとして正当化を図る一方、「妻の能力」に関しては、日本民法の規定が朝鮮人「女子の人格の向上」につながることを示すために、植民地権力が定型化した「慣習」を利用した。「裁判上の離婚」に関する日本民法の適用については妻からの離婚訴訟の「増加」をもって、「婦人の地位向上」が見られたと正当化する。その実は「濫雑ナル離婚ノ請求ヲ絶止スル」ことを目的としていた。「公ノ秩序又ハ善良ナル風俗」に反する「慣習」とみなしたのであり、それは婚姻年齢にも当てはめられる。民籍簿上において「減少」が見られたことを「功績」にしながら、さらに「一掃」しなければならないとして、日本民法の規定に則った1907年の詔勅を正当化に利用して日本民法を適用した。「協議上の離婚」に関しては、戸籍を明確にする必要と、年齢に制限なく夫の父母の同意のみを要件にするため、ここでも「公の秩序」とともに「権利思想ノ発達」で正当化を図った。婚姻の「成立」についても同じく届出主義を採用したが、それは年齢にかかわらず父母の同意を必要とし、「戸主」の同意は絶対要件とするものだった。植民地権力がみなした朝鮮の「慣習」が法的に固定されたものだった。
第5の論点である。植民地権力は朝鮮の「慣習」を調査し、記録し、まとめ、法的効力を与える過程で、数多くのものを落とし、排除していったが、それらは根強く残り、その「慣習」をゆさぶったのであり、植民地権力はそれらを「一掃」したり、「統制」を貫徹することはできなかった。とはいえ、その過程は、植民地権力が、朝鮮に対する蔑視、停滞視、ジェンダー認識に基づき、地域や階層によってさまざまに存在していた多くのものを、「例外」とし、「例外」からも排除し、恣意的な階層性をつくり、また強大な権力を持つ朝鮮人男性と「従順」で抑圧されながらも「残忍」な朝鮮人女性という言説をつくりあげ、父や「戸主」の権力を日本以上に強大なものとし、ジェンダー規範を強化しながら、それらを植民地支配正当化の材料にし、法的に固定化を図っていくものだった。そしてそれは、圧倒的多数のものは何重もの抑圧が加えられ、その圧力を内側に、自らに向けざるを得ない仕組みをつくるものだった。
植民地期朝鮮における「慣習」は、「例外」とされたもの、「例外」からも排除されたものに目を向け、そこから問い直さなければならない。とはいえ、本論文では、対象とする時期、個別具体的に取り上げた「婚姻」に関する事項も限定的になってしまい、また圧倒的多数の「例外」からも排除されたものを十分に汲みとることができなかった。より多くの史料に当たり、長期的な時期設定、地域に即して、より広い視野から取り組むことが今後の課題である。

このページの一番上へ