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博士論文要旨

論文題目:イギリス農村社会の危機とThomas Hardy:Wessex小説を中心として
著者:朴 恩美 (PARK, Eun Mi)
博士号取得年月日:2000年1月19日

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 本稿は、リアリズムの視点に基づいて、19世紀の中・後半期のイギリス農村共同体の変化とHardyのWessex小説との関係について考察しようとする。Far From the Madding Crowd(1874)以後、1896年までにわたって書かれた六つの主要小説はWessex小説と呼ばれる。その理由は、この小説がイギリスの南西部 Dorsetshireとその周辺の農村地域を背景として設定しているからである。Dorset地方の出身であるHardyにとって、Wessex地方とは、もっとも親密感のある場所であり、そこでの歴史と伝統は、彼の意識の重要な部分を占めていた。

 したがって、Wessexは、単なる小説の形式的な背景に止まっていない。Hardyが、自ら「小説の素材は人間と環境である」と指摘したように、Wessexは作家自身においても、彼が形象化した人物の「生」に対しても有機的な影響力を及ぼした場所であった。Hardyが、Wessex地域の地形や経済活動、生活様式、そして文化にいたるまで細かく描写していることも、環境が人物の「生」と緊密な関係にあることを示すためであった。また、それはHardyのリアリズムを反映するものでもあった。

 Wessex小説のなかで、Hardyは主として農村の中間階層に属する人物に特別な関心を示した。その理由の一つは、彼らが多様な経済活動と文化を守ってきた農村の中心的な存在であったからであろう。しかし、これ以上に、Hardyは、19世紀当時の農村で彼らが占めている地位が不安定であったという事実に主眼点を置いていた。彼らは、社会的に明確な特権階層でもなかったし、農村の絶対貧困階層でもない、いわば階級上曖昧な状態に置かれていた。したがって、彼らは当時の社会的な変化、とりわけ身分上昇の機会に敏感に反応せざるをえなかった。ここで重要な媒介要素の一つは、教育をめぐる問題であるが、教育と階級上昇の問題は小説のなかで多様な形で形象化されている。例えば、教育を受けても、それが保証する特権を放棄し、自らを下層階級と同一視しようとする欲求を表出する人物(Clym)、教育を受けたという長所を通じて階級上昇をはかる人物(Bathsheba、Eustacia、Grace)、階級上昇のための教育の場に進出しようとする人物(Jude)など、教育と慣習の衝突問題から教育を受ける機会獲得の問題にいたるまで、多様に現われている。そして、この中間階層の人物が表出する欲求は、人間関係の深刻な葛藤と共同体の解体という悲劇的な結末を招く。

 Hardyが、Wessex小説を通じて、一貫して表現しようとした主題は、農村の社会的な変化とそれによる農村共同体の崩壊であったと思われる。そしてその過程は、主として多様な社会階層と異性の間の関係を通じて具体化される。小説のなかで、異なる階級の欲求の衝突、結婚と性、身分上昇への欲求と教育の問題などが、明白に分離されないまま混在した状態で表現されるのも、そのためである。Bathsheba Everdeneと農村での地位がそれぞれ異なる三人の男性、Gabriel、Troy、Boldwoodとの関係(Far From the Madding Crowd)、ThomasinとVenn、Wildeve、そしてClymとEustaciaとの関係(The Return of the Native)、Henchard、FarfraeとSusan、Lucetta、そしてElizabeth Janeの間の複雑な関係(The Mayor of Casterbridge)、教育を受けて故郷に帰ってきたGraceの葛藤(The Woodlanders)、Tessの困窮(Tess of the d'Urbervilles)、JudeとSueの挫折(Jude the Obscure)などは、Hardyが当時農村の社会的な変動に注目したことをよく表わしている。

 論文の各章別構成は、以下のとおりである。

はじめに
第1章 Thomas Hardy の小説批評史
     -リアリズム論を中心に-
第2章 Wessexの現実とWessex小説
1。HardyのWessex
2。Wessex小説の時代背景
3。囲い込みと救貧法の影響
4。農村の中間階層と土地所有権の問題
5。農村共同体と伝統文化
第3章 農村共同体の変動と教育問題
1。Jude the Obscure における教育問題
2。農村共同体における教育の意味
3。女性教育の問題
第4章 農村共同体の危機と女性の現実
1。女性生活の変化
2。Tess of the d'Urbervillesと「純粋性論争」の誕生
3。女性の主体的な自我 : Tessの場合
4。教養階層女性と自我実現の問題
おわりに : Wessex小説の成果と限界

 まず、第1章では、Hardy小説に対する従来の批評を整理する。最近、Hardy小説に対するリアリズム的な研究成果の一つとして、Hardyを自然主義作家とか宿命論作家と評価することはほとんどない。リアリズム的な研究の強調点は、Hardy小説においての社会、歴史的な意味を探し出そうという点である。ところが、ここでHardy自らのリアリズムに対する見解は、如何なるものであるかを具体的に把握する必要がある。結論的にいえば、Hardyは当時のリアリズムを科学的なリアリズムと同様に考え、したがって極めて否定的であった。しかし、Hardyの文学と芸術に対する発言を検討すると、自然主義とは区別される意味のリアリズムに対する強調が窺える。Hardyは、芸術家において重要なものは、想像力と人生に対する共感的な理解であると考えた。こうした媒体を通じてこそのみ、事物の核心を把握できるというのである。したがって、Hardyのリアリズムは、想像力を媒介に追求した現実に対する一種の創造的な認識であり、その芸術的な表現をいう。

 第2章では、Wessex地方の実際の生活を考察し、Wessex小説と背景との関係を探ってみる。まず、19世紀のイギリス農村社会の生活史に対する概括的な紹介、そしてWessex地域の社会的な変化および階級分化が、作品のなかで如何に形象化されているのかを考察する。こうした考察は、Wessex地方の現実状況を理解するための先行作業であり、また農村の「生」に対する理想化や単純化を回避できる根拠を提示するにおいても、意味ある作業であると思われる。

 第3章では、Jude the Obscureと他のWessex小説に現われた教育問題を分析した。ここでは、教育と関連する問題を近代文明の産物としての社会的な不安と混沌の視角から理解しようとする。Hardyの教育問題を通じて、近代文明に変わっていく過渡期の社会が内包している価値観の混沌と動揺が、主人公の「生」に如何に浸透したのかを表現し、それによって、19世紀末のイギリス社会に対する的確な洞察を見せたからである。主人公が表出する欲求は、現実的なものであったにもかかわらず、そこには観念的な要素が混在していること、そしてその欲求が挫折せざるをえなかったことなどは、単に個人的な欠陥として説明できない。とりわけ、Wessex小説の人物が、農村社会の中間階層に属する人々である点で、彼らの社会的な失敗は、当時社会の階級的な矛盾ともっとも深い関係にある。

 第4章では、Wessex小説に形象化された女性問題を分析する。資本主義的な経済の変化は、女性の社会的な位置や役割においても多くの変化をもたらした。にもかかわらず、社会の価値観と性倫理は、時代の変化を反映せずに偏狭な内容をそのまま維持していた。Hardyは、階級的には中間階層に属し、高等教育を受けた女性を通じて、当時社会の性倫理や宗教的なイデオロギーが、創造的で才能をもつ女性を社会的にどのような存在に規定し、その社会的な役割をどのように歪曲させたのかを照明しようとした。ここでは、まず Tess of the d'Urbervilles の内容に対する批判のために、数回にわたる修正と削除の過程を経た Tess of the d'Urbervilles の出版過程を検討し、支配階級の偏狭な性イデオロギーが、文学創作活動に及ぼした悪影響を検討する。当時の文学界を掌握していた出版界と図書貸出業が、中産階級の偏狭なイデオロギーを代弁していたという事実は、女性の「生」を抑圧する主な要因である性倫理が、単に女性に対してのみならず、社会全般にわたって抑圧的に作用していた。とりわけ、Tess of the d'Urbervilles と Jude the Obscure の分析では、Hardyが中間階層の女性の「生」を通じて、農村の変化と中間階層の崩壊過程を事実的に描いたのみならず、当時の支配階級の偏狭な性イデオロギーを批判して、現実認識と女性論において優れた成果を挙げていることを強調しようとする。

 Hardyは、Wessexという用語をはじめて使用することによって、その用語が含んでいるイギリス南西部の農村地域に対する関心を具体的に表わした。Hardyは、その地域で生活する人物の教育、階級上昇、性愛と結婚の問題などの複雑な問題を農村社会の変化のなかで派生する問題として把握した。つまり、Hardyが、作品を通じて形象化したものは、農村の伝統的な生活と価値観が依然として残っていたが、産業化にともなう新しい力の影響も強く受けはじめた農村共同体の姿であった。近代資本主義の文明は、社会の生産力の増大とそれによる物資の豊裕化には貢献した側面もあるが、他方では、社会のあらゆる側面が商品生産の過程に投げこまれることで、現実に生きる人々の生活や人間本性を荒廃化する側面もある。この荒廃化の過程は、個人や共同体の生活において、物質的な側面ではもちろん、精神的な側面でも致命的であった。Hardyは、19世紀の資本主義的な発展が農村共同体にもたらしたそうした荒廃化の過程を描写し、イギリス社会全体の荒廃の徴候として表現している。

 要するに、HardyのWessex小説は、過去に保存された健康な価値を現在と未来に現実的な勢力として伝授できる主体は誰であり、その具体的な価値体制が現実のどこに存在するのか、そして存在することが本当に可能であるのかに対する模索であり、その疑問に対して、的確に答えられなかったことの表現であろう。Bathsheba、EustaciaとClym、Henchard、Grace、Tess、JudeとSueが、結局死んだり、無気力の状態に終わるのは、彼らが表出した価値を完全に実現できない個人の欠陥も無視できないが、その実現を妨害する当時の社会の力を反映するものではないのか。こうした意味で、Hardyの悲劇の限界が「現代悲劇の限界」であるというLawrenceの指摘は、そのリアリズム的な反映に対する最大の賛辞であるといえよう。

 したがって、HardyのWessex小説は、19世紀のイギリス農村社会の実情に対する問題提起であり、リアリズムに基づいた芸術的な表現である。これは、ビクトリア期のリアリズム小説家の問題意識と一致するものであり、したがってイギリス文学史において、Hardyをリアリズム作家として新しく評価すべき理由であろう。

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