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博士論文要旨

論文題目:20世紀メキシコにおける農村教育の社会史-農村学校をめぐる国家と教師と共同体-
著者:青木 利夫 (Aoki,Toshio)
博士号取得年月日:2013年3月13日

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公教育は、近代における国民国家形成期以降、「国民」形成のための手段のひとつとして、世界の多くの地域において重視されてきた。19世紀はじめにスペインから独立したメキシコにおいては、国内の権力争いや欧米列強の干渉など国内外の混乱の時代をへたのち、19世紀後半になると、ポルフィリオ・ディアス(Porfirio Díaz 1830-1915)独裁政権のもと近代化が推し進められるなかで、教育関連法の制定、師範学校の設置など公教育制度の確立と学校教育の普及に向けた教育政策の整備がはかられた。とりわけ、先住民系住民が多く、人口全体の七割近くの国民が居住する農村地域における教育の普及は、国家にとって重要課題のひとつであった。その課題を解決しようとする実質的な取り組みは、1910年にはじまる革命によってディアス独裁政権が崩壊したあとの混乱が一段落した1920年代をまたなければならなかった。それ以降、革命政権は、全国規模で農村学校を設置し、学校教育の普及に尽力した。
 連邦政府が農村教育政策を積極的に推進していった背景には、多民族、多文化国家から「同質的な文化」をもった統一国家へとメキシコを転換し、統一国家のもとで経済および社会の発展をめざすという国家指導層の意図があった。農村教育は、そうした統一国家の形成と、国家の経済的、社会的発展とを担う「国民」を育成するための重要な道具とされたのである。従来の教育史研究の多くは、公教育の普及を是とする前提に立ち、このような教育観をもつ国家指導層の教育思想や教育政策、また、法律やカリキュラムなどの制度、すなわち教育にかかわる国家の意図や計画の歴史を解明してきた。その一方で、国家主導による教育は、多民族、多文化のなかに生きる人びとの多様性を無視し、国家に忠実な国民あるいは労働者を育成するための国家の装置であるとして、これを批判的にとらえる研究もこれまで数多くなされてきた。
 本研究においても、国家指導層が「同質的な文化」をもつ統一国家の形成に向けた重要な手段として学校教育を位置づけていたことの問題性を検討した。しかしながら、この時代の国家主導による教育政策や教育活動は、多民族、多文化状況を国家の発展の阻害要因とし、その克服と統一国家形成に向けた国家による一方的な先住民の同化あるいは統合政策にすぎないとしてこれを批判するだけでは十分とはいえないだろう。なぜならば、こうした政策や活動にたいして、農村地域の住民が実際にどのように対応してきたのか、その生きた姿がみえてこないからである。
 教育を受ける側である住民は、国家から派遣されてくる教師やあらたに設置される学校を無視あるいは拒絶したり、その反対に積極的に受けいれたりするなど、その対応は地域や時代、あるいは階層や性別などによってきわめて多様であった。また、積極的に学校教育を受けいれようとする住民であっても、教師や視学官の指示に忠実にしたがっていたわけではなかった。すなわち、国家の意図したとおりに住民が学校や教師を受けいれ、教育が普及していったとはいえないのである。それゆえに、メキシコの教育構造を明らかにするためには、国家の意図や計画である教育思想あるいは教育政策を批判的に検討するだけではなく、そうした国家の意図や計画を実際に住民がどのように受けとめ対応してきたのか、その生きられた歴史を明らかにすることが重要となってくる。
 こうした問題意識のもと、本論文ではまず、19世紀末以降、先住民が多く居住する農村地域へ学校教育を普及することの重要性が認識されるようになった背景を探るため、教育政策に深く関与した国家指導層が、先住民社会やメキシコ社会をどのように認識し、どのような国家像を描いていたのかを検討した。そして、国家主導のもと全国規模で拡大していく学校教育、とりわけ農村地域における学校に、国家指導層がどのような役割を求めたのかを明らかにしようと試みた。そうした検討をふまえたうえで、実際に普及していく農村学校が、国家と住民あるいは共同体とのあいだにある緊張関係のなかで、いかなる機能をはたしていたのか、国家と住民とのはざまに立たされた農村教師に焦点をあてて考察した。
 第1部「メキシコにおける『混血化』の思想」においては、メキシコの農村部に先住民系住民が数多く居住していたことから、農村教育が先住民にたいする教育ともなっていたことをふまえ、農村教育あるいは先住民教育政策の決定と実施において中心的な役割をはたした三人の指導者ホセ・バスコンセロス(José Vasconcelos 1882-1959)、マヌエル・ガミオ(Manuel Gamio 1883-1960)、モイセス・サエンス(Moisés Sáenz 1888-1941)をとりあげ、「混血」と「インディへニスモ」という視点から彼らの先住民観および国家像を論じた。メキシコにおける「混血論」の代表的論者のひとりで、すべての人種の混血からなるあらたな人種の誕生を予言したバスコンセロスは、メキシコにおけるスペイン文化の影響を重視する一方で、先住民文化を「野蛮」とみなし、混血による「野蛮」の「文明化」をみずからの使命とした。また、先住民文化の価値を認めようとするインディへニスモの流れにあるガミオとサエンスは、生物学的に白人よりも劣るとされてきた従来の人種主義的な先住民のとらえ方を否定し、歴史的、地理的、政治的要因による都市白人社会からの経済的、社会的、文化的「遅れ」として先住民社会をとらえなおした。
 バスコンセロスとガミオ、サエンスは異なる立場にありながら、先住民社会を「西欧文明」の継承者である都市白人層の社会に統合するという意味での「混血」という点において共通していた。さらに、彼らにとって都市白人層の文化の優位性は疑うべくもなく、「文化的遅れ」のゆえに声をあげることのできない先住民は、白人による救済をまつ受け身の存在として位置づけられた。バスコンセロスにとっては「野蛮の文明化」が、そしてガミオやサエンスにとっては先住民の「救済」が、学校教育の目的だったのである。しかしながら、彼らが理解していなかったことは、農村地域に住む人びとが、声をあげることもできず救済の手をまつだけの受け身の存在では決してなかったということである。また、学校教育にたいして住民が無関心であったり抵抗したりすることは、経済的、社会的、文化的「遅れ」や「宗教的狂信主義」によるものではなく、そこには、自分たちの生活や子どもを守ろうとする住民の強い意思が働いていたということも理解していなかったのである。
 第2部「『農村教育』のはじまりとその役割」においては、まず、生物学的「劣等」から社会的、文化的「遅れ」という先住民にたいする認識の転換によって、第1部でとりあげた三人のほか、教育にかかわる多くの国家指導層が先住民教育の可能性をみいだしたことを指摘し、さらに都市に住む白人や混血層とは異なる先住民のための特別な教育の必要性が認められるようになったことを論じた。その特別な教育は、地域の実情にあった農牧業や小規模工業などの産業の促進、衛生や病気予防のための医療活動や生活改善、スポーツや音楽などの文化活動、女子のための家事労働など、読み書き算にとどまることのない広範囲な活動を含んで計画された。そうした農村における社会改良運動ともいうべき活動は「農村教育」と呼ばれ、それを担うための「農村教師」という専門職が誕生することになった。国家は、こうした農村教育をつうじて、「近代的、科学的」知識を身につけた生産者および消費者、さらに、国家に忠誠を誓う愛国心をもった「メキシコ国民」を育成しようとした。そして、家族と共同体の一体化をとおして、農村地域の住民を国家へと統合することをめざしたのである。
 第3部「学校をめぐる国家と住民の関係史」においては、こうした国家主導の農村教育にたいして住民がどのように対応したのかを明らかにするため、実際の教育現場にあって直接住民と相対することになった教師がどのような活動をおこなったのか、また、住民が学校にたいしてどのような要求をしていたのかを検討した。そのうえで、メキシコにおける農村学校がどのような機能をはたしていたのかを論じた。
 都市から遠く離れた農村地域に派遣される教師は、勤務先への移動から勤務地の村における生活、そして教育活動にいたるまで、地域住民の協力がなければなにもすることができない状況におかれていた。そればかりか、学校教育を拒絶する地域においては、暴力によって村を追い出されたり、場合によっては生命さえも奪われたりするという危険に直面していた。そこで教師は、みずからの生命や生活を守り、そして教師としての任務をはたすためにどのような行動をとったのか、教師の回想録などを史料として、生き残りのための教師の「戦略」を検討した。その結果、教師はつねに国家の計画や指示どおりに教育活動をおこなったり、住民を指導したりしていたわけではなく、住民の信頼を得るため、彼らと妥協したり、距離をおいたり、ときには彼らに服従したりすることによって住民との関係を維持しようする姿が浮かびあがってきた。一方、教師の受けいれにさいして、校舎や備品作製のための資金や労働力の提供、教師の日常生活にたいする支援など、さまざまな点において優位に立つ住民は、教育を受容したり拒絶したりしながら、みずからの権力や利益の保持、拡大をはかるべく教師や学校を利用していたことが、住民による請願書などの史料の分析をつうじて明らかとなった。
 20世紀のメキシコにおける農村教育の拡大は、国家の指導層にとっては、メキシコ全国に国家の影響力を広げるとともに、国家の発展のために有用な「メキシコ国民」の育成とその国民の統合を成し遂げるための重要な過程であった。しかしながら、国家のそうした意図のとおりに住民が学校教育を受容したわけではない。住民の側は、国家から派遣されてくる教師が自分たちにとって有益であるかどうかを厳しく判断し、有害であるとされた教師を無視あるいは排除する一方で、有益であるとされた教師を「仲介役」として使いながら、さまざまな価値や権利や権力をめぐって国家とかけひきを繰り広げていた。すなわち、「農村学校」は、こうしたかけひきをするためのあらたな「公共空間」として機能していたのであり、住民にとって農村教育の拡大は、国家と「交渉」をおこなうための手段を手に入れることを意味していたのである。ただし、ここで留意しなければならないことは、同一地域内あるいはひとつの共同体内であっても、住民のあいだにある利害や権力をめぐる関係は重層的であり、住民すべてが学校教育にかんして同じ方向を向いていたわけではないということである。それゆえ、あらたに設置される学校を受けいれるのか否か、受けいれるとするならば学校にたいしてどのような期待をもち、なにを要求するのかなど多くの点において、政治的、経済的地位や性別、世代などの相違によって、住民のあいだには多様な意見が存在していたのである。
 こうした多様な対応のありかたを考察することは、19世紀末から20世紀にかけてのメキシコ社会全体の変化とともに、共同体における従来の権力関係や秩序、価値観などの変化を迫られるなかで、住民がどのような価値を選び、そしてどのような権力関係や秩序を再構築していくのか、すなわち住民それぞれが社会の再編成にどのようにかかわっていくのかを明らかにすることにつながる。「公共空間」としての農村学校は、そうした社会の再編成にかかわる住民の姿を如実にあらわす場となっていたといえるだろう。本論文は、20世のメキシコにおいて、農村学校という「公共空間」をめぐり、国家との関係のなかで変化する社会に対応しようとした住民や教師の生きられた歴史の一部を明らかにした。

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