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博士論文要旨

論文題目:言語的コミュニケーションと労働の弁証法:現代社会と人間の理解のために
著者:尾関 周二 (OZEKI, Shuji)
博士号取得年月日:1999年11月17日

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1 本論文の問題意識と基本的な構想

 本論文は、人間の最も基本的な活動である、<労働>と<言語的コミュニケーション>の各々とそれらの内的連関を現代的視点から解明すると共に、それを踏まえて、現代社会と人間の理解の深化を試みようとするものである。

 現代は人類史の中でも大きな「転換の時代」と称されて久しいが、その徴候は人間の諸活動・諸関係において今日ますます顕著になってきており、自然と人間をめぐる、また人間相互の諸活動・諸関係に関して、それらがそもそも一体人間にとってどういう意味をもっているのかが、各方面で改めて深く問われてきている状況がある。こういった状況の中で、人間諸活動・諸関係への問いを通じて現代社会と人間の問題を考える場合、一方で、人間と自然の基本的関係を媒介するとされる<労働>への問いと、他方で、人間と人間の基本的関係を媒介するとされる<言語的コミュニケーション>への問いは、それらへの通路としてまずもって為されねばならない最も基本的・基礎的な問いであると考えた。というのは、人間の対自然にたいする、また人間相互のさまざまな関係行為において<労働>と<言語的コミュニケーション>はそれぞれこれらの関係行為の人間・社会的な水準と形態を形成した原動力といえるからである。そしてまた、<労働>と<言語的コミュニケーション>という人間活動は、それらが社会構造の構成にかかわる最も基本的な人間活動とみなされうるが故に、それらの理解を現代的に深めることは、現代社会と人間観を同時に基底的に問題にしていくことにつながって行くと思われたからである。

 上述の問題関心とその理解を深める関係でまた、ハーバマスの仕事に着目した。なぜなら、彼は、『イデオロギーとしての技術と科学』においてすでに、マルクスは「社会的実践」という曖昧な概念のもとに<相互行為>(言語的コミュニケーション)を、道具的行為としての<労働>に還元してしまっており、その独自性を認識していないと批判していたが、そのモチィーフの延長とされる彼の主著『コミュニケーション的行為の理論』においては、<労働>から<コミュニケーション的行為>へのパラダイム転換をはかり、それによって、近代以降の「意識哲学からの脱却」をはかるとともに、現代社会の新たな社会理論を構築しようとしたからである。

 私は、こういったハーバマスの大胆な試みを高く評価するものであるが、次の点で基本的な問題点があると考えた。つまり、ともすれば労働を重視するあまり、人間のさまざまな諸活動を理解するにあたって専ら<労働>をモデルにしてきた、マルクス主義の一部に見られた、いわば「労働一元論」とも呼びうる傾向に対して、ハーバマスの批判は正当と考えられるが、しかしまた、ハーバマスのように、<労働>と<言語的コミュニケーション>を切り離し、対置する立場から社会理論を構想する視点にも与することはできないということである。したがって、本論文で、<労働>と<言語的コミュニケーション>に関して、その区別と内的連関を人間起源論、人間本性論、疎外・解放論、認識論等にわたって明らかにしようとすることは、そのままハーバマスの立論の基礎に対する批判的見解を形成することにもなると考えた。この際に、ハーバマスによるマルクス理解の不十分さを指摘すると共に、マルクスの基本概念、例えば、「交通」概念などに関して従来の理解にとらわれず現代的な可能性を追求するならば、マルクスのコミュニケーション論を再構成しうることを主張した。

 また、「弁証法」ということとかかわらせて、先の労働と言語的コミュニケーションの区別と内的連関という私の問題意識を言い表せば、従来、<労働>をモデルにして、<主体-客体の弁証法>が正当にも主張されてきたが、この正当性を認めつつも先の労働一元論的傾向とも関連して、人間のすべての活動をこの弁証法から捉えようとする傾向が支配的であった、しかし、それだけでは不十分で、今日、<言語的コミュニケーション>をモデルにして<主体-主体の弁証法>を展開することが必要であり、<主体-客体関係>と<主体-主体関係>を統合する視点から人間の諸活動・諸関係の理解を深めることの重要性を、認識活動や文学活動、教育活動などの理解を深める試みの中で明示してみようとした。

2 本論文の各章の要旨

(A)第一章「言語的コミュニケーションと労働をめぐる思想の問題」では、「コミュニケーション」について、現代の人間観と関係させながら、基本的・基礎的な考察を問題提起的な仕方で行ない、オースティンなどにもふれつつ、人間の言語的コミュニケーションを<伝達>と<交わり>を両側面とする<相互行為>と規定した。また、人間性の源泉とみなされると共に実践の基本形態とされる<労働>との関わりに触れながら、<言語的コミュニケーション>もまたそれと並んで実践の基本的形態ととらえられるべきではないか、と問題提起し、そのためにまずは両者の行為論上の基本的区別を種々の観点から行った。そしてさらに、人間的本性とのかかわりでは、本論文の原理的な観点として、労働は主体-客体関係における<共同化>を伴う<対象化>活動であり、言語的コミュニケーションは主体-主体関係における<対象化>を伴う<共同化>活動であるとして、両者の区別と内的連関を定式化した。

(B)第二章「労働と言語の起源における意識の生成」では、前章で主張した、労働と言語的コミュニケーションの区別と内的連関に関して、労働と言語の起源の探究を通じてより具体的に解明しようとした。その探究において、動物的コミュニケーションが人間に固有な言語的コミュニケーションヘ転換するにあたって、進化しつつあった労働が大きな役割をはたしたのと同様に、逆に進化しつつあった労働が人間的労働へと完成するためには、言語的コミュニケーションが不可欠であったことを、チャン・デュク・タオやセミョーノフなどの人類起源論の議論を批判的に検討する中で確認した。つまり、労働と言語的コミュニケーションはそれらの進化のなかでの相互作用を通じて互いを補いつつ完成させたが、それは同時にまた人間意識の知情意の諸側面の統合的な生成の過程でもあることをサル学や発達心理学の成果などにも依拠して確認した。

(C)第三章「労働観と言語的コミュニケーション観の深化を求めて――ハーバマス理論の検討とともに――」では、これまで第一章と第二章で筆者なりに探究してきた労働観と言語的コミュニケーション観をまとめつつ、ハーバマスの労働観、言語的コミュニケーション観と対照させて検討するなかで、ハーバマスの労働概念の不十分さの指摘と共に、彼のコミュニケーション概念の豊かな含蓄を筆者なりに批判的に吸収して、言語的コミュニケーション観を一層深めることを試みた。その際また、ハーバマスが労働概念に関して主に近代的労働をモデルにしていることが、彼において労働と言語的コミュニケーションの内的連関への視点が困難になり、両者の対置になっている一つの要因ではないかと指摘し、<労働>のイメージのエコロジー的、コミュニケーション的深化にふれた。

(D)第四章「労働と言語的コミュニケーションの疎外と解放」では、労働の疎外と言語的コミュニケーションの疎外、そして両者の内的な連関を考察した。「労働の疎外」ということについてはこれまでの議論を筆者なりに整理すると共に、主には「言語的コミュニケーションの疎外」を何人かの論者の議論に批判的に言及しつつ多面的に考察した。この作業の中で、マルクスにおいても「言語的コミュニケーションの疎外」を巡る議論が存在することを『ミル評注』や『ドイツ・イデオロギー』をもとに明らかにし、ハーバマスのマルクス理解の不十分さを指摘した。特に、労働の疎外と言語的コミュニケーションの疎外は、転倒した共同的存在である貨幣の存在を媒介にして内的に関連しているという主張は、マルクスの考えを直接発展させる仕方で得ることができることを指摘した。

 また、疎外からの解放を目指す新たな社会変革を構想する場合、マルクスの「アソシエーション」概念に注目すると、<労働の解放>と<コミュニケーションの解放>のそれぞれの追求と相互の内的連関の視点が基礎におかれることになることを指摘した。

(E)第五章「ハーバマスの『生活世界の内的植民地化』テーゼについて」では、前章でのコミュニケーションの疎外と解放の問題をハーバマスの「システムによる生活世界の内的植民地化」の議論を参照にして一層社会論的に深めることを試みた。ハーバマスは近代の進展による「生活世界の植民地化」の背景を考える上で、マルクスの『資本論』の「労働価値論」のもつ社会論的意義を強調する。そして、マルクスは商品の二重性格にかかわる価値論において、システムと生活世界の観点を結合する立場に立っているとして高く評価し、マルクス以降、社会理論は、「社会」をシステムの観点からする研究と生活世界の観点からする研究に分裂していったと指摘する。筆者はこういったハーバマスのマルクス解釈を評価しつつも、なお不十分であると考えたのは、「価値形態論」の社会論的意義にはほとんど言及していない点である。マルクスが『資本論』で、労働価値論と価値形態論が不可分であることを示したということの意味に関して、ハーバマスの表現でいうところの「具体的労働から抽象的労働への転換」ということと、商品交換の全面化のなかで貨幣媒体が物神崇拝的な威力を人間の相互交通において発揮することとを不可分の関係でとらえていたと考えることができるのである。このように考えると、ハーバマスのマルクス評価とは違ってマルクスは労働のあり方と交通のあり方の本質的連関を少なくとも原理的レベルではとらえていたといえるのではないかとした。

(F)第六章「『情報化社会』における言語的コミュニケーションと労働」では、前章で「システムによる生活世界の内的植民地化」を問題にしたが、肥大化したシステム論理の生活世界への浸透と関わって、「コミュニケーションのテクノロジー」の持つ評価が重要であることをハーバマスも指摘しているが、彼自身は具体的に展開していないので、この章では、この問題意識のもとに、前半ではコンピュータが<言語的コミュニケーション>と<労働>をめぐる思想的問題にどうかかわるか、という視点を軸に考察した。また後半では、現代日本において「情報化」の進展とともにどういう人間観(人間機械論と人間狂気論)が登場してきているか、という点を中心に議論することによって、「情報化社会」としての現代社会の特質を明らかにしようと試みた。また、この場合の人間観が言語観として「言語の恣意性」説と深く関わっていることを併せて指摘した。

 さて、これまでの諸章では、労働と言語的コミュニケーションの区別と内的連関を具体的に解明すると共に、その基本視点から人間・社会の疎外・解放の問題を現代的状況を念頭におきながら考察してきた。次章以降は、労働モデルを規定する主体-客体関係とコミュニケーションモデルを規定する主体-主体関係を統合する弁証法的な視点から、これまで専ら主体-客体関係から理解されてきた、主な人間的諸活動、特に精神的・文化的な諸活動の理解の改変を試みた。その前提として、すでに言語起源論を解明する中で、人間の労働とコミュニケーションの地平を形成する上で本質的契機であることが明らかになった<言語>の特性をまずは次章で探究することにした。

(G)第七章「言語の模写性と創造性について」では、前章において議論した情報化社会の人間観がまた、言語観(また文化観)とも密接に関係していることが明らかになったことに言及しつつ、この章において、こういった言語観を乗り越えていくと共に、これまでの諸章の理解を深め、今後の諸章、第八章での科学の概念的認識、第九章での文学活動、第10章での教育活動などをめぐる議論の言語・文化論的な前提のために、言語哲学の基本的な諸問題(記号言語と自然言語、名指しの問題、曖昧性の問題等)を検討した。特にその際、言語の「模写性」(反映性)と「創造性」(構成性)のテーマを中心にその理解を深めるためにカッシーラーとヴィトゲンシュタインの洞察を対照させつつ考察した。そして、このことはまた、「言語の恣意性」説を認識論的観点から克服する試みでもあった。

(H)第八章「〈認識〉へのアプローチ」では、前章において言語の模写性と創造性を主に認識論的観点から問題にしたが、これを踏まえて、概念的認識と言語的コミュニケーションの内的関係を、意味と概念との区別と連関、進化論的認識論などにもふれて考察した。認識論を一層発展させるためには反映論とコミュニケーション論の統合の観点が必要であると筆者は考えたが、これは、先の主体-客体関係と主体-主体関係の認識論レベルでの統合視点に対応するものでもあるのである。また、このことに関係して、一つの重要なポイントとして、この章の終わりにハーバーマスの「真理合意説」の批判的検討をふまえて、「真理の基準」について筆者なりの一つの提案を行った。それは、真理の基準を「実践」としつつも、これまでに労働と言語的コミュニケーションを「実践」の基本形態の二つの種類としたことをふまえて、真理の基準としての「実践」を労働型実践と言語的コミュニケーション型実践の両方を不可分の契機として含む一つの実践過程と考えてはどうかということである。

(I)第九章「〈文学〉へのアプローチ」では、まず、かつてC・P・スノーが提起した「二つの文化」問題以来続く、科学的文化と文学的文化の分裂に象徴される現代文化の分裂は、形を変えて今日も続いており、ハーバマスはこれを技術の進歩と生活世界の関係の問題の一環としていることを指摘した。そして、筆者は、この問題の基礎的前提として、<文学>を<科学>に還元するのでも、また単に両者の異質さを確認するだけでもなく、<科学>と<文学>が区別されながらも内的連関をもっている文化現象であることを明らかにしようとした。そのために、文学言語と科学言語の違い、文学と<自分>、「言葉の力」の問題などにふれつつ、これらを踏まえて、<文学>という人間活動の構造理解に関して、これまで作者(主体)と作品(客体)との関係を中心に理解してきたことの問題性を指摘し、作者と読者のコミュニケーションの視点の重要性を強調した。そして、<文学>を作品創造・享受という仕方で<対象化>と<対象性剥奪>の契機が大きな比重と独自の機能をもっている、特殊な形態の<コミュニケーション>ととらえることができるとし、この文学的コミュニケーションの構造を、作者と読者という、主体と主体の関係を基底としつつ、そこに作者と作品、読者と作品という二重の主体-客体関係が繰り込まれたものであるとした。

(J)第10章「〈教育〉へのアプローチ」では、 教育活動・関係に関して、従来、ともすれば労働モデル或いは主体-客体関係の視点から主に考察が行われてきたのに対して、コミュニケーションモデルや主体-主体関係の視点を導入することによってその理解の一面性の克服を試み、ひいては今日の教育問題を考える基本的視座を探究しようとした。前章との関連でまず、スノーの時代とは逆に科学教育に比して文学教育のもつ現代的意義を指摘すると共に、今日の深刻な教育問題にふれながら近代以降の社会構造の変化との関係で学校教育の問題性を整理した。そして、教師-生徒関係に関して主体-客体関係を基本としてみる見方を批判しつつ、主体-主体関係を基本にみることの重要性を主張すると共に、教育的コミュニケーションの構造を、(生成的な)主体-主体関係と主体-客体関係の統合の特殊な形態として、これまでの第八章の認識活動や前章での文学活動での議論をもとに探った。例えば、先に読者と文学作品という主体-客体関係の基底に、読者と作者の主体-主体関係があることを指摘したが、生徒が学ぶ人類文化の関係の背後には、人類文化の膨大な創造者たちがいることを忘れることはできないとして、知識獲得に関するコミュニケーション論的視点を強調した。したがって、主体-主体関係としての教師-生徒関係は、こういった生徒-文化関係としての主体-客体関係を媒介するものととらえることができ、教師の「指導」ということが問題とされるならば、まさにこの媒介に関する教師の主体性の発揮ということであると考えた。

(K)第11章「〈環境〉へのアプローチ」では、第8章から第10章まで、<科学><文学><教育>に代表される文化的・精神的諸活動の理解について、近代主義的な労働一元論的傾向を払拭して、労働とコミュニケーションの区別と内的連関の視点と論理から見直すことを試みてきたが、最後に現代の環境問題は、人間-自然関係、人間-人間関係の基本にたち返って問題を原理的に提起することによって、近代以降の現代文化・文明、さらには人類文明の根底からの問い直しを迫っている点に着目した。そこで、この章では、現代文化・文明の矛盾に鋭く反応し、オルターナティヴを提起しつつあるエコロジー諸思想の評価を念頭におきつつ、それらが提起する問題を根本から解決するには、労働とコミュニケーションの脱近代的なあり方とこれらを基礎とする社会形成を探ることが重要であるとし、それらの内的連関・相互浸透の視点からそれを試みるとともに、<環境>問題の意味とその抜本的解決の方向を考えてみた。そのことはまた、先にハーバマスの「生活世界」概念を評価しつつもその不十分さにふれたが、ここでは、生活世界の再生産を巡って自然への関わりの視点が十分に考慮されていない問題点を指摘することになった。

(L)補論「『情報化社会』における人間存在」では、第六章での人間観の問題を、今日的な高度情報化の段階、即ちインターネットとバーチャル・リアリティに象徴される次元から一層深めようとするものである。ここでは、まずJ・D・ボルターやJ-W・オングにふれつつ、メディア論の視点からすると、人類史におけるメディアの発展過程の中で今日の電子メディアがもたらしつつあるものは人間存在と社会のありように新たな次元を画する可能性があることを指摘した。そして、それにマルクスによる<個人と共同体>の歴史理論とハーバマスの「コミュニケーション進化」の理論を関連付けて、特に近代的主体と共同体のありようを焦点に考える中で、脱近代のコミュニケーション主体の形成を考えてみた。ただこの場合、拡大した新たなコミュニケーション空間は、人間個人の自己確証の可能性を拡大するとともに、エコロジーの視点を欠くとき、それは人間存在の危機をもたらすものであることを指摘した。グローバル化した電子コミュニティと地域生態系に根ざすエコ・コミュニティの統合の視点が重要であり、それは、労働とコミュニケーションの新たな次元での統合と深く連関するものであるとした。

 本論文における以上の展開から、現代社会における人間を巡る今日的な問題の理解を深め、その解決を探究する上で、労働と言語的コミュニケーションの区別と内的連関の視点、主体-客体関係と主体-主体関係を統合する弁証法的視点が重要であることが不十分ながらも示すことができたと思う。

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