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博士論文要旨

論文題目:変容する黒人コミュニティと住宅をめぐる闘争-20世紀中葉のシカゴの公民権運動-
著者:武井 寛 (TAKEI, Hiroshi)
博士号取得年月日:2013年3月22日

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本論文は、1940年代から1960年代の北部都市シカゴにおいて展開された、より良い住宅環境を求めた黒人たちによる社会運動を、「長い公民権運動」という枠組みを用いて考察するものである。「長い公民権運動」論の射程とは、公民権運動を分析するための時間軸をのばし、人種主義的な規範や秩序が南部社会特有のものではなく北部社会にも存在していたことを明らかにし、対象とする地域をも拡大させるものである。また、本論文は白人労働者階級との住宅環境をめぐる対立に注目し、これまでの公民権運動研究を都市史とあわせて総合することを目指している。これまでの公民権運動研究と都市史は、それぞれ異なる分野として個別に研究が進んできたが、近年の都市史では、公民権運動研究の問題意識を内包しながら考察する研究が登場してきている。こうした研究では南部で公民権運動が展開された時期に、北部や西部でも住宅・公立学校・職場などで暴力的な人種対立が起こり、それらを是正する活動が展開されていたことが指摘されている。しかしながら、現在の公民権運動研究はこのような都市史からの接近に対して、あまり積極的に応答していない。公民権運動研究では、南部以外の北部や西部などの社会運動を検証しようとする機運がようやく高まってきたところである。本論文は都市史からの接近を積極的に受け止めて、公民権運動研究と統合することによって、シカゴにおける重層的な人種関係を検討した。
本論文は人々の日常性を重視し、都市空間のなかでの多様な人々の結びつき方(ソシアビリテ)に着目して、人種・エスニシティ・階級が織りなす結合のかたちを社会史の視点から分析した。住宅をめぐる黒人の闘争に注目する本論文は、黒人史の枠組みだけで検討するのではなく、都市史と公民権運動研究を統合し、ホワイトネス研究の視角を盛り込みながら、シカゴの住宅をめぐる人種対立を「長い公民権運動」という視点から考察した。また、人種騒動を分析する際には、人種騒動が外部の人種差別主義者によって引き起こされたのではなく、老若男女問わずその地域の住民が主体的に関与したというアーノルド・ハーシュの「共同体の暴力」という概念を用いた。このように、本論文は「長い公民権運動」、都市史、ホワイトネス研究などの視点を用いて住宅をめぐる黒人の社会運動を検討することで、1940年代以降の都市政策が黒人コミュニティの形成に与えた影響と、ホワイト・エスニックの黒人に対する暴力のメカニズムを解明し、北部における公民権運動の特徴を論じた。
第一章「20世紀前半の人種概念と住宅の諸相」では、19‐20世紀転換期から1950年代前半までのアメリカにおける人種概念の変化と、法制度における住宅の人種隔離がどのように展開されたのかについて考察した。アメリカ合衆国(以下アメリカと略記)において人種概念は歴史的に常に変化し、再構築されてきたが、19世紀末から20世紀初頭の時期は一つの転換期であった。これまでの研究でも指摘されてきたように、この時期にはそれまでとは質の異なる「新移民」が大量に流入し、南部からの黒人の「大移動」、そしてアメリカの海外膨張が「アメリカ人とは誰か」という国民統合の議論を呼び起こし、それと不可分の関係にある人種概念が問われることとなった。アメリカの自己認識が大きく揺らいだこの時期に、シカゴでは1919年の人種暴動が起きたが、この暴動は当時のアメリカの人種対立をまさに象徴する出来事であった。この暴動では、暴動に積極的に関与するアイルランド系と、それとは距離を置くイタリア系とポーランド系という、ホワイト・エスニックの中でも違いが存在し、それぞれ暴動に対して異なる反応を示していた。ところが、同時期の「ニュー・ニグロ」思想の影響を受けながら、暴動に対して自己防衛的に抵抗する黒人もいたことで、「白人」の間にも黒人への反発が強まっていった。その結果、暴動後にはカラー・ラインが徐々に立ち上がっていき、ホワイト・エスニックは次第にアメリカの人種秩序を内面化していったのである。一方、この暴動後の黒人側の人種意識および他者認識で興味深い点は、黒人もホワイト・エスニックを「白人」として受け入れていったことである。すなわち、黒人の「黒人性」の強調と彼らの「白人」に対する他者認識は表裏一体であった。
20世紀初頭のカラー・ラインの台頭により、社会生活の中で黒人を排除する動きが活発になるなかで、住宅に関する規制も次々と現れていた。19世紀末に登場したゾーニングは、もともと土地の利用方法の制度化を目的として始まったが、黒人を「好ましくない人物」と分類し、次第に黒人を排除するツールとなっていった。ところが、人種隔離を容認するゾーニングは、1917年の「ブキャナン対ウォーリー(Buchanan v. Warley)」判決で禁止され、その後もゾーニング自体は継続されていくが、以前のように用いることが難しくなっていた。こうした中で、1920年代以降、白人居住区への黒人の流入を防ぐ方法は、ゾーニングから私的な契約である制限的不動産約款(restrictive covenant)とネイバフッド向上協会の活用へと変化していくことになる。この二つは、居住区の人種的同一性を保ちたい白人にとって強力な武器となっていた。しかし、この制限的不動産約款も1948年の「シェリー対クレーマー判決(Shelley v. Kraemer)」によって、憲法修正第14条の平等保護の規定に違反するという判断が下った。20世紀前半の住宅に関するこれら一連の裁判闘争では、住宅差別の問題を「重要な権利の問題」と捉えていた全国黒人地位向上協会(以下NAACPと略記)が中心的な役割を担っていた。その後、制限的不動産約款は秘密裏に契約が結ばれるなど、以前とは異なる形で残存し、ただちに無くなることはなかったが、少なくとも法的には撤廃された。このような歴史的過程を経た上で、二次大戦後の住宅をめぐる人種対立は、住民が直接暴力を行使する「共同体の暴力」というかたちで表れるようになったのである。
1940年代中頃以降、シカゴでは白人居住区への黒人の流入に対して、「白人」による暴力的な抵抗が顕著になっていった。第二章「ヴェテラン向け公営住宅をめぐる攻防」では、ヴェテラン(復員軍人)向けの公営住宅で起きた二つの人種騒動を取り上げ、その形成過程や性質を検証した。シカゴ住宅局(以下CHAと略記)の行政長官エリザベス・ウッドのもと、当初より人種統合を目指して始まったシカゴの公営住宅政策は、低所得者層の黒人に大きな希望を与えていた。ところが、実際に人種統合を試みたエアーポート・ホームズとファーンウッド・パーク・ホームズというヴェテラン向け公営住宅では、暴力的な人種騒動が起きてしまった。エアーポート・ホームズでは、黒人の入居に反対する近隣住民による暴力の有効性が証明され、その経験がファーンウッド・パーク・ホームズの白人住民に共有されていた。そしてこれらの人種騒動で示された白人住民の暴力は、黒人の入居に反対する人々の抵抗手段の雛型となっていく。数年後、それを証明するかのごとく、トランブル・パーク・ホームズでは、これまで以上に長期にわたって黒人入居者に対して「共同体の暴力」が振るわれたのである。
第三章「トランブル・パーク・ホームズ騒動と『共同体』の暴力」では、シカゴの公営住宅政策の転機となったトランブル・パーク・ホームズ騒動を取り上げ、同騒動の中で黒人入居に反対する人々の「共同体の暴力」の形成過程を明らかにした。この暴力のメカニズムは、サウスディアリング向上協会(以下SDIAと略記)のようなコミュニティ団体がコミュニティと日常的なつながりの中で情報を共有し、黒人の排除を共通の目的とすることで共同性が生まれるというものであった。定期的に開かれた大衆集会は、単なる情報交換の場だけではなく、声を荒げて叫び、人種差別的言動に拍手喝采を送ることで、コミュニティの問題を近隣住民と身体的に共有する空間であった。また、SDIAが重視したのが『デイリー・カルメット』などのローカル新聞の活用である。SDIAは新聞を戦略的に用いてトランブル・パーク・ホームズの状況を近隣住民に周知させ、コミュニティの危機を扇動した。さらに、トランブル・パーク・ホームズ騒動において重要な情報交換の場となったのが酒場であった。酒場には近隣住民が集い、コミュニティとして黒人を排除するという共通の目的を醸成していた。そして酒場は、騒動を実行する人やそれを傍観する群衆などの様々な人々の集団形成の結節点となっていたのである。酒場は「共同体の暴力」における共同性を創り出す一つの「場」となり、黒人への憎悪を増幅する回路として機能していたと言える。ここで重要な点は、コミュニティの住民もこうしたSDIAの活動に積極的に呼応していたことである。つまり、トランブル・パーク・ホームズ騒動は、決して人種差別主義者だけが暴力を行使したのではなく、住民たちが自ら率先して騒動の主体となり、コミュニティの住民全体の共同性を醸成する形で展開されたのである。
このような暴力的な反応を招きつつも、公営住宅の人種統合方針はCHAの意図しない形で黒人の新たな居住パターンを生み出した。従来の研究では、隣接する白人居住区へと徐々に広がっていくのが、黒人居住区の典型的な拡大のパターンであるとされてきた。そうした居住区の拡大に際しては、白人居住区との境界にある地域で暴力的な衝突が起こったことが強調された。しかし、これとは異なる黒人の居住パターンを生みだしたのが、本論文で注目した公営住宅であった。白人居住区に建設された公営住宅は、もともと黒人が入居することが想定されていない場合が多かったが、CHAの方針で黒人が入居することでそこが起点となり、徐々に黒人コミュニティが形成されていった。つまり、公営住宅は地理的なカラー・ラインを飛び超えることで、これまでとは異なる黒人の居住空間の拡大をもたらしたのである。さらに、黒人が入居したのは公的機関のCHAが運営する公営住宅であったため、近隣住民はこれまで黒人を排除してきた制限的不動産約款を用いることができなかった。だからこそ、近隣住民は暴力的な抵抗を積極的に用いたとも言える。
ところが、人種統合を目指したCHAの方針は、地元に白人有権者を多数抱える市議会議員の激しい反発を招き、CHAと市議会議員の対立は悪化する一方であった。両者の緊張関係を象徴する例が、公営住宅の候補地選択権の問題であった。これまでCHAが責任を負っていた公営住宅の候補地選択の判断は、ファーンウッド・パーク・ホームズ騒動の後から、市議会での承認が必要になった。そのため、CHAが白人住民の多い地域を公営住宅建設の候補地にあげても、黒人の流入を恐れる市議会議員によってことごとく却下されたのである。これ以降、公営住宅建設の候補地選択の主導権は、CHAから市議会へと移ってしまった。さらにCHAの人種統合政策の象徴であるエリザベス・ウッド長官は、1953年のトランブル・パーク・ホームズ騒動後に市長によってその職を解任された。1950年代中頃以降のCHAは、ウッドの解任によって、もはや革新的な行政機関とはほど遠い存在になってしまったのである。
 ウッドが在任中の公営住宅が黒人居住区の拡大をもたらしたとすれば、都市再開発は黒人居住区を限定することで、黒人のコミュニティ形成に絶大な影響を与えていた。第四章「都市再開発の黒人コミュニティへの衝撃」では、二次大戦後の都市再開発がウエスト・サイドの黒人コミュニティの形成過程に与えた影響を明らかにした。サウス・サイドの黒人コミュニティは、都市再開発によって中産階級の黒人を引き寄せることができた。ところが、ウエスト・サイドの黒人コミュニティは、市当局が再開発を用いて居住区を固定化していく中で、強制移転させられた黒人と、南部から移住してきて都市生活にまだ適応できていない南部黒人との混合したコミュニティを形成していた。サウス・サイドとウエスト・サイドの黒人コミュニティはともに都市再開発の影響を受けたが、その影響の質は全く異なるものであった。都市再開発は黒人住民を強制的に移転させ、もともと存在していた黒人コミュニティを破壊的に分断したのである。さらに、都市再開発を推進する過程で登場した高層住宅という新しい建築スタイルがウエスト・サイドで採用され、結果的にウエスト・サイドに黒人貧困層の集中を招いてしまった。1960年代のシカゴの黒人貧困層の象徴として批判される高層の公営住宅の起源は、この都市再開発の中から登場したのである。公権力によって進められた都市再開発は、二次大戦後の黒人コミュニティに、極めて大きな衝撃を与えていたと言えるだろう。
そしてこのサウス・サイドとウエスト・サイドという黒人コミュニティの特徴の違いは、その後の公立学校の人種隔離撤廃運動の展開の違いにも表れていた。第五章「公立学校の人種隔離撤廃運動」では、シカゴにおける公立学校の人種隔離撤廃運動が、ブラウン判決や南部の公民権運動との相互作用の中で展開していたことを明らかにした。運動の係争点は、黒人中産階級の南下によって白人コミュニティに進出し、「白人学校」への黒人生徒の転校の是非が争点化したサウス・サイドと、黒人人口の急増で「黒人学校」の過密化を解消することが最優先の課題となったウエスト・サイドでは、同じ公立学校の人種隔離撤廃運動の問題でも、その方向性が全く異なっていた。つまり、階級的要素が反映された双方の黒人コミュニティの性質の違いが、運動の方向性をも左右していたのである。黒人コミュニティの相違がありつつも、公立学校の人種隔離撤廃運動は連邦政府の介入を呼び込むことに成功し、問題の元凶であるベンジャミン・ウィリス委員長を追い込むことができた。しかし、リチャード・J・デイリー市長の政治力に阻まれ、公立学校の問題を解決するまでには至らなかったのである。
巨大な権力により、戦後長きにわたってシカゴを牛耳っていたデイリー市政に挑戦したのは、シカゴのコミュニティ団体とマーティン・ルーサー・キング・ジュニア率いる南部キリスト教指導者会議(以下SCLCと略記)によるシカゴ自由運動(以下CFMと略記)であった。第六章「シカゴ自由運動再考」では、キングが参加したCFMを北部での重要な公民権運動と位置付けると同時に、シカゴの住宅をめぐるより広義の問題として同運動を捉え直した。多様な問題が蔓延していたシカゴにおいて、CFMは当初目標としていた「スラム撲滅」を達成できず、途中から運動の可視化を重視するSCLC型の戦術に傾倒し、「住宅開放」運動へと目標を変えた。しかし、郊外の白人居住区への人種統合を目指す「住宅開放」運動は、最後まで黒人ゲットーの住民の優先事項にはならなかったのである。一方、コミュニティへの黒人流入に対するホワイト・エスニックの反発は、北部の住宅をめぐる人種差別意識が1960年代中頃においても極めて根強いことを表していた。相手の暴力を露呈させるSCLC型の戦術は、それまでの公民権運動が経験したことのない暴力を呼び起こし、CFMはむしろ人々の人種意識を喚起する結果を招いてしまった。特にCFMの最中に南部で台頭した「ブラック・パワー」は、シカゴの黒人・白人双方の人種意識を強く刺激していた。黒人が「ブラック・パワー」を叫んで「黒人性」を強調することで、むしろ「ホワイト・エスニック」の「白人性」を自明視させる効果をもたらしていたのである。最終的にCFMはデイリー市長を交渉の場へと持ちこむことに成功したが、デイリー市長の政治権力を揺るがすまでには至らなかった。CFMはシカゴの住宅をめぐる長い人種対立の構図を転換することはできず、むしろ暴力的な対立は公民権運動の停滞を浮き彫りにしてしまったのである。
 住宅の人種隔離撤廃を目指したCFMは、はたして住宅に関する公民権法の成立へと連邦議会を動かしたのだろうか。CFMが「住宅開放」運動へと移行する時期に、議会では住宅差別の禁止を強化する項目を盛り込んだ、1966年公民権法が議論されていた。しかし、同法案は下院を通過したが、上院では否決されてしまった。その下院の審議過程でも、CFMについて言及した議員は6人しかおらず、しかも全員がCFMを批判する文脈で指摘したにすぎない。最終的に、1966年公民権法は成立しなかったが、CFMの活動は法案成立に少なからず否定的な影響を与えてしまったのである。その後も議会では、住宅差別を禁止する法案のどこで折り合いをつけるか、民主党と共和党の間で話し合いが続いていた。上院で交渉が続けられている中、イリノイ州知事オット・カーナー(Otto Kerner)を代表にした都市騒擾に関する大統領特別諮問委員会(通称カーナー委員会)が、1960年代後半の都市暴動の原因や今後の予防策に関する報告書を発表した。ところが、カーナー委員会の報告書が発表されてからわずか一カ月後にキングが暗殺され、その後全国各地で暴動が起こり、まさにカーナー委員会の報告書が恐れていた事態が起きてしまったのである。住宅に関しては、皮肉なことにキングの暗殺によって議会での議論の風向きが変わり、一般的には公正住宅法として知られる住宅差別を禁じた1968年公民権法が成立した。ここに、住宅をめぐる黒人の闘争の一つの目標であった住宅差別の禁止が、公民権法として結実したのである。
以上のように、本論文はシカゴにおける住宅をめぐる黒人の社会運動を検討することで、北部の公民権運動の特徴を明らかにした。都市再開発は黒人コミュニティを分断し、二次大戦後に二つの黒人コミュニティが形成されていくが、この二つの黒人コミュニティの特徴の違いは、その後の公民権運動の方向性の違いに色濃く表れていた。このような都市史と公民権運動研究を統合するという方法論的課題の妥当性が、第四章の都市再開発から第五章の公立学校の人種隔離撤廃運動および第六章のシカゴ自由運動再考の中で示された。人種差別的な制度が法律で明文化されていない北部において、公民権運動は黒人などのマイノリティを実質的に排除するゾーニングや制限的不動産約款などの規制を打ち破ることを目指していた。黒人の住宅を求める闘争には、極めて多くの障害が立ちはだかっていたが、本論文で一貫して考察してきたように、こうした障害を一つ一つ乗り越えてきたのも黒人たちであった。黒人たちは住みたい地域に住むことを重要な権利と捉え、たとえ暴力的な白人住民の反発を招いたとしても、その権利を手に入れるべく闘ってきたのである。
本論文では、ホワイト・エスニックと黒人の住宅をめぐる人種騒動の分析を通じて暴力のメカニズムを検証した。そこから得られる一つの結論は次のようなものである。すなわち、暴力を用いるホワイト・エスニックの行動の根底には、自分たちの居住区に黒人が流入してくることによって、これまで築いてきた自分たちの社会的地位が低下するのではないかという「恐怖」が常にあったということである。この社会的地位とは、シカゴにおける人種的な社会秩序における自分たちの地位である。つまり、土地の資産価値の低下、学校の教育レベルの低下、職場環境の悪化など、黒人と同じ居住区で生活することによって生じかねないと彼らが考えていた不利益を、ホワイト・エスニックは恐れていたのである。したがって、住宅をめぐる人種対立とは、社会生活の基盤である住宅を中心にしたコミュニティの生活圏をめぐる相克でもあったと言える。

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