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博士論文要旨

論文題目:アメリカ合衆国建国期の女子教育 —「共和国の母」イデオロギーと「女性の権利」論をめぐって—
著者:鈴木 周太郎 (SUZUKI, Shutaro)
博士号取得年月日:2012年3月23日

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 本論文ではアメリカ合衆国建国期、そのなかでも特に1790年代の女子教育について検討する。アメリカが英国から独立をはたした建国期は、アメリカ社会の内部にも大きな変化をもたらした。特に重要な点は、新たな共和国の構成員を育成するための教育に注目が集まったということである。また、この時代はそれ以前には議論されることすら稀であった女子教育が盛んに論じられ実践され始めた時代でもある。つまり新たな共和国の構成員として女性はどのような役割が担うことが出来るのかという議論もされるようになった。建国期の女子教育を研究することは、国家建設と教育との関係、そしてアメリカにおける女性の社会への関わりについての理解を深めるためにもとても重要であると考える。
 それでは実際にどのような教育が女性に対して授けられるべきと考えられていたのだろうか。そして実際にどのような教育が実践されていたのだろうか。本論文ではこのことを明らかにするために当時出版された女子教育論や教育機関による資料を検討していく。そしてこの時代のあるべき教育についての男女間の差異を確認することによって、新たな共和国の構成員として女性がどのような役割を求められていたのかを明確にしていく。ただしそのような「あるべき女子教育」や「理想の女性像」を、同時代の女性たちが手放しで受け入れていたとは限らない。女子生徒による主張を見ると、彼女たちの教育の捉え方が教育者側の意図したそれとはかけ離れているように見えるものもある。本論文では教育論の女性自身による受容についても検討していく。
 本論文で特に詳しく行いたいのは、建国期の女性史研究において重要な概念となっている「共和国の母 (republican motherhood)」イデオロギーの妥当性を再検討することである。「共和国の母」イデオロギーによると、建国期以降、女性は自分の子供を育てるだけでなく、国家を支える構成員を育てるという公の使命を帯びたのであり、有徳の、信仰心篤い、教育のある、また機会均等の中で経済競争にも打ち勝っていく市民を育てるとされた。建国期の女子教育について考えるうえで「共和国の母」イデオロギーが重要なのは、それが女性自身に「教育者」という側面を与えていたということである。子どもたちにとって最初の教育者である「母」こそが女性にとって最も重要な社会的役割とされていたのであり、その教育者としての正しい資質を身に付けることが、女子教育の大きな意味と考えられていた。つまり女性はその子供を「共和国の市民」として育てることによって、国家建設というプロジェクトに関わることができ、そのために母となるべき女性の教育も急務となったのだ。ただし「共和国の母」イデオロギーは建国期に女性が公的な事柄に関与し始めたことだけを強調したのではない。それが皮肉にもそれ以降の女性たちを公的領域において制限された存在に固定したことを指摘した事実も重要である。女性の政治への参加は政治への直接的参加の否定によって可能にされたことになる。
 女性の母としての役割を強調し、善き母を育てるために女子教育が注目されたとする「共和国の母」イデオロギーは今日の研究にも多大な影響力を持ち続けながら、批判も加えられるようになってきた。例えば、男性と女性という隔てられた領域を想定することへの批判、女性の役割を「母」に限定することに対する批判、女性自身の知に対する自発的な渇望を軽視しているという批判などである。こうした批判を受けて、建国期の女性像をどのように捉えなおすのかが、建国期女性史研究の大きな課題である。特に近年、女性と家庭との結びつきを否定するような「女性の権利」論が1790年代に幅広く議論されるようになったことを強調する立場にたって、「共和国の母」イデオロギーを批判する研究が現れてきた。しかし近年の「共和国の母」と「女性の権利」が分断されて議論されている研究状況で、建国期の女子教育について正確に理解することができるだろうか。ベンジャミン・ラッシュの女子教育論、ヤング・レディズ・アカデミー・オブ・フィラデルフィアの演説集、メアリ・ウルストンクラフトの権利論、ならびにスザンナ・ローソンの劇には、「家庭における母や妻」と「新しい時代に新しい権利を求める女性」の両方が同居している。にもかかわらず、従来の研究ではいずれかの側面のみを抽出し、限定的な建国期の女性像を描き出しているように思える。近年の「女性の権利」にまつわる研究と、「共和国の母」イデオロギーとの整合性について考えることは重要である。
 そのうえで、本論文は「共和国の母」と「女性の権利」が同居していた1790年代という時代の特徴を明らかにする。新たな共和国の構成員を育成するために建国期に教育が注目されたのは前述の通りである。しかしそのなかでも女子教育に関しての議論は1790年代に「女性の権利」論と結びついて盛んに議論されるようになった。教育を受ける権利を中心とした「女性の権利」論がこの時代に一時的に盛り上がった要因を明らかにすることも、本論文の目的の一つである。ヨーロッパとアメリカの政治情勢の変化やアメリカ国内での党派対立がこの時代の女子教育論と関係していたことを明らかにすることによって、建国期の女子教育論の意味がより明らかになると考える。
 このような問題関心から、本論文では「共和国の母」イデオロギーを再考したうえで、建国期の女子教育がもつ多面的側面を検討する。従来の「共和国の母」論が出版物のなかの女子教育論の内容を分析することに終始し、実際にその時代に学校においてどのような教育がなされていたのか、そしてこうした教育が具体的に女性たちにどのような影響を与えたのかという点の検討が不十分であった。教育者や文筆家によって書かれた教育論と、実際に教育の現場で実践されたものとを比較することによって、「共和国の母」イデオロギーと「女性の権利」論との関係性について考えていく。それに加えて、本論文ではヨーロッパの教育論や権利論がアメリカの女子教育論に与えた影響についても検討する。
 以下は各章の概要である。

第1章 建国期の公教育論争のなかの女子教育
 アメリカの独立以降に盛り上がった公教育論争の内容を考察しつつ、そのなかで女子教育がどのように言及されたのかを検討する。新たな共和国建設が重要な課題となった独立以後のアメリカにおいて、教育は最も盛んに論じられる事柄のひとつであった。トマス・ジェファソンらは教育に関する論考を記しているが、彼らの議論の共通点として一部のエリートだけでなく多くの人々が教育を受けられる環境を整える必要性と、それらの人々を共和国の「善き市民」として育てる重要な役割を教育に担わせるという考え方があった。共和国建設と教育は密接に結びつけて考えられていたのである。
 特に合衆国憲法制定後、公教育(連邦あるいは州がつくった、生徒に学費を負担させない機関による教育)についての論争が激しく繰り広げられた。この時代には教育の重要性については誰もが認識していたが、そのために公的な資金を投入することに関しては激しい抵抗があったのである。そういった人々を説得するための公教育推進論のなかでも、本論文は教育の「有用性」を強調する議論に注目する。公教育論争のなかでは、女性が生徒として想定されることはほとんどなかった。公的な資金を使って無料の学校をつくるという考え方を人々に納得させなければいけない推進者からすれば、女性を公教育のなかに組み込むことは抵抗を示す人々が多く、この時点では現実的ではなかった。

第2章 建国期における女子教育推進論
 公教育論争に少し遅れて議論されるようになった、女子教育の必要性を説く主張について検討する。まず女子教育が議論されるようになった背景について概観する。アメリカの女性は独立戦争とそれに先立つ反英運動への貢献を通して、それまでにはない形で公的な存在としての意味を与えられた。建国期以降、新たな公的領域の一員になりつつあった女性をどのように位置づけるのかという問題が、女子教育推進論が盛んに論じられた背景にある。ジュディス・サージェント・マレイの女子教育論を見ると、現状で女性が男性よりも劣った存在であるとするならば、それは女性に対する教育の欠如によるものであり、男女は知性の面では対等だと考えていたことがわかる。彼女は「独立」や「自立」を強調し、結婚市場のための従来の教育を批判した。
 建国期には女子教育の必要性説くパンフレット、コンダクト・ブック、コンダクト・ノベル、あるいは女性向けの雑誌が数多く出版された。ジョン・バートンのコンダクト・ブック『女性の教育と作法についての講義』を見ると、女子教育における「有用」な教育とは、娘・妻・母として家庭のなかで男性の経済活動を支えるために役に立つ教育を意味していた。しかし「家庭」という私的空間内での活動のための教育であっても、その教育は共和国の維持・発展と結びつけられて語られた。そして娘・妻・母としての役割がいかに社会に大きな影響をあたえるものであるのかが強調された。

第3章 フィラデルフィアのヤング・レディズ・アカデミー
 建国期に女子教育が実践された場として1787年に設立されたヤング・レディズ・アカデミー・オブ・フィラデルフィアについて、そのカリキュラム、教科書、シラバスそして女子生徒たちの演説集を用いて議論する。
 ヤング・レディズ・アカデミーの教育者は女子生徒と家庭との繋がりを強調することによって、女子教育を正当化しようとしていた。母と妻の役割が両方とも強調され、「家庭をつかさどる存在」としての女性をどのようにしてつくりあげるのかが女子教育の大きな使命であった。また、ヤング・レディズ・アカデミーでは女子教育の意義が「有用性」によって語られることが多かった。女性を学校に通わせることによって家庭が被るさしあたっての損失に目をつむらせ、長期的な視点で得ることができる利益に目を向けさせるこうした論理は同校でなされた多くの女子教育論において共通して見受けられた。そして「有用性」は女子教育を推進させるためのレトリックとしてだけではなく、実際に教育の現場で実践されてもいた。
 ヤング・レディズ・アカデミーの生徒の演説などを見ると、家庭との繋がりを強調する教育者側と大きな隔たりがある。卒業後は家を出て学校で得た「知」を活用したいという学生側の表明からは、善き母・妻を育成するための教育という当時の女子教育観が必ずしも女性たちには共有されていなかったことが明らかになる。それと同時に、女子生徒たちがどのような教育を受けることを望み、社会のなかでどのような役割を果たすことを希望していたのかを検討する。ヤング・レディズ・アカデミーの教育者たちは特に女性の家庭における役割を重視していた。しかしこの学校の生徒たちはそのような教育者側の意図に沿ったかたちで教育を受けていたとは限らない。実際にヤング・レディズ・アカデミーの演説集に教育者たちの演説とともに収められている卒業生総代演説を読むと、彼女たちの知の捉え方が、教育者の意図したそれとは大きくかけ離れていることがわかる。彼女たちは演説において、「善き母」としての資質の大事さや、「善き妻」になるための決意を述べているわけではない。その代わりに彼女たちは学ぶことを喜び、女性が知を用いることを極度に制限される社会を嘆いているのである。

第4章 女性の権利の擁護—建国期アメリカにおけるメアリ・ウルストンクラフト受容
 建国期の女子教育に英国の思想家メアリ・ウルストンクラフトが多大な影響を与えたことを議論する。特に彼女の『女性の権利の擁護』のアメリカにおける受容について、フィラデルフィアの雑誌『レディズ・マガジン』載せられた抜粋を用いて詳しく検討する。抜粋を読むと、女性も男性と同様に知性や理性や美徳を持つことができるのであり、だから女子教育が重要なのだという彼女の主張が随所に見てとれる。そしてウルストンクラフトは優雅に着飾った男性の所有物のような女性像を否定し、隷属状態から抜け出して自由な状態になるよう女性に促していることが読みとれる。そして抜粋のなかでは、女性にとっての結婚と子育ての意味が強調され、男女間の差異が随所に指摘されている。だが一方で、男女の美徳に違いは無いという男女の同質性についての議論、親子の絆を否定するかのような議論、あるいは国による無償の公教育の必要性を説いたウルストンクラフトの思想の重要な要素を構成する章や節は意図的に省かれている。このようにして『レディズ・マガジン』の編集者によって組み替えられたウルストンクラフトの「女性の権利」論は、国家の有用な構成員として女性にも教育を授けるべきではあるが、男女の非対称的な関係は維持されなければならないという考え方に整理されることになった。
 彼女の「女性の権利」論が1790年代のアメリカにおいて受け入れられたのは、いくつもの要素が複雑に絡み合ったからこそであった。特にこの時代はフランス革命への共感から、多くのアメリカ人が親フランス派の著述家を熱狂的に支持した時代であり、アメリカにおけるウルストンクラフト受容はこういった対外政策と世論との関係を考慮に入れなければ理解できない。

第5章 卓越したアメリカの女性—対英関係と女子教育論
 スザンナ・ローソンの劇『アルジェの奴隷』について、それが初演された1790年代のフィラデルフィアという歴史的な文脈を考えつつ、当時の女性論、教育論、そして国際情勢などと関連づけながら検討する。特に劇中でローソンが強調した「女性の卓越性」とはどのようなものであったのかについて論じ、そこで描かれた「子どもを市民として育てる教育者」という女性像が独立戦争を経たフィラデルフィアの人々によって容易に共有されうるものであったことを論じる。劇中で描かれる女性像は、歴史家のいう「共和国の母」に近いものであった。女性が男性よりも卓越しているのはクリスチャニティと密接に結びついた敬虔さ、純粋さ、無私、自己犠牲といった徳性であり、その卓越性を維持するためにも女性は男性から独立し自由である必要があった。
 『アルジェの奴隷』やその他のローソン作品、そしてウルストンクラフトの『女性の権利の擁護』を出版した人々と、それらの作品を攻撃する人々を検討すると、フェデラリストとリパブリカンという1790年代の党派政治が反映されていることがわかる。フランス革命が起こり英仏が交戦状態になると、英仏どちらを支持するかでアメリカ社会が二つに分かれた。英国との貿易による関税収入を重視するフェデラリストは親英の立場をとり、リパブリカンは英国の対米政策を不満に思い共和制となったフランスに同情的であった。英国の後ろ盾のもとアメリカの自由を脅かしていたアルジェ人を懲らしめる『アルジェの奴隷』や英国人でありながらフランス革命の支持者として知られていたウルストンクラフトの『女性の権利の擁護』はアメリカで幅広く受け入れられていた。そこで、新聞やパンフレットに載せられたウィリアム・コベット、マシュー・ケアリー、ジョン・スワンウィックなどによるウルストンクラフトやローソンへの反応を用いて対英感情と女子教育との繋がりを議論していく。

 このように見ていくと、建国期アメリカで一見相反するもののように見える「共和国の母」イデオロギーと「女性の権利」論は、実は併存することが可能なものであったことがわかる。女性独自の美徳を発揮するためには彼女らには教育を受ける権利が必要であったのだし、権利を獲得して自立することは女性の卓越性を家庭で発揮することに繋がった。教育の現場で教師と生徒の立場から両者に緊張が走ったり、党派対立の中で「共和国の母」イデオロギーと「女性の権利」論が攻撃しあうことはあったが、本来両者は共存可能なものだったのだ。終章ではこれまでの考察をまとめつつ、本論文が明らかにしたものの意義を再確認する。それに加えて、「女性の権利」論が後退した1790年代末以降の女子教育についてもふれていく。

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