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博士論文要旨

論文題目:環日本海地域社会の変容と近代日本
著者:芳井 研一 (YOSHII, Kenichi)
博士号取得年月日:2000年2月9日

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1.課題

 本論文の目的は、日本海をはさんだ諸地域が近代の国民国家を編成する時期にたどった歴史的運命を、環日本海の広がりのなかでとらえることにある。その視点は、以下の四つである。

 第一に、近代日本が環日本海地域にどのようにかかわっていったかを具体的に検討している。日本はこの時期にいち早く近代国家としての体裁を整え、日清戦争と日露戦争を戦うなかでアジア唯一の帝国主義国となった。それまで環日本海地域は、諸国家の影響力の及びにくい「辺境」あるいは「周辺」にあったが、日本はこれらの地域に侵略国として広く影響を及ぼすことになった。このことを延辺(間島)や東三省(満蒙)などを中心にとりあげる。

 第二に、「周辺」の地域社会から問題を考える。ウラジオストクやハルビンをつくり、清津港や龍井村を発展させたのは国家の政策によるところが大きいが、そこで暮らす人々は日々の生活の安定を求めて国家の思惑とは異なる認識や行動をとった。東三省では、経済的成長にともなって人々の社会意識は変化し、日本の侵出が契機となって、その視野が一地域から吉林省、東三省、中国へとひろがっていく。それらのことが環日本海地域の歴史に持った意味を探る。

 第三に、地域的格差を感ずるようになった日本海側諸県の人々が、どのように対岸地域にかかわっていったかを検討している。日本海側の人々は、産業革命の後には太平洋側の発展への遅れを強く意識し、「裏日本」脱却の手だてを対岸に求めるようになる。彼らは置かれた歴史的環境のなかで「帝国意識」を持たざるを得なかったが、それを越えようとする様々の活動も見られた。

 第四に、より具体的には、日本がこれらの諸地域に敷設する鉄道をめぐる諸問題を歴史的にたどった。日本の東三省への関与は南満州鉄道株式会社の創設に始まる。その培養線問題や吉会鉄道問題などの鉄道敷設問題は、日本とこれらの地域との関係を考えるための結節点に位置する。吉会(天図)鉄道敷設問題の全過程を解明することが、ここでの微視的な課題である。

2.構成

 このような視点に立って、本論文では全体を四期に時期区分(第一部~第四部)して、それぞれ問題を具体的に検討した。以下が本論文の構成である。

 はじめに
 第一部 国民国家形成期の環日本海地域
  第一章 変容する環日本海地域社会
    第一節 ウラジオストク
    第二節 延辺
    第三節 東三省
  第二章 「間島協約」の成立
    第一節 「間島問題」への介入
    第二節 伊藤博文と山縣有朋
    第三節 交渉経過
  第三章 「裏日本」の対岸認識
    第一節 日露戦争前の対岸認識
    第二節 日露講和反対運動
    第三節 日露戦争後の対岸認識
 第二部 第一次大戦前後の環日本海地域
  第四章 天図鉄道敷設問題
    第一節 清津の開港と「裏日本」
    第二節 天図軽便鉄道交渉
    第三節 天図鉄道敷設反対運動
  第五章 満鉄培養線敷設問題
    第一節 満鉄培養線敷設をめぐって
    第二節 桃斉線敷設交渉
    第三節 日・中・ソ鉄道戦争と陸軍
  第六章 大正デモクラシー期の環日本海論
    第一節 総合雑誌『中外』の創刊と日ソ国交回復運動
    第二節 松尾小三郎・大庭柯公の環日本海論
    第三節 日本海青年党の結成と永井柳太郎
 第三部 田中・幣原外交と環日本海地域
  第七章 安東領事館分館設置問題の波紋
    第一節 発端から着手まで
    第二節 強硬策
    第三節 田中外交
  第八章 吉会鉄道敷設の政治過程
    第一節 路線問題をめぐる対抗
    第二節 田中外交期の敷設交渉
    第三節 第二次幣原外交期の敷設交渉
  第九章 「間島」と柳条湖事件
    第一節 「間島」地域社会の変容
    第二節 五三〇事件と幣原外交
    第三節 朝鮮軍と柳条湖事件
 第四部 「裏日本」と環日本海
  第十章 吉会鉄道の全通
    第一節 関東軍の敷設方針と満鉄
    第二節 羅津港の築港と南廻り線
    第三節 五省会議
  第十一章 「日本海湖水化」論
    第一節 「湖水化」論の起源
    第二節 羅津港開発論と雄基港開発論
    第三節 豆満江自由港論
  第十二章 「裏日本」脱却の夢と現実
    第一節 日本海貿易の振興を求めて
    第二節 日満最短ルートをめぐる確執
    第三節 日満最短ルートの決定
 おわりに

  3.概要

 第一部の国民国家形成期では、国家間対立の下で環日本海地域社会がどのように変容していくかをたどり、それに呼応して日本が「間島」地域に侵出する推移を検討した。また日本海沿岸の「裏日本」地域が対岸をどのように認識したかをあとづけた。

 第一章では、ロシアの極東進出の結果、極東唯一の重要港としてウラジオストクが創られたこと、その延辺地域への影響、東三省の状況などをたどった。シベリア鉄道の敷設に象徴されるように、この地域の変容を主導したのは諸国家間の対立であった。ウラジオストク自由港廃止反対の活動のように地域社会の人々はときには激しく異議申し立てをしたとはいえ、諸国家の思惑は人々のささやかな願いを踏み越え、また巻き込みむことになった。

 第二章では、「間島協約」の成立過程を検討した。日露戦後に日本は「間島問題」に介入した。外務省と陸軍の思惑、伊藤博文と山県有朋の認識はそれぞれ異なっていたが、結果として「間島協約」に吉会鉄道敷設条項を加えるなどにより、新たな国家目標を設定することになった。すなわち「間島協約」は、日本が引き続き「間島」地域に干渉することを国際的に表明したものとなった。新たに領事館とその分館を設置し、治安維持のために領事館警察を置いたことが、それを象徴する。また吉会鉄道についても、日本にとってはその文言が協約に挿入されたこと自体に意味があるのであった。日本は二国間で結んだ「協約」を中国が実行していないと考えた場合には、「威力」を用いることを近代国家間のルールの範囲内のこととして首肯するに至る。

 第三章では、「裏日本」化した日本海側の人々の対岸認識をたどった。日本海側の諸地域では、日露戦争の前後に「裏日本」脱却の決め手として対岸との貿易拡大を求める活動が続けられた。大阪などを背後地に持つ敦賀港はこの機会をとらえて対岸貿易を拡大することに成功したものの、それ以外の地域では概してふるわなかった。日露戦争以前においては下村房次郎の日露貿易論のように、軍事力ではなく貿易関係を強めることによって日露の地域間交流を盛んにしようとする認識が、地域的均等発展論とセットになって主唱され、一定の影響力を持った。日露戦争を経たあとでは、下村的な道に対して、軍事力によって獲得した利権の上に立って貿易拡大を求める潮流が強まった。日露講和条約への不満を出発点とした政府批判の運動は、今泉鐸次郎に見られるように民衆を政治的に動員するという視点から普選の主唱にいきつく。大竹貫一も、後に普通選挙権獲得運動の旗手として、その実現に努力を傾ける。デモクラシー運動と「帝国意識」は、離れ難い表裏の関係を保ちながら出発した。

 第二部では、それに続き日本が清津港を開港させ、天図軽便鉄道敷設交渉を進め、さらに満鉄培養線の敷設交渉を行う過程を、東三省民衆の動向との相互関係の中で分析した。また大正デモクラシー期における、地域的格差や環日本海を視野に据えた議論の潮流を示した。

 第四章では、日本が清津港を開港させ、天図鉄道を敷設していく過程を検討した。大興合名会社という民間会社を盾として吉会鉄道の敷設予定コースと同じ路線に天図軽便鉄道が敷設されるが、他方その反対運動のなかで現地では地域住民の独自の共通意識が形成されれることになり、ここに張作霖政権や日本の外務省の思惑を越えた新たな枠組みが生まれたことを明らかにした。

 第五章は、満鉄培養線の敷設問題をとりあげた。満鉄の培養線敷設方針は東三省政権の鉄道計画とぶつからざるを得なかったが、幣原外交は東三省政権が自弁鉄道として奉海線を敷設するのを「交換条件」として?斉線敷設に着手したことを明らかにした。日本は自弁鉄道建設に賭ける東三省政権の熱意と、屈折したものであれ様々の形で噴出する東三省民衆の動向に鈍感であり、後にそれを「満鉄包囲網」であると非難することになる。

 第六章では、同じ時期に「裏日本」の対岸認識がどのように転回していくかを検討した。大正デモクラシー期に登場した新たな対岸認識として、雑誌『中外』や松尾小三郎・大庭柯公の論説を位置づけた。他方日本海青年党を結成する永井柳太郎の場合をとりあげ、社会的・経済的平等を求める主張と大陸進出のそれとがセットになっていたことを明らかにし、後の「裏日本」意識の展開の前提とした。

 第三部では、第一次幣原外交から田中外交を経て第二次幣原外交までの時期の日本の「満蒙」・「間島」地域への関与の過程をたどった。治安維持問題と吉会鉄道敷設問題の展開過程を検討し、両外交と地域民衆の願いとの間にある深い溝を埋めることが出来ずに、柳条湖事件を迎えることを明らかにした。

 第七章では、日本が中朝国境にある臨江に安東領事館分館を設置しようとして起こった対立を、現地の住民と第一次幣原外交・田中外交との関係の中で検討した。第一次幣原外交期に問題が表面化したが、幣原は帽児山分館の新設を認めて、問題をこじらせたまま田中外交にバトンタッチした。奉天総領事の吉田茂は、問題の解決を強硬策に求めた。吉田の強硬策は、朝鮮総督府や「間島」の総領事館には非現実的で事情を知らないままに打ち出された方針と認識された。だが彼は朝鮮総督府や駐在武官などの反対論を押し切って朝鮮軍守備隊を出動させ、京奉線遮断策まで持ち出した。それでも分館を新設することは出来ず、田中外交は満鉄の山本社長などの非公式ルートによる「満蒙」鉄道交渉に転換していくことをたどった。

 第八章では、吉会鉄道敷設をめぐる問題の展開過程を、日本・「満州」・朝鮮の関係史の中で追究した。第二次幣原外交のとった鉄道政策は、それ以前の吉敦延長線敷設などの個別交渉がとん挫したことを踏まえて一括方式による交渉の再開を政治的にはかるという方針であったが、そのことがかえって中国の疑心を増幅させ、結果として日本側の政策を硬直化させることになった。中国側が熱心に自弁鉄道を敷設しようとする状況のなかでは、仙石満鉄総裁が求めたような経済的アプローチが現実の選択としてはあり得た。幣原外交はそれでは「満蒙特殊権益」を維持できなくなるとして、あえて問題を政治化することによって解決をはかろうとし、そのため中国側の反発や大新聞の満鉄包囲網キャンペーンに直面して身動きがとれなくなった。つまり第二次幣原外交は重光の回想録が述べるように客観情勢の悪化の中で「堅実に行き詰ま」ったというより、鉄道交渉をみずから政治問題化することによって主体的に行き詰まったことを解明した。

 第九章は、「間島問題」が柳条湖事件にどのように連関したのかを、延辺地域社会の変容、五三〇事件の影響、朝鮮軍の動向を具体的に探るなかで分析した。「間島」では、一九一〇年代以降地域経済の成長が見られ、在住朝鮮人も一気に増加していた。住民の反日感情の高まりのさなかで五三〇事件が起こった時、朝鮮軍は従来の領事館警察の体制を改革しないでは「間島」の治安を維持できないと考えるに至った。しかし「間島」の治安維持をめぐる政府内の各機関の調整会議が停滞しているうちに、問題の焦点が列強と中国との間の治外法権撤廃問題をめぐって「間島」地域を除外するかどうかに転換する。ここに「間島」出兵のための謀略が、にわかに朝鮮軍に残された選択肢のひとつになったのであるが、柳条湖事件ほどの準備を整えることは出来ず、失敗に終わったことを明らかにした。

 第四部では、「満州事変」によってフリーハンドを得た関東軍が主導して吉会鉄道が全通する経緯をたどった。また羅津築港と吉会鉄道の完成によって「日本海湖水化」論が盛んになり、「裏日本」の脱却を求める日満直行ルートが開通する過程を検討した。

 第十章では、[満州事変」後関東軍を推進力として吉会鉄道が全通する過程を分析した。北廻り線と羅津港着工を決定したこと、南廻り線を最終的に組み込んだことに示されるように、日本政府は日露戦争以来関与してきた「間島」地域を切り捨てることが出来ず、それと運命を共にせざるを得なかったことを明らかにした。

 第十一章では、吉会鉄道の全通とと羅津港の築港に歩調を合わせて登場する「日本海湖水化」論の内実を、日本海の対岸開発論を紹介するなかで検討した。「湖水化」論の起源、石原莞爾・小林存・松尾小三郎の議論をたどり、その多くは「裏日本」の地域格差是正を課題としていたこと、その背後に「帝国意識」があったこと、にもかかわらず地域の発展を基礎とした平和共存論が含まれていたことを明らかにした。

 第十二章では、「日本海湖水化」論の具体化である日満最短ルート問題の展開過程を、新潟港・関東軍・政府・民間汽船会社等それぞれの動向を検討しつつたどった。新潟を基点とした日満最短ルートは、結局のところ十五年戦争の展開とその都度繰り返される軍部の要請によって実現した。その間地方的利益に根ざした既成政党側の圧力、民間船舶会社の日本海優先航海権をめぐる突き上げ、政府内の各省間の思惑などに振り回され、政策の一本化が困難な状況が続いた。それらの確執を越えて「裏日本」脱却の決め手と見られた日満最短ルートが国策となるのは、実は戦争準備体制の一環に組み込まれることによってであった。ただ日本海側の諸都市が連携して「裏日本」脱却論を正面から論じたことは注目される。「表日本」に対し、それぞれの地域的特徴を生かしたかたちでの発展が模索され、それを相互に支持する姿勢が見られた。ただそれらは「帝国意識」を前提としていたから、日本海側住民の連帯意識を越えるものになはらなかった。迫害を受けながら「間島」で暮らす朝鮮人住民、日本人移民のために土地を追われた人々などへの想像力は働かなかったことに留意したい。

  4.結論

 以上の検討の結果、次のような結論が導かれた。

 第一に、国家間の対立の下では、通商がテーマになったときでも軍事力の強弱を背景として問題を処理せざるをえなかった。外務省は日本の通商拡大の役割を担ったが、伊藤博文が一時抵抗したごとく、天宝山鉱山の開発や天図軽便鉄道の敷設など私企業の問題に直接介入する根拠は薄かった。にもかかわらず介入したのは、鉄道敷設等が軍事的役割と植民地的経営を担保し、国家的利益を増進すると認識されたからである。経済と軍事力は立て前としては別のものであっても、お互い切り離すことは出来なかった。幣原外交の時期に至っても事態は変わらず、「満蒙特殊権益」(事実上の植民地経営)の維持を図ることを前提とすれば、好むと好まざるとにかかわらず軍事的手段への依拠というカードを切り捨てることは出来なかった。幣原外交は「新外交」を目ざしたが、そのような枠組みを越える手だては用意されていなかった。

 第二に、日本が環日本海地域へ勢力を拡大する際に、常に治安維持体制の確保が求められた。日本が憲兵警察や領事館警察を必要とした理由は、地域民衆が日本の統治を求めていなかったからである。鉄道敷設が地域経済の発展をもたらすことが予想されても、天図鉄道や吉会鉄道がそうであるように、地域住民はその意図が日本の利益拡張のためだけにあることを見抜き、それに激しく反対した。満鉄培養線の敷設をめぐって、日本が東三省政権の自弁鉄道敷設案を交換的に認めざるを得なかったほどに、地域住民の影響力は高まっていたのである。このような地域社会の変容のなかでは、いわゆる治安問題の解決は不可能に近い。五三〇事件の処理過程の如く、治安問題を通して矛盾が表面化した。

 第三に、民主化と国民化がセットになっていた例を今泉鐸次郎を通して考えてみたが、彼が日露戦後に直面したのは日露講和反対の政府批判を継続するためには名望家のみではなく一般民衆を味方につける必要があるという現実であった。普選などの民主化を求める認識は、沿海州の割譲など国家的利益を追求するナショナルな意識と一体のものとして成立した。他方軍事的対立ではなく通商によって「裏日本」の経済発展をはかろうとする下山房次郎のような人もいた。内藤民冶や松尾小三郎などの環日本海論の論脈は、問題点は抱えているものの互恵的な通商や対等の交流を模索していたという意味で、大正デモクラシーの一潮流を形成したといえる。

 第四に、地域的格差の是正を求め「裏日本」からの脱却を求める人々は、環日本海地域への軍事力を背景とした侵出に呼応することによって自らの夢を実現しようとした。格差を自覚し平等を求めての要求が、歴史的に所与の枠組みとしてかぶさっている「帝国意識」を強めたことを思い起こす必要がある。その上で、しかしそのなかには互恵平等の環日本海地域の交易や交流を盛んにしようとする芽があったことに注目したい。

 以上の論点が本論の具体的検討によって導き出されたと考える。環日本海地域に暮らしているという共通の意識は、それぞれが固有の歴史をかかえつつも、相互にわかり合える歴史認識を共有出来るかどうかにかかっている。本論文が、それに一定の寄与を果たすことが出来れば幸いである。

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