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博士論文要旨

論文題目:一九世紀前半の洋学と社会―田原藩家老渡辺崋山を事例に―
著者:酒井(矢森) 小映子 (SAKAI(YAMORI), Saeko)
博士号取得年月日:2013年3月22日

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1.問題意識と先行研究の整理
 本研究は、三河田原藩家老渡辺崋山(1793~1841)の洋学研究を事例に、19世紀前半における洋学受容のあり方とその意義を、同時代の社会との関わりの中で明らかにしようとするものである。
 初期の洋学史研究では、洋学は個別的な知識・学術の集積と見なされていた。洋学の歴史性を捉えようとする研究は、1937年からの洋学論争によって始まったと言える。洋学論争とは、近世封建社会における洋学の歴史的意義を問うもので、著名蘭学者の先端的思想や幕府・藩の史料を素材に、封建制批判の面を重視する見解と封建制補強の面を重視する見解が対立した。この論争に対し田崎哲郎は、在村蘭方医の広汎な存在を主張して「在村の蘭学」という新たな視角を提起し、従来の洋学史研究の枠組みそのものを問い直した。以後様々な地域や事例の実証的研究によって洋学の実態は明らかにされつつある。その反面、視角の多様化とともにその内容は専門化・細分化しており、洋学の歴史的な意義の解明については十分に議論されているとは言い難い。
 洋学の歴史的意義を問うためには、いわゆる「洋学者」の学問内容や実態の解明だけでなく、様々なレベルで洋学に関わった人々の思想形成過程も対象とする必要があるのではないだろうか。なぜなら自らとは異質な西洋の文化・学問を受容し研究する過程では、その主体の社会的立場やそれまで形成されてきた意識・思想・通念と何らかの切り結びを伴うと考えられるからだ。その局面に注目することで、洋学の社会的・歴史的意味も見えてくるはずである。
 以上の視角から本研究では、三河田原藩の江戸詰家老として凶荒対策や藩政改革に取り組み、絵師としても活躍しながら、洋学を研究した渡辺崋山を取り上げる。藩政や社会への関心・問題意識が強く、藩の内外に多様なネットワークをもつ崋山は、この問題を検討するための恰好の素材と言える。
 本研究の特色は以下の三点にまとめられる。
 第一は、渡辺崋山の基礎史料の徹底的な分析から立ち上げる点である。書簡・日記・紀行文・手控といった崋山の基礎史料群は、近年その充実と整備が目覚しい。それらの史料を活用し、政治論説など完成されたテキストだけでなく全ての史料から立ち上げることによって、社会と切り結ぶ中で思想が形成されていくさまを実証的に明らかにしていく。
 第二は、19世紀前半の時代性との関係に着目する点である。崋山の活躍した19世紀前半は、未曾有の「内憂外患」の時代であった。従来の研究史において、崋山は洋学研究によって国家レベルの対外的危機意識をもつようになるが、この意識は小藩の家老としての立場や意識と矛盾するようになったと説明されてきた。だが矛盾・対立の枠組みで説明するこの手法では、19世紀という時代はその矛盾に追い込んだ「限界」の時代にしかならず、崋山はその中で開明性ゆえに苦しんだ特殊な個人として位置付けられてしまう。本研究では、藩レベル・国家レベルの危機に苦慮する崋山の主体形成の過程を丁寧に追い、その中で洋学がどのような意味をもったのか、崋山という主体に即して分析することで、この時期の藩と国家の関係性の中で洋学がもった意味を捉え直してみたい。
第三は、19世紀の世界史的な視野において崋山の位置付けを試みる点である。本研究では書物研究の手法を取り入れ、崋山が典拠とした蘭書の内容と成立背景を分析することにより、世界史的な視野の中で蘭書の影響や崋山の洋学の意義を検討する。
2.各章の内容整理
まず第一章では、崋山の諸日記のデータ化と比較作業を通し、その関心・問題意識の変化を論じた。20代はじめの日記『寓画堂日記』(文化12〈1815〉)『崋山先生謾録』(文化13〈1816〉)において最も豊富な記事は絵画と交際に関するものであり、崋山の旺盛な好奇心と江戸における文化・学問的ネットワークの活況を生き生きと伝えている。一方で15年後の『全楽堂日録』(文政13〈1830〉~天保4〈1833〉)では、藩務記事・洋学関連記事が増加する。なぜこの時期に崋山は藩政と洋学を志向したのか。そして崋山はどのように取り組み、それは同時代においてどのような特質と意義をもったのか。第一章の分析から浮かび上がった、「藩政」「洋学」という二つのテーマを、「江戸の文化・学問的ネットワーク」に目配りしつつ第二章以降で論じていくこととした。
第二章では、天保期田原藩の凶荒対策を事例に崋山の藩政思想を論じ、藩日記の活用によって藩政機構における崋山の位置関係を明らかにした。江戸に生れ育った崋山は農書・救荒書を典拠に用い、幕末儒学史の特徴でもある強烈な治者意識をもって凶荒対策にあたった。一方国許では、中小姓らが実際に窮民救済にあたりつつも、苛酷な引米による経済的困窮と加茂一揆による切迫した危機意識から、「君の急」に武器をもって駆けつける武士団としての主従制原理を主張して拝借金を迫っていた。本章では従来の「改革派対守旧派」の図式を見直し、「藩」における「御家」の論理と領民支配の論理の絡み合いという視角から、江戸と国許における「藩」意識の乖離と、それを生んだ19世紀の社会・学問状況を指摘した。
第三章では、崋山と小関三英の洋学研究過程を比較・分析した。崋山の洋学研究は時期によってその目的意識が異なり、知的好奇心の時代、世界地理・藩レベルの軍事科学導入への関心の時代、国家的対外的危機意識の時代へと変化する。一方、ネットワークを通じた研究スタイルは一貫して変ることがなかった。三英の場合は、政治・社会を含む「西洋」総体への関心は一貫しており、一方で研究スタイルは「孤然」から「議論」へ、「自分一己」から「朋友」との学問へと変化していく。本章ではこの二人の事例を通して、19世紀前半の社会や学問世界の多様性と混沌を読み取った。
第四章では、洋学研究によって世界的・国家的視野を育んだ田原藩家老・崋山の「藩」認識を論じた。藩主の家譜編纂事業や継嗣・復統問題、凶荒対策を通じて藩認識を形成していく過程を明らかにし、洋学研究の進展に伴い二つの変化が現われることを指摘した。第一に「譜代藩」という幕藩体制的な視角の現れ、第二に「小藩」観の変化であり、客観的な事実として、或いは否定的な文脈で語られていた「小藩」は、「武」「徳」で大藩の手本、「天下のため」となるという肯定的な文脈へと変化していた。それは崋山のヨーロッパ認識や国家認識とも通じるものである。崋山は西洋諸国を「小国といへども、規模広大」と捉え、小藩である田原藩、小国である我が国にも「一国」を超える「規模の広大」さを求めた。崋山によるこれらの認識の背景を探るため、崋山の典拠蘭書を調査し、19世紀ヨーロッパにおいて「小国」ヨーロッパ優位の文明史観が普及する中で成立した書物であったことを明らかにした。
補論では、崋山と同じく洋学を研究し、国家・世界への強烈な志向を持ちながら藩政に携わった、松代藩士佐久間象山の殖産開発事業を取り上げた。従来「藩士の洋学」は、その藩士一人の開明性や業績の指摘に留まりがちであった。本章では藩史料の活用により、事業の経緯や、象山と周囲の人々の意識・行動を追い、従来とは異質な国家認識をもつ藩士の出現とそれに伴う藩政機構や地域社会との摩擦を明らかにした。
3.本研究の成果
 本稿を通じて明らかになった、19世紀前半における社会と洋学の関係およびその意義は三点ある。
 第一に藩との関係については、崋山が洋学研究において国家意識と藩意識を共に高揚させていたことを明らかにした。崋山は洋学によって世界情勢を知り、国家レベルの対外的危機意識を募らせる。しかし崋山にとって洋学による「国家」への視野の拡大は、「藩」という枠組みからの脱却ではなかった。国家的視野は、自藩を「譜代藩」として幕藩体制機構に位置付け、「小藩」として「天下」のためになすべきことを考えることにつながったのである。世界情勢を知り国家的問題に取り組みながらも、「藩」を放擲する必要がなかったことは、崋山のような治者としての責任感の強い家老にとって好都合だったであろう。ただし蛮社の獄や佐久間象山の沓野騒動の例にみられるように、藩士の国家的志向がしばしば周囲との摩擦を引き起こしたことは注意が必要である。
 第二に崋山の洋学研究の背景に、画工として、また江戸詰藩士として築いていた、江戸の文化・学問的ネットワークが存在していたことを指摘した。洋学は通詞や洋学者らによる学問自体の発達と、塾や書物による普及、そして対外情勢を受けた社会的な問題関心や蘭癖趣味の風潮の中で、19世紀前半の江戸社会において容易に手に入る情報となっていた。崋山はこれらのネットワークを通じて洋学者と出会い、情報を得て、洋学研究の場を広げていったのである。このことから、19世紀における洋学の考察には、師弟・学統関係だけではない、江戸における多様な文化・学問世界やネットワークを視野に入れ、その交錯の中で論じる必要があることがわかる。またこのような中央のあり方と地方との関係も、今後考察したい課題である。
 第三にヨーロッパとの関係については、崋山が用いた1810~30年代の蘭書を分析し、崋山の小国観・小藩観の背景に、19世紀ヨーロッパにおいて顕著となる、西洋近代を頂点においた文明史観が存在していた可能性を指摘した。またヨーロッパ啓蒙主義の中で成立した、初学者にも利用しやすい書物や、アルファベット配列の参考図書が舶載されたことも、オランダ語を読めない洋学初心者の崋山の研究を後押ししたと考えられる。ただしこの問題に関して本研究でとりあげたのは、膨大な典拠の中のごく一部の書物にすぎない。今後さらに分析作業を蓄積し、原典や洋学者による翻訳書との比較作業によって、崋山の洋学の世界史的位置付けを探っていく必要がある。
 このように崋山の洋学研究は、19世紀前半の社会や学問・文化、世界情勢の中で初めて可能となったものだった。オランダ語の素養をもたない崋山に関心を抱かせ、読めぬままここまで研究できたことにこそ、19世紀前半の洋学の特徴があると言えよう。
 今後の課題としては、第一に治者意識や天保飢饉の経験など、様々な要素との有機的な関連の中で崋山の絵画を捉えていくこと、第二に洋学の歴史的意義を考察するために、弾圧や利用も含め、洋学と国家との関係を明らかにすることを挙げた。

【主な史料と参考文献】
・小澤耕一・芳賀登監修『渡辺崋山集』全7巻(日本図書センター、1999年)。
・佐藤昌介ほか校注『日本思想大系55 渡辺崋山 高野長英 佐久間象山 横井小楠 橋本左内』(岩波書店、1971年)。
・鈴木進編『覆刻渡辺崋山真景写生帖集成』(平凡社教育産業センター、1975年)。
※そのほか未刊行史料では、田原市博物館所蔵『御用方日記』『御玄関留帳』等の藩関係文書、国会図書館蔵旧幕府引継書中「渡辺崋山旧蔵書」の蘭書・著訳書類、鶴岡市郷土資料館蔵小関三英関係史料等を使用。 
・沼田次郎『洋学伝来の歴史』(至文堂、1960年)。
・佐藤昌介『洋学史研究序説―洋学と封建権力―』(岩波書店、1964年)。
・田崎哲郎『在村の蘭学』(名著出版、1985年)。
・佐藤昌介『渡辺崋山』(吉川弘文館、1986年)。
・前田勉『江戸後期の思想空間』(ぺりかん社、2009年)。

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