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博士論文要旨

論文題目:イランにおける列強支配と民主派抵抗の闘争史―第二次大戦期~冷戦期の石油国有化問題を中心に―
著者:タキデ モハマッド (TAKIDEH, Mohammad)
博士号取得年月日:2013年9月30日

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私は本論文で、新旧帝国主義をめぐる英米間の闘争および冷戦期における東西間の対立という観点から、1940年代初頭から1950年代半ばにかけて、イランにおける民主派抵抗と列強支配の闘争過程を論じる。
まず序章では、本論で扱う時代の前段階として、かつての民主化運動が英露の帝国主義的介入により、「外見的立憲制」の樹立という逆効果に至った過程を概括的に整理する作業を行っている。
1 9世紀後半から、英露はガージャール専制王朝下のイランで、諸々の植民地的経済利権を獲得した。これらの利権は経済的搾取のみに止まらず、英露の帝国主義的介入をも伴うため、イランに経済的・政治的危機を引き起こした。
一方、イラン民衆はかつてから行われてきた知識人の啓蒙活動の蓄積に基づいて、植民地的勢力の拡張の原因が専制政治にあると見なしており、1900年代初頭から、立憲君主制の樹立を要求する運動を行った。こうした民主化運動は結局、1906年に「マシルーテ革命」と称される立憲君主体制の樹立、および議会創設に結実したのである。
しかし、イランにおける民主体制は、同国における帝国主義的政策の実施とは相容れないものであった。イランにおける植民地主義的政策を実施するために、英露は立憲君主制の障害を克服するべく、1907年および1915年英露間協商により、イランを両国の勢力圏として分割した。英露はイランをめぐる対立関係を解消し、それぞれの勢力圏で中央政権を無力化するための自国保護下の地方勢力を形成することによって、植民地主義政策を実行し続けたのである。
ところが、1917年ロシア革命と同国のイラン撤退は、イギリスに対イラン政策の変更を迫ることになった。なぜなら、イランからのロシアの撤退によって、1915年英露間協定も当事者の片方が消滅とし、イラン中央政権に対抗的な勢力圏を維持することは、イギリスの権益を危機にさらすイランとソ連の結合に至るリスクを伴っていたからである。こうした事態に直面したイギリスは、ロシアの不在を契機に、イラン全土における勢力拡張を図った。それに向けて、まず1919年イラン・イギリス間協定によって、イランの保護国化を試みたが、同政策はイラン国内外の反発を受け、議会でも批准されなかったため、発効不可能となった。この挫折を経て、イギリスはクーデターによる強力な親英独裁政権の樹立という新政策に移行した。1921年1月21日、そのクーデター計画はイギリス擁護の新聞記者セイエド・ジアーと、優秀な軍人のレザー・ハンによって実施され、セイエド・ジアーが首相に就任し、レザー・ハンは国軍司令官に就くことになった。
新政権は直ちに、発効不可能となった1919年のイラン・イギリス協定を公式に破棄した。それと同時に、イラン・ロシア友好協定(Russo-Persian Treaty of Friendship)に調印した。それに基づいて革命ロシア政権は、ロシア帝国によってイランから獲得された全ての利権を放棄したうえ、イランをめぐって、旧ロシア政権と他国間で締結された全ての条約を解消した。さらに、協定では両国は互いの内政干渉を避けると規定された。
レザー・ハンは一方、イラン・ロシア友好関係を利用し、他方でイギリス権益を擁護する姿勢を見せながら、親英独裁政権を樹立するために、イギリスの信頼を集めた。彼は1922年2月のクーデター直後から1923年10月まで軍事司令官、そして1923年10月から1925年10月まで首相として、全国における反体制勢力および地方権力を制圧し、イラン初の国軍を創設したうえで、中央政権下で国の統合を図った。彼はイラン議会における自らの影響力を行使し、1925年10月31日にガージャール朝を廃止する法案を議決させた。そして、選挙干渉によって、ほぼ全議員がレザー・ハン支持者から設立されたイラン初の憲法制定議会(Constituent Assembly)を通して、1925年11月12日、パフラヴィー王朝創設の法的基盤を確立したのである。
こうして、レザー・ハンは国王に即位し、独裁王制を樹立した。この王制の中には議会と政府が存在したのだが、あくまで非民主的な過程の中で選ばれていたので、当時のイラン政治体制は「外見的立憲制」であったと言える。
レザー・シャーはイギリスの支持を受けて政権を握ったが、国家安定や近代化の促進で得られた国内の人望、および新たに創設した国軍によって、政権基盤の強化を図り、次第にイギリスの政策から離脱し、その勢力を排除することに乗り出した。彼は治外法権の撤廃、イギリスの独占下にあったイラン南部関税の奪回などを行い、イラン南部石油を独占していたアングル・イラニアン石油会社(APOC)の利権契約改善に着手した。
APOCは1901年にガージャール朝の専制君主がイギリス人資本家に譲渡した利権契約に基づき、イラン南部石油を独占した植民地主義的な石油会社であった。また、それはイギリスのヘゲモニーにかかわる地政学的重要性を持つ大規模な産業であったため、当時イランによる利権奪回が極めて困難であった。にもかかわらず、レザー・シャーはイラン権益を確保する新たな契約締結を試みた。ところが、イギリスの軍事的威嚇で彼の目論見は覆され、1933年4月29日、イギリス側にとって不利であったダーシー契約の項目を改変した一層不平等な契約の締結に至った。「1933年契約」と称されるこの新石油契約では、イランに諸々不利な案件が盛り込まれ、利権契約期間の30年間延長もイギリスの軍事的威嚇でレザー・シャーに押し付ける結果となったのである。
こうして、民主体制樹立を目指すイラン国民の試みは、英露の介入により結局イラン国民の参政権剥奪をもたらし、イギリス権益を保障する「外見的立憲制」の確立という結末に至ったのである。
しかし、第二次世界大戦の文脈における地政学的重要性のため、1941年にイランが連合国によって占領された。占領に伴い、ドイツ接近の容疑で、強力な独裁者レザー・シャーが脆弱な皇太子への王位譲渡を余儀なくされ、かつイランに対する英ソの旧植民地的政策を牽制する第三勢力のアメリカがイランの舞台に登場した。こうしたイラン内外諸勢力の推移は、「外見的立憲制」の混乱・弱体化をもたらし、同体制の打倒と民主体制の構築を試みるイラン・ナショナリズム運動の好機となるものであった。
第1章では、第二次世界大戦の中でイラン・ナショナリズムがイランをめぐる米英ソの協調関係を粉砕し、同関係を冷戦につながる相互牽制へと変貌させ、イランが自ら主体性を獲得していく過程を明らかにしている。
第二次世界大戦開始直後、イランは中立を宣言していた。しかし、隣国イラクでのクーデターやソ連のドイツ進撃によりイランの地政学的重要性が高まってきたため、英・ソはテヘランを占領し、1942年1月29日にイランと「三者間同盟条約」を締結した。これにより、イランは連合国へ協力することとなった。この過程でレザー・シャーが退位したため、新たな国内外の政治勢力が登場してきた。国内勢力では、親ソのトゥーデ党、親英のエラーデイェ・メリー党、モサデクなどのナショナリズム議員勢力が新たに登場し、国外勢力としては、アメリカの勢力拡大を呼び込むこととなった。
英・米・ソが石油会社を通じて石油利権を獲得しようとする中で、モサデクを中心としたナショナリズム勢力が提出し、その後の利権保持に重要な役割を果たすこととなる「石油利権譲渡禁止法」が1944年12月2日に議会で可決された。利権譲渡を正式に拒否されたソ連は、イラン駐屯中の赤軍を撤退させず、それを通して親ソ派によるイラン北西地方の分離活動を支援することにより、混乱に乗じた利権獲得を企図した。
英米は当初はソ連と協調関係を確保しつつ内乱の解決と石油利権獲得を図ろうとしたが、ソ連の強引な政策やイラン・ナショナリスト議員の反発により、実現できなかった。そこでイラン政府は、アメリカの支持を受けつつ、1946年1月19日、ソ連のイラン内政干渉を国際連合に提訴した。この提訴は創設された国際連合に提出された初の問題であり、第二次世界大戦後における米ソ間の最初の衝突となった。この提訴でもソ連との紛争を解消できず、新たにイラン首相となったカワームも引き続きソ連との交渉を続けていくが、交渉は進展しなかった。一方、英米はそれぞれ強硬な覚書をソ連に提出し、ソ連軍のイランからの撤退を要求したが、これも事態の進展には影響しなかった。そこで、イランは1946年3月19日に国連安保理に請願を提出し、安保理の場において問題解決の糸口を探ろうとした。ソ連はこの動きに対して当初反発したが、トルーマンによるソ連への機密最後通牒もあり、1946年3月25日に、公式宣言にて完全撤退を条件付きで認めたのである。
この結果、1946年4月4日にソ連・イラン間の共同宣言がテヘランで公開された。共同宣言では、ソ連軍の撤退以外に、イラン・ソ連共同石油会社の設立に関して議決することやアゼルバイジャン地域紛争の解決の件も盛り込まれた。しかし、共同石油会社設立契約について、議会は「石油利権譲渡禁止法」に基づきこの契約を無効とするよう判断し、加えて決議の第4条において、南部石油利権の回復のための政府の任務を義務付けた。つまり議会は、ソ連軍撤退という最低限の目的を達成しようとしただけでなく、南部利権の回復によるイギリス勢力排除と国有石油会社設立に向けた巧妙な布石を打つことに成功したのである。
第2章では、南部石油におけるイランの利権回復を追求したナショナリズム勢力と、「外見的立憲制」の修復を画策したイラン国王およびイギリス側との衝突が、いかなる過程を経て石油産業国有化法の制定に至ったかを論じる。それを通じ、少数派のナショナリスト議員たちが「外見的立憲制」を克服し、石油国有化法を可決するに当たって実施した社会勢力の統合、および議会戦略がいかなるものであったのかを明らかにする。
連合国軍によるイランの軍事占領により、国内では反帝国主義・反独裁主義の機運が高まっていた。このような機運の中、南部油田地帯においても、1946年5月から6月半ばごろにかけて、すでにトゥーデ党の尽力で組織化されたAIOC(Anglo-Iranian Oil Company)のイラン人労働者によって、労働条件の改善を求めたデモが実施された。このデモをきっかけにイラン初の労働法が制定され、その適用がAIOCに強いられたが、水面下ではイギリスは、AIOCの権益を保持するため、国王モハマッド・レザーとの連携で、国民の自由と参政権を剥奪する「外見的立憲制」の回復を画策していた。アメリカ勢力の拡大に貢献したカワーム首相は更迭され、1947年12月29日には親英派のハキミーが首相に任命され、1949年5月4日には議員の半数を国王が直接選出できる上院が議会に創設されることとなった。宮廷とイギリスは連携してイラン政府と議会を独裁王制に包摂することで、レザー・シャー時代と同様な「外見的立憲制」を再確立するために奔走した。
1948年6月にイラン国民の意思に反して成立したハジール政権下で、「外見的立憲制」を確固たるものとするための国王とイギリスの画策が始まった。ハジールは、1948年9月からAIOCとの秘密交渉を始め、議会および社会におけるナショナリズム勢力の介入を受けずに、「イラン利権回復法」に基づく政府の任務が独裁王制の下で実施されるように計らった。しかし、頻繁に行った集中審議により、政府を消耗させ、イギリスと国王の企図を実現させる機会が与えられず、辞任を余儀なくされたのである。
49年2月のパフラヴィー国王暗殺未遂事件を契機に、トゥーデ党の解体や、メディア規制法を通じて、ナショナリスト議員の政治的基盤は弱体化した。国王は、自らの独裁的権限の強化に乗り出し、可決された法案の拒否および議会解散などに関する法的権限を獲得することによって、「外見的立憲制」に基づいた実質的な支配権を握ることに成功したのである。また当時、イランにおけるアメリカの反共政策が親英の「外見的立憲制」の下で実施されることになった。
国民の自由が制限された状況の下で、サエッド政権とAIOCは石油問題を決着させようと試みた。国王暗殺未遂事件の直後から秘密交渉が開始された。AIOCはイラン国民の反感を招いていた1933年利権契約の見直しを認めなかったばかりではなく、イランの利権料の引き上げに関してもほとんど譲歩しなかった。結局、サエッド政権は国王の命令で、AIOCの条件を承認する「ガス・ゴルシャイヤン追加契約」を、AIOCとの間で調印した。
それに対し、モサテグらを中心とする、少数のナショナリスト議員の抗議やハンガーストライキ、さらには大規模なデモといった巧みな戦略と抵抗によって、「ガス・ゴルシャイヤン追加契約」草案は否決された。それはまた、イランの「外見的立憲制」の崩壊、およびイランにおける英米の力関係の逆転につながり、イラン全土石油国有化法の可決をもたらすまでに至ったのである。
第3章では、イラン石油国有化の実施を阻止しようとしたイギリスの政治的、軍事的政策の挫折過程を論じたうえで、モサデク政権の樹立に至る諸勢力間の権力闘争を明らかにする。
AIOCの利権確保のため、イランの石油国有化運動に対して、イギリスは軍事的示威行動を行った。そこでは、石油国有化計画を頓挫させるためには、イギリスが内政干渉によって親英政権を樹立させ、イラン議会を解散させることを最も有効な解決策だと見なしていたのである。
だが、こうした内政干渉はイギリスにとって、逆効果をもたらした。イラン・ナショナリズム勢力のリーダー的存在であったモサデクが政権を奪取し、英米の思惑に反して、AIOCからの利権奪回に基づいた石油国有化を実行する主体として現れたのである。
イギリスの軍事介入を不可能にしたのは単に国内勢力だけではなく、当時の旧植民地体制の解除を目指し、イギリスの軍事介入に対して反対姿勢を見せたアメリカも重要な役割を果たした。モサデクらの対策はイギリスの軍事介入に正当性を与えないために、必要不可欠であったのだが、それはイギリスを牽制していたアメリカの国際政策の下でこそ、実施可能となったものである。
石油国有化によるAIOCの排除は、イラン資源の搾取を回避するだけでなく、イギリスおよびAIOCに従属した独裁体制の樹立を通してのイランへの内政干渉を終焉させ、民主化への道を開拓するものでもあった。また、モサデクは自身の政策であるイラン民主化の大前提として、自国の国際社会での独立と主体性の確保を対外政策に掲げていた。このように国有化施策法とその実施を目的としたモサデクの政策は、政治的、経済的孤立を目指したわけではなく、AIOCとイギリス政府の連携によって維持されていたイランの「外見的立憲制」を崩壊させ、国民国家の支配下に入れた形で、他国との対等な関係も保とうとしたのである。これこそ、イラン・ナショナリストの真意であり、本論文では「否定的均衡政策」と呼ぶ。
第4章では、イランの石油国有化をめぐっての英・米・イラン三者間の闘争過程を、新旧帝国主義の世代交代という視点から明らかにする。
1951年から、石油国有化を実施しようとしたモサデク政権に対し、イギリスはAIOC を保持するべく、いくつかの異なる措置を同時並行的に行った。それらの措置は軍事的介入によるアバダン占領、国際司法裁判所および国連安保理への提訴、モサデク政権の石油国有化計画の挫折を狙った、イラン石油ボイコットを含む経済制裁という、広範囲にわたるものであった。同時に、利益折半原則に基づいてモサデク自身との交渉も試みた。イギリス政府およびAIOCによるこうした外交戦略は、イランに対する同政府の軍事的威嚇を土台に行われたのである。
一方アメリカは、全世界における自国企業の石油契約を危機にさらす可能性を伴うイランの全面的石油国有化にも、旧植民地主義的勢力圏の復活と共産主義拡大のリスクを伴うイランへのイギリスの軍事的介入にも、ともに反対であった。トルーマン政権はイギリスを完全に退去させるイランの石油国有化政策と、AIOCの独占的利権を維持するイギリス側の対策との間に立って、双方の譲歩による中道政策を模索した。
当初アメリカは中立的な立場を装っていたが、モサデク首相による石油国有化法の実施に伴い、イラン・イギリス関係がさらに緊迫化するにつれて、その新帝国主義的な政策を推し進めていった。
英米両国はイランの国家主権を尊重する姿勢を装ってはいたものの、イラン政府の主権行使によって、それぞれの帝国主義的な権益が脅かされる場合、それを認める意志はなかった。つまり、イギリスはイランの国家主権に基づく石油国有化を認めるのは、AIOCの存続を保障する場合だけであり、一方アメリカがそれを認めるのは、イランの政治的独立がアメリカの石油秩序および戦後世界構想を脅かさない場合だけであったのだ。
こうした英米の目論見は、イランの政治経済的独立に基づいた石油国有化を目指したイラン・ナショナリズムに反したものであった。そのため、イラン政界および社会において、前述のような英米の姿勢に対する反発が沸騰した。
このように、石油紛争におけるアメリカの実践的な介入によって、三つ巴の権力闘争が英・米・イラン間で形成された。そこではそれらの目標に即した形で、3辺ごとにイランの共産主義化に対する懸念が、都合よく利用されたのである。
このイランにおける共産主義拡大に対する懸念を建前としたアメリカとイギリスの経済的、政治的作戦によって、イランのナショナリズムは弱体化し、1953年、モザデグ政権はクーデターによって転覆させられた。アメリカは、イギリスの旧植民地主義的構図の元でイギリスの勢力を削ぎつつ、モサデク政権打倒によって、イランの政治的・経済的・軍事的独立を回避し、新たな帝国主義的世界秩序に編入させることに成功したのである。
アメリカはイラン石油国有化過程において、イラン・ナショナリズムとイギリスの旧植民地主義との対立によって旧植民地主義体制を崩壊させ、旧植民地被支配諸国を自らに従属させた。そして共産主義の存在を利用しつつ、イランを新帝国主義に基づいた世界秩序に編入させることに成功したのである。
第5章は、1953年のモサデク民主政権打倒クーデター、およびその後のイランの非民主体制化を、冷戦時代における中東集団防衛条約機構設立の観点から考察する。
第二次世界大戦終結以後、英米は中東における集団防衛条約構想の実現を目指すが、アラブ連盟との対立に加え、英米間の覇権争いにより同構想は実現不可能となっていた。その代替政策としてアイゼンハワー政権により打ち出された対ソ北防衛線設置構想は、ソ連とペルシア湾を隔てる唯一の国家として、イランの加盟を戦略的必要性から重視するものだった。
しかし、大国との関係でイランの主体性を維持するための中立主義を固持した当時のモサデク政権の方針は、北防衛線設置政策と矛盾していた。それゆえ、米国は石油紛争でモサデク政権と対立する英国、およびイラン国内の反モサデク勢力とクーデターを共謀し、親米独裁政権の樹立に尽力した。米国はクーデター政権とその軍事的基盤だったテヘラン司令部を介した反体制分子の弾圧を通して、国内の政治的・社会的安定性を確保し、1955年にイランを反共バグダード条約機構に加盟させた。
地政学的重要性に加え、イスラエルとの友好関係にあったイランの軍備増強を介した北防衛線強化は、この反共同盟において極めて重要であった。すなわちイランの軍事力増強は中東地域バランスを崩すことがなく、イスラエルを脅かさなかったのである。米国は国内で独裁体制を盤石にしていた諜報機関、SAVAKをモサド(イスラエル諜報特務庁)に接近せざるを得ない状況を演出することにより、この重要な友好関係を維持していた。
米国の反共政策はこのように、民主主義と独立というイラン国民の要求と矛盾する傀儡的独裁体制の中でしか実施しえなかったのである。それこそが、イラン或いは中東における米政策実施の媒介となっていた独裁を排除した1979年イランイスラム革命、またその後のイランや中東とアメリカとの諸問題の源泉であったと考えることができる。

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