博士論文一覧

博士論文要旨

論文題目:近代日本陸軍動員計画策定史研究-近代日本の戦争計画の成立-
著者:遠藤 芳信 (ENDO,Yoshinobu)
博士号取得年月日:2013年1月16日

→審査要旨へ

1 論文題目
 近代日本陸軍動員計画策定史研究
         ――近代日本の戦争計画の成立――

2 論文の目次大要
  序 論 本論文の目的と研究主題
 第一部 平時編制の成立と兵役制度
   第1章 鎮台設置下の平時編制の第一次的成立
   第2章 1873年徴兵令の成立――徴兵制の過度期的施行(1)――
   第3章 西南戦争前後の壮兵の召集・募集と解隊――徴兵制の過度期的施行(2)―
   第4章 1880年代の徴兵制と地方兵事事務体制――1889年徴兵令改正と中央集権化――
  第二部 対外戦争開始と戦時業務計画
      ――出師・帷幄・軍令概念の形成と統帥権の集中化開始――
   第1章 台湾出兵事件前後における戦時業務と出師概念の成熟
   第2章 1878年参謀本部体制の成立
   第3章 西南戦争後の陸軍会計経理の攻防と軍備増強策
   第4章 1882年朝鮮国壬午事件と日本陸軍の動員計画
     ――壬午事件に対する陸軍省・参謀本部・監軍本部・鎮台の基本的対応―― 
   第5章 軍備拡張と出師準備管理体制の成立萌芽
    補論 1889年内閣官制の成立と「帷幄上奏」 
  第三部 戦時編制の成立と出師準備管理体制
   第1章 1885年の鎮台体制の完成――出師準備管理体制の第一次的成立――
   第2章 戦時編制概念の転換と1888年師団体制の成立
     ――出師準備管理体制の第二次的成立から第三次的成立へ――
   第3章 1893年戦時編制と1894年戦時大本営編制の成立
   第4章 動員実施と1894年兵站体制構築
     ――兵站勤務令の成立と日清戦争開戦前までの兵站体制構築――
  第四部 軍事負担体制の成立
   第1章 徴発制度の成立 
   第2章 軍機保護法の成立と軍事情報統制
   第3章 要塞地帯法の成立と治安体制強化
    補論 近代日本の要塞防禦戦闘計画の策定――1910年要塞防禦教令の成立過程を中心に――
  結 論 本論文のまとめと課題
3 本論文の目的
 本論文の目的は、近代日本軍制史研究の一環として、建設期・軍常備軍結集期の1873年徴兵令制定前後から日清戦争前後(1894-1895年)までの日本陸軍の動員計画策定に関して歴史的考察をすることにある。動員計画策定は、およそ、戦争の軍制技術的方面に関する計画策定である。換言すれば、本論文は、主に戦闘現場レベルでの軍制技術上の戦争計画の歴史的成立を考察することが目的である。その場合、戦争の軍制技術的方面の計画策定において最も重要なのは、戦時における兵力編成の方針・政策である。通常、戦時における兵力編成の方針・政策は、外交政策・国家財政等と仮想敵国・仮想戦場および平時の兵力編成を視点・骨格にして策定される。これに対して、本論文の目的は特に戦時の兵力編成の方針・政策を戦闘現場レベルの軍制技術的方面から考察し把握することにある。戦争の軍制技術的方面を基盤とする動員計画策定は戦時の兵力編成を規定した戦時編制の実現を基本にするものであるが、近代日本軍制における戦時編制の概念は歴史的な形成と転換の過程を経てきた。それゆえ、本論文は戦時編制概念の形成・転換を基本視点にして、近代日本の戦争計画の歴史的成立を解明することにした。
 
4 本論文の構成
 近代日本軍制史研究においては、動員計画策定を考察対象にした研究はほとんどなかった。戦前日本における陸軍の動員計画とその策定のための調査・研究等は、陸軍の当該担当官衙(者)において、その職務・業務の目的範囲内において限定的にすすめられてきたにすぎない。これに対して、本論文は近代日本陸軍動員計画策定史研究の題目のもとに、目次上では、①戦時編制の準備になるべき平時編制の成立(第一部)、②戦時業務計画策定と出師・帷幄・軍令の概念の形成(第二部)、③戦時編制概念の転換をともなった体系的な戦時編制と出師準備管理体制の成立(第三部)、④動員計画と兵力行使をささえる軍事負担体制の成立(第四部)、の四部から構成して考察した。以上の四部構成の本論文において、従来の研究を総括し、さらに新たな考察視点により注目・解明したものはおよそ下記の通りである。
 第一部 平時編制の成立と兵役制度
 第一部は、常備軍結集期以降の戦時編制の準備になるべき広義の平時編制の成立について、平時の兵力編成を統轄する鎮台の設置と平時兵員供給のための兵役制度の成立を基本にして考察した。
 特に、①鎮台を平時の機関・官衙として定義づけ、鎮台によって統轄・編成される兵力(歩兵連隊の平時定員~1873年「六管鎮台表」制定)の算出基準は歩兵内務書の規定に準拠したこと、鎮台の設置・配置による全国武装解除(1872年銃砲弾薬取締規則制定、地方行政機関等の非常時自主的兵備化の禁止方針、西南戦争前後の銃砲管理統制政策)の特質を考察した(以上、第1章)。②1873年徴兵令制定を天皇への統帥権の復古的集中化として着目し、また、初期徴兵制の施行を過度期的施行として位置づけ、同施行ための入費政策(官費化・民費化)の成立と陸軍省・大蔵省・内務省間の攻防に注目にし、特に配賦徴員送り届けの自治体自己責任論の潜在化と徴集候補人員寡少化構造の成立を考察した(以上、第2章)。③徴兵制の過度期的施行段階において導入された西南戦争前後の壮兵の募集と解隊(特に、西南戦争における和歌山県の壮兵新規募集等)、新規募集壮兵等や従軍志願者等に対する慰労評価(軍事奨励策の消失化開始)を考察した(以上、第3章)。④1880年代の徴兵制と地方兵事事務体制との関係を解明するために、末端自治体における戸籍調製管理と徴兵名簿調製との関係、さらに、府県等における徴兵援護・兵事奨励事業が成立する理由・背景として徴兵入費政策における徴兵検査所費等の国費支出化(末端自治体の財政的余裕を背景)に着目し、1889年徴兵令改正は徴兵事務体制の中央集権化(特に生活困窮者に対する同第20条の適用と判定基準の全国統一化)をめざし、徴兵制度と地方自治制度を基盤にして桂太郎の軍部自治論が形成され、軍部成立の兵員採用システムの基盤が成立したことを考察した(以上、第4章)。
 第二部 対外戦争開始と戦時業務計画――出師・帷幄・軍令概念の形成と統帥権の集中化開始――
 第二部は、戦時と対外戦争をささえる戦時業務計画の成立過程を解明しつつ、出師・帷幄・軍令概念の形成と統帥権の集中化開始を考察し、動員計画策定の歴史的萌芽期の特質を明らかした。ここで、本論文の考察の基本的視点において重視したことは、鎮台体制下においては、戦時の業務は平時業務の延長としてとらえられ、戦時の兵力編成は平時の兵力編成の数量的拡大とらえられていたことである。したがって、鎮台体制下において、戦争計画ための出師・帷幄・軍令等のキーワードは使用されたが、これらは厳密には動員計画や戦時編制の用語・概念によって把握できないために、戦時業務計画という用語によって言及した。
 そのうえで、①1874年台湾出兵という対外戦争開始からはじまる戦時業務計画の特質として、西郷従道蕃地事務都督の出兵強行と徴集兵の募集等にみられる私戦・私闘的性格、陸軍省の「天皇帷幕」(「陸軍海漕運輸局概則」)と大本営特設の構想開始、また、「皇軍」の称揚、さらに翌1875年江華島事件での陸軍省による「朝鮮征討軍」の編成構想として武官文官混成による帷幕構築構想、西南戦争までの戦時会計経理制度(1874年陸軍省費用区分概則と俘虜政策の第一次的成立、1877年海外出師会計事務概則と兵站概念、現地調達主義、1877年出征会計事務概則と西南戦争の戦費決算報告等)の整備を考察した(以上、第1章)。②1878年参謀本部設置における平時戦時混然一体化の参謀職務体制と軍隊統轄の二重職制体制の成立(1878年監軍本部条例制定によって平時の監軍は戦時には師団司令長官<師団長>になり、1879年鎮台条例改正によって平時の鎮台司令長官は戦時には旅団司令長官<旅団長>になる)、さらに1881年戦時編制概則起草制定過程における出師(戦時における軍隊編成と兵力行使の軍制技術的概念)・軍令(軍中の命令として汎義性をもって使用された概念)と帷幕(軍・師団・旅団段階でおかれる参謀部)の概念の成立を考察した(以上、第2章)。③西南戦争後の緊縮財政下の軍備増強策としての東京湾防禦砲台建築の公共事業的性格と会計経理の攻防(陸軍省・大蔵省)を考察した(以上、第3章)。④1882年朝鮮国壬午事件に対する太政官と一体化した準戦時大本営的体制の立ち上げ、戦時諸概則の配布、第六軍管下の旅団編成と行軍演習、新聞報道統制と「軍機」(軍中の機務)概念(下線は遠藤)、「戦死者」造出の粉飾固執と靖国神社合祀を考察した(以上、第4章)。⑤清国を仮想敵国視した1882年からの軍備拡張方針のもとに、軍隊改編が1884年の「七軍管兵備表」と「諸兵配備表」および「歩兵連隊改正着手順序」等の制定・規定によってすすめられ、鎮台体制における戦時の旅団と師団の兵力配備の取り込み開始によって平時戦時混然一体化の鎮台体制が成立し、さらに同年の鎮台出師準備書制定による出師準備管理体制(鎮台出師準備書や諸規則の制定・試行および各鎮台の出師準備策定と関係諸文書の調製等の管理を基本にして、諸官衙の設置・編制・職務や会計経理業務・兵站構築計画等および陸軍検閲や地方自治体の召集・徴発業務等をふくむ陸軍全体の出師準備を緊密・有効的に推進させる管理体制)の成立萌芽を考察した(以上、第5章)。⑥1878年参謀本部設置はただちに「兵政分離」「統帥権の独立」なるものを成立させたのではなく、参謀本部長は平時における太政官政府下の中枢構成メンバー(参議兼任)であり、また、1885年内閣制度発足に際しても参謀本部長は諸大臣と内大臣および元老院・警視庁のトップや宮中顧問官と並んで任官が発令されたように、政府中枢メンバーの一員として位置づけられたことを補足した(以上、補論)。
 第三部 戦時編制の成立と出師準備管理体制
 第三部は、戦時編制概念の転換のもとに(戦時を正格にして、平時を変格とする)、戦時の団・隊・部の編制表を緊密に集成した体系的な戦時編制が1893年に「令達文書・冊子体の戦時編制」として制定され、1894年の戦時大本営編制と兵站体制の基本が形成・構築されたことを考察した。
 特に、①1885年鎮台条例改正(監軍本部条例改正、参謀本部条例改正等をふくむ)により鎮台は、名実ともに軍管境域の「鎮台司令部」という軍事統轄の官衙・機関を意味するに至り、出師準備を照準にしつつ、平時戦時混然一体化の鎮台体制が本然化・明確化され、鎮台体制が完成した。さらに、同年の1885年6月の鎮台職官定員表は、1875年の「六管鎮台職官表」以降に表示された諸隊人員を削除し、各鎮台の司令部を構成するところの、司令官、幕僚(参謀部、副官部)、伴属(武庫主管等)、会計部、軍医部、獣医部、後備軍司令部、衛戍司令本部、軍法会議、監獄署、の官職定員のみを表示し、諸隊人員は官職上の人員の認識・管理から離れる兆しをあらわしつつ、兵力行使現場密着の軍隊編制上の人員から認識・管理されるものという思想が強くなったことを考察した。また、同年の参謀本部における出師計画主管局(第一局)の成立、戦時諸規則等の制定、陸軍省における陸軍事務所・輜重局の新設、1886年における出師年度の新設定(毎年4月20日から翌年4月19まで)、同年の鎮台出師準備書の仮制定(会計・軍医・工兵・砲兵の各部の出師準備書や同草案の起草・起案・仮制定をふくむ)、同年の陸軍召集条例制定をもって出師準備管理体制の第一次的成立と画期づけた(以上、第1章)。②1886年7月の監軍部廃止により、監軍(平時)=軍団長(戦時)の二重職制が不要になり、1888年の鎮台廃止と師団常備化を迎え、戦時編制と平時編制の策定をめぐる論理関係が転換し、陸軍建制として、戦時編制とその戦時人員算定を基盤にして平時人員を算出し平時編制を策定するという論理に転換し(戦時編制概念の第一次的転換)、武官カテゴリーの本格的成立(将校団における特権的・自己完結的な団隊自治制度・進級制度の成立、俘虜政策の第二次的成立)を迎えたことを考察した。また、1888年師団司令部条例による師団体制の成立のもとに鎮台体制下の江戸時代的な平時・戦時の二重の混成的職制体制が最終的に廃止され、同年の師団戦時整備表・戦時師団司令部他編制表・師団戦時整備仮規則・師団戦時物件定数表の制定により戦時編制表の統一的表式化着手(狭義の戦時編制の成立萌芽)がすすめられ、出師準備管理体制の第二次的成立を迎え、そして、1890年度師団出師準備書の仮制定、同年の徴発事務条例中改正による馬匹徴発体制整備、1889年野外要務令草案頒布(1891年制定、人馬給養における現物支給の原則化)を基本にした出師準備管理体制の第三次的成立に至ったことを考察した(以上、第2章の1、2、3)。さらに、1889年会計法のもとに、軍備維持経費と出師準備品に関して、1890年法律第27号(「陸軍給与ニ関スル委任経理ノ件」)と同法律第70号(「陸海軍出師準備ニ属スル物品検査ノ件」)により、陸軍が新たな特例的な会計経理と法令的庇護(給与面における積立金の蓄積、戦時用糧秣品原初的貯蔵の開始)を獲得したことの意義は大きく、陸軍の出師準備管理は特に会計経理体制の第二次的整備をふくめて成立したことになり、出師準備管理体制の第三次的成立がささえられることになったことを考察した(以上、第2章の4)。③1891年戦時編制草案は体系的な戦時編制の制定をめざし、「令達文書・冊子体の戦時編制」(戦時編制概念の第二次的転換)の草案として起草されたものであり、その意義は大きく、特に、「武官部」と「文官部」(宮内省官吏、内閣総理大臣、内閣書記官等)から構成される戦時大本営の構築構想(戦時大本営編制の第一次構想)をふくみ、本論文の研究主題の帝国全軍構想化路線(1874年台湾出兵事件における「天皇帷幕」と大本営設置構想を端緒にして、直接的には1878年参謀本部条例による平時戦時混然一体化の参謀本部体制を淵源とするもので、戦時に国内陸上某地域を交戦地域とすることをふくめて、古典的な中央集権制のもとに、陸海両軍の統帥系統を陸軍主導のもとに一つにまとめて立ち上げられる全軍統帥を構想化していく陸軍側と参謀本部の軍事統轄路線)が典型的に展開されたことを考察した(以上、第3章1)。その後、1893年戦時大本営条例制定過程における第2条原案の「帝国全軍」の「全軍」の削除(海軍大臣の意見)があり(帝国全軍構想化路線の第一次的変容)、同年参謀本部条例改正過程における第2条の「帝国全軍」の削除があり(平時と戦時の業務分界化のため、帝国全軍構想化路線の第二次的変容)、また、戦時大本営編制は戦時編制草案から分離起草されるに至り、1894年の日清開戦前に戦時大本営編制が海軍側の定見なき構えを経て大本営設置直前に制定されたことを考察し、さらに、日清開戦と平時・戦時の区分規定における1882年太政官布告第37号(「凡ソ法律規則中戦時ト称スルハ外患又ハ内乱アルニ際シ布告ヲ以テ定ムルモノトス 右奉 勅旨布告候事  太政大臣三条実美」)は太政大臣が「勅旨」をうけて戦時始期月日を布告する手続き(布告式の公文例案をふくむ~いわゆる「奉勅伝宣」)を制定したものであることを考察した(以上、第3章2)。④1894年戦時大本営編制のもとに兵站(戦時の動員下の運輸通信・補充・給養・衛生・民政等の継続的・組織的な後方支援等)の勤務体制構築の基本としての兵站勤務令が日清開戦前の第五師団一部動員直前に制定され、混成旅団の編成過程、日清戦争期の諸予算編成と会計経理(運送船購入と軍事優先下の随意契約、郵船会社への便宜供与)、朝鮮国内における兵站体制構築開始(兵站給養、兵站追送、朝鮮国住民をふくむ人夫雇用)を考察した(以上、第4章)。
 第四部 軍事負担体制の成立
 軍事負担は国家主権による公法上の義務とみなされ、陸海軍の軍備上の特殊な経済的負担とされた。軍事負担には、人的労役・物品負担や公用制限・公用使用・公用徴収があった。日露戦争前の代表的な軍事負担として、1882年制定の徴発令と戒厳令、1899年制定の軍機保護法と要塞地帯法がある。本論文では徴発令と軍機保護法および要塞地帯法を考察した。
 特に、①1882年徴発令制定は、フランスの徴発体制(民法にもとづく近代的私有権をふまえての賦課)とはことなり、旧封建時代までの租税外負担の各種賦役を美化して人身・財産を制限するという制定主旨があり、また、徴発物件に「兵器弾薬」がふくまれたことにより、西南戦争後の山県有朋陸軍卿の1878年建議(一般人民私有の軍用銃に対する政府の全般的な積極的な買い上げ推進案)が最終的に引っ込められたことを考察した(以上、第1章)。②軍機保護法制定前史として、建軍後の軍による軍事情報独占の思想(文部省出版行政への干渉、古昔兵書の独占的所蔵の思想)、陸軍部内の秘密・機密文書管理体制、日清戦争期の新聞雑誌検閲体制と大本営の軍事情報統制構造(「大本営発表」の原型成立)を考察し、さらに、参謀本部の起案要請にもとづき開始された軍機保護法の調査・起案と制定過程および日露戦争期の軍事情報統制体制を考察した(以上、第2章)。③近代日本の要塞建設の特質(国土防禦体制の転換、海岸要塞建設の重点化、土地収用法と国防上用地の秘密化要求、砲台建築工事・物件買収・職工人夫雇傭契約における随意契約化推進)、要塞砲兵隊の編成、要塞司令部体制の成立、要塞管理維持事業関係(砲台出入管理、要塞・堡塁・砲台図籍管理、兵器弾薬管理)を解明したうえで、軍事負担としての要塞地帯法の成立背景・性格等(土地所有権・財産自由処分権等の禁止制限、要塞地帯創設による地所価格低下の損失補償は起案されつつも削除される)を明らかにした。特に、要塞地帯法の成立前史をふくめて、その制定過程と施行諸規則による取締り強化、要塞地帯法違反事件を検討し、軍事負担のみでなく思想的負担義務も上乗せして課せられたことを考察した(以上、第3章)。④1910年要塞防禦教令は、要塞という防禦営造物を核にした都市・地域社会の防禦・守備隊編成の考え方やマニュアルを初めて全般的に制定したが、近代日本の要塞防禦勤務においては防禦戦闘計画の策定に終始し、軍行政的方面をふくむ要塞の陥落・降伏までの勤務と実務の想定・規定を欠落させたことを考察した(以上、補論)。

5 本論文の研究主題の考察――近代日本陸軍動員計画策定史の総括的特質――
 本論文は近代日本陸軍動員計画策定史研究の題目にもとづく考察によって、およそ、常備軍結集期の徴兵令制定前後から日清戦争前後までの戦時編制・動員計画を核にした近代日本の戦争計画の歴史的成立の特質に関して、総括的に三点の研究主題を明確にした。すなわち、①帝国全軍構想化路線の成立と展開等の特質、②軍部の基盤形成の特質、③要塞建設と要塞防禦戦闘計画策定の特質、である。
 (1)帝国全軍構想化路線の成立と展開および終焉
 陸軍の動員計画策定の歴史的成立は、戦時と戦争遂行における陸海軍全軍の統轄と統帥を陸軍主導のもとに一つに組み立てようとする帝国全軍構想化路線をともなったことである。
 帝国全軍構想化路線は、第一に、戦時と平時の未分化的な建軍期にあって、特に政府・軍行政の優位性のもとに、1879年鎮台条例改正にもとづく鎮台体制を基本にした兵力編成の統轄体制(鎮台のトップ官職の江戸時代的な二重の職制体制)、1878年参謀本部条例にもとづく平時・戦時の混然一体化的な参謀職務体制を起源とするものであり、その端緒は対外戦争開始=台湾出兵事件期の「天皇帷幕」構想と大本営構築構想にあらわれ、また、天皇統帥・皇軍称揚等の統帥権の復古的集中化と軍制全体の古典的な中央集権化過程(1873年徴兵令制定等)が貫かれたことを特質とする。
 第二に、戦時編制概念の転換により師団体制が成立し、1891年戦時編制草案に象徴的に示されるように、古典的な中央集権制的な大本営構築構想(大本営職員組織に文官部が起草される)が典型的に展開されたことを特質とする。なお、その後、1893年の戦時大本営条例制定と戦時編制制定および1894年戦時大本営編制制定により帝国全軍構想化路線は変容したが、その余韻的な思想は日清戦争での大本営の前進構想等にあらわれた。ただし、日清戦争後の軍備拡張政策のなかで、国内某地域を交戦地域とすることが否定・忌避されるに至り、帝国全軍構想化路線は迫力を欠くことになり、日露戦争直前における1903年12月の戦時大本営条例改正と軍事参議院条例制定により終焉した。
 (2)軍部の基盤形成の特質
 江戸時代的な二重のトップ官職をふくんだ鎮台体制が1888年に廃止されるに至り、旧武士団出身者・士族層を供給基盤とする将校によって支配統轄された軍隊は、その組織・機構に依拠しつつ、また、その改編を組み立てつつ、旧来の身分制思想を核にした支配態様に代わって、新たな官僚体制のなかで固有の官等・階層としての支配的特権や権益および組織維持をはかるにいたった。これが軍部の基盤形成の起源になる。
 軍部の基盤形成は、第一に、武官カテゴリーの本格的成立をふくむ師団体制成立前後からの人事・官職的基盤(1888年軍隊内務書における連隊将校団の成立の規定化、1889年の陸軍武官進級令等における特権的な将校団による下級士官の自己完結的な進級制度の規定化、さらに、1887年の現役士官補充制度と陸軍士官学校改革による将校団の後継者養成体制としての士官候補生制度の導入、1887年陸軍省官制改正における人事課新設による人事管理体系の集権化、1888年の陸海軍将校分限令および1890年陸軍省官制改正における俘虜に対する禁忌観の端緒的潜入等)が形成されたことを特質とした。
 第二は、平時編制をささえる1889年徴兵令改正がふくんだ兵役制度的基盤(桂太郎の「軍部自治論」)の形成を特質とした。第三は、会計法下における陸軍自主経理体制により(軍備維持経費と出師準備品に関して、陸軍は委任経理等の新たな特例的な会計経理と法令的庇護をうける)、給与面における積立金の積極的蓄積と戦時用糧秣品原初的貯蔵が開始されたことを特質とした。さらに、第四に、日清戦争後の陸軍会計経理体制(要塞建設の発注工事等をふくめた随意契約推進等)は、陸軍会計経理の独立化志向を引き込み、日露戦争後の1912年には陸軍省所管経常部歳出が7,679万円余に達し、内3,247万円余が委任経理に関する歳出で占められ(陸軍省所管経常部歳出の約56%)、積立金総額は1909年度末には陸軍全体で580余万円に至り、「自主財源」の蓄積による軍隊の指揮・統率上の自由自在的な雰囲気を醸成し、陸軍が政治勢力としての軍部に成長する財政的基盤が成立したことを特質とした。
 (3)要塞建設と要塞防禦戦闘計画策定の特質
 近代日本における要塞建設と要塞防禦戦闘計画策定の考察は多くの研究課題を残した。そのなかで、1910年要塞防禦教令の成立過程の特質として、日露戦争後直後には、部分的には要塞の自然的な住民保護の議論は潜在化していたものと考えてよい。他方、帝国全軍構想化路線は国内陸上某地域を交戦地域として想定・構想することを特質としていたが、同路線の変容・終焉は、本質的には要塞の自然的な住民保護とその議論のみでなく、国内陸上某地域を交戦地域として想定・構想すること自体をふくめて忘れ去られ、無視・放棄されるに至ったとみてよい。

このページの一番上へ