博士論文一覧

博士論文要旨

論文題目:複合ネーション「沖縄県民」の起源 ―戦後初期(1945-1956)沖縄群島の政治界における「ナショナル・アイデンティティ」の生成と展開―
著者:坂下 雅一 (SAKASHITA, Masakazu)
博士号取得年月日:2014年7月31日

→審査要旨へ

「琉球人・琉球民族」と「日本人・日本民族」といったカテゴリーのアプリオリな相互排他性、あるいは琉球・沖縄人の「自己決定」の希求と「日本・日本人」への「帰属」の希求のアプリオリな相互排他性を所与の前提とする分析枠組では、琉球・沖縄の民族・ナショナリズム現象はうまく捉えられないのではないか。
これが本論文の出発点ともいえる問題設定である。
  相互排他的に設定してしまえば、日本帝国の統治権力が消滅した1945年から6年後に「復帰」の理念が興隆し、圧倒的に支持されたたことはある種の説明不可能性を提示する。
 沖縄住民にとって「日本人」が国家によって植えつけられた一種の虚偽意識ならば、それは「自己決定」を希求するチャンスを自ら放棄して、進んで再従属されに行った不可思議な営為として位置づけられざるを得ず、国家による「国民化」作用が他に類例をみないほど強く浸透したアノマリーなエスニック集団ということになる。
 かといって「日本人」を「ナショナル・アイデンティティ」、琉球・沖縄人を特殊な「地方アイデンティティ」ないし「エスニック・アイデンティティ」として整理してしまえば、他の都道府県とは質的に異なるレベルの強い自己決定主体としての観念を説明できなくなる。
 本論文が採用した理論・方法論的処方箋は、「琉球人・琉球民族」と「日本人・日本民族」の相互排他性を所与の前提とした認識枠組を相対化した分析枠組を設定し、琉球・沖縄人の「自己決定」の希求と、「日本・日本人」への「帰属」の希求を「せめぎあい」としてではなく、「からみあい」として捉えるというものであった。
 そうした相互排他性を前提にした認識枠組自体が、近代ナショナリズムに特有の「社会世界の区分けに関するヴィジョンの原理」を自然化する「方法論的ナショナリズム」によって自然化されたものであることが疑われたからである。
 このような問題意識から、本論文は、そのような相対化を徹底する独自の概念道具や分析視座の設定を行った。
第一の概念道具は「ナショナル・アイデンティティ」を「我々カテゴリー」と「理念」に分節化して捉え直すネーションのヴィジョンであった。第二の概念道具は、「琉球人・琉球民族」と「日本人・日本民族」のような一見相互排他的に感じる「我々カテゴリー」が同時に動員される「我々」想像の「型」である複合ネーションであった。
また、「自治」「経済自立」を琉球・沖縄人の「自己決定」の指標として採用し、これらの興隆過程を検討した上で、「復帰」の興隆との「からみあい」を捉えるという分析視座を設定した。その上で、分析の照準を利害対立的な諸政治アクターがせめぎ合う「政治界(political field)」に合わせて、そこでネーションのヴィジョン(「我々カテゴリー」と「理念」)が、事件史的展開と共に生成・変容・高揚してゆく過程を捉える分析枠組を設定した。    それは具体的にはR.Brubaker(1996)の事件史的(eventful)ナショナリズム分析の枠組に社会運動論のフレーム分析の概念装置を接合した三種類の分析枠組であった。
第一の分析枠組は、支配者―被支配者間の「縦の相互作用」を動因として生じる解釈図式や概念の意味内容の変化の過程を捉えるものである。
第二の枠組は、ある政治アクターが提起した「我々カテゴリー」や「理念」に関する新しい解釈図式や用語が、他のアクターに曖昧に共有されて共通理念となるマスターフレーム化によって、最終的に当該政治界を規範的に拘束するネーションのヴィジョン(「ナショナル・アイデンティティ」)を変容させるという「横の相互作用」を動因とする過程を捉える枠組みである。
第三の枠組は、当該政治界の全てのアクターからなる「我々」とその政治界の「外部」とのコミュニケーションダイナミクスが駆動因となって「我々カテゴリー」や「理念」が変化してゆく過程を捉える枠組みで、構図の近似性からBrubaker(1996)自身が設定した三項連関図式を緩用して枠組を設定した。
こうして設定した三つの分析枠組に沿って行った検討の結果浮かび上がったのは次のような「ナショナル・アイデンティティ」の生成・変容・高揚過程であった。
 複合ネーション自体は「戦前沖縄」、具体的には日清日露戦間期に生起したことが想定される。
琉球国が滅ぼされて「沖縄県」として日本の直接統治体制に組み込まれ、日清戦争によってその統治体制が確定するという状況にあって、「留学」によって「近代知」を内面化した新世代の指導者層は、日本帝国の行政制度において「沖縄県」が「内地」に位置づけられていることを手掛かりとした生存戦略を希求した。それは一面では「日本・日本人」への「包摂」を希求し、その「包摂」を実現することで対等な地位を獲得するというもので、このベクトルを象徴するのが「参政権」や「自治」といった政治アジェンダであった。しかし、この「包摂」のベクトルは実は、対等な地位を実現することによって、琉球・沖縄人としての「個性」を確保した上で、故郷にて再び主人になるという「離脱」のベクトルを内包したものであった。これが「自治」のもう一つの意味であった。
広い意味での「自己決定」の思潮に連なるこの理念は支配者側が抵抗理念であることを気づかないか黙認し得る範囲内の「隠された文化コード」のレベルで含意されていた。
この「包摂」を通して「離脱」を実現するという目標を達成し、なおかつ支配者側からの差別や嫌疑に対抗するための言説武器として活用されたのが、文化表現の領域では、「日本民族」の「民族内民族」として「我々」を位置づける「琉球民族」という「我々観」を生起・定着させた日琉同租論の解釈図式であり、政治表現の領域では「我々」を「内地・内地人」に位置づける「県」という行政制度を強調する「沖縄県・県民」という「我々カテゴリー」の生起であった。この結果「琉球民族」と同義な含意を持つ「沖縄県民」という「我々カテゴリー」が定着し、その「我々カテゴリー」を主体に「日本・日本人」への「帰属」のベクトルと琉球・沖縄人の「自己決定」のベクトルを同居させた複合ネーションが支配的なヴィジョンとして定着したのである。
それは同時代の朝鮮で、単一的で相互排他的な「朝鮮民族」を主体とする「民族自決」の思潮が興隆したのとは異なる「自己決定」の「型」だったといえる。
しかし、「戦前沖縄」で一旦定着した複合ネーションのヴィジョンは、戦争によって「支配者」が交代したことによって大きく揺らいだ。
1945年夏の終戦から1950年までの時期の「沖縄」では、「日本人」や「沖縄県民」は、公的言論空間においては「我々」を指し示す「カテゴリー」としての機能を停止し、「日本・日本人」への「帰属」を公然と主張することはタブー視される状況となった。つまり複合ネーションは具体的な言論(frame)としては表出しなくなった。
他方、この時期には、本論文が琉球・沖縄人の「自己決定」の指標として採用した「自治」と「経済自立」の理念が次のような過程で興隆した。
まず「自治」は、終戦直後の1946年春の時点で米側が「自治政府」を否定したことに対する「沖縄」側の反発という「縦の相互作用」を駆動因に対抗理念として表出した。1949年の時点では、配給食糧の突然の大幅値上げや不公正な所得税の取立てなどの施策に対する反発から「沖縄」の三政党が大同団結して米軍政に抗する政治状況となり、その文脈で異なる将来構想を抱く政治アクターの相違点を曖昧化した上で、連帯を育む共通理念として「自治」が共有されるという「横の相互作用」が生じた。
一方、「経済自立」の興隆は、若干遅く、1950年秋の群島知事選挙で、このタームをキーワード的に用いた平良辰雄が当選したことがこの単語が盛んに使われる最初のきっかけとなった。ただ、この時点での「経済自立」は、米側が統治コストの最小化という政策アジェンダを追及するにあたって、「沖縄」側の自発的な協力を獲得するために「沖縄が目指すべき理念」として上位下達的に提示して「沖縄」側が受容したもので、対抗理念ではなかった。意味内容的にも単純に国際収支の黒字化を意味するもので、「現代沖縄」で支配的な「脱基地経済」の含意はない。
以上のような1950年までの「自治」「経済自立」「復帰」をめぐる状況が大きく転換し、琉球・沖縄人の「自治」「経済自立」理念と「日本・日本人」への「復帰」が同じ時空間で同時並行的に興隆する過程が生じたのが1951年のことであった。
具体的には、まず「自治」の場合は、それまでの米軍政の枠内で実現される「理念」という含意が、米軍政とは両立し得えず、米国の軍事支配を沖縄から消滅させることによってのみ実現する、というより先鋭的な含意を秘めた「理念」にその意味内容を変化させた。 その変化は1951年秋頃に人民党が「完全自治」や「拒否権」というタームを自らのフレーミング戦略のキーワードとして用い始め、翌1952年2月の立法院議員選挙の文脈でこれらタームが社会大衆党など他のアクターに広まってゆくフレーミング過程の中で生じていた。
支配者側の施策に対する反発から、「自治」の意味内容がより先鋭的な含意を帯びる「縦の相互作用」のダイナミクスとその先鋭的な意味内容が他の政治アクターによって共有される「横の相互作用」のダイナミクスによって「自治」は高揚したわけである。
他方、「経済自立」の場合は、1951年に「基地経済」構築という米側の意図が明らかになったことで、それまでの「国際収支の黒字化」という単純な「経済自立」の含意を「脱基地経済」という対抗理念に「読み替え」る過程が駆動した。この脱基地経済の含意を帯びた「経済自立」が様々なアクター達に共有されていく「横の相互作用」の過程は、分析対象時期であった1951年の段階では照射できず、そのような過程がこの後1950年代中旬に生じたことを推測するに留まった。しかし、支配側が上位下達的に提示した「理念」を、被支配側が読み替えて「自分達自身の理念」に再定義するという「縦の相互作用」によって、当初は米軍政が自らの経済政策に対して「沖縄」側の自発的な協力を促す理念道具だった「経済自立」が、「脱基地経済」の含意を含む対抗理念に転じる過程は浮かび上がった。
「復帰」については、まず1951年1月末のDulles訪日という「事件(event)」が「第一の引き金要因」になって日本復帰署名運動が生起した。そして、その運動が終わった1951年9月にサンフランシスコ講和条約調印という「第二の引き金要因」によって「復帰」が高揚する過程が駆動した。それは正確には、日本にresidual sovereigntyが残るという米国の説明を、日本側が日本国の具体的な統治権限もいくらかは残存すると解釈し、その日本流に解釈されたresidual sovereigntyが「沖縄」に伝わるという沖・米・日の三項間のコミュニケーション作用が引き金になったものであった。その結果、領土上の境界は米国の信託統治下に置かれても、人の境界である「国籍」においては、「日本人の境界」の中に残れるかもしれないという解釈が一時的に興隆し、それが自らを文化共同体としての「日本人」の「境界」内に位置づけることを希求する文化ナショナリズム的ベクトルの生起に連鎖し、日の丸掲揚運動など政治文化的実践の表出につながった。
こうしたresidual sovereigntyの「残存主権」的な「誤読」自体は、ほどなく訂正されたが、「我々」と米軍政との間で生じる「域内政治」の問題解決の処方箋を「日本」に求めるという政治性向と日の丸掲揚などの政治文化的実践は米統治時代に長く定着することとなった。同時に、「離日」的な性向を持つフレームは正当性を失って消滅し、爾来「日本・日本人」への「帰属」は「論点」ではなく「前提」になった。
このような琉球・沖縄人の「自治」「経済自立」と「日本・日本人」への「復帰」の同時興隆という1951年の政治理念状況において、「自治」「経済自立」に代表される琉球・沖縄人の「自己決定」と「日本・日本人」への「復帰」という基本的に緊張関係にある二つのベクトルを曖昧化して同居させた複合ネーション(composite nation)の諸フレームが再表出した。
その中には、最終的に実現した「沖縄県」への「復帰」ではなく、「対等な結合」による連邦ないし連合国家的な「帰属の仕方」を模索するフレームもわずかにあったが、即時復帰によって米軍支配≒植民地支配から脱することを最優先とする当時の沖縄の主要な政治アクターの優先順位の認識に合致せず、ほどなく消えた。
そして、このように表出した複合ネーションのヴィジョンにおける「我々」を一言で表現できる「我々カテゴリー」として、1953年12月の「奄美返還」直後から再利用されるようになったのが「沖縄県民」であった。党派対立を超えて「オール沖縄」的懸案事項であった「軍用地問題」を中心に沖米対立が深刻化した時代文脈にあって、米側の「公的カテゴライゼーション」のカテゴリーであった「琉球・琉球人」は、支配者側が被支配者側に「押し付けた」カテゴリーの含意を帯びていた。
こうした状況において、米軍政と全面対決するフレーミングを展開していた人民党が、「支配者に対する抵抗主体」という「戦前沖縄」にはない新しい含意を込めて「沖縄県民」を再利用しはじめたのである。
つまり支配者―被支配者間の「縦の相互作用」によって「沖縄県民」が戦前にはない「抵抗主体」の意味を帯びた「我々カテゴリー」に再定義される過程が生じたのである。
それは琉球・沖縄人の自己決定と「日本・日本人」への「帰属」を曖昧に同居させた複合ネーションのヴィジョンを一言で自然化する作用を伴っており、復帰運動期の沖縄の政治アクターにとっては使い勝手のよい概念であった。
そして土地闘争初期には人民党だけが使っていた「沖縄県民」も1956年6月のプライス勧告を「引き金要因」に「島ぐるみ闘争」の状況になったことを契機に、他のアクター達も用いるようになって、マスターフレーム化の過程(横の相互作用)が進み、以後、1960年代の復帰運動の文脈では、必須の用語となる。米軍政の公式のカテゴリーである琉球人ではなく沖縄県民の用語を用いることが政治文化的な抵抗実践となったからである。
こうして「沖縄県民」は、「戦後沖縄」で支配者に対する抵抗の意志を示す際に慣用句的に用いられる「たたかいの文化」の政治文化的ツールキットとなった。そうした「戦後沖縄」の政治文化における「沖縄県民」概念の中心性を示す政治表現のフォーマットの一つが「島ぐるみ闘争」において登場して以来、頻繫に開催される「県民大会」なのである。
 以上のように「方法論的ナショナリズム」を相対化した本論文の分析枠組においては琉球・沖縄人の「自己決定」の理念は、日清日露戦間期に「自治」などの「近代知」の概念の受容が進んで、平等な個々人からなる集合的な自己決定主体という意味でのネーションのヴィジョンが生起して以来一貫して追及されてきたものとして把握できる。つまり、沖縄戦から6年後の1951年に「復帰」が興隆して、圧倒的な支持を受けたことは「自己決定」のチャンスを自ら放棄して「再従属」を希求したことを意味しない。
第五章における「自治」「経済自立」の理念の変容過程の検討が明らかにしたように、1951年においては琉球・沖縄人の「自己決定」の理念はむしろ高揚したとさえ言い得る。そしてその後、1952年から56年にかけての土地闘争の政治過程に照準した第八章の検討を踏まえれば、土地闘争によって「自己決定」は更に高揚し、最終的に近現代の「沖縄」で最初の万単位の動員力を持つ抵抗運動であった「島ぐるみ闘争」として現出したとも言い得る。
 ただ、それは「戦前沖縄」に定着した支配的な「我々観」で、「戦後沖縄」で再成した複合ネーションの枠内で希求されたものであった。だから「日本人・日本民族」と「琉球人・琉球民族」の相互排他的な関係性をアプリオリに所与の前提化する「方法論的ナショナリズム」に規定された認識レンズでは「自己決定」が一貫して追及されてきたことがうまく捉えられない。琉球・沖縄における「自己決定」の思潮の「型」は、古典的な民族自決論に付随する、相互排他的に存在してコンテナ的に自己完結した「民族」という認識枠組を相対化し、それに収まらない幅広いヴァリエーションの「自己決定」の「型」の一つとして捉え直すことで、初めて認識できるのである。
 それが「戦後沖縄」における支配的な「ナショナル・アイデンティティ」の形態なのである。

このページの一番上へ