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博士論文要旨

論文題目:アルド・レオポルドの土地倫理 ―知的過程と感情的過程の融合としての自然保護思想―
著者:岩﨑 茜 (IWASAKI, Akane)
博士号取得年月日:2012年3月23日

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1. 本論文の概要

 本論文は、アルド・レオポルド(Aldo Leopold, 1887-1948)の唱えた土地倫理(land ethic)を、①生態学的な部分-全体関係から成る生物共同体としての土地の理解(=知的過程)、さらに、②美的な自然の知覚や直観的な自然との同一化による全体としての土地の認識(=感情的過程)、という2つの側面から成熟する全体論的な自然保護思想として捉える。そして、その成り立ちや構造を明らかにすることで、人間に求められる自然への態度や自然との関係を考察する。さらに、道徳的問題としての自然保護を語った土地倫理が、自然の管理や修復など実際に人間が自然に介入することに対してどのような示唆を持つのか、その実践的側面を評価する。
 土地倫理とは人間と自然との関係を律する倫理であり、レオポルドの言う土地とは、土壌、水、動植物、そして我々人間も含めた生物共同体(biotic community)である。自然の存在にまで倫理を拡大することは、人間同士に限られていた道徳共同体の枠組みを、生物共同体にまで広げることで可能となる。社会的本能を持つ人間は、共感によって仲間を是認し、良心を育むことができる。このように集団で生活する上での動物の社会性に注目して人間-自然関係においても共感や愛情を育み、生態学的な良心(ecological conscience)を導こうというのが土地倫理の思想的基盤であった。
 またレオポルドは、土地に対する倫理的価値判断の基準として、「物事は、生物共同体の全一性、安定性、そして美しさ(integrity, stability, and beauty)を保つ傾向にあるときに正しい」と述べている。彼が全体論の立場から主張したのは、生態学的な自然の「全一性、安定性」という科学的基準と共に、自然が「美しい」と知覚し直観する人間の根源的な感情であった。自然保護の実践がうまくいくためには、人間と自然との関係を頭で理解するだけでなく、自然とのつながり合いを感じ、自然に対する共感や愛情を育むことも大切である。このような「頭(知)」と「心(感情)」を伴う自然保護のアプローチを、土地倫理はその思想に内包しているのである。

2. 各章の要約

 本論文の構成は大きく3つに分けられる。
 前半(第1~2章)では、レオポルドの経歴や経験、思想的影響をたどることで、彼の自然保護思想が最終的に土地倫理として成熟していく過程を明らかにする。
 中盤(第3~5章)は、土地倫理で示される土地の構造と、土地において倫理の働くメカニズムを分析する。そこから、生態学という科学と、自然に対する道徳的配慮や倫理といった人間の心の側面、その両者の融合という視点から道徳的問題としての自然保護思想として土地倫理を論じる。
 後半(第6章)で、土地倫理的な考え方に基づいて自然を管理するという場合に、自然を健康な状態に保つために人間に求められる自然への介入のあり方を考察することで、土地倫理の持つ実践的意義を明らかにする。

(1) 第1章
 第1章では、主に幼少期からアメリカ南西部で過ごした森林官時代(1910~20年代)までのレオポルドの前半生を追いながら、彼が生態系中心の全体論的な思想を育んでいく過程を考察した。
 アメリカ森林局の森林官を務めていた当時のレオポルドは、アメリカが前進し続けるよう支援する森林局の仕事に対する情熱を燃やしていたし、最大利益に資する功利的な森林の管理を行うことを誇りに思っていた。しかしながら彼は、森林管理において木材を産出するという経済的な意味だけではなく、そこに住まう野生生物の保護や、自然の文化的・審美的な価値の保護、レクリエーション的利用など、土地利用の幅広い問題に注意を払うべきだと徐々に考えるようになる。功利主義的な考え方では、人間のために森林の利用を促進し、永続化させようとする。ゆえに、利益を多く得ることが幸福だという考えは、限度を超えた経済成長や大量消費社会を生むとして自然保護においては批判の対象ともなる。人間がこのまま要求を拡大し続けると、アメリカの野生の美しさと調和を保つことができるのだろうか。南西部で過ごす日々の中で彼は、功利主義的教義への不信を募らせるようになる。
 そして、レオポルドが功利主義から生態系中心の自然保護へと決定的に思想的転換を遂げたと言われる経験が、「山の身になって考える(Thinking like a Mountain)」と題されたエッセイに見出せる。狩猟のためのシカを保護するために捕食者のオオカミを根絶やしにしたところ、シカが爆発的に繁殖して生態系を破壊し、シカそのものも大量に餓死する結果になった。彼はこの経験から、人間にとって都合のいい行動が生態系のバランスを崩してしまうことを見抜き、人間が気付くことのなかった生きとし生けるものの協力的で競争的な自然の摂理を「山の身になって考える」という言葉に集約した。これ以後彼は、人間もその一部であるような全体として自然のシステムを理解しようと心を変え、総体としての自然の秩序と人間との適切な関係を考えるようになっていく。

(2) 第2章
 引き続き、レオポルドの後半生(主に1930~40年代)の生涯をたどりながら、土地倫理の思想成熟の過程を考察した。
 森林局を辞し野生生物管理へと専門を移した彼は、同分野の初代教授としてウィスコンシン大学に迎えられる。私的な領域での仕事に携わるようになるうちに、自然保護の実践が公有地を増やしたり公的な制約を設けるなどの大規模な事業だけに委ねられるのでなく、土地と関わる誰もが等しく考えるべき問題であると感じるようになった。当時のアメリカのほとんどの土地が農民の手中にあり、自然保護の成功の大部分は彼らに左右された。これゆえに、個々人の土地利用に対する責任を強調することが、土地倫理を構築する礎石となったのである。
 では、土地所有者や農民が利益の追求のみならず、土地に対して道徳的配慮をもって土地を利用するために、どのような考え方が求められるのだろうか。そのカギは、土地を生物の相互依存の網目から成る全体として見ることができるかどうかにある。経済的な動機に基づく自然保護では、土地という全体のうちの一部だけが経済的に価値を持つものであり、他の構成員には何らの価値もない。しかし、多様な種がそろわなければ全体の安定や健全な機能が維持できないというのであれば、経済的には役に立たなくてもどの種も存続する必要がある。このために、搾取するための商品を生み出すものとしてではなく、自分たちも一員として所属する全体として土地を見るような個々人の自覚が求められた。
 土地に対する倫理の拡大を考えるのと並行して、その倫理則が働く共同体として、自然の存在も含めた土地という考えをレオポルドは深めていく。自分も所属する生物共同体として土地を捉え、その構成員である自然の存在を同じ共同体に属する仲間として共感や愛情を持って接すること。他の人間に配慮するような寛大さが、土地に住まう自然の存在にも向けられた倫理的ふるまいとして現前する必要があると彼は考えて、「生態学的な良心」という独自の言葉でそれを表象したのである。

(3) 第3章
 レオポルドの意味した共同体としての土地の概念と、土地における人間の位置づけおよび求められる人間の役割を分析した。
 土地概念はレオポルドの生態学受容に伴ってイメージが変化し、最終的に生物共同体として土地は描かれている。しかし、彼自身の土地概念は、①有機体モデル、②ピラミッドモデル、という2つの生態学的な土地の認識から完成したものであった。
 有機体モデルは、人間の体のような有機体として土地そのものが生きていると考えるために、土地に健康や病気といった属性を与えることができる。これは、土地が部分の相互依存から成る全体であることを比喩的に示すと同時に、自己再生能力を持つ自己組織的なシステムとして土地を考えることを可能にした。さらに、有機体モデルで認識された目には見えない相互依存性を視覚的に示すために、最新の生態学の受容によって科学的な語彙を与えられながら、彼は後に機能的なピラミッドモデルを取り入れて生態学的な循環のダイナミズムを描くことに成功した。
 生物ピラミッドは、土地が土壌を土台とする階層的な構造であることを人々に理解させ、ピラミッドを流れるエネルギー回路を視覚化することで、土地の内的メカニズムを把握するのに都合がよかった。レオポルドは生物ピラミッドを後に「土地ピラミッド」と呼んで、土地の部分-全体関係を理解しやすく描くために用いていた。最終的に、自然の有機的な組織を構成する各種の要素が相互に依存し合って共生し、そのような共生の場である土地が競争や協同という依存関係から成る複雑な組織であることを、生物共同体という言葉で彼は象徴したのである。
 生物共同体には、当然人間も一生物として含まれている。そして、土地を人間の外側に存在するものとしてではなく、我々自身も所属する共同体であると考えるならば、これまで人間社会に限られていた倫理の働く共同体の枠組みを、自然の存在も含めた生物共同体にまで拡大することにつながる。 それでは、土地倫理において人間は、単なる一生物にとどまるのだろうか。
 レオポルドによれば、人間という種は生物が織りなす網の目の上段に位置する征服者ではなく、生物共同体を永続させる歯車の一員である。しかし、人間が自然の一部であるのと同時に、生物共同体において道徳的判断のできる唯一のメンバーであることは、土地を保護する責任を人間に負わせることになる。これゆえに人間は、①生態学的な法則により、生物として土地の単なるメンバーであるに過ぎない。また同時に、②倫理の側面から、土地の持続や安定に関して道徳的判断をする唯一の生物として特別な存在である。人間は社会的生物として土地全体の健全なあり方を考慮しながら、自身はその中に生物の一員として存在することを自覚し、土地の秩序や調和を乱さないように自制的にふるまうことを求められているのである。

(4) 第4章
 生態学的な立場からと倫理の立場から人間の二重性を考える時、その起源として浮かび上がるのがダーウィンの進化論である。レオポルドはダーウィンに倣って、人間の道徳的感情が社会的本能と共感の対象を拡大することで進化してきたのであり、自然の存在にまで倫理を拡大することが社会進化の産物であり、生態学的に必要なことだと考えた。人は自らも所属する土地において、共同体全体の持続や繁栄を考え、自然の存在たる仲間との協同的行為という形式を発展させる。そして、倫理によって自己制約を働かせることで、土地の秩序を安定させ持続していくことが求められる。共同体の存続にとって何が正しい行為で、何が間違っているのか、全体の状況に対応して判断する中で人間の考え方や行為が決定されるのであり、土地倫理は「生態学的な状態に適うための指針」として働く。
 土地における倫理則が働くための倫理的価値判断の基準となるのは、「物事は、生物共同体の全一性、安定性、そして美しさを保つ傾向にあるときに正しい」という一文であった。「全一性、安定性」は、生物共同体における多様な諸要素の複雑な相互連関に起因し、それによって土地が健康な状態を保っている生態学的な基準である。このような科学的語彙と比べて、レオポルドの意味する「美しさ」は抽象的で捉えがたい。本論文では、これまでの先行研究であまり取り上げられてこなかった土地の「美しさ」にとりわけ注目し、これを生態学的な全体性との関連から考察した。
 レオポルドにとって土地の美しさを認識することは、全体が調和し美しさを保っていることから生み出される全体性を認識することへと導かれた。それは、五感を通して調和的な自然の美しさを知覚することであり、また自然の調和とそれが生み出す美しさを、その本質である「ヌーメノン」を通して直観的に感じとることでもある。美しいものの知覚は、科学的な認識とは別の方向から全体性の認識へと結びついた。また、それが欠けると全体の調和やそこから生まれる美しさが欠けてしまうような本質が、彼にとって「ヌーメノン」であった。自然に対する美的な喜びは興味を起こさせるし、今度はその興味が、生物共同体のなかで相互連関することになる、仲間たる自然の存在に対する人間の愛や尊敬の念を生み出す源泉になる。
 まとめると、生態学的に部分-全体関係を理解すること(=生態学的な全体論)に加えて、美的感性による自然の調和に対する認識(=美的な全体論)、この2つの方向から自然の全体性を捉えることが、共同体として存在する土地というイメージを鮮明にし、そこから生態学的な良心や自然に対する倫理が導かれる。土地倫理の「全一性、安定性、そして美しさ」の原則は、生態学的そして美的な側面から土地を全体として評価する基準として示されており、我々は、この基準に照らして考え方や態度、行為が「よい」のかどうか評価することを求められる。土地倫理は、自然的事実から、態度や思考の変化を経由して行為のあり方について倫理的な価値判断に結びつく、「間接的な」生態学的-美的全体論であると言える。

(5) 第5章
 レオポルドは生涯を通して、もっぱら経済決定主義的な土地利用を制限する原理の探究を行ってきた。自然を保護するということは、自然に対してどのような考え方や態度、価値観で臨むかという人間の側の問題でもある。このとき、自然保護において焦点となるのは、自然や土地を全体として見ることができるかどうか、という問題である。そのような態度は、彼にとって「土地を読む」という態度や行為として奨励されるべきものであった。
 「土地を読む」ということは、単に土地の表面に表れているものを目で見ることではない。自然が協力・競争関係から成る生態学的な共同体であると認識できても、そのようなつながり合いは決して視覚化できない。見ることができないからこそ、自然の中で想像力を働かせて「心の目」でその相互依存性を読みとることが求められる。土地という舞台で繰り広げられる物語に秘められた全体性と、それを支える構成要素間の相互連関を「心の目」で読み、全体としての自然が織りなす物語に引き込まれて感情移入することで、自然に対する深い理解、ならびに尊敬の念や愛情が育まれる。
 自然保護において一貫してレオポルドが強調してきたのは、生態学の知識を通した自然のメカニズムや機能の正しい認識と共に、自然への美的感性や自然との一体化といった感情的な側面であった。土地への倫理的な思考や態度は、①全体として機能している生物共同体としての土地を、生態学的に理解する過程(=知的過程)、さらに、②美的な自然を知覚・直観し、自然とのつながり合いを感じる過程(=感情的過程)という2つの側面から生み出される。土地倫理とは、全体としての土地に対する認識の、①知的過程と、②感情的過程の融合として成熟した自然保護思想であった。

(6) 第6章
 レオポルドは自然の管理という実践的な課題においても、科学と感情との両側面から自然に対する人間の介入のあり方を考えた。そして、生態系の全体としての保護と深く結びついた技術となるよう、道具を用いる人間の土地に対する認識や干渉の方法をうまく導くことを求めていた。
 管理をするときに科学と感情の融合を願ったレオポルドの心は、ことさら土地への愛を高く評価することへとつながった。相互依存の網目から成る土地全体が「全一性、安定性」を保持している要素を、人は科学をもってしても正確に把握しきることはできない。しかし、全体の調和やまとまりが生み出す自然の本源的な「美しさ」を、人は美的感性によって捉えることができる。これが、人間の認識や理解には及ばない絶妙なメカニズムから生み出される、全体としての自然世界が放つ魅力である。人間が自然に介入する場合に、全体が「よい」状態であることが担保されなければならない以上、その判断は科学一辺倒なものではなく、自然の美しさに対する人間の根源的な感情、そこから生み出される土地への愛によっても動機付けられるべきである。彼の意味する管理とは、人間が自然を意のままにコントロールすることではなく、自然を持続的に保護するために、土地への介入のあり方を土地と調和的なものとなるよう、人間の態度やふるまいを管理することであった。
 またレオポルドの管理術は、自然を修復するという際の実践的示唆も含んでいる。自然を管理する場合には、病んだ土地を治療したり、健康な状態を維持しようとするだけではなく、破壊された自然の機能を復元するよう人間が人為的な変化を意図的に加えて修復しなければならないこともある。それは、自然を人間の都合のいいように作り替えることではなく、自然の自律性を尊重しながら全体として健康な状態を取り戻し、その状態を長期的に維持するよう、自然らしさを保つ人為として自然を修復することであった。
 また、我々が修復しようとしているのは自然あるいは生態系だけではなく、人間と自然とが調和して暮らしていけるよう、土地と人間との関係を修復することでもある。土地倫理は、生物共同体の中で相互に依存し合っている仲間が互いに生き、生かされ合う関係であることを我々に示した。これに基づいて、人間も含めてその相互依存関係が欠けたり、壊れてしまった時に、その関係を修復し、土地の全体としての「全一性、安定性、そして美しさ」を取り戻す必要があるだろう。

(7) 終章
 レオポルドの思想は、生態系を中心に長期的な視野で自然との共生や、未来世代との共生を考えようという意味で、持続可能性や世代間倫理など、今日探究されている環境思想の先取りである。
また、彼の思想を継承するためには環境教育において土地倫理に基づいた教育が行われることが必要であるが、これに加えて、現代の我々はまず、土地において人間-人間関係を結び直すことの延長として、人間と自然との共生を考えることを求められている。
 レオポルドの言う人間-自然間に働く倫理と、そこに生まれる生態学的な良心や土地への愛は、もっぱら科学的な観点から行われようとする自然保護において、感情的側面を働かせて自然を守ろうという自発的な気持ちを人々に動機付けるには重要な視点である。自然との共生を考える限り、最終的には自然を仲間としてどれだけ敬い、愛せるかという問題になるだろう。その目標に我々がたどり着くために、まず、人間関係が希薄化した現代において周りの人間との絆を深めるという共同体生活の基本に立ち返ること。そして、人間同士の絆から、自然の存在をも共に住まう仲間として尊敬し愛することへと愛が拡大していくのである。
 レオポルドにとっての自然保護は「土地に生きる方法」であった。土地は人間の生きていく源泉である。我々の生は諸関係の中に組み込まれており、人間であっても自然の存在であっても、常に他者と関係し合って生きていかなければならない。これゆえに自然との共生というのも、我々の暮らしの中で、人間同士と同じように共に生きる仲間として自然の存在をも尊重し、愛を持って接することから始まるのだと言える。

3. レオポルドの主な文献

Leopold, Aldo. Game Management, Madison: The University of Wisconsin Press,1933.
―――. A Sand County Almanac and Sketches Here and There, New York: Oxford University Press, 1949. (新島義昭訳『野生のうたが聞こえる』講談社、1997年。)
―――. Report on a Game Survey of the North Central States, LaVergne: Nabu Press, [1931] 2010.
Flader, Susan L. and J. Baird Callicott eds. The River of the Mother of God and Other Essays by Aldo Leopold, Madison: The University of Wisconsin Press, 1991.
Leopold, Luna B. ed. Round River: From Journals of Aldo Leopold, New York: Oxford University Press, [1953] 1993.
Callicott, J. Baird and Eric T. Freyfogle eds. For the Health of the Land: Previously Unpublished Essays and Other Writings, Washington, DC: Island Press, 1999.

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