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博士論文要旨

論文題目:18世紀前半期(1720~1750年)のオート=ノルマンディー地方のマレショーセ ――フランス絶対王政の統治システムにおけるマレショーセ改革(1720年)の意義――
著者:正本 忍 (MASAMOTO, Shinobu)
博士号取得年月日:2011年7月13日

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1 問題設定
 本論文は、フランス絶対王政における臣民統治のあり方を再検討する上での緒論として、18世紀前半(1720~1750年)のオート=ノルマンディー (Haute-Normandie) 地方のマレショーセ (marechaussee) を取り上げ、その組織編制及び成員の実像を明らかにするとともに、1720年に実施されたマレショーセ改革がフランス絶対王政の統治システムの整備においてどのような意義を持っていたのかを検討するものである。
 フランス絶対王政期の統治構造を考える際、国王権力のより直截的な支配装置たる治安機構へのアプローチは必要不可欠である。当該時期、王国の治安維持を担った組織は主として2つ、治安総代理官 (lieutenant general de police) とマレショーセである。絶対王政の制度的な整備が大いに進展したルイ14世親政期、王権は首都の治安機構の改革に着手し、1667年、治安総代理官を創設して、この職に治安に関する権限を集中させた。初代及び第2代の治安総代理官の努力もあって首都の治安は飛躍的に改善され、18世紀のパリの治安は同時期のヨーロッパ諸都市と比べて非常に良く維持されていたといわれる。
勿論、王権にとって、臣民統治を王国全体により強力かつ効果的に浸透させるためには、有効な警察力をパリだけではなく全国諸都市に、そして都市だけではなく都市外に、あるいは首都だけではなく地方全体に、展開する必要があった。かくして、国王は1699年、首都における成功を王国各地に拡げるべく、治安総代理官職を全国の主要都市に設置する。しかし、パリでは治安総代理官への治安権限の集中が実現されたものの、諸都市においては治安権限を保持していた諸権力の抵抗が大きく、地方の治安総代理官は十分には機能しなかったとされている。それでは、当該時期のもう一つの主要な警察、マレショーセはの働きはどうであっただろうか。
主として都市部の治安を担当した治安総代理官に対して、マレショーセはフランス元帥 (marechal de France) の代官であるプレヴォ・デ・マレショ (prevot des marechaux) を長とし、その指揮下にある騎兵たちが主に田園地帯、国王道路(≒幹線道路)上の治安維持を担う警察(騎馬警察隊)及び国王軍の一騎兵部隊である。同時に、マレショーセは、プレヴォ、その副官、及びプレヴォ裁判役人が乞食・浮浪者、押し込み強盗、国王道路上での窃盗、騒擾などプレヴォ専決事件 (cas prevotaux) を最終審として裁いた国王の特別裁判所(プレヴォ裁判所)でもあった。
 16世紀から17世紀にかけて、マレショーセはその管轄・権限を少しずつ拡大させ、王国各地に徐々にその数を増やしていく。国王の特別裁判所であるマレショーセの役割の増大は必然的に国王の通常裁判所との間に裁判管轄争いを引き起こすが、王権は1670年の「刑事王令 (Ordonnance criminelle)」でプレヴォ専決事件やプレヴォ裁判手続を明確に規定することによって対処する。しかし、何より問題だったのはマレショーセ自体が十分に機能しなかったことで、その主要な原因として指摘されていたのが組織の不統一であった。
 そもそもマレショーセは王国全体に一斉に設けられたわけではなく、地方や都市の状況に応じてそれぞれ個別に中隊単位で設けられた。そのため、各地のマレショーセの構成は様々で、統一されたものではなかった。このような状態を改善すべく、摂政期 (Regence) の陸軍卿 (secretaire d'Etat a la guerre) ル・ブラン (Claude Le Blanc)(在職:1718~1723年、1726~1728年)が抜本的改革に乗り出すことになる。1720年、ル・ブランは従来のマレショーセ(本論文では旧マレショーセと呼ぶ)を廃止し、新組織を創設し直すという大胆な政策を実施した。
この改革は主に以下の点から評価できる。すなわち、①組織編制の統一(マレショーセ管区ごとに1中隊、1指揮官の設置)、②管轄区の統一(マレショーセ管区=総徴税管区 (generalite))、③指揮命令系統の統一(陸軍卿―地方長官―プレヴォ)、④親任官職 (commission) システムのプレヴォ裁判役人及び隊員への導入、⑤班の形による隊員の稠密な配置、の5点である。1720年の改革によって、マレショーセは、王国全体に組織網を持つ、統一された組織・指揮命令系統を備えた裁判所・警察・軍隊として整備された。

 ところで、マレショーセに関する研究は、この組織が国王の特別裁判所であり、警察であり、かつ軍隊であるため、裁判、警察、地方統治、官僚制などの角度からフランス絶対王政の統治構造を照射することができる。すなわち、第一に、裁判所としてのマレショーセの研究は、絶対王政期の裁判制度の解明や治安あるいは行政が司法から分離・独立する過程の解明に資する。第二に、警察としてのマレショーセへのアプローチは、マレショーセが取り締まった人々及び彼らの社会や生活へと視界を拡大し、社団的編成に基づく絶対王政の統治のあり方とその伸張の一例を明らかにする。第三に、主として地方、そして都市外の治安維持を担当したマレショーセの研究は、地方長官を介した王権の地方統治の一側面を明らかにする。同時に、絶対王政による臣民統治のあり方、あるいは民衆による国王権力の受容のあり方に光を当てられる。最後に、マレショーセに親任官制が導入された意義に関する検討は、売官制に基づく官僚制を相対化し、その研究に新たな視点を与え得る。また、王権中枢部の高級官僚の研究、司法による統治から行政による統治への転換の検証にも貢献できるだろう。
 このようにマレショーセ研究は広い射程を持つにもかかわらず、その研究史は必ずしも厚くはない。本格的な研究が始まるのはようやく1910年代以降のことで、1950年代までのマレショーセ研究は、その他の多くの国制史の領域と同様、基本的に法制史的、制度史的アプローチとして行われていた(G. Guichard, L. Larrieu, etc.)。
 マレショーセを巡る研究状況が変化を見せ始めるのは1960年代以降である。折からの「社会史」的な問題関心の拡がりとともに、マレショーセ研究の視野も参照される史料も拡がっていく。これには主に以下の4つの研究動向が作用していると考えられる。第一に、A. Corvisier によって端緒が開かれた「軍隊の社会史」あるいは「軍隊と社会」研究の流れである(C C. Sturgill, I. A. Cameron, D. Martin, E. Hestault)。第二に、マージナルな世界への関心の高まりである(マレショーセの主要な摘発対象が乞食、浮浪者、脱走兵などであったことを想起せよ)(P. Crepillon, J.-P. Gutton, etc.)。第三に、第二の研究動向とも密接に関係するが、クリミナリテ (criminalite) 研究の流れである(J. R. Ruff, Cameron, J. Lorgnier, etc.)。第四に、1990年代半ば以降に展開した、「中級」役人 (officiers ≪ moyens ≫) 研究の流れがある(N. Dyonet, etc.)。最後に、A. Follain を中心とする、農村の紛争解決に関する最近の研究動向も、マレショーセを射程に入れ得ることを付け加えよう。
 以上のように、1960年代以降、マレショーセ研究はそれまでに蓄積された法制史的、制度史的知識をベースにして社会史的なアプローチを取り込んだものになっている。特に、ここ30年ほどのマレショーセ研究は、王権の統治システムの中でのマレショーセの位置付けを模索すると同時に、その成員も生きた当時の社会の中にマレショーセを置きつつその存在意義を探ろうとしている。本研究もこれらの先行研究に連なるものとして構想されている。
 本論文の第一の目的は、マレショーセに関する研究史、研究の射程、史料状況を踏まえた上で、セーヌ=マリティーム県古文書館 (Archives departementales de la Seine-Maritime)、国防省歴史課古文書館 (Service historique de la Defence)、国立古文書館 (Archives nationales) などに所蔵されている手稿史料に基づいて、フランス本国においても未だ研究されていないオート=ノルマンディー地方の新生マレショーセの組織編制及び成員の実像を、18世紀前半(1720~1750年)に時期を絞って明らかにすることである。換言すれば、1720年のマレショーセ改革が当該地方でどのように実施され、いかなる成果をあげたのかを詳らかにすることである。この作業を通じて、フランス絶対王政の統治システムにおけるマレショーセ改革の意義を検討することを、本論文の第二の目的とする。
 本論文は2部、全7章で構成される。第1部(第1~3章)ではマレショーセの組織、編制を、第2部(第4~7章)ではその成員を論じた。また、参考資料として、マレショーセ改革を規定する主要な王令類の翻訳・解説と18世紀前半の新マレショーセの隊員名簿を添付した。

2 研究成果
 本研究の成果を以下に要約するにあたって、我々は最初に、マレショーセ改革が当該地方でどのように実施されたのかを整理、確認し、それを踏まえて、王権による統治システムの整備の中でマレショーセ改革がどのような意義を持ったのか検討することにしたい。

1) オート=ノルマンディーにおけるマレショーセ改革
 第1部では1720年のマレショーセ改革に関する全般的な検討とオート=ノルマンディー地方における新生マレショーセの生成へのアプローチを行った。
 第1章では、旧マレショーセに改革が必要とされた理由を確認した後で、1720年の改革を、全面的な改組による組織の再編・統一の側面と親任官システムの部分的導入の側面から検討した。
 マレショーセ改革でまず重要なのは、旧組織の解体と新組織の創設、組織編制及び管轄区の統一である。改革以前のマレショーセは、王国各地で必要が生じるたびに創設されており、その組織編制と管轄区は統一されていなかった。これを統一するため、王権は成員の官職の買い戻しによって旧マレショーセを解体した上で、新組織を作り直すという、売官制が国家と社会に深く根付いていたアンシアン・レジーム期としては実に大胆な改革を断行する。マレショーセ管区は総徴税管区に統一された。各総徴税管区には1人のプレヴォが指揮する1つの中隊が設置され、プレヴォの指揮下にはもう一人の将校である副官、プレヴォ裁判役人(陪席裁判官、国王検事、書記官)、隊員(上級班長、班長、班長補佐と隊員)が配属された。
 オート=ノルマンディーの旧マレショーセはプレヴォの中隊と4バイイ裁判所に付設された形を取る4中隊を合わせた5中隊で編制されていたが、マレショーセ改革によってこれらの中隊は全て解体され、プレヴォを唯一の指揮官として頂く1中隊のみに再編、統一された。組織の再編、統一は、マレショーセにおける指揮命令系統の統一をもたらした。中隊レベルでの指揮権はプレヴォただ1人に統一されることになった。国家レベルでは陸軍卿―地方長官―プレヴォという指揮命令系統が確立された。当該時期のオート=ノルマンディーにおいても、マレショーセを指揮・監督していたのは、地方総督とフランス元帥ではなく、地方長官と陸軍卿であった。
 さらに、マレショーセ改革は、プレヴォ裁判役人と隊員に親任官システムを導入した。売官制の問題点は、プレヴォ裁判役人、隊員だけでなく、プレヴォと副官にも指摘されていたが、マレショーセの将校の親任官化は18世紀後半を待たねばならない。オート=ノルマンディーの新マレショーセにおいても、プレヴォと副官は官職叙任状で任命され、プレヴォ裁判役人と隊員は親任状で任命された。ここでは1720年の新マレショーセ創設時の諸王令によって、新マレショーセの成員の就任の手続と条件を明らかにし、マレショーセへの親任官制の部分的導入の意義について若干検討したが、より詳細な解明と検討は手稿史料の精査を行った第2部に委ねられることになる。
 続く第2章では オート=ノルマンディーのマレショーセの班の駐屯地の確認、同地方を特徴付ける地理的諸要因の概観、班の設置及び配置に関する王権側の見解の検証、班の設置都市に求められる条件に関する検討を行った。
 マレショーセ改革は、それまで都市、地方、総徴税管区など統一を欠いていたマレショーセ管区を総徴税管区、すなわち地方長官管区へと一本化した。統一された管区内で、新マレショーセは班の形で各班5名という少人数ながらも隊員を広く細かく展開させた。オート=ノルマンディーでも20班が18都市に設置され、管区全体にバランスよく展開した。王権は、班を駐屯させる都市の選択にあたって、国王道路との距離の近さを何より重視し、さらに都市の規模や機能、最寄りの班の駐屯地との距離、総徴税管区内での位置、周辺の環境など都市側の条件とマレショーセの職務内容をあわせて考慮していたと考えられる。その結果、当該地方のマレショーセは、地図上のバランスだけではなく、マレショーセの活動の観点からも、管区内に効果的に展開していた。
 第3章では、以上のようにオート=ノルマンディーでも実施されたマレショーセ改革が、1720年3月の新マレショーセ創設の王令発布後、直ちに実現されたわけではないことを明らかにした。改革の内容は1720年3月、4月の諸王令によって示されたものの、成員は王令発布直後に一斉に採用されたのではなく、特に隊員の採用は1721年3月までずれ込むこととなった。また、新マレショーセに対する財政措置も、1721年の特別措置を経て、1722年に確立する。さらに、活動面でも、新マレショーセが本格的に始動するのは、1720年末から翌1721年初めにかけてと考えることができる。
 つまり、1720年春に法的に成立する新生マレショーセは、オート=ノルマンディーにおいては組織、財政、活動のいずれの面においても実質的には1721年以降に確立するのである。旧組織の解体、新組織の創設が王令によって命ぜられても、ある日を境に新旧の組織が交代し、職務が引き継がれるのではなく、その移行は漸次に進行するものであった。特にマレショーセ改革の場合は、全面的改組であったことに加え、その成員の大部分を官職保有者から親任官へと変更する抜本的な改革であったから、新マレショーセの組織的な確立にはある程度の時間が必要だったと考えられる。
 第2部では18世紀前半におけるオート=ノルマンディーの新マレショーセの成員、すなわち第4章では将校、第5~7章では隊員の実像に迫った。
 まず、第4章ではマレショーセの将校とプレヴォ裁判役人について、彼らの採用手続、マレショーセとバイイ裁判所及び上座裁判所との間の成員面での繋がり、職務内容、勤務実態を明らかにした。
 プレヴォ裁判役人に関しては、就任手続にプレヴォが関与していないこと、基本的にバイイ裁判所・上座裁判所の官職保有者が兼任していたこと、プレヴォ裁判手続において将校以上に重要な役割を果たしていたことを確認した。
 将校に関しては、主要な職務がプレヴォ裁判と中隊の管理・運営であったこと、判決は将校の名で下されたもののプレヴォ裁判手続を主導するのは彼らではなく裁判役人であったこと、長期の任地不在に見るように中隊の管理・運営の責任者として問題がある将校もいたこと、第2代プレヴォの任地不在の背景に彼と宮廷大貴族の間の保護‐被保護関係があったことを明らかにした。
 マレショーセの将校は裁判部門と警察部門のいずれでも活動し、マレショーセの機能の二面性をそのまま体現する存在ではあった。しかし、彼らは、プレヴォ裁判においては裁判役人ほどの重要な役割を果たしたわけではなく、騎馬警察においてはもはや日常的に隊員を率いて巡回を行うことをせず、中隊の管理・運営の責任者としての役割を常に良好に果たしていたわけではなかった。
 そうだとすれば、新マレショーセにおける将校の存在意義とは何かという問題が設定される。将校の存在意義の検討は、彼らの職だけに親任官制が導入されなかった理由の検討、及びマレショーセ自体の存在意義の検討と関連するものであり、プレヴォ裁判所と騎馬警察隊の活動の詳細な検証を行った上での課題となる。
 第5章では第一に、16世紀から18世紀半ばまでのマレショーセ関連諸王令を参照し、隊員の採用条件がマレショーセ改革時も含めて18世紀半ばまで厳密には規定されなかったことを確認した。ただし、売官職である旧マレショーセの隊員職に厳密な採用条件を課せられるとは考えられないので、ここで強調すべきは、1720年のマレショーセ改革で隊員職が官職から親任官職に変わったことによって、マレショーセの「軍隊化 (militarisation)」が進む18世期後半に見るような採用条件の厳格化への道が開かれたことであろう。
 第二に、成員名簿から抽出された隊員採用に関わる日付を分析することによって、変則的事例はあるものの、採用手続は基本的にプレヴォによる任命・国王への推薦、国王による親任状の交付、プレヴォによる受け入れと規則的にまた迅速に進められていることを確認した。
 隊員採用が手続に則って行われていたことは、国王による親任状交付の手続が加わった新マレショーセにおいては、プレヴォによる恣意的な採用の余地が大いに狭まり、採用に国王及び陸軍卿の直接の統制が入ったことを意味する。アンシアン・レジーム期の中隊は実質的に中隊長の所有物で、兵士は国王以上に中隊長と結び付いていた。旧マレショーセにおける隊員職の官職売買の問題点を思い起こすならば、マレショーセ改革以前のプレヴォと隊員の関係も同様の主従関係であったと考えられる。そうだとすれば、1720年のマレショーセ改革は、隊員職に親任官制を導入することによって、プレヴォの支配から隊員を解放して国王の隊員に変え、国王直轄の警察を創設したという意味でも重要なのである。
 第6章では、資格、すなわち年齢、身長、入隊前の軍隊経験の3点から隊員採用の実態を検討した。採用年齢については、年齢制限が特に認められないこと、しかし、新マレショーセ創設時にはかなり高い年齢層の者も採用されたが、創設直後から26~40才の採用が中心となり、結果的に隊の高齢化がある程度抑えられたことを明らかにした。身長については、18世紀前半にはまだ法的な採用条件ではなかったものの、採用の基準として実質的に機能していたこと、特に高身長の者たちを選抜して採用していたことが分かった。身長と同様に18世紀前半には法的には採用条件ではなかった軍隊経験に関しては、採用の基準として実質的に機能していたこと、1720年代後半から軍隊経験がより鮮明に求められるようになること、換言すれば、マレショーセの「軍隊化」は新マレショーセ創設直後から始まっていたことが明らかになった。
 このように、18世紀前半のオート=ノルマンディーのマレショーセにおいては、1760年の王令に先立って、高身長と軍隊経験を重視した採用が行われていたわけで、生活態度や品行のような曖昧な基準だけではなく、身長や軍隊経験といったより客観的な、より合理的な基準で成員の採用が行われていたことの意味は大きい。なぜなら、このことは、財力や縁故に左右される採用形態から能力や客観的基準に基づく採用形態への変更を意味するからであり、マレショーセの隊員採用を売官制の縛りから、そしてその悪弊から解放したことを意味しているからでもある。
 最後に、第7章では、在職期間、退職、異動の3点から隊員の実態を明らかにしつつ、王権による採用後の隊員の管理、中隊の運営について検討した。
 まず、隊員の在職期間(任期)は王令によって一切規定されず、実際、隊員の在職期間は様々で、少なくとも隊員全員に設定される職務の委任期間はなかったこと、在職期間の長短が班の活動や運営に与える影響、在職期間の長期化とそれに伴う隊(員)の高齢化に関して当局が配慮していた形跡がないことの2点から、王権は、在職期間(任期)や退職年齢(停年)を隊の管理・運営に役立てようとする考えを持たなかったと考えられる。
 また、退職が強制されたか否かは当局にとっても隊員にとっても重要ではなかったと考えられること、退職理由として延べ78名に隊員に犯罪、軍規違反、職場放棄、勤務態度や生活態度の悪さが指摘され、さらに理由不明の免職・解任が28名いることは、採用前の人物調査、隊員の監督、及び隊の規律維持の不十分さを示唆していること、確認された100例の異動には勤続年数との間に明瞭な関連性は見いだせないこと、隊員の勤続年数や年齢を考慮した班の構成は行われていないことなどから判断すれば、王権が退職の強制や転任を隊の管理・運営に積極的に利用しようとしていたとは考えにくい。
 その一方で、地方長官は、勤続年数、人格、能力を昇進基準として考え、昇進人事を隊の管理・運営に役立てようとしていた。その思惑が旧態依然としたプレヴォのパトロン意識や彼を取り巻く保護‐被保護のネットワークによって妨害されたこと、隊員の出身母体を国王軍兵士と想定したこと、隊員の採用条件・資格の規定が不十分だったこと、採用前後の職業訓練や研修がなく、閲兵も必ずしも常に有効に機能していたわけではないことなどを合わせて考えれば、王権にとって欠格者を隊から排除することがより現実的な隊の管理・運営の方法だったのであり、免職・解任が示すだけの数の欠格者を王権がマレショーセから排除していた事実をこそ強調すべきなのである。
 官職保有が深く根付いたアンシアン・レジーム期の、上述のような状況にある組織においては、欠格者の免職・解任は現実に即した積極的な管理・運営の方法といえる。欠格者の免職・解任は、必然的に、より適任の人物の採用をもたらす。第5章及び第6章で検討してきたように、王権は、プレヴォのパトロン意識の排除も考慮しつつ、より客観的な基準に基づく、能力や資格を重視した隊員採用を志向していた。採用と免職の権限をともに掌中に収めて初めて、王権による直接的な隊員の管理、隊の運営が可能になる。新生マレショーセの隊員を親任官に変更した意義はまさにこの点にあるのである。
2) 王権の統治システムの整備におけるマレショーセ改革の意義
 各章で行った検討を踏まえた上で、1720年のマレショーセ改革が王権の統治システムの整備においてどのような意義を持っていたのかという点について、先に挙げたマレショーセ改革の5つの主要な改善点と、マレショーセ研究の射程を考察する上で設定され得る4つの視点 ――裁判、警察、地方統治、官僚制―― を念頭に置きつつ、考察してみたい。
 マレショーセ改革は、マレショーセの裁判権や訴訟手続にはほとんど変更を施さなかった。ということは、王権が1720年に積極的に改革しようとしたのは、マレショーセの裁判所としての機能ではなく、警察としての機能である。したがって、我々は、マレショーセ改革が騎馬警察としてのマレショーセに施した変革に何より注目せねばならない。
 マレショーセ改革はマレショーセの組織を再編、統一し、それに伴って管轄区、指揮命令系統の統一も実現した。組織、管轄区、指揮命令系統の再編・統一がマレショーセを地方長官の指揮下に置く形で為されたことは、地方長官を介した王権の地方統治を考える上で大きな意味を持つ。総徴税管区の「裁判、治安、及び財政」を統括する絶大な権限を国王から委ねられて各地に派遣されながらも、この国王直轄の官僚はその権限を行使するために十分な数の直属の下僚群を持たなかった。このため彼らは管轄区全体を掌握するために各地域の名望家である地方長官補佐の力に頼らざるを得なかった。このような状況の下、「裁判、治安、及び財政」の全領域にわたって動員し得るマレショーセの存在は地方長官にとって大きかったと考えられる。ある地方長官がマレショーセを自らの「腕」と表現し、マレショーセが自分の命令に従わなければ何もできないと述べたのは、このことを端的に表している。
 また、マレショーセ改革は、班の形で隊員を総徴税管区≒地方長官管区内に広く稠密に展開させた。マレショーセの班の広く細かな展開と日常的なパトロールは、犯罪者の処罰(裁判)による治安維持よりも犯罪の予防(治安=行政)による治安維持に深く関わっている。犯罪の予防には空間と住民の監視が不可欠である。マレショーセの隊員は国王道路や田園地帯を定期的に巡視し、犯罪者や治安を脅かす者たちを取り締まると同時に、それらの空間で生活を営む者たち ――農民、そして乞食・浮浪者、脱走兵、密輸業者など移動を能くする「犯罪者」―― を監視していた。こうして、地方長官は、自らの手足となり耳目ともなる警察力を管轄区内に広く行き渡らせた。そして、王権は、王国の人口と空間の大部分を占める田園地帯と、人、金、物資、情報、軍隊を通わせる王国の動脈たる国王道路に国王の警察網 ――その網の目はまだ粗かったとしても―― を張り巡らせたのである。
 さらに、隊員が制服、すなわち国王の権威を身にまとって、王国中の主要都市に駐屯し、田園地帯や幹線道路を巡回したことの意味を再確認しよう。このことは、公的秩序の維持を担う権力としての国王のイメージを、住民により身近に、そして目に見える形で広げていったであろうし、王権によって保護及び監視されているという意識を彼らに持たせていったであろう。つまり、都市(点)に遅れて進められた、田園地帯(面)、国王道路(線)という空間の、国王の統治システムへの編入は、制度的にも、民衆の心理あるいはイメージの面でも、隊員のパトロールによって徐々に進展していったと考えられる。
 確かに、隊員のパトロールの効果はその方法に関する中央からの指示、頻度や厳密さといった活動の実態の検証なしには論じ得ないし、1730年時点でおよそ2,850名、大革命期まで4,000名を越えることのなかった隊員数でマレショーセが王国全体の治安を十分に維持するのは実際、難しかったであろう。それでも我々は、パリの治安が治安総代理官によって良好に維持された一方で、地方においても、都市の外においても、国王による治安維持のシステムが確立されたことを評価したい。なぜなら、フランスこそ全国規模の警察網を持ったヨーロッパで最初の国であるからである。また、マレショーセは大革命期、裁判権を失うものの、騎馬警察部門は存続しただけでなく大幅に増員し、基本的に1720年の組織の枠組を残したまま現在の国家憲兵隊に続くからである。都市の治安は内務省所属の国家警察、都市外の治安は国防省所属の国家憲兵隊という現代フランスの警察機構の大枠は、アンシアン・レジーム期に基礎付けられたのである。別の角度から見れば、アンシアン・レジーム期以降、現在に至るまでこのシステムが継続していることは、このような警察のあり方がフランスにとって有効だと各々の時代の政府とフランス人が認めてきたことの証左ともいえるだろう。
 以上のような国王直轄の全国警察の創出を可能にしたのは、官職の買い戻しによる旧組織の解体と親任官システムの導入である。プレヴォ裁判役人と隊員を親任官としたことで、王権は彼らの任免権を掌握し、プレヴォ裁判役人と騎馬警察隊員は国王直轄となった。
 確かに、プレヴォ裁判役人は、1720年4月の国王宣言が定めるように、基本的に近隣の上座裁判所やバイイ裁判所の裁判役人の兼職、つまり別の立場では官職保有者であったし、隊員の採用では候補者の推薦の形でプレヴォの影響力は残されたから、王権がプレヴォ裁判役人や隊員の任免権を握ったことを過大に評価すべきではないかもしれない。
 しかし、中隊を指揮したプレヴォや副官は官職保有者のままであったし、その彼らが勤務態度に大きな問題点を抱えていたことを想起しよう。彼らの長期にわたる任地不在、彼らを取り巻く保護‐被保護関係がもたらす弊害の対策に、地方長官は苦慮していた。官職保有者に対する監督・統制の限界である。
 その一方で、プレヴォ裁判役人はプレヴォたちのような不祥事を引き起こさなかった。また、免職・解任された隊員がかなりの数にのぼったことは、王権が問題ある隊員を積極的に排除していたことを示している。欠格者の免職・解任は新たな隊員採用を導き、より客観的な基準に基づく採用によって、隊員の適性や能力は全体的に向上していく。プレヴォ裁判役人に関しては近隣の国王中・下級裁判所の官職保有者の兼任という縛りが、また、隊員に関してはプレヴォによる採用候補者の推薦という縛りがあったものの、免職・解任に関しては基本的にそのような縛りはなかった。したがって、親任官システムの導入によるプレヴォ裁判役人と隊員の罷免の可能性こそが、売官制に起因する旧マレショーセの悪弊を克服し、マレショーセの活動を改善する最大の手段だったのである。
 親任官は国王によってその職を委任され、王権の意志の実現に従事する職である。それゆえ、親任官が所属する社団も王権の意志を直接に反映することになる。一方、官職保有者は官職及びその官職の属する社団の論理によって何より行動する。王権は、国王中・下級裁判所の官職保有者を、親任官としてマレショーセ(プレヴォ裁判)で活動させた。つまり、親任状の範囲内で官職保有者の論理、所属する社団の論理から一時的に引き離し、王権の論理に従って勤務させたわけである。新マレショーセにおいても官職を保持していた将校たちは、官職保有者の論理に沿って行動していた。逆に、いわば専任の親任官となった隊員たちは王権の論理に従って勤務し、それから逸脱した者は免職・解任された。こうして、1720年の改革後の新マレショーセは官職保有者の論理と王権の論理が共存しつつも、後者が優勢な社団へと変容しつつあったと考えられる。
 代表的な親任官として王権の地方統治を担った地方長官を最近の研究動向が国王権力の代行者というより中央の王権と在地の諸権力との間の仲介者として捉えているように、王権は、社団、あるいはより大きく社団的編成に基づく社会を王権の論理に一方的に向けるのではなく、社団と社会の固有の論理を尊重しつつ、社団の構成員を一時的に王権の論理の枠組に取り込む形で自らの意志をより効果的に実現しようとしていたように見える。国王と社団の微妙な関係に関して Fr. オリヴィエ=マルタンの指摘は示唆に富んでいる。すなわち、この法制史家によれば、「国王は社団を指揮する (diriger) のではなく、統制する (controler) 」のであり、国王は、その自立性(自律性)を認めつつ、社団を国家の利益の方向へと「向かわせる」のだという。
 このような観点からすれば、隊員の親任官への移行は、単なる兵士でも、官職保有者でも、また官職を保持しながら親任官職を行使する従来型の親任官でもない、新たなタイプの官吏の創出とも見なせよう。改革後の隊員は兼職、副業を禁止され、国王への奉仕の対価として専ら国家から俸給を支給された。隊員の親任官への移行に、官職保有者、従来型の親任官からより直接的に国家に依存する「公務員」的な官吏への移行を見るためにはより詳細な検討が必要だが、この点については今後の課題として残される。
 親任官システムの導入の意義はさらに、マレショーセと上座裁判所との関係、換言すれば、国王裁判所としてのマレショーセの位置付け、存在意義の面からも考察できる。マレショーセは上座裁判所に、プレヴォ裁判所の成員の面でも活動の面でも大きく依存していた。プレヴォ専決事件と上座裁判所の刑事における裁判管轄が重複していたこと、プレヴォ裁判所は自らの法廷を持たず、上座裁判所の評議室で開廷していたこと、プレヴォ裁判役人の給与は将校の給与に遠く及ばないばかりか隊員のそれに比べても格段に低く、給与面からも他の裁判所の官職との兼職が前提とされていたことを合わせて考えるならば、プレヴォ裁判所は上座裁判所の一部局であるかのような印象を受ける。そうだとすれば、王権はなぜ1720年に全面的に改組してまで裁判所としてのマレショーセの存続と独立を維持したのだろうか。革命政府のように、騎馬警察隊だけで済むと考えなかったのだろうか。
 この点について王権の意図を示す史料が見あたらず、プレヴォ裁判と騎馬警察隊の活動の検証が未だ不十分な現段階では、この疑問に十分に答えることはできない。しかし、先述のように、王権は、マレショーセ改革の際、マレショーセの裁判権限や訴訟手続に関してほとんど変更せず、近隣の国王の中・下級裁判所の裁判役人の監督下でプレヴォや副官の名においてプレヴォ専決事件を裁くという従来のプレヴォ裁判の形態を再確認しただけであった。したがって、王権はプレヴォ裁判を活動面で改革しようとしていたわけではない。マレショーセと上座裁判所との関係においてマレショーセ改革による決定的な変更点はといえば、プレヴォ裁判役人と隊員に親任官制を導入したことである。つまり、王権はプレヴォ裁判の機能のあり方を変えずに、その担い手(の法的地位)を官職保有者から親任官に変更したのである。それはなぜか。
 売官制が国家と社会に深く根を下ろしたアンシアン・レジーム期に、官職保有者から成る国王裁判所機構の中に完全に独立した、親任官による恒常的な新組織を作るのは、既存の裁判所や官職保有者たちの抵抗を考えれば困難である。そのような状況下でプレヴォ裁判を有効に機能させるには、既存の組織の人材を援用するのが最も現実的な方策である。プレヴォ裁判役人がマレショーセに導入された経緯を思い起こすならば、彼らが裁判の専門家としてプレヴォ裁判を監視し主導することが何より重要なのであり、しかも裁判管轄や訴訟手続が王令によって細かく規定されているプレヴォ裁判においては、彼らが職務遂行上の問題を起こす可能性は低い。それゆえ、王権は、プレヴォ裁判役人を敢えて現地の裁判役人=官職保有者とは別の、すなわち他の官職を兼任しない、プレヴォ裁判専任の親任官とすることを避け、バイイ裁判所・上座裁判所の官職保有者を親任状によって一時的にプレヴォ裁判に流用する形で、しかも欠格者に対しては免職の権利を留保した上で、マレショーセを独立して存続させたのではなかろうか。
 既存の組織の人材の転用、援用という点は、隊員にも当てはまる。隊員の多くが国王軍の元兵士だったからである。軍隊経験は、1720年のマレショーセ改革では採用条件として規定されなかったが、オート=ノルマンディーの新生マレショーセでは実質的に採用条件として働いていた。隊員の職務は兵士、特に騎兵の経験を求めるものであったし、専門の学校や採用前後の研修といった養成の制度を持たなかったマレショーセ隊員にとって、兵士の経験はそのまま職務の見習いとして機能した。
 しかし、国王軍兵士を隊員の出身母体とすることは、彼らの問題点や規律の不十分さをマレショーセにそのまま取り込む危険性を持つ。このリスクに対して、王権は、1720年3月の王令で生活・品行の事前調査を改めて課しただけで、その事前調査も、免職・解任の事例数やその内容を見れば、必ずしも有効ではなかった。免職・解任の事例は、隊の規律が十分に維持されていなかったことも示唆している。さらに、マレショーセの将校が保持する、中隊のパトロンとしての心性 ――マレショーセは国王軍の一部隊でもあり、その将校と隊員はともに軍人であることも思い起こさねばならない―― が地方長官によるマレショーセの管理・運営の妨げになることもあった。しかしながら、これらの問題点があればこそ、騎馬警察隊を有効に機能させるためには欠格者の免職が不可欠だったのであり、それを可能たらしめたのが親任官システムの導入であった。
 以上のように考えるならば、新マレショーセに見られる王権の政策は、硬直化した官僚制に風穴を穿つ試みであった。売官制に基づく官職の家産的性格と非罷免性、またそれに伴う官職保有者層の王権に対する相対的な独立性は、国王のもとへの権力集中という絶対王政の理念に反している。しかし一方では、王権は、王権の拡大に伴う司法・行政システムの拡充と財政上の要請から多数の官職保有者を必要とし、統治の側面からも財政の側面からも彼らに依存してもいた。王権としてはこのジレンマを打破する一つの試みとして1720年のマレショーセ改革を考えていたのではなかろうか。すなわち、一方では「下級」の官職保有者、したがって抵抗がより小さかったであろう。マレショーセ隊員を官職保有者から親任官に変更し、他方では以前より近隣の国王裁判所の官職保有者が兼職していたプレヴォ裁判役人を旧マレショーセのように官職保有者としてではなく親任官として新マレショーセに勤務させた。1778年に最終的に将校まで親任官になり、マレショーセの成員のオール親任官化は完成するわけだが、国王軍ではその直前の1776年から売官制の廃止が導入されていたから、マレショーセの将校職の売官制を廃止する流れもできていたことになる。以上の考えはより詳細な検討とより確実な論拠を必要とするが、絶対王政の統治構造の根幹に関わる問題であり、その検証が我々の今後の第一の課題となる。

 以上のように、マレショーセ改革は、不十分な人員ながらも、王国全体に細かく展開し、王権による監督・統制がより直接的に及ぶ、統一された組織、管轄区、指揮命令系統を持つ治安維持組織網を創り上げた。国家の諸制度、諸機関が売官制、官職保有に基づいて成立していた時代、そして国家と社会が社団的編成によって成立していた時代にあって、官職を買い戻し旧組織を解体した上で親任官をベースとした新組織を創設し直すという、従来の王権には見られなかった政策こそが、マレショーセ改革を可能ならしめたといえる。改革はそのプロセスにおいて、マレショーセという強制力を地方長官に与え、親任官制の導入によって国家により直接的に依存する下級官吏群を創出したが、これらは地方長官を介した中央集権化政策、売官制に基づく官僚制といった王権の統治構造の根幹のシステムと密接に関連していた。ルイ14世親政初期の司法改革から半世紀を経て、硬直化した太陽王の治世から脱却すべく新たな統治システムを模索していた摂政期に、王権はマレショーセ改革を断行した。この改革には、単に一つの裁判所・警察・軍隊の改革を超えた、絶対王政の統治構造全体の改革を志向する王権の意志が表されているのである。

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