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博士論文要旨

論文題目:日本の労働判例に見られる「就業規則による労働条件不利益変更法理」の迷走― 雇用関係ルールに関する社会学的考察 ―
著者:吉川 美由紀 (YOSHIKAWA, Miyuki)
博士号取得年月日:2013年3月22日

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本研究の課題は、就業規則による労働条件の不利益変更に関する判例法理の形成過程について、高度経済成長期にまで遡って歴史的に振り返り、裁判例のなかで示されている判断がどのような論理によって導出されてきたかを検証することである。
筆者は、日本において、就業規則によって労働条件を不利益に変更できる経路が開かれているとともに、配転・出向・転籍などに関する使用者の人事権が広範に許容されていることが、我が国の雇用関係ルールの性質を評価する上で、極めて重要な位置を占めていると考える。解雇に関しては厳しい規制を課している日本の労働法制は、労働条件の不利益変更に関しては、使用者に対して大きな裁量の余地を与えているのである。こうした日本独特の雇用関係ルールを形成したのが判例法理であることは広く知られており、就業規則を用いて労働条件を不利益に変更することが、どのような論理によって、どの範囲まで許容されるのか、という今後の日本の雇用関係ルールのあり方を問う上での最重要論点に迫るためには、過去の裁判例を振り返って、判例法理がどのように構築されてきたのかを徹底的に検証する作業が不可欠である。また、その際、就業規則自体の変更による労働条件の不利益変更問題だけでなく、配転・出向等の人事異動に伴う労働条件の変更問題も含めて考察の対象とすることが必要である。
ただし、就業規則の性質やその不利益変更の効果について過去の裁判例がどのような判断を下してきたのかについては、労働法学の領域においても最も重要な課題の一つとして認識され、これまですでに膨大な先行研究が蓄積されている。しかし、本研究が目指すのは、従来の労働法学の研究とは異なる視点でこの課題に取り組むことである。その際に重視するのが、裁判例のテキストに示されている判断を多元的に構成される日本の雇用関係ルールのなかに位置付けるとともに、日本の雇用関係それ自体の時代的な変容を考慮に入れて時系列的に解釈し直す、という視点であり、本研究においては、判例法理に関する労働法学者による通説的な理解に囚われることなく、裁判例のテキスト解読を試み、そこで展開されている論理の当否について、それぞれの時代における日本の雇用関係の状況も踏まえながら、批判的な考察を加える。
その際、就業規則による労働条件の不利益変更の判例法理において最も重要な位置を占める二つの論点、すなわち、①労働条件の「合意による変更」という原則、この原則の例外として容認される場合の②労働条件「変更の合理性」要件、という二つの論点に注目し、これらの論点について裁判例は必ずしも明晰な理路を示すことができなかったのではないか、という観点を立て、その点について逐一検定を行う。したがって、本研究が設定する具体的な研究課題は以下の二つである。
定説によれば、就業規則を変更することで労働条件を不利益に変更する場合、そこに当事者の合意が認められる場合においてはこれを認めるという原則、つまり「合意による変更」という原則が裁判例のなかで次第に蓄積され、やがて現在では明確な原理として確立している、とのみ説明がなされているが、労働条件の「合意による変更」という原則に関しては、かなりの混乱がみられ、法的な推論として確固たる方向を示すことはできていない可能性がある。例えば「黙示の合意」の認定に関しては裁判ごとにかなり大きなブレが見出される。こうしたことを検定するのが第一の課題である。
同様に、合意のない変更において不利益変更が例外的に認められるための要件としての「就業規則変更の合理性」要件に関しても、定説が主張するほど明晰な形で判例法理が確立されているわけではないのではないか、との疑念を払拭することはできない。この点を過去に遡った裁判例の時系列的な分析を通じて検定していくことが、本研究の第二の課題である。

本研究では、第1章では、本研究に至った問題意識と研究課題について述べ、第2章では、就業規則の変更による労働条件の不利益変更ルールの全般的動向について、高度経済成長期から1990年代までを、第3章では、成果主義賃金制度の導入による賃金変更ルール及び人事考課ルールの変容について、2000年代を中心に検証する。つぎに、第4章では人事配置の変更に伴う労働条件の不利益変更ルールについて、配転、出向、転籍のそれぞれのルールの変容を高度経済成長期から2000年代にかけて検証を行った。
第5章では、第2章から第4章の検証を踏まえ、本研究における二つの論点である①労働条件の「合意による変更」という原則、また、この原則の例外として容認される場合の②労働条件「不利益変更の合理性」の要件について、先に述べた定説が主張するほど明晰な形で判例法理が確立されているわけではないことを主張した。
まず、①の論点については、配転・出向・転籍に関する人事権に関する裁判例のなかで、労働条件の変更を「当事者の合意に委ねる」という原則がいかに機能しているのか、特に、当事者間に明確な合意がない場合に、当事者間の合意はどのように意思解釈されてきたのかについて検討した。
なかでも、職種変更を伴う配転については、一般的に、使用者と労働者の間で、個別の特約という形で職種を限定する何らかの明示的な合意が認められるときには、この合意は就業規則よりも当該労働者に有利な労働条件を定めるものとして、就業規則より優先して労働契約の内容を画定することになるとする通説的な理解がなされている。しかし、職種の限定に関する「黙示の合意」については、裁判所はこれを容易には認めない傾向にある。例えば、日産自動車村山工場事件・東京高裁判決(1987年)は、当該職種「以外の職種には一切就かせないという趣旨の職種限定の合意が明示又は黙示に成立」していない限り、職種限定の合意は認められないと判示し、機械工として採用され、20年間機械工として勤務してきた労働者の職種限定に関する「黙示の合意」の成立を否定した。このように裁判所は、職種限定の合意認定のハードルを極めて高く設定して、職種限定の合意認定には慎重な姿勢をとっている。特に解雇回避を目的とした配転については、職種限定等の合意を容易には認めず、就業規則上の包括的配転命令条項と配転慣行等から、使用者の職種変更権を広く認めていくのが裁判例の傾向となっている。
しかし、こうした裁判傾向に対し、東京海上日動火災保険事件・東京地裁判決(2007年)では、一定の要件を付しつつも、契約締結後の企業側の事情変更を直截、「例外的な事態」として認める手法をとり、日産自動車村山工場事件・東京高裁判決とは異なる枠組みをもって判断を下した裁判例も登場している。東京海上日動火災保険事件は、職種限定の明示的な合意と就業規則上の配転命令条項が併存する事案で、東京地裁判決では、労働契約の継続的性質に着目して、職種が限定されていたとしても、「他職種への配転を命ずるについて正当な理由があるとの特段の事情が認められる場合」には、使用者に職種変更権を認めることが「当事者の合理的意思に合致する」とし、職種限定の明示的な合意がある場合でも、一定の要件の下で使用者の職種変更権を認める可能性がありうるとしている。
以上のように、職種変更を伴う配転命令の効力の判断枠組みは、必ずしも一義的に定着しているわけではなく、判例法理は未だ斉一性を欠いており、予測可能性は極めて低いものであることを明らかにした。
つぎに、②の論点については、就業規則による労働条件の不利益変更に関する裁判例において、「就業規則変更の合理性」の判断がどのようになされ、判断基準の明確化がいかに図られてきているのかについて、労契法10条に掲げられた5つの要素のうち、①労働条件の変更の必要性、②変更後の就業規則の内容の相当性、③労働組合等との交渉の状況の3つの要素を取り上げて検討した。
まず、①「労働条件変更の必要性」については、判例法理によれば、賃金等の重要な労働条件の変更には「高度の必要性」が要求されるが、その必要性の程度については、通常の必要性と比べてどの点で「高度の必要性」があるものと判断されているのかは明確ではない。
また、②「変更後の就業規則の内容の相当性」についてみると、みちのく銀行事件判決(2000年)において、最高裁は「相対的無効論」を採用し、制度全体としての「合理性」のみを問題とするのではなく、個人に適用する段階の「合理性」をも問題とし、制度全体としての「合理性」を有する場合であっても特定の労働者に不利益が大きく、合理性を欠く場合には、就業規則の効力を認めないとする判断を下し、事実上の判例変更を行っている。このため、それ以降の裁判例においては、変更後の労働条件の相当性を判断する際、一定の代償措置又は経過措置によって不利益の緩和が図られているか否かが重要な判断要素となっている。
これに対して、③「労働組合等との交渉の状況」についてみると、第一小型ハイヤー事件(1992年)に続き、第四銀行事件(1997年)において、最高裁は、合理性判断の考慮要素のなかで、「多数組合との合意」を総合考慮の一要素としての位置付けを超えて、これを重視する傾向を示していた。しかし、「相対的無効論」を採用したみちのく銀行事件・最高裁判決は、合理性判断の要素として、これを特別に重視しないことを明言しており、他の考慮要素と並ぶ一つの要素として位置付け直したものとみられる。
こうした要素間の優先順位や相互関係については、依然として明らかにされていないことを指摘するとともに、労働条件変更の合理性判断は、「労働条件変更の必要性」と「変更の内容(変更による不利益の程度、変更後の労働条件の内容の相当性)」との比較衡量を基本として、労働組合等との交渉の状況、その他の就業規則の変更に係る事情等を加味して、総合判断がなされることが判例法理により確立しているものとされているが、それぞれの要素がどのような比重で考慮されるのか、についても判然としていないことを示した。

以上のように、最高裁判例を中心とする、これまでに積み重ねられてきた裁判例をみると、①労働条件の「合意による変更」という原則も、また、②就業規則による「労働条件不利益変更の合理性」の要件についても、時代ごとに、また、事案ごとに、かなり大きなブレがあり、定説が主張するような明晰な形で判例法理が確立されているとは言い難く、裁判例は必ずしも明晰な理路を示すことができなかったことを明らかにした。その上で、雇用保障法理とそれを補償する労働条件の不利益変更法理により形成・維持されてきた日本の雇用システムにおいて、雇用保障法理が機能しなくなりつつある現在、労働条件の不利益変更法理の不透明性の持つ意味は大きく、雇用関係の一方の当事者である労働者は極めて大きなリスクを負いながら雇用関係を継続していかなければならない状態にあることを指摘した。

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