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博士論文要旨

論文題目:自傷行為とトラウマ
著者:菊池 美名子 (KIKUCHI, Minako)
博士号取得年月日:2012年11月30日

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問題の所在
 現代社会において、リストカットなどの自傷行為が注目をあつめるようになった。2000年代には、自傷行為当事者による手記、メディアによるセンセーショナルな報道やルポタージュなどが増え、それまでとは比べものにならない量の情報が流通している。精神科医や心理カウンセラーたちは、近年自傷行為で臨床の場を訪れる人間が増えている、という。それ以外の言説でも、「現代社会の象徴としての自傷」が論じられるようになってきた。社会学における言説もまた、その例外ではない。メディアでとりあげられるようになるのと同時期に自傷行為を「発見」した社会学は、自傷行為を「現代社会に特有の問題」とし、その機序について現代社会の構造的側面からの分析の必要性を訴えるようになった。 
 しかし、自傷行為は本当に現代社会に特有の現象なのだろうか。自傷行為に疫学的調査の蓄積はない。そのような状況のなかで、リストカット、嗜癖、オーバードーズ(過量服薬)などのうち、どのような行為までを自傷行為の定義に含めるのか、そのコンセンサスもなく、本当に自傷行為は増えているのかどうかがほとんど議論されないままに自傷行為は論じられてきた。あるときは精神医学において、「現代に生きる若者の未熟で自己愛的な精神発達の病理」として、あるときは社会学において、現代社会において先鋭化される「再帰的自己自覚的達成課題」からの逃避として、である。だが、「自傷行為は現代に特有の現象である」、「現代社会という時代的背景が自傷行為の原因にある」という前提を疑ってみたとき、これらの論や、その論にもとづく自傷行為の「問題解決」への処方䇳は、どれだけ有効なものなのだろうか。
 本論は、自傷行為をそのような現代社会における流行病のような存在としてではなく、普遍的なものとして捉えたときに何が見えてくるのか、そして自傷行為の問題解決にどんな処方箋が導き出されるのか、ということについて考察することを目的としている。自傷行為の普遍的側面とは何か?本論では、定量的調査結果において自傷行為者の半数以上に確認されつつも、自傷論においてあまり真正面から語られようとしないトラウマ、なかでも性被害経験と自傷行為の関係について論じる。
 トラウマと自傷行為との関係は、欧米においては1980年代以降、日本においては2000年代以降、徐々に認知されるようになった。しかし、精神医学や心理学などにおいても、社会学においても、その存在は特殊なものとして周縁化されてしまいやすい。特に社会学は、社会文化的な背景によって起きる事象の病理化、医療化を警戒するあまり、トラウマ、なかでも虐待など家庭内での経験を個人史的な経験とし、「それをとりあげることは精神医学に与するような病理的なもののとらえかたであり、問題を個人化している」として分析を避けてきた。しかし、トラウマが社会文化的なものでないことなどあり得ない。にもかかわらずトラウマや家庭内で起きる事柄を個人的なこととして留めおこうとするその態度は、逆説的にそれらの社会的につくられた経験を個人化し、現実の人間の痛みや生きづらさとは遠くかけ離れた抽象的な“現代社会批判”へと帰結してしまう。そして、残された具体的な「問題解決」の方途は、社会批判の視座を欠いた、医療などの専門家による一方的な“治療”だけになってしまうのである。
 どのような分析からもこぼれおち、二重三重に個人化され、語られず、見えなくされ、ないことにされてきた経験をかかえた自傷行為者にとって、その行為はどのような意味をもっているのだろうか。そしていったいどうすれば彼らにとって問題解決になりうるのだろうか。こうした切実な問いに対し、本論文は、トラウマ論を中心とした学際的アプローチによる考察を試みる。これまで、家庭内で起きるような個別の体験や生きづらさについて真剣に向き合ってはきたものの、社会的な視座を欠き、病理化や「治療」モデルを超えられない精神医学。そして、社会や文化に対する分析に適してはいても、家庭内などで起きる一見個人的・病理的な経験の社会文化性に斬り込む道具として機能していない社会学。それらと、またその他の学問との接合によって、既存の学問領域を越境しなければ見えてこないもの、越境が不可能である(と思わせられてきた)ことによって隠蔽されてきたつながりを見出すこと、そして、トラウマをもつ自傷行為者の生きた現実の体験を統合的に捉え、書き記し、現実的な問題解決の方途を探るのが本論の目的である。 

論文の構成
<序論 ――自傷行為について論文を書くことの不/可能性について――>
 序論では、自傷行為について語ることの困難と、新たにそれを語る語彙を模索することの必要性について言及する。
 現代社会において、自傷行為は医療関係者や「良識ある大人」にとって理解不可能で困惑をもたらす存在であり、治療や矯正の対象である。そして、学術研究の場においては、「重度の精神病に起因する異常な行動のひとつである」、「自己愛傾向のある人格障害者が周りの人間を巻き込み振り回すためにやっている」、「人格的に未熟な人間が『ささいな』失意体験で衝動的にしてしまうものだ」、などさまざまに解釈されてきた。自傷行為者を、「傷口をみせびらかして、周囲の関心を集めようとする厄介者」として扱う医師はいまだに多い。同情的な見方をしたとしても、「自傷行為者は、自らの感情やその葛藤を言葉で表現する能力の足りない人たちで、その未熟さゆえに行動上の問題を抱える人々だ」、と。
 しかし近年、既存の言葉では表しようのないような矛盾と混乱に満ちた経験ともいえる、性的虐待などのトラウマと自傷行為との関連が指摘され、系統的な研究が本格的になされはじめた。自傷行為者の「自己愛的で未熟な」性格的特徴とは、事例研究から指摘された結果であって、定量的に検討されたものではない。ごく最近の質問紙を用いた定量調査では、自己愛傾向と自傷行為の間に相関関係はなく、抑うつ傾向、解離性、空想への没入性との相関があると指摘されている。これらはどれもトラウマの後遺症として一般的な傾向である。今まで理解が不可能とされてきたことに、別の角度から光があてられたとき、返す刀でこう問いかけられるのは私たちのほうである。つまり、問題なのは、自傷行為者の発話の能力ではなく、学問がそういう体験を包括して語れる理論と言葉を今まで提供できてこなかったことであり、容易に言語化できないようなわけのわからないイメージと身体感覚と意味のかたまりを受け止めるだけの能力が聴き手側にないことであり、そういった人たちを受け入れる居場所のない、この社会の成熟度のほうであると考えられるのである。
 ここでは、この自傷行為という、様々なかたちで語りを拒まれてきたこと、ことばで語れないからこそ自傷をするというその性質から誤解と不可視化を受け入れざるを得ないように仕向けられてきた、意味世界の彼岸にあるような経験を、あえて言語化することの重要性について述べる。
<第1章 自傷論の現在と問題設定>
 第1章では、これまでの自傷論において精神医学的説明と社会学的説明のあいだの断絶があること、しかし「今日的で軽微な自傷行為」を自明のものとしてしまう点ではそれらは似通っていること、そしてそれらのことによって、自傷行為という経験が個人化され、見えないものにされてしまうことの問題性について指摘し、それに対する本論の立ち位置と意義について述べる。
 まず、自傷行為のこれまでの取り上げられ方や発生率などの基本的な調査結果の参照と、操作的な自傷行為の定義(「故意かつ直接的に自己身体を傷つける行為」)を行う。また、自傷行為の定義を試みることによって、実はそれ自体に自傷行為の機序をめぐる議論の政治があらわれていることを示す。
それをうけて、次節では、精神医学における先行研究を紐解きながら、その自傷行為の機序をめぐる議論についてより詳しく整理する。まずは、精神医学における自傷行為の先行研究の流れを参照し、自傷行為は、①統合失調症や気分障害などに付随する精神病型の重篤な自傷行為、②発達障害などにともなう常同的な自傷行為、そして③傷が表層的で中程度の自傷行為という類型化がなされ、また「現代の病理性を反映した」自傷行為者が増えているとされていることを述べる。また、社会学における自傷行為の先行研究も参照する。そして、社会学の自傷論と精神医学の自傷論は別々に発展し、社会学は自傷行為を「後期近代」「脱産業社会」等の時代的局面からとらえ、現代社会論での説明を試みてきたことについて述べる。
しかし、実は「今日的な、若年層に多く、比較的軽微な自傷行為が存在する」という「発見」と類型化が歴史的に何度も繰り返されてきたこと、また社会学は、精神医学的な解釈に批判的でありつつも、その類型や、「自傷行為は現代社会に特有の問題である」という認識を疑わないまま現代社会論で自傷行為や嗜癖を理解しようとしてきたことによって、自傷行為の個人化という精神医学と同じ轍を踏むことになる可能性があることを、次に指摘する。そして、そのような既存の論に対し、定量調査で自傷行為者の半数以上に確認できる、トラウマという背景をとりあげ、自傷行為の機序との関連を考察することの妥当性について論じる。また、自傷行為の要因として「確かにあるけれども、特殊で、極端なケース」として周縁化されてしまいがちなトラウマを真正面から見据え、そこから自傷行為の問題解決の方途を探る必要性について述べる。
<第2章 性的な傷つきと自傷>
 この第2章では、トラウマをもつ自傷行為者の抱える、自傷せざるを得なくするような問題とはいったい何か、どのような性質のものなのか、それに対して自傷行為はどのように機能するのかについて論じる。
はじめに、トラウマのなかでも特に性被害経験と自傷行為の関連について述べ、トラウマと自傷行為の関係を論じるにあたり、性的なトラウマを中心に考察することの妥当性を示す。トラウマと自傷行為の関係に関する既存の研究を参照すれば、質的にも量的にも、性被害経験と自傷行為の深いつながりを指摘する研究は多い。それにもかかわらず、自傷行為と性的な問題の関係を語ろうとすると、その説明は精神分析的な語彙に回収され、男根羨望、去勢、性的興奮、と横滑りしてしまい、性的な傷つきと自傷行為との関係を系統的に論じた理論研究はいまだほとんど存在していない。そしてトラウマの中でも性被害は最も周縁化されやすく、その傾向は特に日本において著しい。このような状況に対し、性被害という視点からの自傷行為の理論研究が必要であり、またそのことが性被害以外のトラウマと自傷行為の関係の理解にも有用であることについて述べる。
 次に、性的トラウマがなぜ自傷行為につながるのかを論じるために、性被害がそのサバイバーにどのような影響を与えるのかについて、トラウマ—アタッチメント問題として理論整理を行う。性的なトラウマは、アタッチメント問題を同時にかかえやすく、それらの問題が複雑に絡まりあった状態は、外傷的絆、すなわち<恐怖>、<瞬時的>、<接近⇨葛藤(警告/麻痺)>、<他人による統御>の絆によって、そのサバイバーに様々なかたちの生きづらさをもたらす。<恐怖>で結びついた絆によるカテゴリーの混乱、自己観や世界観等の断絶と混乱、罪や恥の感覚が自己と分ちがたく貼り付いてしまうという否定的自己認知の問題、<瞬時的>に結びつく絆によってもたらされる衝動性、<接近⇨葛藤(警告/麻痺)>の絆によるトリガーと結びついた警告反応、空無化恐慌、解離などに関連した脳神経系の変化、身体愁訴の問題、<他人による統御>が行き渡る絆による自己コントロールの感覚の喪失などである。
 次に、そうしたトラウマ—アタッチメント問題に対して自傷行為がどのように解決策として機能するのかを描く。自傷行為の機能はさまざまであるが、ここではそれをA.意味の混乱による自傷、B.中枢神経刺激剤としての自傷、C.禊ぎの儀式としての自傷の3つに分類して論じる。また、A.意味の混乱による自傷はさらに<カテゴリーの混乱による自傷>、<再演としての自傷>、<自罰ではなく怒りの表出としての自傷>へ、B. 中枢神経刺激剤としての自傷は<解離のスイッチとしての自傷>、<身体症状への対処としての自傷>への下位分類を行う。
<第3章 サバイバル文化論>
 第3章では、このような自傷行為の問題解決について論じるにあたって、自傷行為者同様のトラウマをもっているのにもかかわらず、自傷行為をせずに生き延びた人々の手記や作品を読み解く。そこからトラウマの後遺症を生き抜く技法について論じ、自傷行為を代替しうる機能をもったサバイバル文化として抽出する。その際に、そうしたサバイバル文化が人ひとりの人生の中でいかに個人史として、そして同時に政治的な歴史としてあらわれ、そしてそれらのサバイバル文化が統合的に作用するのかを描き出すために、かつての社会運動家、田中美津の“抵抗”の旅路を考察し、また、その他の事例も検討し、捕捉する。
 はじめに、自傷行為はトラウマがもたらした生きづらさを抱えながらこの現代社会を「まるで何事もなかったかのように」生き抜き、学業や就労を可能にし、耐えきれないほどの苦痛に対処するための有用なサバイバル文化であることを確認する。しかしその一方でリスクも多く、1.安全性に欠け、長期的にみればサバイバルよりもむしろ死を招き寄せるという矛盾した結末をもたらす可能性が高いこと、2.自傷行為で対症療法的に苦境を凌ぐことで、逆に自傷行為をもたらした原因、すなわち現実の虐待的な人間関係や、トラウマの後遺症の問題(警告反応、慢性的な身体の問題、空無化恐慌など)がすべて忘却され、加害者や社会へ向けるべき怒りが自罰へと回収されてしまい、孤立を促進してしまうという罠が待ち受けていることについて述べる。また、そうした罠を回避する方法の模索の必要性について論じる。
次に、性的虐待サバイバーとしての田中美津というひとりの女性の半生を追い、田中がある困難に直面し、それを解決し、それでもまだ残る困難に直面し、それも解決し・・・という繰り返しの中で編み出されたサバイバル文化を、ここでは、大きく3つに分けて抽出する。社会運動、身体のケア、そしてイメージトレーニングである。この3つのサバイバル文化が、生きづらさを抱えた自らの経験に新しい理解と意味を付与し、自己に向けさせられていた罪や恥のベクトルを怒りとして社会側に向け直し、「人を生き難くさせる不安や怒り」としての身体症状とのつきあい方を学び、性的虐待のサバイバーに分ちがたくはりついてしまった、「とんでもなく×」なものといった自己に対する否定的認知をそぎおとすか、「○に変えてしまう」ような、過去と自己像の書き換えによる生まれ変わりの契機になることについて述べる。
また、田中の実践のほかにも、東欧の女性アーティストであるM. Abramovićのパフォーマンス・アート作品『Lips of Thomas』、日本の少女マンガ、なかでも萩尾望都作品、薬物・アルコール嗜癖をもつ女性をサポートするダルク女性ハウスの身体に対する/身体を通しての試みをサバイバル文化のひとつとして取り上げることで、サバイバル文化の多様性とその複合的な作用の仕方について論じる。
<第4章 自傷者の問題解決について>
 第4章では、自傷行為者の問題解決とは何かという問いに立ち戻り、そのための条件を整理する。また、そのような条件の中で慎重に検討しておくべき事柄について、社会学等によるセラピー文化批判の議論を参照しながら論じ、最後に結論を述べる。
 まず第3章で列挙してきたサバイバル文化を、これまでのトラウマや嗜癖治療の先行文献と照らし合わせながら整理する。そのなかで、トラウマサバイバーの自傷行為の問題解決には、トラウマのもたらす後遺症からの回復と自傷行為の問題に並行して取り組む必要があるということ、また、サバイバル文化をHermanの「回復の3段階」にならって大きく3つの局面に分けて考えたとき、それらは相互に関わりあいながら複合的に作用するのであり、3つのテーマすべてに対して同時に取り組んでいく必要があるということ、そして、そのような問題解決の過程を支えるのは、セルフヘルプ・グループの役割にも似た他者との連帯の存在であることを論じる。
 次に、ここまでの議論でキーワードとして出てきた「セルフヘルプ・グループ」や「自己コントロール/自己統御」という概念を含んだ「心理学的なもの」への批判がセラピー文化批判として多く出ていることにふれる。ここではまず、そうした批判のうちセルフヘルプ・グループに対する誤解を読み解くなかで、いかに性的虐待やそれを要因とする自傷行為が、医療の枠組みからも、そして社会学の理論的な枠組みからも掬い上げられず、見逃されてしまいやすい性質をもっているのかということを指摘する。また、セルフヘルプ・グループがドミナント・ストーリー以外の語りを許さない抑圧的なものになりうるとの指摘に対して、田中美津の「ここにいる女」という概念をとりあげながら答えていく。
 最後に、後期近代の要請する自己コントロールと、J. Hermanの自己統御権という概念は同じものを指しているのか、という問題について論じる。そのなかで、ネオリベラリズムの要請する自己コントロール、特に「自己責任」「自助努力」などの概念に絡めとられずに自己統御を取り戻す必要があること、また、そのためには、支配関係ではなく“約束”の関係にもとづいた他者の存在が必要であることを述べ、そのような他者とともに、自傷行為からの、トラウマからの、「回復」のその後の日常を生き延びていくことに自傷者の問題解決を見出し、本論を閉じる。

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