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博士論文要旨

論文題目:貧困理論の再検討―イギリスの貧困理論の行き詰まりと社会的排除論の意義-
著者:志賀 信夫 (SHIGA, Nobuo)
博士号取得年月日:2014年6月30日

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 本論文は,貧困理論の再検討を行うものである。この再検討を通して,最新の貧困理論を提示し,その意義について明らかにすることが最終目的である。
 貧困理論はイギリスにおいて開始され発展してきた。そこで,まずイギリスの貧困理論の展開がどのようなものであったかを確認するところから出発している。本論文では,この貧困理論の展開を学説史として整理するという方法を採用している。このような方法を採用した理由は,本論文第4章において具体的な例をあげてまとめているが,簡潔に述べると,特定の貧困理論を確立されたものとして考えるという誤りを避けるためである。この点は,貧困概念の特徴と関係するものである。
 貧困理論の核となるものは,貧困の概念である。そのため本論文第1章第1節では,貧困概念の説明から始めている。ここでは節の表題を「正義論としての貧困概念」としたが,それは次のような理由からである。つまり,貧困理論とは正義の内容がどのように変化するかによって決定されるものである。そして,その正義は生活状態に関わるものであり,この生活状態の認識は,観念に媒介された現実である。また,生活状態の認識とは,現実というより,認識された現実に関して議論されるものである。したがって,貧困の定義はその社会があるべきでないとする生活状態を意味し,社会が合意した,あるいは合意すべき最低限度の生活を下回るものとして明示されるものである。
 また,貧困理論の拡張の契機は共同性の認識(社会規範)の拡大と深まりであるとした。ある種の生活状態を「貧困」と認識すること,すなわち社会問題として認識するということは,そうした生活状態にある者を「仲間」として認識することであるからである。
 このような前提から出発して,第1章第2節では,B.S.ラウントリーとP.タウンゼントの貧困理論について検討した。ここでの主旨は,3つにまとめられる。第1に,貧困概念が拡張しているということである。第2に,貧困概念の拡張の契機は社会規範の変化にあるのであって,特定の論者によって提示された画期的な理論の提示によるものではないということである。第3に,タウンゼントの貧困理論の意義は,貧困概念に「社会参加」という要素が付加されていることを説明したことである。
 タウンゼントの貧困理論における重要な歴史的意義について強調しながらも,第1章第3節では,この貧困理論からでは必ずしも捉えることのできない新たな社会問題が浮上していることを論じている。これが「新しい貧困」と呼ばれるものである。
 第1章第4節では,この「新しい貧困」に対応する新たな貧困理論として社会的排除概念に基づくものを提示した。社会的排除理論は,タウンゼントが提示した「社会参加」概念を引き継ぐものの,異なった特徴を持つものである。タウンゼントの貧困理論における「社会参加」は「メンバーシップ」に基づくものであり,社会的排除理論における「社会参加」はシチズンシップに基づくものであるという点が決定的に異なっており,後の議論にも重要となることをここでは説明した。
 第1章をまとめると,貧困理論は絶対的貧困理論から相対的貧困理論へ,そして相対的貧困理論から社会的排除理論へと展開しているということがその最も重要な趣旨である。この社会的排除理論におけるキーワードは,「社会参加」,シチズンシップである。
 第2章では,社会的排除概念が具体的にどのようなものとして捉えられているのかについて明らかにするために,排除との闘いとして展開されている社会政策を分析している。排除との闘いは,社会的包摂戦略として政策化されている。
 第2章第1節前半では,EUにおいて社会的排除概念がどのように定義されているかを概観した。その定義では,ヨーロッパ社会において容認できないものとして,権利の不十分性・欠如という側面が強調されている。この権利の不十分性・欠如という側面は,消費生活からの脱落・排除という側面を含みながらも,さらにそれを超えて容認できない困窮(貧困)が拡大していることを示すものである。第1章後半では,こうした社会的排除概念が先行研究においてどのように把握されているかについて概観した。先行研究批判は後の章で改めて行っているので,ここでは先行研究が共通して提示している社会的排除概念の特徴に注目して整理をしている。
 第2章第2・3節では,前節の論述を踏まえて,社会的排除概念の本質をより正確に理解するために,イギリスとフランスの社会的包摂戦略を分析した。具体的な社会的包摂戦略の分析は,先述したように,その社会において社会的排除概念がどのように捉えられているかを理解するために必要な作業である。また,イギリスとフランスの2国を取り上げた理由は,社会保障制度の歴史が異なる社会における各々の社会的包摂戦略に共通する特徴を見出すことで,社会的排除概念を一般化して捉えるためである。両国の社会的包摂戦略の分析を通して,社会的排除概念はシチズンシップの「権利」に基づく「社会参加」の不十分性・欠如として捉えられていることを確認した。
 第2章第4節では,イギリスとフランスの社会的包摂戦略の比較を通して,フランスの包摂戦略にある先進性が見出されることを論じている。この先進性は,フランスの社会政策の特殊性というよりも,同じ特徴の進捗の程度から見出されるものである。その特徴とは,個人の権利に基づいてその個人に依拠しながら権利の不十分性・欠如を補っていくというエンパワーメント政策のことである。この特徴は,イギリスにおいては理論的に潜在的な可能性として示されている一方,フランスではすでに包摂戦略のなかに具体化されている。また,社会的包摂戦略では,権利の十分性の保障という新たな展開を見出すことができるが,この新たな政策的展開を特徴づけるものは「労働の権利」の十分性の保障という側面である。
 第2章第5節では,第2章のまとめとして,具体的な社会的包摂戦略の分析から得られた社会的排除理論の新しさがどのような点にあるのかについて論じている。ここでは,シチズンシップの権利の十分性の保障に注目し,この権利の十分性の保障は,自立した市民として「自己決定」可能であること,そして実質的な自由の拡大として理解されるべきものであることを結論している。
 第3章では,第2章の結論を受けて,権利の十分性の保障とはどのようなものとして考えられるのかについて,理論的追究をしている。権利に注目して貧困を論じるということは,消費生活に注目して貧困を論じる相対的貧困理論からの逸脱であり,貧困理論の新たな展開として考えられるものである。この権利の十分性について論じるために,第3章では,A.センのケイパビリティ・アプローチと高田一夫の「自己決定」の原理を採用することにした。
 第3章第1節では,まず,センのケイパビリティ・アプローチがどのようなものであるかについて説明している。センのケイパビリティ・アプローチの意義は,貧困を消費生活の不十分性・欠如として捉えるということに対する批判の理論的基礎付けを与えたことである。例えば,センは「低所得」であることと「所得が不足」していることを厳格に区別すべきであることを主張している。このような主張は,ケイパビリティの欠如として論じられる貧困の定義を根拠とするものである。このような定義はシチズンシップの権利の不十分性・欠如という定義と親和性を持つものとして考えられる。
 第3章第2節前半では,ケイパビリティ・アプローチに対する本論文の肯定的評価をより正確に説明するために,先行研究との比較を行った。本論文では,センのケイパビリティ・アプローチは貧困理論の新たな展開のための重要な理論的視座を与えたものであると評価している。一方,R.リスターなどのタウンゼントの貧困理論に依拠して貧困を捉える論者は,ケイパビリティ・アプローチについて一定の意義を認めながらも,それは貧困と区別されるべきものであると主張している。
 第3章第2節後半では,センのケイパビリティ・アプローチが貧困を消費生活の視点からだけでなく,人間の「自由」に注目して,市民社会における各々の市民の権利の十分性の視点から論じることの理論的根拠を示したことにその意義を見出し,このことにより貧困理論におけるシチズンシップ論的視点に理論的広がりの可能性が示されたということを論じている。ただし,そのシチズンシップ論に対する考え方は論者によって異なるので,どのようなシチズンシップの権利を拡張すべきであるのかということは論争の的であることは注意しておくべきものである。
 第3章第3節では,シチズンシップの権利の十分性について論じている。センのケイパビリティ・アプローチは,モノの消費に焦点化して貧困を論じている相対的貧困理論の不十分性を鋭く批判するが,これが貧困理論の新たな展開を示すものとして考えられる理由である。だがセンは,どのような状態であれば十分であるのか,という問いに対して積極的な回答を提示しない。ケイパビリティ・アプローチには,センによって故意に不完全性が残されているのである。そのような不完全性を残すことで,ケイパビリティ・アプローチは広範な有用性を獲得するものとなっている。しかしその一方,「貧困の定義としては弱い」という批判の根拠ともなっている。そこで,本論文では,高田一夫の「自己決定」の原理を採用することで,市民社会における権利の十分性を説明することにした。「自己決定」が不可能であるということは,市民社会におけるケイパビリティの欠如を意味しており,ケイパビリティの十分性あるいは権利の十分性は,「自己決定」が可能であるか否かによって判断可能なものである。つまり,社会的排除理論の意義は,権利の十分性を保障するという点にあるが,それは具体的には個人が自立した市民として「自己決定」できることを保障するということを意味している。ある個人が自立した市民として非自発的に「自己決定」できないとき,それは容認できない困窮(貧困)であるとみなされてきているのである。
 第3章では,権利の十分性の保障という議論に関係して,さらに,社会的排除理論を特徴づける最も重要な要素の一つである「労働の権利」についても検討する必要性があること主張している。社会的排除理論の意義は,単に権利の保障の十分性を取り扱うことができるということだけにあるのではなく,「労働の権利」という側面を強調することができるようになってきているということにもある。先行研究のなかには,「労働の権利」を「雇用の機会」と同一視し,「労働の権利」は歴史上見当たらない,あるいは完全雇用の崩壊によって否定されたと主張するものがある。このような主張に対して,本論文では,完全雇用の崩壊後に,むしろ「労働の権利」は顕在化してきていると主張するものである。それは社会的包摂戦略が,ワークフェア(あるいはアクティベーション)として展開されていることからも明らかである。ワークフェアでは,福祉の無規定な拡大ではなく,「労働の権利」の実現を通して社会的権利の拡充が構想されているのである。
 第3章第4節では,「労働の権利」の十分性の保障が,具体的にどのような政策に具体化されているのかについて論じている。ここでは,「エンプロイアビリティ」概念に基づく,労働市場への参入支援政策に「労働の権利」の保障が表現されていると主張している。「エンプロイアビリティ」とは,「雇用確保力」と訳されるが,これは単に労働市場における個人の能力だけでなく,その能力と個人を取り巻く経済的な環境などとの関係性によって判断されるものであり,労働市場におけるケイパビリティとして捉えることのできるものである。ケイパビリティは単に個人の個人的能力だけでなく,その個人をとりまく経済的・社会的環境などに左右されるものであるが,「エンプロイアビリティ」も同様である。このことは,ある分野の雇用が減少した場合,個人的能力が同じであっても,「エンプロイアビリティ」が縮小することがあるという例からも理解できるものである。ワークフェアは,この「エンプロイアビリティ」を拡大することを目標としている。「エンプロイアビリティ」の拡大は,職業訓練や職業教育による就労促進だけでなく,市民の健康や生活の安定などのように就労状態を維持するのに必要な支援としても行われている。これはフランスのRMI・RSAの参入支援政策に具体化されている。
 最終章となる第4章では,これまでの議論を先行研究と比較対照しながら改めて整理し,本論文の結論を導いている。
 第4章第1節では本論文の概要を論じ,第2節では現代のイギリスの代表的貧困論者の一人であるリスターの理論と比較しながら,本論文の論点整理を行っている。ここで整理した論点は,(1)貧困と社会的排除,(2)「社会参加」概念とシチズンシップ,(3)ケイパビリティ・アプローチと「自己決定」の原理に関する3つである。
 第4章第3節では,新しい貧困理論としての社会的排除理論の意義をさらに一般化して論じている。新しい貧困理論の意義とは,貧困学説史上,初めて「自由」という要素を貧困理論のなかに導入したことである。それは人間の真に人間的な生存への第一歩である。さらに,社会的排除理論を特徴づける「労働の権利」は,この権利の十分性が論じられることにより,K.マルクスの論じているような疎外を克服する潜在的な可能性を孕んでいる。労働の疎外は,類的本質という人間の本質を疎外することにもなるとマルクスは論じており,この類的本質を人間が取り戻したとき,人間は真の自由を獲得することになるとされる。
このことを踏まえて,第4章第4節では,「労働の権利」の十分性の保障は,疎外されざる労働の潜在的な可能性として考えることができるだけでなく,類的本質を取り戻す潜在的な可能性としても考えることができるということを論じている。新しい貧困理論の最も重要な意義の一つは,ここにあるのである。政治的権利の実現を通して社会的権利の拡大を主張し,労働力の脱商品化の視点を一面的に強調する現代の一般的な貧困理論とは異なり,本論文はワークフェアという再商品化を目標とした社会的包摂戦略のなかに脱商品化の契機があると主張するものである。もちろん,この主張はワークフェアの展開に伴う否定的現実の生起を看過するものではないことは付言しておきたい。

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