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博士論文要旨

論文題目:近代中国東北地域における稲作農業の展開と朝鮮人移民 ―1920~1930年代を中心に―
著者:朴 敬玉 (PIAO, Jingyu)
博士号取得年月日:2011年7月29日

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 本論文の課題は、1920年代から30年代にかけての中国東北地域における水田耕作の展開について、朝鮮人移民の移動・定住の過程との関連を中心に実証分析を行うことにより、朝鮮人移民を取り巻く社会状況と生活の実態を明らかにすることである。また、朝鮮人移民と稲作に対する日本の政策への考察を通じて、近代中国東北地域に対する日本の勢力拡張と支配の実態を明らかにすることも、本稿の重要な狙いである。
 本論文で得た結論をまず章ごとにまとめると、次の通りである。
1 各章の成果
 第1章では、辛亥革命以降、中国東北地方政権の土地開発政策と移民誘致政策を検討したうえで、1931年の満洲事変に至るまでの時期における、大量の華北移民の数的増加や分布について述べた。また、朝鮮における日本の植民地統治から朝鮮人移民が生み出された背景について検討したうえで、朝鮮人移民の移住状況や移住形態、移住動機などについて論じた。朝鮮人移民が中国東北地域へ移住して行く歴史的背景を考察した。
 民国期、東北地域の張作霖政権や各地方政権は土地の払い下げや移民の積極的誘致に関する章程や規則を次々と頒布することで、華北移民の東北地域への移住を促した。辛亥革命後、民国政府のもとで東北地域の地方権力は土地の払い下げから巨額の収入を得るとともに、払い下げ地域の土地、民衆を自己の政治的、経済的支配のもとに再編成することを図っていたからである。また、華北農村の急激な人口増加による耕地の乏しさ、軍閥戦争や自然災害といった社会状況は大量の移民を生み出すようになった。移民の分布からみると、人口密度が低い黒龍江省への急激な人口流入は1920年代以降の特徴であった。
 反面、朝鮮農村社会の疲弊により、北部朝鮮からを主とする朝鮮人移民は、清朝末期から国境を越えて農地開墾を行っていた。1910年の韓国併合後、1910年から1918年までの土地調査事業と1920年から遂行された産米増殖計画により、朝鮮人農民の自作農・自小作農の土地喪失・貧窮化過程は急速に進展した。このような朝鮮社会の変容によって、中国東北地域へ朝鮮人移民の移住は増加し続けた。東北地域における朝鮮人移民のほとんどが農業に従事していたため、家族単位の移住が最も普遍的であった。これは、同時期、朝鮮人の日本内地への渡航とは相当異なる特徴である。
 第2章では、東北地域の政治と気候条件、そして朝鮮人移民の移住過程を考慮して、南満・中満・北満に分けて、朝鮮人移民の移住経過と導入された水稲栽培法・品種について論じることで、移民の移住パターンと地域性を考察した。同時に米の生産をめぐる当時の中国東北地域の社会状況を論じた。
 1920年代までは南満を中心として水田耕作が行われていた。1920年代前半、奉天省の朝鮮人数に比べて、水田面積は全東北地域において相当大きな割合を占めていた。それはすでに多くの漢人農民が水田を営んでいたことを示した。そして実際に栽培されたのはほとんどが朝鮮在来種であった。また、間島地域は東北地域における朝鮮人の約65%が居住する特異な地域であったが、水田耕作地は1921年には東北地域の13%ほどしか占めていなかった。それはやはり丘陵地が多い地勢の特徴と米の品種の問題があったからである。しかし、間島地域でも1920年代の後半には水田面積が大幅に増加した。品種はほとんどが青森県の小田代であった。北満地域は吉林省を中心に1920年代に水田面積が大幅に増加した。南満地域とは違って北満ではほとんど朝鮮人農民によって水田耕作が行われた。品種は小田代よりはるかに寒冷に強い札幌赤毛がほとんどであった。
 最も早くから水田耕作が行われた南満地域においては、1910年代後半以降は漢人の水田耕作への参入が目立つようになった。それは朝鮮人移民がほかの地域へ再移住する要因でもあった。そして、南満地域では朝鮮の在来品種が使われていたが、中満・北満地域では寒冷地に適する日本品種の使用によって次第に稲作耕作が可能になった。
 第3章では、朝鮮人移民が最も集中している間島地域、農耕開発が最も早くから行われ、小作条件がだんだん厳しくなっていった南満地域、多くの移民の再移住地としての北満地域とに分けて、朝鮮人移民の土地所有状況や小作関係、作物の栽培と生活状況について検討した。また、朝鮮人移民と漢人地主の小作関係の実態や、南満・間島地域から北満地域へ再移住する要因について考察した。そのうえで、東北地域の土地所有状況を地域ごとに述べ、農民層の社会的分化について分析した。
 東北地域の開発ブームのなかで越境し、農業を営んでいた朝鮮人移民の土地所有状況や小作関係は地域によってかなり異なっていた。間島地域では間島協約第5条によって朝鮮人の土地所有権が保護されるようになったため、いわゆる佃民制度が形成され、帰化朝鮮人の名義で数人ないし数十人が一つの地券を獲得することが可能となった。南満地域においては、1920年代後半から小作期間の短縮による小作関係の不安定が目立った。反面、新開墾地とも言える北満地域には、小作人にとって有利な小作関係が形成されたため、赤手空拳の朝鮮人移民は小作条件が厳しくなった南満地域や取り締まりが厳しくなった間島地域、或いは、疲弊した朝鮮の農村部から、徐々に北満地域へ移住するようになった。そして、新開墾地における独特な地主―小作人間の関係により、漢人移民の北満への移住も急増し、その数は東北地域への移民全体の過半数を占めるに至った。
 1910年以降、華北移民や朝鮮人移民が東北地域へ移住するにあたって、土地が開発され始めた時期や交通条件の差異などにより、各地における初期条件には大きな差異が見られた。その差異は、土地所有状況や小作関係などに直接反映されていたのである。
 第4章では、満洲国前期の米穀政策について概観し、当時の米の需給状況について述べた。そして、奨励品種ではないが広く栽培されていた米品種と奨励品種の特質、さらにその分布状況について南満・中満・北満にわけて考察した。また、新たな水田開発地としての北満地域における米の栽培状況と農作業の具体的な状況について分析した。
 満洲国成立後、日本の陸軍省は軍用米の現地調達と日本開拓団の営農安定という視点から満洲国における米増産の必要性を唱えていた。しかし、農林省は日本国内の米穀事情から満洲産米が日本内地米を圧迫するのではないかと危惧していた。そのため、両者の間に葛藤が激化していった。またこのような事情は満洲国における米穀統制がいち早く実施される重要な要因でもあった。1939年には満洲国の食糧・農産物の増産が特に重視されるようになり、1940年6月には、満洲国の産業部は興農部に改編され、農産物増産が最重要国策となった。
 1930年代、米の生産は満洲国政府からはあまり積極的に提唱されていなかったが、満鉄試験場の技師らによる品種開発は着実に進んでいった。特に、早くから稲作が行われていた南満地域においては、品種の多様化が進むようになるが、京租といった在来品種は依然として幅広く使用されていた。札幌赤毛を改良した北海は稲熱病に弱いということから、1940年には奨励品種から排除されるが、1930年代の北満地域では絶対的優位性をもっていた。このような満洲における優良品種の普及状況は、1932年にはすでに総作付面積の76.6%を占めていた朝鮮半島に比べると、まだ初期段階に置かれていた。そして、北満地域においては、北海が絶対的優位を占め、広く栽培されていた。主に稲作で生計を営んでいた朝鮮人農家にとって米は重要な商品作物として取引されていた。
 第5章では、1930年代の満洲国における朝鮮人移民政策を概観し、朝鮮人移民の地域的分布状況を考察した。そのうえで、朝鮮人移民が満洲国政府の移民政策に直接影響されず、急速に増加していく実態を、主に朝鮮総督府の支援を受けていた在満朝鮮人組織に注目して分析した。さらに、北満の南部地域に位置する寧安県における朝鮮人移民の小作慣行、農産物の販売について分析した。
 満洲事変以降から1939年まで、日満政府は朝鮮人移民に対して放任(1931-1935)、統制(1936-1939)といった政策をとっていたが、朝鮮半島農村における過剰人口の排出によって、在満朝鮮人人口は増加しつつあった。とくに、1930年代後半以降は国策により進められた集団移民政策によって朝鮮南部稲作地帯出身の朝鮮人農民が急増した。それは東北地域における米生産の更なる増加に繋がった。
 そして1930年代の米の生産において、朝鮮のような植民地権力による強力な「指導」は存在しなかったものの、東亜勧業株式会社や満鮮拓植株式会社といった国策会社と、朝鮮総督府の「指導」を受けていた農務契など在満朝鮮人の諸組織は水田耕作に必要な資金を提供した。それは多くの朝鮮人農民の満洲への移住を促した同時に、在満朝鮮人社会に対する統制を強化することとなった。
 第6章では、満洲事変以降、朝鮮総督府の支援の下で設立された満洲国の安全農村につ
いて分析した。浜江省珠河県河東地域が水田開発の比較的遅れている北満地域に位置し、河東安全農村の設立によって北満における最初の一大水田集団農場が作られたことに注目して、珠河県河東地域を中心にその設立過程、土地の買収、村落の組織、営農実態を具体的に検討した。
 河東村においては朝鮮総督府の多大な援助もあって、ほかの地域では見られないような灌漑設備の整備が着実に進められた。その結果として、水田面積も1940年には1933年の2倍以上に増加した。朝鮮総督府が推進し東亜勧業が建設した朝鮮人安全農村は、元来の趣旨としては満洲事変や自然災害による朝鮮人避難民たちを収容することであった。また安全農村の建設目的は満洲在住の朝鮮人を自作農化するところにあると主張された。しかし、自作農創定政策が行われたものの、年賦償還金の重圧もあり、一時は村を離れる農民も現れた。
 満洲国前期に、東北地域における日本の米市場への影響から日本の農林省は満洲の米の増産をかなり懸念していた。しかし、東亜勧業や満鮮拓殖株式会社などの国策会社は朝鮮人移民に対する営農資金を供与し、買収した土地に対して年賦償還を前提に貸し出した。事実上移住者は日本の植民会社の小作人に転落したが、満洲国成立以降、官によって進められた集団移民政策の実施はより多くの朝鮮人の移住を促す結果となった。安全農村における金融会と農務契連合会の設置により、農村の末端である各部落まで、中央の統制機構が整備されるようになった。河東農村では朝鮮の慶尚道出身者が大多数であったが、米の品種はやはり当時の東北地域で広く使われた光頭児が主であった。
 第7章では、1939年に行われた、満鉄新京調査室の呉振輝・金仁基による、北安省海倫県海北鎮瑞穂村調査報告を用いて、瑞穂村善牧農場における朝鮮人農家の移住過程を考察したうえで、各農家群における土地所有関係と農作物の作付について検討した。さらに、朝鮮人農家と漢人農家における労働力の相互依存関係を考察することで、稲作における北満農村の特殊性を分析した。
 1929年から始められた善牧農場における水田開発は海北鎮のカトリック教会と漢人有力者の支援により、開発が次第に進められるようになった。善牧農場の朝鮮人農家に、創立者鄭駿秀の出身地である慶尚北道の出身者が半数以上を占めたことからは、人的ネットワークが当時の移住において非常に重要であったことがわかる。
 横山敏男氏の善牧農場に対する1942年の調査からは、1939年の調査時に比べて朝鮮人農家と漢人農家はともに経営の零細化が進み、漢人農家における雇農の割合も増えたことがわかる。また、鄭駿秀の回想からも確認できるように、善牧農場での定住期間が比較的長い農家と定住期間の短い農家の間にもすでに経済格差が現れていた。
 漢人農家においては経営面積の大きい農家ほど、農作物の種類は多種多様になり、経営様式は多角化していたが、経営面積1晌以下のような貧農は最少限度の自家用の食料、飼料を確保することが前提となった。そして北満における朝鮮人農民はほとんど小作人として稲作に従事していたため、経営面積の大きい漢人農家が稲作を営む際に、稲作に熟練している労働力を確保することが非常に困難であった。このような状況は南満に最も近い平安北道から季節的に必要な労働力を求めることができた南満地域とは生産事情がかなり異なっていたことが分かる。
 しかし、朝鮮人農家の農業経営は水稲という単一商品作物の経営に特化されていた。 水利や交通が極めて便利であるという自然条件に加えて畑作と稲作が労働力を必要とする時期が相当異なることから、漢人農家との労働力の相互依存関係が可能であったからである。またそれは漢人農家への稲作技術の伝播を促したことも指摘できよう。
2 本論文の結論
 稲作農業の展開という視点からみると次の諸点を指摘できる。
 第1に、19世紀後半から東北地域の一部地域において実験的に行われた稲作農業は1910年代には南満地域を中心に少しずつ広がっていた。1913年に吉林省各県の代表30人が北海道旭川の水田開拓事業を視察してから持ち帰った札幌赤毛が、2年間の試作を通じて成功するに至った。加えて1915年には早熟種である青森県の小田代が龍井村に導入されることによって、中満・北満地域での稲作が可能となった。このように、満洲事変以前の稲作農業の展開過程は、民国期における地方政権の積極的な地域開発政策や水田開発奨励政策と密接に繋がっていた。また、この時期は1910年の韓国併合以降、日本の東北地域における権益の拡大と重なっていたことから、南満洲鉄道株式会社を中心に水田適地の調査や新しい米品種の開発が行われた時期でもある。つまり、近代的な農業開発を目指していた民国期の地方政権の様々な奨励政策と東北地域への勢力拡張を図っていた日本政府の政策的関与を離れてはこの時期の水田開発を論じることができないと考える。
 第2に、1930年代、日本政府は米価の暴落による農民収入の激減と日本農村の不安定状態を緩和するために、満洲国での米の生産をさほど積極的に提唱しなかった。そのため、軍用米の現地調達と日本開拓団の営農安定という視点から満洲国における米穀増産の必要性を唱えた陸軍省とは矛盾が激化していった。しかし、朝鮮総督府の「援助」により、朝鮮人移民は急激に増加し、米の生産も着実に増えていた。しかし、この時期の米の需給状況を具体的に分析すると、満洲国の米の生産はやっと需要を充たす程度で、日本の農林省が危惧していたように米の生産が消費を大幅に超えるような状況ではなかった。
 第3に、南満地域においてはすでに1920年代に多くの漢人が水田を営んでおり、1930年代前半には北満地域を中心に水田面積が大幅に増加した。籾の収穫高において北満地域は、南満・中満地域とほとんど同じとなった。そして浜江省を中心に北満地域における漢人の稲作への参入も目立つようになった。また、北満地域における朝鮮人農家の稲作経営において農繁期に漢人雇農を雇う場合もかなりあった。満洲国期において朝鮮人が営んでいた水田面積は東北地域の約85%を占めていたが、漢人が次第に稲作へ参入したことは、1945年以降の東北地域における米生産のさらなる発展に繋がった。
 朝鮮人移民という視点からみると以下の如き結論が得られた。
 第1に、朝鮮人移民が稲作技術を得意とすることによって、漢人地主との間には強い経済的依存関係が形成された。特に、1920年代後半、朝鮮人農民に対する規制が強化され、帰化していない朝鮮人による土地の所有・賃借が禁止されたにもかかわらず、多くの朝鮮人移民が漢人地主の下で小作人として水田を営んでいたことはその表れである。そして、日本領事館と朝鮮総督府の「指導」を受けていた金融会や農務契など在満朝鮮人の諸組織は農業耕作に必要な資金を提供した。また、朝鮮総督府の農事指導と東亜勧業や東洋拓殖を通じての朝鮮人農民に対する「支援」は、多くの朝鮮人農民の満洲への移住を促した同時に、在満朝鮮人社会に対する統制を強化することとなった。
 第2に、1920年代前半までは北部朝鮮出身の移民を中心に稲作が行われていた。1920年代後半以降は、南部朝鮮からの移民の増加が目立つようになった。1930年代には間島以外の中満地域と北満地域の朝鮮人は半数近くが南部朝鮮の出身者であった。特に、1920年代前半において朝鮮半島においては稲作経験のない多くの朝鮮人移民が水田を営んでいた。そして間島地域においては小田代という新しい品種を積極的に受け入れていた。ここからは、朝鮮人移民の新しい自然環境への積極的な適応過程が読み取れる。しかし、1930年代に入ってから、南満地域において品種の多様化が進んだが、多収獲品種よりも使いなれた在来品種の京租が依然として多く使用されたことからは、古いものを固持するという農家の二面的な性質が見られる。
 第3に、朝鮮半島よりも安い土地を求めて東北地域に移住した者もみられたが、朝鮮人移民の大多数は朝鮮での悲惨な生活状況から脱するために移住を選択した。何の財産もない朝鮮人移民が、ある地域に定住する初期において地主と移住者の間で仲介的な役割を果たしたのが中間地主であった。しかし、地主に小作料を支払って、その残額を中間地主と折半するということは農家にとってかなり大きな負担であったため、1930年代末には多くの地域に中間地主が無くなっていった。それは各地における金融会や農務契といった組織の普及と連動したことであり、満洲国政府の統制がより強化された表れでもある。そして1930年代には移住期間の長さや経済能力の差異などにより、朝鮮人移民のなかで階層分化がかなり進んでいった。
3 本論文の意義
 以上、各章において行った実証分析を総合すると、本論文の研究意義を次のようにまとめることができる。
 第1は、本論文は1920~30年代を中心に、中国東北地域への朝鮮人移民と彼らが主な生業としていた稲作農業を密接に関連づけながら、朝鮮人移民の中国東北地域に定住していく過程を実証した点である。従来の研究では、朝鮮人の移住と移住先での農業耕作について、朝鮮北部農民は畑作技術を生業の手段として間島地方に移住し、朝鮮南部農民は稲作技術を生業の手段として中・北満地方へ移住したという2系列の移動説が主張されていた。確かに間島地域における朝鮮人移民は地理的に最も近い咸鏡北道の出身者が大多数であり、地理条件の制約から1930年には畑作の割合が朝鮮人経営面積の約65%近く占めていた。それは朝鮮南部の出身者の割合が比較的多く、水田単一耕作がほとんどであった中・北満地域に比べると確かに大きな違いでもある。
 そこで、文献史料分析と移民1世に対する聞き取り調査を通じて、北満地域においては、1920年代前半まで北部朝鮮の出身者が約88%であったにも拘わらず、多くの朝鮮人移民が家族ぐるみで移住し、狭い土地で生活していくために、生産性の高い水田耕作に従事していたことを明らかにした。
 第2は、今までの朝鮮人移民研究では、中国と日本の狭間で、二重の苦しみを受けてきた受難の歴史が強調されてきたが、本論文では当時の農民たちの生活をめぐる社会環境の変化に注目しながら、朝鮮人農民の生活史という視点から地域社会との関わりを論じた点である。当時の調査史料と回想録、或いは現地での聞き取り調査を通じて、当時の朝鮮人移民が地域社会に定着していく過程で生じた地域の有力者、或いは漢人地主、漢人農民との関係を、南満・間島・北満という異なる地域間の比較のなかで論じた。また、満洲国成立以降は親日組織といわれた農務契や朝鮮人金融組合などの在満朝鮮人組織も視野に入れて検討することによって、日本の支配が強化されていくと同時に朝鮮人移民が次第に地域社会に融合していく過程を明らかにした。さらに、今までの研究では軽視されてきた北満地域を中心に、朝鮮人移民の移住過程と農業経営の具体的な過程を再現することができた。
 第3は、中国東北地域における農業史の視点から、米の生産が着実に増えていった実態を明らかにした点である。1910年代以降、水田開発が注目されるなかで、米の生産とその拡大を促した要因――すなわち中国側の農業開発政策や日本の大陸進出に備えた食料確保のための品種改良、そして主に朝鮮半島における生活難からやむをえず故郷を離れて中国東北地域に定着していく朝鮮人移民という諸要因を複合的に考察した。
 特に満洲国成立以降の1930年代は米の生産が着実に進められたことから、朝鮮人移民のさらなる増加という人的要因、改良品種の普及といった技術的要因、水利施設の建設といったインフラ施設の整備などに重点をおきながら、米生産の実態を明らかにすることに努めた。もちろんそれは、日本が大陸侵略に備えた食糧政策と密接に繋がっていることから、朝鮮人と漢人の民族矛盾を激化させるなど負の遺産も多かったが、1945年以前の東北地域の農業生産を戦後との繋がりのなかで如何に位置づけるかという視点からすると、重要な研究意義をもっていると考える。

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