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博士論文要旨

論文題目:近世における個人と社会との関係―遠州における地方寺院と神職を中心として―
著者:夏目 琢史 (NATSUME, Takumi)
博士号取得年月日:2014年11月28日

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一 本論の問題意識と課題

 本論文は、近世における「個人」と「社会」の関係について、地方寺社と、そこに所属する宗教者(本論文では「宗教主体」とした)、さらにそれを取り巻く地域社会の存在形態を中心に具体的に検討したものである。
近世地方寺院をめぐる研究は、辻善之助の「近世仏教堕落論」を乗り越えるべく、地域住民にとって、地方寺院が、宗門改制度という“権力の手先”機関としての機能だけではなく、民衆の成立にとって多様な役割を担ってきたことが実証されてきている(近年の主な成果としては、吉川弘文館より2008年に刊行された『近世の宗教と社会』(1)~(3)などがある)。とくに、塚田孝・吉田伸之両氏は、「寺院社会論」を提起し、寺院を磁極として展開する社会の分節構造に注目し、地域社会の構造を明らかにしている(塚田孝・吉田伸之編『身分的周縁と地域社会』山川出版社、二〇一三年)。また、澤博勝氏も、宗教が地域社会のなかでどのような役割をもっていたのか(澤氏の言葉によれば「宗教的社会関係」)についての解明をめざし、教説の書物を通した社会への浸透や、神職・僧侶らの地域における立ち位置の相違などを明らかにした(澤博勝『近世の宗教組織と地域社会』(吉川弘文館、一九九九年)、同『近世宗教社会論』(吉川弘文館、二〇〇七年))。こうした研究が進められたことによって、近世社会のなかで評価の定まっていなかった地方寺院(一方で、宗門改めなど、民衆を統制する役割もあった)の構造や機能についても、かなり具体的に明らかにされてきた。
しかしながら、近世における地方寺社をめぐる研究は、寺社という「場」を中心として構成される社会構造の分析が急がれ、そのなかで活躍する神職や僧侶などの在り様(すなわち、「社会」と「個人」との関係)については検討の対象とはならなかった。そこで、本論文では、近世地域社会のなかで「宗教主体」がどのように位置づけられるのか、また、その内部における僧侶や神職たちの存在形態はいかなるものであったのかについて分析を試みた。具体的には、次の三つの方法でアプローチを試みている。
まず、第一に地域を限定し、その限定された地域社会のなかで地方寺院が果たした役割を多角的に検討した。本論文の主要なフィールドとして設定したのは、遠江国引佐郡井伊谷(現在の静岡県浜松市北区引佐町)の龍潭寺(臨済宗妙心寺派)である。同寺に現在所蔵されている古文書の悉皆調査を通じて、新たに発見された史料をもとに、本論文のとくに第二編は構成されている。この地域は、幕末になって神職集団による草莽隊(遠州報国隊)が組織されたことでも有名であり(小野将「幕末期の在地神職集団と『草莽隊』運動」(久留島浩・吉田伸之編『近世の社会集団』山川出版社、一九九五年)、澤氏も検討の対象とした地域である(澤前掲書 一九九九年)。また、当該地域は、井伊家の故郷という郷土イメージを強くもつ地域でもある(江戸時代は一貫して旗本近藤氏領であった)。本論文は、こうした地域意識が形成してくる背景に、「個人」の思想形成がどのような影響をもったのかについても検討を試みた。このように、地域を絞り込み、多角的に検討していく方法論によって、社会の一断面だけをみていては明らかにならない、様々な連続性や歴史的な規定性(「慣習」)などの様相がみえてきた。
第二に、地域における経済的・政治的・社会的・文化的諸側面をトータルに分析することをめざす近世地域社会論の成果に学びつつ、地域社会のなかで龍潭寺がどのような役割を果たしていたのか、通史的に検討していく方法を採った。また、とくに龍潭寺の主張していた由緒(井伊家の故郷としての郷土イメージ)が、どのような過程で、地域に浸透していったのかについて解明することをめざした。よって、本論文では住職や神職「個人」の活動や意識についても検討している。彼らの活動が直接的に社会を変革していったわけではないが、潜在的かつ間接的に社会を大きく変えていった点についても着目した。
第三に、「個人」と「社会」の歴史叙述の方法論について、近世史の枠組に固執せず、幅広い史学史という観点から鳥瞰的に検討した。とくに、戦前・戦後の歴史研究者たちが、「個人」と「社会」の論じ方について試行錯誤している様子が明らかとなった。「社会」の成立を「個人」の活動の集積と捉える見方と、「社会」を「個人」とは全く遊離した実在として捉える見方の双方があった。本論文では両者の考えに学びつつ、「社会」のなかで生きる「個人」が、やがて主体として「社会」を変革していく様子について明らかにしようと試みた。


二 本論文の構成と内容

上述してきた問題意識に応えるために用意した本論文の構成は、以下の通りである。まず、「第一編 日本史学史における『個人』と『社会』」では、戦前から現在にかけての歴史叙述のなかで「個人」と「社会」の関係が、どのように論じて来られたのかについて検証した。「第一章 日本社会史研究の軌跡と主体の位置」では、「日本社会史」として論じられてきた従来の史学史について検討している。「第二章 歴史学における個人と社会」は、戦前・戦中の皇国史観の主唱者である平泉澄と、戦後歴史学を代表する論者の一人である網野善彦の歴史叙述について着目し、その特徴について概観したものである。また、「第三章 近世宗教社会史研究の系譜と個人・社会」では、近世を対象とした従来の宗教社会史研究を整理し、時代ごとにどのような関心のもとで研究が進められてきたのかについて検討した。
 「第二編 近世における地方寺院と社会との関係」は、遠州井伊谷地方をフィールドに、地方中核寺院である龍潭寺や、渭伊神社・二宮神社などの神職たちが、社会とどのような関係にあったのかについて具体的に検討した。「第四章 中近世移行期の龍潭寺」は、中近世移行期の龍潭寺が有していた「無縁所」としての実態について具体的に分析したものである。広い地域に形成されていた龍潭寺の経済圏・信仰圏が、移行期により身近な地域へと狭められていく過程を明らかにしている。「第五章 旗本知行所支配の形成・展開と地方寺院」は、龍潭寺のある引佐地域の領主であった旗本近藤氏による陣屋運営の様相について分析し、そのなかにおける龍潭寺の位置について論じた。「第六章 近世後期長寿講の展開と地域社会」は、地域金融講 長寿講のなかで龍潭寺や神主山本氏がどのような位置にあったかなどについて、史料の許す限り検討を試みた。
「第七章 一八世紀前半井伊谷における由緒の形成について」は竜潭寺と隣寺 正楽寺との出入りに注目し、その背後にある彦根・与板藩士、旗本近藤の役人らの動きを明らかにした。「第八章 遠州における朝廷権威の浸透と禅宗寺院」は、地域における朝廷権威の浸透の過程に注目したものである。この問題については、従来、国学者や神職の動きに焦点があてられる傾向にあったが、寺院の側の方にも朝廷と結び付く契機があったことを解明した。とくに、引佐地域で神職たちが、朝廷との関係の由緒(この地域の場合、宗良親王にまつわる由緒として現出)が語られ始めるのは、一九世紀になってからであるが、龍潭寺はすでに一八世紀前半には本寺妙心寺のネットワークを通じて、朝廷との具体的(「個人」的)な結びつきを有していた点などを明らかにしている。「第九章 彦根藩井伊家の井伊谷龍潭寺参詣」は、一八世紀後半にみられるようになる彦根藩井伊家当主の井伊谷龍潭寺への参詣に注目し、井伊家・宗教者・地域それぞれの対応の仕方について検討した。宗教行為である井伊家歴代の遠忌法要や、当主の参詣を通じて、龍潭寺が井伊家との間で、直接的なつながりを形成する一方で、彦根藩士らを含めた盛大な参詣や遠忌法要が地域社会にもたらした影響についても分析している。
「第十章 近世村落におけるアジールの社会的機能」は、近世の引佐地域の寺院が果たしていた駆込寺としての役割を論じた。とくに、駆込寺の論理的な背景に、中世以来の出家遁世観が存在していたことなどに注目した。「第十一章 近世後期在地神職の歴史意識」では、井伊谷町二宮神社の神主中井直恕の思想形成について論じた。とくに神主中井が、様々なネットワークを活かして書物を集積し、「礎石伝」を書き上げていく様子などに着目した。「第十二章 遠州報国隊員山本金木の蔵書と歴史意識」では、神宮寺村八幡宮(渭伊神社)の神主であった山本大隅(のちの金木)の思想形成に着目した。とくに、山本氏の村内における不安定な立場が、由緒・歴史意識の形成に大きな影響をもたらしたことについて触れた。「第十三章 幕末維新期の龍潭寺と引佐地域」では、幕末に井伊谷で起きた村と龍潭寺の争論と、中井氏・兵藤氏らの維新期の活動に着目した。
「第三編 浜松地域の歴史と由緒」では、引佐地方だけではなく、よりマクロな視点(「浜松地域」という視点)から分析を試みている。「第十四章 近世における浜松地域の由緒とその歴史的意義」では、浜松地域のほぼ全域にみられる「家康由緒」について概観した。これにより、引佐地方の由緒の特徴が浮かび上がってきた。「第十五章 遠州報国隊の歴史的位置」では、引佐地方の神職たちも参加した幕末の遠州報国隊の活動に着目し、隊内部での立場の違いや、その歴史的意義についても論じた。「第十六章 遠州の『名望家』高林維兵衛の位置」では、明治~大正期にかけて遠州を中心に活躍した高林維兵衛の活動について、新たに発見された書状から検討した。明治・大正期の「近代的主体」の一つの在り方についての見通しを示した。
「補編 近世・近代における『個人』と『社会』」では、フィールドを遠州から関東方面へ移し、様々な角度から「個人」と「社会」の関係構造について検討した。「第十七章 綱吉・家宣期の朝幕関係と将軍の位置」では、将軍が実際に発言したことを記録した「御意之振」(德川宗家文書)の検討から、幕府内における将軍の立ち位置について検証した。「第十八章 近世後期民間陰陽師の活動と地域社会」では、多方面の活躍をみせた陰陽師 坂本半兵衛の活動に注目し、近世後期の「個人」の生き方について具体的に追った。「第十九章 明治初期三郷地域における学校建設と地域社会」では、明治期の三郷地域の学校教育に対しての人びとの関わり方について検討している。

 以上、本論文は、経済・政治・社会・文化の各方面における寺社および僧侶・神職などの「宗教主体」の社会上の役割を明らかにすることを目的とし、「個人」と「社会」の関係を、綜合的に論じた。近世における「個人」の活動には、所属する寺院や神社、それから家などに規定(制約)されたものであった。しかし、地域で活動していた「宗教主体」は、宗教そのものの性格によって(菩提寺などの関係性を通して)、政治的世界とより密接な距離をもつことができた。具体的には、彦根藩井伊家の井伊谷来訪という大きな動きをもたらすことになり、地域社会にも大きな影響を及ぼすようになった。近世の「個人」は、家や寺社の歴史に規定される一方で、政治・経済・文化・社会的な諸側面に幅広い活動をみせるアンビバレンツな主体であったことが明らかとなろう。近世後期に宗教者を中心に組織された様々な社会集団も、先に述べた規定性に大きく制約されるものであった。


三 本論文の成果と今後の課題

本論文第二編の検討から、主に次の五点があらたに確認された。 (1)龍潭寺は、地域経済のなかで常に重要な位置にあったこと。旗本陣屋の財政支援をしたり、町の災害に対しても支援をおこなったりしている。また、陣屋に勤務する地役人たちの多くは、在地の出身者であり、龍潭寺と深い関係にある者が多かった。(2)一八世紀初頭から一九世紀まで、竜潭寺は一貫して、井伊家に対する由緒意識を持ち続けた。とくに一八世紀後半には、井伊家当主による竜潭寺参詣を実現させていく。これは個別の藩士とのつながりをともなうものであり、地域にとっても大きな行事となっていった。(3)龍潭寺は、地域社会のなかで、外部資源とつながり得る多彩な回路を有していた。京都妙心寺の末寺ということから、朝廷との独自のルートを形成したり、信州地方の旗本知久氏との交流を有したりなど、神職より早い時期に、朝廷への権威意識を有している。 (4)僧侶と神職の由緒意識には、相違点もある。井伊家との安定的な関係を樹立していた僧侶と、抽象的な由緒に頼らざるを得なかった神職との間には、大きな矛盾があった。また同じ神職であっても、井伊谷町二宮神社の神主中井と、神宮寺八幡宮神主山本の間には少なからず認識の相違があった。この背景には、まず、井伊家当主の参詣をともなった神宮寺八幡宮では、在地有力者の社に対する村持意識が高まり、山本氏の神社の専有化に対する反発が生まれたこと。そしてそれが争論となり、神職の村内における立ち位置を不安定にしていたことなどあげられる。しかし、一九世紀中頃の地域社会の疲弊状況に際して、中井は井伊家の参詣のなかでイニシアティブを握ろうとした。この動きは、引佐地方の山間部に位置する川名村の渓雲寺や渋川村の東光院(臨済宗方広寺派)などにも広がっており、渓雲寺でも由緒書が頻繁に書かれている。(5)龍潭寺や神主中井の構想する地域認識は、井伊庄(「井伊保」、「井伊郷」とも呼ばれる)=井伊家によって支配された領地というものであったが、これは彦根井伊家の参詣など、具体的なつながりをもつことによって現出したものである。この形成には龍潭寺の存在が大きく関与していたことが明らかとなる。
 第三編や補編で論じたように、近世における「個人」の活動は、広範囲にわたるものであった。しかし、その一方で、家や村の“慣習”的論理に厳しく制約されるものであった。ただし、近世後期になると地域のイメージの固定化もみられるようになる。近世における「個人」の活動は、こうした“慣習”としての規定性と、それに基づいた様々な社会的なつながりの中から理解していかなくてはならない。

本論文は、これまでほとんど未整理の状態にあった引佐地域の古文書整理・調査活動を通じて、新たに発見された史料に基づいたものであり、従来知られていなかった事実を明らかにした点で一定の成果があったと思われる。しかしながら、残された課題も多い。まず、本論文は、地域社会に根ざした文化や思想を掘り起こすことをめざしたものであり、由緒意識の意味にまで検討の対象を広げているが、その一方で、下層民衆についての検討があまりみられない。この点は、史料の残存状況によるところも大きいが、僧侶や神職が主張した世界観を民衆がどのように受容していったのか、また民衆の生活世界のなかでこれが如何なる影響を及ぼしたのかについて気になるところであるが、この点に不十分さがのこった。当該地域の史料調査は、『引佐町史』編纂以降、全く手がつけられてなく、所在も不明なものが多い。そうした史料の発掘作業を通じて、今後こうした空白を埋めていくことにしたい。また、近世における「個人」と「社会」の関係についても、多くの異なるフィールドの事例から検討しなくてはならない。宗教者と武士社会とのつながりについても、武家側の史料からの裏付けも求められるところである。その点についても、今後の課題としていきたい。

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