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博士論文要旨

論文題目:教育専門職による拡張的学習活動-スコットランドのカリキュラム改革-
著者:森川 由美 (MORIKAWA, Yumi)
博士号取得年月日:2013年3月22日

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1.本論文の目的と展開
本論文はスコットランドの新カリキュラム「卓越へのカリキュラム(Curriculum for Excellence: CfE)」の実施過程を事例として取り上げ、2つの仮説の検証とその検証から新たな仮説を提示することを目的とする。2つの仮説とは、「CfEが求める学習が拡張的学習を可能にする学習であり、かつ、教育政策実施過程としてのCfE実施が教員を含めた教育専門職で形成される実践共同体における拡張的学習へ向かいつつある」というものである。この仮説検証によって新たに提示されるのは、カリキュラム実施過程において、教育専門職による拡張的学習を発生させている社会的統制の意味を読み解くための仮説である。
実践共同体とは、レイブとウェンガーにより提示された概念であり、拡張的学習とは、エンゲストロームにより提示された概念である。上述の仮説検証によって、情報コミュニケーション技術(ICT)の発達とグローバル化の進展によって学習観が変化し、新たな学習観はカリキュラム内容に影響を与えるばかりか、新カリキュラムの実施という教育政策実施過程にも影響を及ぼすことを明らかにした。
ICTの発達による学習観の変化とは、従来人間が行っていた仕事の多くをコンピュータが担い、人間にはコンピュータが行えない領域、すなわち、人の感情・心の作用を反映させる領域の知識が求められるようになってきたことである。さらに、グローバル化の進展によって、文化様式などの相違から発生する人びとの思考の違いを生かすという知識形成にも目が向けられ始めた。つまり、ICTの発達とグローバル化の進展によって、「何を学ぶか」だけではなく、人間同士の思考の違いを生かすために「どのように学ぶか」にも目が向けられている。
このような学習観の変化に対応するべく、スコットランドではCfEが導入され、そのほかの英語圏でもCfEと同じような「カリキュラムの新種」とみなされる学校カリキュラムが広がっている。これらのカリキュラムの特徴は、教科横断と形成的評価を重視し、中央教育行政府は内容を細かく規定せずにその意図を提示するだけで、教員が専門能力を発揮して各学校のニーズに即した内容へ適応させて実践することを求めていることにある。
本論文の展開は、まず第1章において、前述した仮説の前半「CfEが求める学習は拡張的学習を可能にする学習である」に対する検証作業を行った。そして、第2章から第4章にかけては、4つの課題を設けて検討しながら、仮説の後半の検証および新たな仮説提示した。
先行研究により、教科分断型カリキュラムの下では、教員は教科パースペクティヴという集団的パースペクティヴを形成していることがわかっている。集団的パースペクティヴとは、該当集団の成員に共通するものの見方などの行為様式である。したがって、4つの課題の検討過程における一貫した問いは、「CfEの実施過程における教員の学習に影響を与える集団的パースペクティヴ(教科横断パースペクティヴ)はどのような特徴を持つのだろうか」である。本論文では、この特徴について集団的パースペクティヴが依存する「教育価値」を検討することによって可視化を試みた。

2.本編各章の概要
本論文の本編は4章構成となる。第1章は前述したように仮説前半の検証である。4つの課題は課題①~③が仮説後半の検証のためであり、課題④は新たな仮説の提示のためである。すなわち、第2章は課題①、第3章は課題②、第4章は課題③と④を解決するという構造となっている。それぞれの課題と各章の概要は以下の通りである。

第1章 拡張的学習の知識像と分析理論
第1章では、「CfEが求める学習は拡張的学習を可能にする学習である」という仮説を検証するとともに、第4章の事例研究で分析枠組みとして使用する文化歴史的活動理論(以下、活動理論)について概説した。
仮説検証作業では、拡張的学習によって形成される「知識像」を描き出した。そのために、①拡張的学習の定義の確認、②拡張的学習が基盤としている社会的構成主義の知識観を検討、③拡張的学習で形成される知識が現代社会において必要な理由の考察を行った。
①拡張的学習の定義の確認においては、拡張的学習が「あてはめる学習」ではなく「創りだす学習」であり、矛盾を原動力にする学習であることが示された。
②社会的構成主義の知識観の検討は、構成主義や構築主義と比較しながら行った。わざわざ社会的構成主義の知識観まで掘り下げながらこの作業を行ったのは、拡張的学習によって形成される知識像に根底から接近し、CfEが形成しようとする知識像を可視化するためである。同じ対象をみつめていても、社会的構成主義と構築主義では前者が「形成」と後者が「遡及」という視点が異なっていることについて論じた。また、この検討過程では、ヴィゴツキーの提示した2つの概念である最近接発達領域(ZPD)と現在発達領域(ZCD)に注目し、他人の力を借りて前者を後者に転換させる学習について考察した。
③拡張的学習で形成される知識が現代社会において必要な理由については、ドラッカーの「知識社会」とベックの「リスク社会」および「個人化」を検討しながら考察した。グローバル化およびICT化によって拍車がかかった人間の知識の高度化がリスク社会を生んだが、その問題解決もまた、人間の知識によるしかない。だが、この知識は文脈を問い直すことができる知識であり、拡張的学習によって獲得可能となる。また、個人のレベルにおいてもリスク社会は不確実性をもたらし、そのため人びとは「個人化」という一生涯における文脈の問い直しをしなくてはならない状況に地球規模で追い込まれている。こうした状況から拡張的学習が必要とされていることを論証した。そのうえで、拡張的学習は「語っていく」「語り直す」という社会的構成主義と構築主義の両方の要請に応える知識形成であり、いずれの要請も人と人が繋がることが前提となる知識形成であることを論じた。
 活動理論の概説では、活動理論の第1世代から第2世代を経て、活動理論第3世代への発展を概観した。また、「学習行為」と「学習活動」の違いを確認し、学習活動がどうして社会的なのか、そして、なぜ、文化歴史的なのかを検討した。

第2章 スコットランドの学校教育をめぐる歴史と文化
課題①: スコットランドの教育価値は何か。そしてその教育価値がどのように教科パースペクティヴの土台となっていったのか。
第2章では、スコットランドにおいて、教科パースペクティヴを形成した教育価値の特徴を検討した。これは、CfEに影響する教科横断パースペクティヴを形成する教育価値が、どのような教育価値からの転換であるのかを明らかにすることであった。
スコットランドでは、教育制度もカリキュラムもイングランドとは異なる。こうした相違が維持されてきたのは、イングランドが専門教育に教育の価値を置く一方、スコットランドでは「幅広い一般教育」に教育の価値を置いてきたからである。「幅広い一般教育」は長老派の「民主性・平等性」に由来する。この価値観が「民主主義」「平等主義」となり、「個人の尊重」という概念を媒介として「個人主義」「実力主義」という価値観を融合し、スコットランド教育の卓越性を語る教育神話を創りあげた。すなわち、スコットランドの教育価値は長老派プロテスタンティズムの価値観に由来する「平等主義」「民主主義」「実力主義」「個人主義」である。これら4つの教育価値は19世紀後半に流行した菜園文学の「才能ある貧しい少年」の話よって神話化し、定着した。
教科パースペクティヴはこれら4つの教育価値の意味が読み替えられて形成されたといえる。20世紀に入るとスコットランドの教育をめぐる状況は変化したにもかかわらず、この読み替え作用によって、4つの価値観は存続した。読み替えられた内容は、「機会の平等」という媒介概念によって「実力主義」の比重が他の3つの価値観よりも増加していた。この「実力主義」の比重増大には「才能ある貧しい少年」神話が関与したことを、先行研究から裏付けた。すなわち、1960年代頃までの教育官僚や視学官の上級職による教育政策コミュニティは、かつて「才能ある貧しい少年」であり、かつ、地方の中等学校教員を経験したというキャリア保持者によって占められていた。中等学校教員でも、教科によって出世しやすい教科とそうでない教科があった。こうした教科の区別が教科中心主義と実力主義を繋げ、教科パースペクティヴが教育政策コミュニティに浸透したという構造が可視化された。
さらに、これら4つの教育価値の意味の読み替えによって形成された教科パースペクティヴは、教育政策コミュニティの外側の一般教員にも浸透した。そのため、1960年以降のカリキュラム改革において、教育政策コミュニティが急進的な方策を含んだ内容を展開しようとした際、教員の多くが従来の価値観から解釈して、従来の方法に準じる形でカリキュラム改革を実施するという守旧現象がみられた。したがって、いったん浸透した教科パースペクティヴを転換させるには基盤である教育価値の読み替えが必要となることが導き出された。

第3章 教育政策組織の制度的変容
課題②: カリキュラムによる社会的統制の変化をもたらした要因として、教育行政にどんな変化があったのか。
第3章では、20世紀末以降のスコットランドの4つの教育価値の意味を、教育政策組織の制度的文脈変化から検討した。20世紀に入って、教科パースペクティヴは、「民主主義」の比重が低下した構造を持つ4つの教育価値によって支えられていた。だが、この構造は20世紀末に「名誉の等価性」「参加」「包摂」という概念によって揺らぐ。「名誉の等価性」はハイアースティル改革という中等教育修了・大学入学試験改革によってもたらされた。他方、「参加」「包摂」は、1999年のスコットランド議会の再開を機に、スコットランドの国のあり方の問い直しのなかで教育行政を含む行政組織の制度的仕組みの変更によってもたらされた。第3章では、こうした変更によって、スコットランド社会の価値の問い直しとともにスコットランド教育の価値の読み替えが行われ、「民主主義」と「平等主義」という伝統的価値が「名誉の等価性」「参加」「包摂」によって新たな教育価値の意味が形成しつつあることを論じた。これは、「実力主義」と「個人主義」を土台とした教科パースペクティヴが及んでいなかった文脈である。
また、こうしたスコットランドの教育価値の読み替えと教育行政組織の役割変更の関係にも言及した。教育行政サービスを提供する組織の多様化も「包摂」と「参加」を促進する文脈となっている。スコットランドの教育政策組織では、様々な地域における教員が教育政策組織に出向・転職し、多様化・多元化が20世紀後半以降進んだ。同じキャリア形成をしてきた者による教育政策コミュニティを作ることは、教育政策組織の仕組みの変更によってもはや難しくなった。すなわち、教育政策に携わる者たちのキャリア形成が多様化・多元化し、スコットランド教育に対する価値観も多様化した。この多様化・多元化によって、かつてはその等質性によって形成されていた教育省・教育監査局・地方教育当局・教員組合のパートナーシップの構造が変化してきていることが提示された。

第4章 CfE実施過程における教育専門職の学習活動
第4章では、課題③と課題④について検討した。
課題③: CfE実施時の教員の学習は、旧カリキュラム実施時に教員が行った学習とどのように違うのか。そして、新しい学習活動がなぜ発生したのか。
スコットランドのこれまでのカリキュラム実施過程は教員の個人学習であった。しかし、CfE実施過程においては、同僚教員や教育専門職と協同で行う学習活動が増加している。本章では、スコットランドの教員や教育政策担当者などの教育専門職が1つの大型実践共同体(CfE実施実践共同体)を形成していると捉え、このCfE実施実践共同体における3つの小型実践共同体の学習活動(TLC、HIMEによるコーチングセッション、SQAが主導する新資格策定の取り組み)をフィールドワークで得たデータをもとに活動理論を用いて分析した。
CfE実施実践共同体において、「CfEは教員で決めていけるから魅力」「CfEは内容が曖昧すぎる」というダブルバインドが形成されていたことが明らかになった。すなわち、教員裁量増大とカリキュラム内容の曖昧さが表裏の関係にある。3つの小型実践共同体の学習活動はこのダブルバインドの解決のために創発したといえる。換言すれば、こうした学習活動はCfEによって教員裁量が増大したことによるという因果関係がある。なぜならば、教員は内容を明確化するためにカリキュラムが目的とする価値の共有を同僚と行う必要が出てきたからである。そのため、教員はカリキュラム実施のために個人学習ではなく集団学習をするようになってきた。
また、聞き取り調査から、教科パースペクティヴは上意下達パースペクティヴとセットになっていることが明らかになった。3つの小型実践共同による学習活動の発生は、教科パースペクティヴおよび上意下達パースペクティヴからの新たな集団的パースペクティヴへの転換をもたらす。新たな集団的パースペクティヴは教科横断パースペクティヴおよび流動形成パースペクティヴというセットであり、4つの教育価値の意味の変化により集団的パースペクティヴの変容がおこり、集団学習の気運が生まれたことを導き出した。また、教科横断パースペクティヴおよび流動形成パースペクティヴは教科パースペクティヴおよび上意下達パースペクティヴを内包する構造にあることを指摘した。
さらに、活動理論を用いて、これらの実践共同体の場では、個々人の思考・アイディア・感性の差異・相違がコミュニケーションによって、前もって定められていない新たな知識が形成されることを描き出した。新たな価値を共有するためには、伝達による従来のカリキュラム実施の方法では難しいことが示されるとともに、個人間の差異・相違が表現されることがない場合は、拡張的学習が発生しないという拡張的学習の性質が明らかになった。また、3つの小型実践共同体の学習活動がどのように拡張的学習になってきているのか検討した。

課題④:カリキュラム実施時における教員の学習の変化は、何を意味するのか。
さらに第4章では、CfE実施時における教員の学習の変化が意味する3つの仮説を新たに提示した。
第1の仮説は、カリキュラムの内容とカリキュラム実施時の教員の学習の相関である。すなわち、CfE実施における教員の学習活動において、教員はCfEが求める学習を経験する。この仮説は、CfEの内容とCfE実施時の教員の学習が、どちらも集団的パースペクティヴが変化するために相関するというものである。CfEの内容とCfE実施時の教員の学習はともに、受動的な学習から参加による能動的な学習へ変化し、答えが与えられた学習ではなく、答えを創り出す学習へ変化する。
第2の仮説は、CfE実施時の教員の学習の変化はスコットランド教育の歴史的変化の文脈上に位置することである。第2章で論じたスコットランドの教育価値の読み替えをもとにこの仮説を提示した。スコットランド教育の伝統的価値観である「平等主義」「民主主義」「実力主義」「個人主義」は、時代状況によってその文脈の意味が変化してきた。CfEより前の中等学校カリキュラムは、教員の教科パースペクティヴと上意下達パースペクティヴを強化した。他方、CfEは「名誉の等価性」「参加」「包摂」を媒介にして、従来の「実力主義」と「個人主義」の偏重から「平等主義」「民主主義」へも重点を置く集団的パースペクティヴ(教科横断パースペクティヴと流動形成パースペクティヴ)へ転換させる機能を持っていることがわかった。だが、教科横断パースペクティヴおよび流動形成パースペクティヴは、教科パースペクティヴおよび上意下達パースペクティヴを内包する構造にある。
第3の仮説は、新たな集団的パースペクティヴである教科横断パースペクティヴと流動形成パースペクティヴによって、教員を含めた教育専門職の学習活動が正統的周辺参加になりつつあるというものである。この学習活動が行われる実践共同体は固定したものではなく、必要に応じて形成され、必要がなくなると消えるノットワーキングの形態をとる。すなわち、教育専門職はこうした非固定化した形態の実践共同体への参加を繰り返しながら、かつ、時には複数の実践共同体へ重複した参加をしながら学習する。そして、この学習活動の過程では、教育政策担当者も教員もそれぞれの専門性を保持しつつもお互いの関係がヒエラルキー化していない。また、この実践共同体における目的を共有してお互いに協同するという学習活動では、実践共同体の成員は状況に合わせて交代で主導的役割を担いながら学習活動を展開していく。したがって、この実践共同体においては、固定した中心が存在せずに教育専門職全体が周辺化していくという社会的統制が働いていることになる。

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