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博士論文要旨

論文題目:1867年・1878年パリ万国博覧会における「日本」 ― 初期日仏交流史における「日本」イメージの形成 ―
著者:寺本 敬子 (TERAMOTO, Noriko)
博士号取得年月日:2012年3月23日

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本論文の目的
 本論文は、1867年および1878年のパリ万国博覧会への日本の参加に焦点をあて、フランスと日本の相互作用のなかで、いかなる「日本」像が形成されたのか、その過程と変遷を明らかにすることを目的としている。江戸時代の末期、世界へと門戸を開いた日本は、初めて公式に参加した1867年パリ万国博でいかなる「日本」を提示しようと試みたのだろうか。一方、フランスは日本の展示を通じてどのように「日本」を理解していったのだろうか。1867年パリ万国博の閉幕後、フランスでは「日本」に対する関心が急速に高まり、1870年代に「ジャポニスム」という文化現象に発展していった。これは、いかなる社会的背景にもとづくものだったのだろうか。海外渡航が一般にはまだ非常に限られていた時代に、万国博は、フランスと日本の間に「物」と「人」の交流を大きく促す重大な契機となった。フランスにおけるジャポニスムの興隆を背景とした1867年パリ万国博と1878年パリ万国博の舞台で、日本から出品された「物」、そして万国博に携わった「人」を通して、どのような「日本」像が、フランスと日本の相互作用のなかで形成されていったのか。このような問いに基づき、初期の日仏交流史の一端を示すことが本論文の最終目標である。

本論文の構成および要旨
 本論文は、二部構成をとる。第一部では、1867年パリ万国博への日本の参加を取り上げ、第二部では、その後の1870年代の日仏関係および1878年パリ万国博への参加を論じる。その際、とりわけ本論が留意するのは、「物」と「人」という二つの軸である。
 1867年パリ万国博は、日本が公式に参加した最初の万国博覧会であったが、そこで日本が展示した工芸品や建築物をはじめとする「物」によって、これまで漠然としたイメージしかもたれず、他のアジア諸国との識別もなされていなかった日本は、自らの具体的な文化イメージをフランス社会に示す最初の契機を得ることとなった。これは続く1870年代のフランスに「ジャポニスム」と呼称される文化現象の発展を促す重大な契機として位置づけることができるだろう。しかし一方で、このパリ万国博への日本参加は、外交面においては、「日本」の揺らぎを露呈する結果となった。歴史的に見ると大政奉還を目前とした1867年パリ万国博への日本の参加をめぐっては、日本における主権が自らにあることを世界に表明し、またフランスとの緊密な関係を築き一層の援助を引き出すことを目的とした幕府、これを妨害しようと試みる薩摩藩、さらにこの二者をめぐってフランスとイギリスが様々なかたちでかかわり、複雑な政治関係がパリ万国博を舞台に展開したのである。ここでは、「物」の展示によって「日本」イメージが形成されていくのとは逆に、そのイメージが揺らいでいくようにも思われる。第一部では1867年パリ万国博における「日本」を主題に、第1章では「物」の展示による「日本」イメージの形成に焦点を当て、万国博の会場でどのような品物が展示され、どのような評価を得たのかを分析し、他方、第2章では外交の場としての万国博に注目し、パリで露呈された「日本」イメージの揺らぎを分析する。
 この1867年パリ万国博における日本の参加の主たる特徴は、「外交の場」としての万国博という点にあったと指摘できるだろう。日本における幕府と駐日フランス公使ロッシュ、フランスに渡った幕府使節およびシーボルト、パリですでに独自の準備を進めていた薩摩藩とモンブラン、徳川昭武に付き添いつつ幕府使節の行動をフランス政府に伝えていたヴィレット、シーボルトを介して幕府とフランスの動向の把握につとめたイギリス外務省など、こういった複雑な政治関係がパリ万国博を舞台に展開した。このように1867年パリ万国博において、日本参加の力点は「外交」ないし「政治」に置かれ、「物」の展示はそれに付随したものであったということもできるだろう。しかし、注目すべきは、彼らのそもそもの思惑とは別個に、万国博において日本の工芸品にグランプリが授与されることによって、1867年以降にフランスでは「日本」に対する関心がまったく別のかたちで、すなわち「物」を通じて、主に「文化」の側面で呼び覚まされていくことになったということである。日本の工芸品のなかでも、とりわけ陶磁器に対する関心は、1870年代にフランスの産業芸術振興策と深く関わるかたちで「ジャポニスム」という文化現象を引き起こすまでにいたるのである。
 さて、10年を経て開催された1878年パリ万国博には、明治維新を経た新政府が参加することとなった。新政府は、初めての参加となった1873年ウィーン万国博、それに続く1876年フィラデルフィア万国博と、万博参加の経験を積んでいた。こうした経験を通じて、明治政府は、博覧会が産業奨励策として有効であることを認識し、1877年には第一回目となる内国勧業博覧会を開催している。このように明治以降の日本は「殖産興業」の一環として、「物」の展示を通じて輸出を促進し、先進諸国の先端技術を調査吸収する機会であることを重視しながら、経済上の重要な国家事業として万博参加を推進していったのである。そして、日本はこのとき、まさにヨーロッパにおける「ジャポニスム」の流行と需要の拡大に応えるかたちで、輸出用工芸品を製作し、これを主な出品物として万国博で展示することとなった。こうした中で1878年パリ万国博への日本参加は行われたのである。以上の情勢を踏まえると、1878年パリ万国博は、その前の1867年パリ万国博とは、参加経緯、出品意図、出品物の内容など、様々な点において注目すべき変化を示しているといえるだろう。他方、フランスも、二つのパリ万国博の間に、1870年の普仏戦争に敗北し、その結果、第二帝政から第三共和政へと移行し、政治体制は大きく変化した。こうした日本とフランスの政治および外交関係の変化は、1878年パリ万国博に少なからず変化を与えたと考えられる。以上に挙げた状況のなかで、日本はどのように1878年パリ万国博への参加準備を行い、いかなる「日本」イメージを提示しようとしたのか。逆に、フランスは、どのような「日本」を期待し、あるいは受容したのか。第二部では1878年パリ万国博における「日本」を主題に、まず第3章ではフランスと日本における「日本」イメージの形成に焦点を当て、1867年パリ万国博から次の1878年パリ万国博に至るまでの日仏関係および、1878年パリ万国博への日本の参加経緯を明らかにし、第4章では、1878年パリ万国博における日本の展示に対するフランスにおける評価および「ジャポニスム」を受容したフランス国内の事情に目を向ける。
 万国博覧会という場の検討を通じて本論が全体として意図したのは、いずれかの国に焦点を絞った一方向的な視点ではなく、開催国フランスと参加国日本の両方の視点から、いわば合わせ鏡のようにして「日本」像が形成されていく過程を浮き彫りにしていくことである。万国博覧会は、出品物の展示を通じて参加国が自己イメージを発信する場であったが、発信されたイメージは必ずしも参加国の意図したとおりに、諸外国に伝達、受容されたわけではない。開催国の政府をはじめ、万国博を組織する委員会、批評家、さらに万国博に足を運んだ観衆によって、それらのイメージは様々なかたちで批判と賞賛の対象となり、独自の意味づけを伴いながら解釈されていったのである。このように万国博では、発信者の意図や演出と、受容者の価値観や要求が交差する中で、多様なイメージが形成される場となったのである。そして、このように形成された像は、ふたたび参加国による自己イメージの再構築過程にフィードバックされていくことになる。各章で確認するように、二つのパリ万国博における「日本」像も、まさにフランスと日本の相互作用のなかで、さまざまな期待や思惑のもとに形成されてきたということができるだろう。こうした分析を通じて浮かびあがるのは、「物」の展示を通じたナショナル・アイデンティティおよび文化イメージの形成の場としての万国博覧会である。
 だが、万国博を舞台とする「日本」像の形成において、重要なのは「物」だけではない。とくに初期の日仏交流では「人」が果たした役割はきわめて大きかった。1867年パリ万国博で展開された幕府使節の徳川昭武一行をめぐるフランスとイギリスの対立関係や、1878年パリ万国博への日本参加を主導した前田正名とフランス万国博委員会との間に築かれた信頼関係などは、「人」が果たした役割の大きさを示している。また補論で論じた徳川昭武とフランス軍人ヴィレットの関係において見られるように、万国博を契機とした出会いは、その後も生涯にわたる私的交流へと発展していったのである。
 フランスにおける「日本文化」の受容は、万国博覧会を契機に、様々な関係者の思惑や行動が交差するなかで広がり、「ジャポニスム」という文化現象にまで発展した特別な歴史事象だった。ヨーロッパにおいて、日本文物を商人の交易や個人的な趣味で取り入れるに留まっていた状況が、日本の万博参加を契機に大きく変化したのである。1878年パリ万国博の日本出品をめぐって、フランスの政府、批評家、製造業者、消費者、日本政府がそれぞれ異なる利害、意図、目的に従って行動するなかで「日本文化」の受容は大きく広がった。より具体的には、フランスでは輸出振興策の一環として、芸術性を付与した産業製品の製作が重視され、そのなかで1867年を契機として日本工芸品の「自然」の解釈に基づいた装飾の美しさおよび独自の芸術的特質が着目された。こうしてフランス工芸産業では日本工芸品の研究が積極的に行われたわけだが、日本工芸品を買い求めるフランス消費者の需要は、フランス工芸における日本趣味の一層の広がりを促したばかりではなく、同時に政府や批評家たちが望まない安易な模倣品を生み出す原因ともなった。他方で「殖産興業」を目指す明治政府は、日本工芸品の輸出振興をはかり、フランス消費者の需要に積極的に応えることを目指した。このような日仏双方の様々に異なる動きを通じ、フランスにおいて「日本文化」は積極的に受容されるとともに、新たに「形成」されていったのである。

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