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博士論文要旨

論文題目:戦後日本社会における「沖縄問題」の変遷
著者:小野 百合子 (ONO, Yuriko)
博士号取得年月日:2012年7月31日

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本稿は、戦後日本社会において、「沖縄問題」をめぐる主張や運動がどのように展開されてきたのかを、日米両政府による沖縄交渉が開始される以前の時期を主たる対象として検討したものである。「沖縄問題」をめぐる本土側の動向という主題は、アメリカ政府の対沖縄政策、日本政府の対沖縄政策、沖縄住民の運動とともに、日本戦後史を写し出す鏡である沖縄戦後史を織りなす要因の一つとされてきた。しかし、他の三者が沖縄戦後史研究や日米(沖)関係史研究として研究の蓄積がなされてきたのに対し、「沖縄問題」をめぐる本土側の動向を実証的に明らかにする作業は積み残されてきた。本稿は、この主題に取り組むことで、日本戦後史、とりわけ戦後社会運動史や平和意識の再考を試みたものである。
日本社会において「沖縄問題」が大きな関心を集めたのは、1960年代後半の沖縄の施政権返還に先立つ時期だが、この時期の「沖縄問題」への関心の高まりは、次のような問題を有している。それは、日米両政府の沖縄返還交渉の開始という外在的な要因によって惹起されたものであったこと、そうしたなかで焦点化された在沖米軍基地への関心が、在沖米軍基地の撤去縮小がもたらされなかったにもかかわらず、一過性のものに終わったことである。1960年代後半期の「沖縄問題」への関心は、1960年代半ばまでの日本社会における「沖縄問題」をめぐる動向の上に成立しており、その延長線上に位置づけて再考する必要がある。こうした問題意識から、本稿では、沖縄返還交渉が開始されるまでの時期を主たる検討対象とした。
本稿の主題である、1960年代半ばまでの日本社会における「沖縄問題」をめぐる主張や運動を実証的に明らかにした先行研究は存在しない。これは、従来の沖縄返還運動史および戦後社会運動史が、沖縄現地の動向を中心に叙述されており、「沖縄問題」をめぐる本土側の動向は、沖縄現地の復帰運動への呼応物とみなされてきたためである。加えて、本土側の動きは、1960年代後半の「沖縄返還運動」の高揚を中心としており、それ以前の時期は、「沖縄問題」認識がいまだ不十分であった段階としか位置づけられてこなかったためである。他方で、日本戦後史のナショナルな思考枠組を解体しようとする立場から、戦後日本の革新運動・思想における「沖縄問題」の位置づけを論じた一連の研究は、限定的な素材や言説の分析にとどまっており、本土側の「沖縄問題」をめぐる認識や運動を実証的かつ通時的に解明していく作業は、なお残されている。また、戦後日本社会の「平和」や「繁栄」が、沖縄の分離統治と基地化によって保障されてきたことが明らかにされてきた一方で、日本社会においてこの問題がどのように、またどの程度認識されていたのかという点は、いまだ本格的に論じられていない。
こうした問題意識と先行研究に鑑み、本稿は、次の3つの視角から日本社会における「沖縄問題」をめぐる動向を検討した。一つ目は、単に沖縄返還要求をスローガンに掲げるだけでなく、それを実際の行動にうつした主体を時系列的に追跡し、その性格の推移を明らかにする視角である。これは、1960年代半ばまでの時期には、「沖縄問題」をめぐる運動が低調でありながら、沖縄返還要求は掲げられてきたという状況を問題化し、実際に展開された運動のレベルで、沖縄返還要求が依って立つ地盤を検証するためである。二つ目は、「沖縄問題」に対して示される共感や同情の内実を検討することである。とりわけ、戦後日本社会に定着してきたとされる平和意識と、アメリカの極東軍事政策の要として軍事化されてきた沖縄の返還を要求することとが、どのような関係にあったのかを定点的・通事的に検討するため、『朝日新聞』の沖縄関係社説の論調の変遷を追跡した。三つ目に、「沖縄返還運動」および「沖縄問題」をめぐる認識が、日本政府の対沖縄政策の展開とどのように絡み合ってきたのかを検討する視角である。これは、沖縄返還問題をめぐる論議は日本政府の側から提起され、「沖縄問題」をめぐる動きはそれへの対応としてなされる側面が強いためである。
こうした視角に立ち、まず第1章では、日本青年団協議会(日青協)による「沖縄返還運動」の検討を通じて、1950年代半ばの日本社会における「沖縄問題」の位相を検討した。全国の青年団の網羅組織である日青協による「沖縄返還運動」は、「日本人」として死んでいった沖縄住民の復帰要求に応えるのは「日本人」の「義務」であるという意識を動因とし、人権擁護の観点から展開されたものだった。このことは、1955年1月の朝日報道を契機に「沖縄問題」への関与をはじめた法曹団体にも共通しており、非政治的な運動であることを強調しながら、「沖縄問題」を人権擁護の観点から世論に訴えることは、1950年代半ばの日本社会で「沖縄問題」が取り上げられる際の共通のスタイルであった。そのなかでも、アメリカによる沖縄統治を是認していた法曹団体らとは異なり、日青協は明確に沖縄返還要求を掲げた点に特徴があった。
地域社会において運動が展開されたレベルをみていくと、復帰を求める「同胞」の声に応えようという主張は地域社会からの支持を得たが、軍事基地の問題が前景化されたときには、「左翼的」「アカ」といった否定的な反応を引き起こしていた。また、非政治的な立場から展開された日青協の「沖縄返還運動」においても、沖縄の米軍統治や軍事基地化をどのように考えるのかという問題に直面することになった。「沖縄返還運動」を「人権を守る運動」と位置づけながらも、米軍統治と軍事基地化という沖縄の情勢をめぐる評価の問題が浮上してくる点は、非政治的な志向と沖縄返還要求とを両立させようとした日青協の運動にはらまれたジレンマであった。革新運動団体の動きを中心とする従来の沖縄返還運動史では、1950年代は、「沖縄問題」認識が不十分であった段階として空白となってきたが、日青協の「沖縄返還運動」の様相を明らかにしたことは、そうした見方の再考を迫るものである。
第2章では、1956年夏の沖縄軍用地問題が日本社会に与えた影響を、選挙戦との関連、地域レベルへの影響、世論の内実、平和運動との関係を通じて検討した。まず、地方紙も含めた各紙の社説の論調を検討し、この問題の解決のため日本政府に対米折衝を要求する声が高まったことで、沖縄軍用地問題は選挙戦に影響を与えうる政治課題に押し上げられ、各政党に具体的かつ超党派的な対応を打ち出させたことを明らかにした。また、全国各地で行われた沖縄軍用地問題の解決を求める大会を調査し、地域レベルでは、沖縄出身者の組織の活性化や沖縄出身者の声の可視化がもたらされたこと、沖縄出身者のイニシアチブがない地域においても、民主団体や青年団体らが「沖縄問題」の解決を求める大会を開催するなど、「沖縄問題」が運動課題として認識される端緒となったことを明らかにした。
次に、沖縄軍用地問題に対して巻き起こった広範な世論の内実を、新聞各紙に寄せられた投書を通じて分析し、米軍による土地接収という体験(記憶)の共通性に根差す共感や、沖縄戦の悲劇のイメージを基盤とする同情、戦争によって失われた領土の回復要求などを基盤としていたことを明らかにした。
他方で、1950年代に高揚を迎えていた原水爆禁止運動や憲法擁護運動などの平和運動は、沖縄軍用地問題を契機に、「沖縄問題」に目を向けるようになった。そこでは、土地接収に抵抗する沖縄の運動は、日本社会の運動と「一体のもの」ととらえられ、とりわけ基地反対闘争においては、沖縄軍用地問題を砂川闘争と接続させ、日米軍事同盟に反対する立場から沖縄返還を求める主張が登場したことを論じた。これらの検討を通じて、沖縄軍用地問題をめぐる本土側の動向は、従来、「島ぐるみ闘争」と呼ばれる沖縄現地の運動に呼応したものとされてきたが、そこには、1950年代半ばの日本社会の情勢が反映されていることを明らかにした。
第3章では、1950年代末期の日本社会における「沖縄問題」の位置づけと、その延長戦上にある安保闘争との関連を考察した。まず、沖縄現地で米軍統治に批判的な立場をとる瀬長亀次郎那覇市長が米軍の圧力によって市長の座を追われる事件をめぐって、総評は瀬長那覇市政への財政援助を行うなどの具体策を講じていたことをみた。そのうえで、その後、「沖縄問題」が後景化していく背景として、米軍基地をめぐる日本本土と沖縄の情勢が大きく分岐していったことを挙げた。日本本土の基地闘争が砂川闘争をもって収束に向かうとともに、米軍基地の移転縮小が進んだことで日本社会から基地問題が不可視化されていった。他方で、沖縄への基地のしわよせが進んでいくが、こうした段階における本土の基地反対闘争では、日本本土から移転する米軍部隊の一部が沖縄に移駐すること、沖縄の返還には応じられないというアメリカ側の意向を認識していたにもかかわらず、そのことが問題化されることはなかった。すなわち、沖縄軍用地問題を機に生じた、沖縄と本土の運動を「一体のもの」とみる認識枠組みは、沖縄に基地のしわよせが進む過程を問題化しえなかったのである。
また、1950年代後半から60年代にかけての『朝日新聞』の沖縄関係社説を追っていくと、瀬長市長の当選を、沖縄住民が米軍統治に不満を持っていることの現れとみるなど、1958年半ばころまでは沖縄の情勢を取り上げていたが、その後、「沖縄問題」への関心は低調になっていった。そこで、こうした転換の分岐点に位置する1958年秋の安保条約改定論議を検討し、沖縄がアメリカの東アジア軍事政策の要に位置づけられていることが認識されたことによって、沖縄の存在は、戦争に巻き込まれたくないという意識にとって不都合なものとなったことを明らかにした。安保闘争もまた、戦争に巻き込まれたくないという意識に支えられていたことから、日米軍事体制の再編強化への大規模な抗議運動であった安保闘争において、沖縄の軍事化の問題は切り捨てられることになった。
続けて、これまで安保闘争と「沖縄問題」とが「結合」していたことを示す例としてしばしば言及されてきた、1960年1月に開かれた鹿児島大会と第一回沖縄行進の性格を検討した。まず、鹿児島大会の実施経緯を検討した結果、前年の秋から行われていた沖縄におけるナイキ・ミサイル発射演習に対する抗議行動が、この演習で直接の被害を受ける漁民たちを中心に鹿児島・宮崎の両地で行われており、鹿児島大会もナイキ発射演習反対運動の延長線上に位置づけられていたことを明らかにした。また、第一回沖縄行進は、安保体制の矛盾を体現する沖縄の情勢を訴えることで、安保闘争の盛り上げをはかろうとする平和委員会をはじめとする団体によって計画されたが、「米一握り運動」という沖縄の台風被害に対する救援運動と一体化しながら行われたことで、沖縄住民の窮状に同情を寄せる層の支持をも取り込むことが可能となっていた。このように、鹿児島現地の動きや、沖縄行進に対する支持の内実に着目することで、安保闘争総体において「沖縄問題」が後景化し、沖縄の軍事化と日本の安全保障問題との関係が不問に付された一方で、こうした側面を重視する団体の提唱による取り組みが広汎な支持を得るという事態が生じていたことを明らかにした。
第4章では、「沖縄問題」をめぐる目立った主張や運動が沈静化していた1960年代前半期について、『朝日新聞』の沖縄関係社説の論調、講和条約が発効した4月28日を「沖縄問題」の行動日とする取り組み(沖縄デー)が開始される過程、この取り組みに対する反応という3つの側面から検討した。1960年代前半の『朝日新聞』では、沖縄関係社説はごくわずかとなり、その内容も「沖縄問題」をもっぱら経済問題として扱うものだった。こうした論調は、安保闘争の高揚の後、「沖縄問題」を争点化させることを避け、対沖縄援助の拡大を通じて沖縄の経済的安定をはかろうとした日米両政府の対沖縄政策に沿っており、沖縄施政権返還要求を棚上げにすることで、沖縄の軍事化の実態と沖縄返還要求との齟齬にどのように向き合うのかという論点が、等閑視されたままであった。
また、講和条約発効10周年にあたる1962年4月28日の第一回沖縄デーは、各種懇談会の積み重ねのうえに、さまざまな団体が参加して実行委員会が結成されて実施されたこと、翌63年の沖縄デーは、日米軍事同盟への反対や「日韓会談粉砕」といった「政治的」な課題と「沖縄問題」とを接合させるグループが牽引しつつも、1950年代の日本社会において「政治的」運動ではないことを強調しつつ「沖縄問題」に取り組んでいた日青協や沖縄県人会らと、「政治的」課題と接続させて「沖縄問題」に取り組むグループとの協働体制で実施されていたことを明らかにした。また、東京での中央集会は、両年とも低調に終わったにもかかわらず、1963年の海上交歓会と沖縄行進が大きな支持を得て「成功」したのは、海上交歓会については鹿児島および奄美地域の団体や活動家たちの献身的な協力と地元住民の共感を得られたこと、沖縄行進は沿道の人々の素朴な共感を喚起しうるものであったことを明らかにした。
1960年代前半期の日本社会における「沖縄問題」をめぐる動向は、これまでほとんどわかっていなかったが、日本社会全体としては「沖縄問題」への関心が沈滞していた一方で、沖縄行進には広範な層からの支持が寄せられていたこと、そうした広範な支持は、「沖縄返還運動」が多様な団体の協働体制で実施されたことによって担保されていたことを明らかにした。
第5章では、沖縄返還に向けた日本政府の動きが活発化しはじめた段階における、『朝日新聞』の沖縄関係社説および「沖縄返還運動」の展開を検討した。1964年に二つの海上大会がもたれたことを機に「沖縄返還運動」は二つに分裂したが、この経緯を、平和運動の分裂や社会党と共産党との対立の激化という従来から指摘されていた要因だけでなく、「沖縄返還運動」の担い手の転換として再検討した。すなわち、ベトナム反戦運動と日韓会談問題を背景に「沖縄問題」を重視しはじめた総評らの取り組みが積極化したことによって、従来から沖縄デーの取り組みを重視してきた沖実連(沖実委)に対し、総評らを擁する沖縄連の取り組みが活発化したことを明らかにした。そのことによって、沖縄連内部においても、それまで中核を担ってきた日青協らの団体に対し、総評や社会党の影響力が増すことになった。
他方で、『朝日新聞』の沖縄関係社説では、自民党側から基地機能を分離して施政権のみを返還させようとする分離返還構想が提起されたり、沖縄防衛に日本も参加するという佐藤首相の発言がなされるなど、施政権返還と沖縄基地の機能の維持を両立させようとする保守側の動きに対し、アジアに緊張が存在するかぎりアメリカは沖縄返還には応じないという立場にたつことで、沖縄の軍事化と施政権返還問題との間のジレンマをどのように解消するのかという論点は、なお残されたままであった。
さらに、日本社会全体において「沖縄問題」への関心が高まるなか、「沖縄返還運動」を「国民運動」として展開しようとする新たな動きとして、日青協、全国地域婦人団体連絡協議会(全地婦連)、沖縄県人会の三団体による「沖縄返還実現三団体会議」の結成を取り上げた。同会議は、分裂した「沖縄返還運動」には参加できないと考える広範な層に「沖縄問題」を訴えることを目指していたが、それは、革新勢力による「沖縄返還運動」が当初は得ていたような広範な支持を失い、沖縄返還問題に党派の利害を持ち込んだとみなされるようになったことを反映した動きでもあった。
第6章では、沖縄返還に向けた日米交渉が開始される段階において、それまでの「沖縄問題」をめぐる主張や運動がどのように帰結していくのかを検討した。『朝日新聞』の沖縄関係社説は、アジアに緊張が存在する限りアメリカは沖縄返還には応じないという立場に立つことで、沖縄返還をめぐる具体的議論をしてこなかったが、1967年秋の日米交渉の開始を前にして初めて、沖縄返還に際しては在沖米軍基地を「本土なみ」にするべきであるという主張をはじめた。それは、核基地つきであっても沖縄の早期返還を実現させようとする日本政府の動きに対抗するものであったが、日米安保条約の存在を前提とする本土なみ返還論は、安保条約の期限切れを控え、その存続を目指す日本政府の沖縄返還構想の土俵に当初から乗せられていた。このことは、沖縄返還問題を棚上げにすることで、沖縄の軍事化と日本の安全保障問題との関係性に眼を向けてこなかった、それまでの日本社会における「沖縄問題」認識の帰結であった。
また、革新運動団体の沖縄返還運動は、「国民運動」であるべきものに、党派の利害を持ち込んでおり、「国民的悲願」としての沖縄返還を掲げる主体としては不適切だとみなされた。また、沖縄返還が「国民的悲願」として語られる状況にあって、安保条約の廃棄という実現性の低いスローガンと一体化させて沖縄返還を主張するその論理も、脆弱性をはらむこととなった。さらに、革新運動団体が掲げた「即時無条件全面返還」の主張は、沖縄現地で展開された基地撤去闘争や沖縄全軍労による解雇撤回闘争といった日米安保体制の根幹に迫る闘いに「連帯」しえなかったという意味でも空洞化していた。
1960年代半ばまでの日本社会における「沖縄問題」の位相は、沖縄の軍事化と日本の安全保障問題との関係性という、沖縄返還論議において争点となるはずの問題が等閑視され続けていた一方で、沖縄住民への心理的な共感を基盤とする「沖縄問題」への支持は広範に存在していたという特徴をもっていた。日本政府が日米軍事同盟の再編強化の文脈に沖縄返還問題を位置づけ、これを「国民的悲願」の達成という論理で成し遂げようとしたとき、それに容易に巻き込まれてしまったのは、1960年代半ばまでの日本社会における、こうした「沖縄問題」をめぐる認識の帰結だったのである。
 本稿において、これまで沖縄現地の復帰運動への呼応物としてしかとらえられてこなかった本土側の動向を主題化し、なかでも空白となってきた1960年代半ばまでの「沖縄問題」の位相を実証的に明らかにしたことは、従来の沖縄返還運動史および戦後社会運動史が拠って立つ発展論的な図式の再検討、戦後日本社会に定着してきたとされる平和意識の再考、そして現在の日本社会における「沖縄問題」への関心の低調さを考える糸口としての意義をもつものである。

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