博士論文一覧

博士論文要旨

論文題目:保護国期における愛国啓蒙運動と朝鮮地方社会
著者:小志戸前 宏茂 (KOSHITOMAE, Hiroshige)
博士号取得年月日:2013年3月22日

→審査要旨へ

1.本論文の課題
 本論文では、1905年11月乙巳保護条約(第二次日韓協約)によって保護国となった韓国において、主に言論活動を通じて教育と実業の振興による実力の養成を行い、国権の回復を目指した愛国啓蒙運動と地方社会の関係を論じる。愛国啓蒙運動の特徴のひとつとして、地方へと活動を広げたという点が挙げられる。愛国啓蒙運動の中心のひとつであった愛国啓蒙団体は主に首都・ソウルで作られたが、地方に支会を作るなど、地方へと積極的にその活動を広げた。これまでの地方における愛国啓蒙運動についての研究は、愛国啓蒙運動がどれだけ広がったか、中央(ソウル)の愛国啓蒙団体本会の意図したことがどれだけ伝わっていったか、という視点から行われてきて、そこに留まるものだったといえよう。この「上意下達」式の分析からは愛国啓蒙運動の評価はいかにして指導層の思想が広まって、どれだけ計画が実行されたか、という観点でしかなされない。新しい文物・価値観を広めようとする運動においては、中央と地方、あるいは地方の間、地方の中での葛藤が生じることは容易に想像されよう。そのことの分析なしでは保護国という時期に行われた愛国啓蒙運動の意味をとらえきれないのではないだろうか。そのためには愛国啓蒙運動が地方でどのように受け止められ、地方社会の中にどのような変化をもたらしたか、あるいは、もたらさなかったのか。地方での担い手となった人物はどのような目的をもって運動に「参加」したのか、などの疑問が解明されなければならないと考える。この地方においての葛藤は、内部に旧来から存在する伝統的な要素と、外部から新たに入ってくる近代的な要素の葛藤でもあるだろう。また、この時期は日本による植民地化が進行していた時期であることに十分注意する必要がある。すなわち、それまでにはない様式と力の大きさでもたらされるものに対し、それを受け止める側は大きく揺れ動くのではないかと考えられるのである。その大きく揺れ動く地方の具体的な姿を分析しなければ愛国啓蒙運動の全体像は捉えられない。例を挙げると、愛国啓蒙運動では学校の設立や断髪を推進していたが、この学校設立の際に起こる葛藤、断髪を進めていこうとするときに起こる葛藤などがそれである。それとともに、愛国啓蒙運動が行われていたのと時を同じくして日本の植民地化に対抗するため、伝統的思想に基づいて反旗を翻した義兵に対して愛国啓蒙運動の側がどう対処したのかを、地方から見ていくことも必要であると考える。
愛国啓蒙運動、学校や断髪がもたらした地方社会への影響は、社会の様々な場面で見られる。地方においてはその拡がりだけではなく、拡がらなかった部分はどこか、受け入れられなかった部分はどこなのか、について考察することが重要であると考える。愛国啓蒙運動の地方への拡大は、地方社会に根ざしていた伝統的な文化や秩序が崩壊していく過程ととらえることもできる。しかし、いとも簡単に伝統文化や秩序は崩壊したのだろうか。
特にこの時期は、日本の植民地化過程であり、朝鮮では多くの急激な変化を否応なしに迫られることになった。それが地方にまで及んでいるのは確かであろう。しかし、その変化を簡単に受け入れられなかった故に、様々なところで葛藤や亀裂を生んでいると思われる。その葛藤や亀裂のひとつひとつを可能な限りすくい上げることが、本論文の目的である。それは、義兵のような明確な形で表れる抵抗の姿で表れるとは限らず、一見すると受け入れたように見えても葛藤が存在する場合もあるだろう。ただ、混乱しているようにみえる中に、それぞれの思惑があり、地方社会に亀裂をもたらしていることが読み取れる場合もあるだろう。すなわち、この葛藤や亀裂は、急激な変化を迫られる植民地化過程でなければ起こりえなかったものなのであり、ここに地方における愛国啓蒙運動研究の重要性があると考える。この目的のために、地方を主体として愛国啓蒙運動を分析することで、愛国啓蒙運動における地方と中央の間の関係を明らかにするとともに、愛国啓蒙運動によって変化した、あるいは変化しなかった地方内部の関係を明らかにすることが本論文の課題である。

2.各章の内容
第1章では、愛国啓蒙運動が地方へと拡大していく過程について分析した。1905年11月の乙巳保護条約によって保護国となった韓国では、この状況に対して危機感を抱いた知識人を中心にして、教育と実業の振興を通じて国権の回復を目指す愛国啓蒙運動が始められた。この運動の中心的な役割を果たしたのが愛国啓蒙団体である。愛国啓蒙団体は、大きく分類すると、「政党」を目指す・あるいは「政党」を自認して様々な活動を行った大韓自強会・大韓協会と、地方出身の人士たちがソウルで出身地方の教育振興を目的として設立した学会(西友学会・漢北興学会・西北学会・畿湖興学会・関東学会・嶠南教育会・湖南学会)のふたつに分けられる。愛国啓蒙団体は、それぞれ演説会の開催や、機関誌の発行などによって啓蒙活動を行った。これら愛国啓蒙団体は、地方への運動の拡大の必要性は認識していたものの、設立当初は地方支会の設立には必ずしも積極的とはいえなかった。しかし、地方からの要請に応える形でいずれも地方支会を設立することにし、地方へと運動を拡大していくこととなった。愛国啓蒙団体支会の設立にあたっては、本会の中心的な人物が直接支会の設置を予定している地方へ視察に赴くことが多く、そこで演説会を開催するなど、地方支会の設置は本会の主張を拡大する絶好の機会となっていた。設立された支会は、全国に拡がっていたが、地域や設立時期に偏差がある。これは、愛国啓蒙団体や地方の愛国啓蒙運動に対する地方ごとの差異を示すものと考えられる。また、愛国啓蒙運動の拡大には、地方官である観察使・郡守や、徴税などの事務について諮問するために設置された地方委員といった地方での有力者を通じて行われることが多かった。愛国啓蒙団体は郡守に活動への協力を求めることも多くみられ、郡守や地方委員の側は積極的に愛国啓蒙団体の活動に協力・参加する者も多かった。このように愛国啓蒙団体の本会は地方へ運動を拡大させるにあたっては、中央が主導して、地方の活動を進めていこうとする様子が見られた。
第2章では、愛国啓蒙団体支会の具体的な活動の状況について分析した。愛国啓蒙団体支会で多く見られたのは、教育振興に関する活動であった。支会が主導して私立学校を設立したり、教員養成のための師範学校や、夜学校を設立するところもあった。また、西北学会や畿湖興学会では、地方の私立学校をソウルに本会が設立した学校の支校として、地方の私立学校との連携を取ることもあった。その他の支会の活動については、本会から幹部を招いて演説会を開催したり、会館を建設したりすることは全国的に見られたが、支会独自の実業振興を行うところもあった。これらの教育や実業振興は、愛国啓蒙運動が目指したものであるが、本会がその方法を主張して、支会が実践の場となったともいえる。また、地方支会の中には、郡守などの地方官憲と税の不満などについて直接交渉することもある一方で、郡守と対立することもあった。また、義兵についても、支会独自に帰順を進める支会がある一方で、義兵を支援する支会もあった。これらの官憲との関係や義兵との関係については、本会は特に敏感な問題ととらえており、地方支会の活動について、何度か統制を試みようとしている。しかし、地方支会は活動状況からみても、活動内容からみても、地方毎に差異があり、地方独自の事情に基づいて活動を行っていたことが確認でき、本会の統制がうまくいっていたとはいえなかった。
 第3章では、この時期に全国的に数多く設立された私立学校をめぐる地方社会の動きについて考察した。保護国化された韓国では、独立するための実力を養成する目的で各地に私立学校が建てられた。この動きは地方毎に差異はあったが、全国的に拡大して数多くの学校が建てられ、「併合」時には認許されていたものだけで2200校を超えていた。これらの学校が独立運動の温床となっていると認識した統監府は、私立学校を統制・再編するために、様々な施策を行った。私立学校令によって私立学校を認可制にして各地の私立学校の実態を把握するとともに、資金難に苦しむ学校が多かったことを利用して、学校への資金源を断ってしまえば学校が淘汰されるという目論見から、学校への寄附を取り締まるなどして私立学校を廃止に追い込む一方、設備の整った学校に対しては補助を与え、統監府の期待する学校へと再編していくことに成功した。
 これらの背景には、私立学校への期待がある一方で、地方での学校に対するさまざまな思惑が見え隠れしている。学校を設立するのには一定の資金が必要であることから、学校を設立する目的で資金を集める必要があり、実際に集まったことも多かった。しかし、それが学校とは異なる目的や、自らの懐を肥やすといったことに使われる場合もあった。また、学校の資金は地域の共有財産がもとになる場合も多く、元来この共有財産の使用する上で主導権を握っていた、つまりは地方において主導的な立場を持っていた儒林などから、学校に反対する動きが多く見られた。伝統的な立場を守る意味から学校教育を否定するばかりでなく、経済的な意味からも学校に否定的であったといえる。また、郡守や地方委員は学校設立推進に大きな役割を果たす一方で、地方によっては、学校に反対することも少なくなかった。それは、地方においては学校の設立は、地方の主導権を左右する重大な問題だと捉えられており、学校に賛成するにしても、反対するにしても積極的に参与せざるを得なかったと考えられるからである。反対の理由としては、学校を「正学」である儒学に対抗する「夷学」とみなしたことが挙げられるが、学校は保護政治を行うと日本と結びつけて、「倭学」として批判もされ、義兵の攻撃の対象となることもあった。ここにおいては、学校への反対は、日本の侵略に反対するという意味も持っていたこともあった。このように、学校設立をめぐっては、地方社会の中で大きな亀裂や葛藤を生んでいた。
 第4章では、近代朝鮮における断髪について考察した。愛国啓蒙運動が展開した時期は朝鮮において断髪が進んだ時期であるが、新聞や愛国啓蒙団体の機関誌でも断髪することを肯定的に評価し、断髪に積極的であった。朝鮮近代においては、1895年に甲午改革の一環として断髪令が出されたが、この時は日本による王妃殺害事件の直後で朝鮮社会には王妃殺害と断髪の命令が結びつけて受け止められた。義兵の中心となった衛正斥邪論者の両班たちは断髪することを「小中華」朝鮮の礼俗を捨て去り「夷狄」に堕するもの、さらには朝鮮を禽獣の域である「小日本」へと化すものと主張した。すなわち、断髪をすること/髪型を守ることは王朝支配の存否にかかわる重大な問題となり、義兵の敵が日本であったことで、髪型を守ることが韓国を侵略する日本に対して抵抗するという意味が加わったといえる。その後、朝鮮で断髪が再び注目されるのは、1907年に「ハーグ密使事件」により皇帝・高宗が強制退位させられ、純宗が即位に際して断髪した時からである。これにより、臣下に断髪の命令が下り、国家の方針として断髪がすすめられることとなった。官吏には断髪が強制された。愛国啓蒙運動においても断髪は奨励され、新聞や愛国啓蒙団体の機関誌において断髪の必要性が主張された。地方においての断髪は地方官が中心となった。観察使から郡守に断髪の命令が下り、郡守が郡において面長等に断髪を命令する形で断髪が進んだ。地方においては、地方官の命令で強制的に断髪が行われることもあり、春川郡では日本軍守備隊が両班を集め、断髪を強制したという事例もあった。地方において断髪の中心となったのは学校であった。学校では、一斉に断髪が行われることが多かった。しかし、地方においては断髪への反対が多く見られた。郡守や面長の中には断髪を拒否するケースも見られ、また、郡守の民への断髪の命令に対して、民の反対を恐れて面長が命令を拒否するケースもあった。また、地方では断髪が強制されるという風説がしばしば見られ、これも断髪への拒否感をあらわしているといえよう。地方においては学校においても断髪に反対する事例も見られた。学校に通う生徒の他に、生徒の家族が反対しているケースがある。この家族の反対により、学校の存続が危うくなるなど、学校教育に支障が出る場合もあった。一進会員は断髪を義務づけられていたため、義兵は断髪している者を一進会員と見なして攻撃した。義兵の中には断髪することを、日本人となることと同義ととらえる者も存在した。このように地方においての断髪の反対は根強いものがあった。
 また、学校における一斉断髪の意味に注目した。学校における断髪では、運動会や演説の後に行われることが多く、一体感が創出されたり一種の興奮状態の中で断髪が行われていた。朝鮮においては、親から受け取った身体を傷付けることは孝に反する行為とされていたが、身体を傷付ける行為がなかったわけでない。伝統的に「断指」や「刺股」という行為が、おもに親の病気を治したり、団結することを目的として行われていたが、これらの行為はこの時期にもしばしば見られた。つまり、切迫した事態が起こった場合には自らの体を傷付け、「願掛け」や団結をすることがあったのである。学校における断髪が団結の手段として行われていることを考えると、「断指」や「刺股」と関連性があると考えられる。すなわち、朝鮮では、髪を含め身体を「敢えて」傷付けることは禁忌とされており、その禁忌を「敢えて」破る意味を理解していたといえる。それによって身体を通じて何らかの主張をすることができたのである。ここにこのような側面から断髪をとらえることの意義を指摘できよう。だからこそ、断髪を行ったり、髪型を守ることのそれぞれに大きな意味があり、朝鮮においては、身体の持つ政治性が自覚されていたといえる。ここにおいて、地方の学校における断髪では、衛生のため、「文明化」のため、あるいは古い習慣を変えるためや臣下として皇帝の命令に従うためといった断髪を推進しようとする側が持っていた論理とはズレが生じている様子がうかがえる。
 
3.結論
以上から得られた本論文の結論は以下の通りである。まず、中央と地方の関係について述べる。これは主に愛国啓蒙団体の支会をもとに分析したが、ソウルの本会は地方に支会を作り運動を地方へと拡大させようとしていた。これは、中央の主張を地方に広めることを目的としており、直接本会の中心的な人物が地方に赴いて地方支会で演説などを行っていたことなどから確認できる。すなわち「上意下達」的な活動を行おうとしていた。これに対して、地方では、教育や実業振興などの面については、中央で主張されたことに対しての実践の場となった面があったが、その他の活動状況を見ると、地方ごとに大きく差異があり、本会の意図とは異なる活動や本会の主張とは正反対の活動を行う支会もあった。本会ではこのような活動を行う支会に対しては、統制を図ったが成功していたとはいえなかった。地方は地方で独自の活動を行おうとしていたといえる。また、学校の設立についても、学校設立を推進する側が主張した教育振興という目的から離れて蓄財などのために学校を設立していたり、断髪をするにしても、衛生や古い習慣を変えるといった目的でそのまま行うのではなく、身体を傷付けることによって「願掛け」や団結を表現する伝統的な方法として行っていると考えられる場合もあった。
 次に、地方内部の関係について述べる。地方では学校や断髪などの個別のケースをめぐって葛藤や亀裂が生まれていた。まず、学校や断髪に反対した義兵にとっては、学校や断髪は日本によってもたらされたものと認識されていた。また、地方では学校設立や断髪が進められたのも確かであるが、反対する人々も少なくなかった。地方で権力を持っていた郡守や面長・地方委員の中や、地方における実力者であった伝統的知識人である儒林の中でも賛否が分かれた。これは、それぞれが主体的に対処したため生じた亀裂であった。本論文ではこのような地方の内部での学校や断髪をめぐる様々な葛藤や亀裂の実態に可能な限り迫ることができた。これは、それまでには葛藤や亀裂が見られなかった場所に顕在化した対立構造であった。これらが生じた最も大きな原因は、保護国化を一旦受け入れるにせよ、反対するにせよ、突如として地方にまで新たな文物が入ってきたことにより、変化を迫られたことにあった。すなわち急激な変化を迫られた植民地化過程だからこそ、それまでは生じ得なかった大きな対立軸が生まれたということを確認できた。地方を中心に愛国啓蒙運動を分析する意義はまさにここにあるといえる。
 本論文では地方を主体として愛国啓蒙運動を分析したことにより、地方において地方に居住した人々は単に中央の思想を受け入れるだけの存在ではなく、主体的に行動した実態を限定的ではあるが解明することができたといえる。これは、ソウルの知識人中心の分析とその拡大が関心の中心であったこれまでの愛国啓蒙運動研究において、これまでとは異なる地方の愛国啓蒙運動の実態や影響の一端を示せたという点で研究史上に意義があったと考える。

このページの一番上へ